エイプリルフール了遊のおまけ まぶたの向こうが眩しくて、遊作はしょぼしょぼと目を開けた。あくびをひとつ。
遅れて頬にあたる毛布の柔らかさと見慣れない大きな窓、その向こうの明るい青空を目にしてはてここはどこだろうと記憶をたどり──徐々に昨夜の記憶が蘇る。大変な目にあった。
何時だろうと時計を探そうとして、がっつり抱き込まれていることに気が付く。了見は背中側から遊作の腰に手を回し、ぴったりくっついて動かない。なんとか身をよじり肩越しに見やればまだ夢の中のようだ。
「おい、起きろ了見」
回された腕を解きつつ声をかけると了見はとろりと目を開けた。淡い色の目はぼんやりとしていて、見るからに眠たそうだ。
「……ゆうさく?」
どこか舌足らずに呼ぶ。
「このまま寝るつもりならそれで構わないが、手は離してくれ。俺はバイトが──」
言いかけたところで了見は、寝ぼけているのか解きかけていた手をがっつり戻した。
「何の真似だ」
問えば、了見は開き切らない目をゆっくり瞬く。
「そもそも……これは、どういうことだ……?」
「覚えてないのか? おまえのプロポーズを受けた結果こうなったんだが」
「ふむ……」
考え込むように目を閉じた了見は、そのまま遊作の首元に鼻先を埋めるようにして小さく息を吐いた。くすぐったい。
「おい、寝るな」
「……なんだ。朝のあいさつがいるか」
「挨拶って、──いやまて分かったそれはいらない! おまえ寝ぼけてるな⁈」
「起きているとも」
いつもより格段にやわらかな、低い声で囁くようにいう。耳元のこれは破壊力が大きかった。反射的に身を竦めた遊作の耳元に、了見が触れるだけのキスをする。
「了見!」
これ以上は何かまずい。遊作はなんとか了見をひきはがそうと腕の中でもがいたが、全く効果はなかった。
「起きなくていいから手を離せ、エイプリルフールは終わりだ! 結婚も終わりだ!」
「……エイプリルフールの嘘などと、いった覚えはない」
「この……──そうだとしても、俺の承諾は嘘だ! というか嘘に決まってるだろ、この腕を離せ」
「残念だが、エイプリルフールの嘘は午前中だけのものだ。……ということでお前の承諾が嘘というのは無効となる」
了見は微笑して目を閉じる。
「そういうことだ」
「何が、おまえ──いやもういい分かった、その話は後で良いから起きろ! 離せ! 聞いているのか了見」
「……」
返事の代わりに、すう、と静かな寝息が聞こえた。あろうことか腕の中で騒いでいる人間を無視して二度寝に突入したらしい。
「……嘘だろ」
今が何時だか分からないが、日曜とはいえカフェナギのバイトがあるというのに冗談ではない。叩き起こしてやろうにも抱き込まれている体勢では小突くくらいしかできないし、もがいていたら一層に抱え込まれるわ足を絡めて封じられるわで完全に抱き枕にされた。最悪だ。
*
ふと、呼ぶ声がして意識が浮かび上がった。一拍遅れて了見は、自身が寝ていたことに気が付く。
ひどく良い夢を見ていたとまとわりつく眠気をそのままにゆるゆると思い返す。仕事を終えた記憶がないが、いつの間に眠ったのだろうか。何もかけずに寝ていたようだが何か温かいものを抱えていたおかげで冷えずに済んだようだ。
徐々に頭が覚醒してくると、ずっと引きずっていた目の奥やこめかみの重さが取れているのが分かった。良く休めたようだ。
「──了見」
静かな、聞き覚えのある、しかしはっきりといつもより格段に低い声が腕の中から響く。
了見は少し考えてからそろそろと目を開いた。
そして自分が腕に抱いている温かいものが藤木遊作と認識し思考が止まった。いやまてそんなことがまさかと意味のない否定を並べながら動けずにいると、いつになく不機嫌そうな翠の目が肩越しに了見を射る。
「今度こそ起きたか」
「……これは」
「おまえにどこまで記憶があるかは知らないが、とりあえず離せ」
言われて、ハッと我に返って腰を抱えていた手をほどく。遊作は本当に大変な目にあったとぶつぶつ言いながら起き上がった。了見も身を起こし、ともかく遊作と距離を置こうとして起き抜けのせいかバランスを崩してベッドから落ちた。鈍い音がした。
「了見」
「大丈夫だ」
よろよろ立ちあがる様はとてもそうは思えないし悲壮な顔だったが、顔色は良かったのでやはり睡眠は偉大だと遊作は確信した。昨日と違い思考も正常に戻っているようで何よりだ。
夢だと思ったのだ、と了見は弁明した。
連日の徹夜で疲労困憊しており、そろそろ仕事に支障が出そうだったが休むタイミングを見失っていた。そこへ遊作がやってきた。
徹夜で仕事をしていたのは現実なのでどこから夢だったのかよく分からないが、何の脈絡もなく現れたので何か都合のいい夢としか思えなかった。
しかもその遊作は風呂を沸かして了見を入らせると、部屋をあちこち見て回り片付けをして食事を作ってと面倒をみてくれた。藤木遊作にこういう面倒を見る側のイメージがないのでなるほど都合のいい妄想だと確信したのだが、とにかく助かったし嬉しかった。家に他人の気配があるというのも心に沁みるようなものがあった。やはり疲れていたのだろう。
風呂に入ると多少頭も回ってあれは幻覚だったかもしれないと思いなおしたりもしたのだが、いざ風呂から上がって台所に行くと自分の普段使いのエプロンを身に着けた遊作が湯気の上がる丼を手に「少しはましな顔になったな」と微笑していて、それを目にした瞬間幻覚でも何でもいいかと己の信条たる考えることを放棄した。
作ってくれたうどんはおいしかった。温かいものを食べたのは久しぶりだった。
うどんをすすりながら了見はしみじみ思った。家に誰かがいて、こうして自分のために何かしてくれるというものはありがたく何にも代えがたい良いものだと。
鴻上邸は長い間、静まり返っていることの方が多かった。住人は父と了見だけ。無論これまでスペクターや三騎士は色々と気にかけてくれたが、近年は拠点で顔を合わせリンクヴレインズでやりとりすることの方が主で、この家に訪問することはあっても滞在ではなかった。
だが、一連の事件がひとまずの収束を見せ、彷徨から戻った遊作が顔を出すようになって変わった。
遊作はこれまでの経緯から躊躇う了見へ声をかけ続け、あれこれと理由をつけては顔を見せ、なし崩しのようにして了見の生活に馴染んだ。最近はこの家で余暇を過ごし、時に泊まっていったりもた増えていた。遊作も物静かな方だが、それでも一人の時とは明確に空気が違う。
前からたまに考えていた。家に誰かがいて共に過ごすというのはいいものだが、ことにそれが藤木遊作ならば是非もない。それに一緒に暮らしていればあれこれ手を回さずとも彼に万が一何かあってもすぐ気づけるし対応できる。双方にとって非常にいいのではないだろうかと。
目の前の遊作は、なぜかどこか機嫌がよいようだったので、好機と結婚を提案した。一番手っ取り早く合法的に一緒にいられる名案だった。
遊作は驚いていたようだが夢なので都合よく了承してくれた。
夢と思っていても嬉しかったし、夢なので良いかと多少調子に乗って好きにしてしまった。
──と言うような事を了見は訥々と語った。
床に膝をつき、顔を伏せ、肩を落とした了見の表情は伺えなかったがその声音は常にない弱さで盛大に落ち込んでいるのは伝わった。あとあまり普段語らないような心情まで吐露していたので動揺もしていたようだ。
「すまない。私は大変なことをしてしまった」
「そうだな散々やってくれたな」
遊作はこれ見よがしに大きくため息を吐いて見せた。
ついでに、初めてだったんだがどうしてくれる、と言いかけたが微妙に見栄があったので飲み込んだ。かつて草薙とAiに「女子と話している遊作が想像できない」とからかわれたことが頭を過ったのである。色恋沙汰に夢を見てはいないし経験がないのをわざわざ言うのも癪だった。あと正直悪くはなかった。
「……まあ、あれだ。疲れていて正常な判断ができなかったのは理解できるから気にしないでいい」
「しかし不快な思いをさせてしまった」
「おまえだし、嫌ではなかったから問題ない」
そう言うと了見は何事か唸りながらベッドに突っ伏して頭を抱えた。
遊作としては貸しにしておこうくらいの感覚だったが、了見の側からすると失態に加えて貸しを作ったというのはなかなかショックだったのかもしれない。そうだ反省しろ、と遊作は小さく鼻を鳴らした。
「これに懲りたら、スペクターたちの言うことも聞いて適度に休んだ方が良いぞ。皆おまえを心配していたんだ」
ここぞとばかりに説教めいたことを言ってみたが、了見は最早うんともすんとも言わなかった。正気の了見はまずしない所業だったわけで、外野が思う以上に当人はショックなのだろう。
(今日のところはこのくらいにしておくか)
凹み切ってるらしい姿に満足して遊作は、サイドテーブルの時計を見た。家に帰らず直行すればバイトには余裕で間に合う。迷惑料として朝食になるものでも何かもらってこの件は手打ちにして、そのままカフェナギに行こうと決める。
遊作はすっかりしわくちゃになったシャツをちょっと引っ張ってみたが、しわは簡単に取れそうにないのであきらめる。やや見苦しいかもしれないが、バイト中はエプロンを身に着けるし一日くらいしのげるだろう。成り行きとは言えぐっすり寝ていた自分もなかなか図太いなと考えながらベッドから降りると、了見はようやく顔を上げ、真顔で遊作の前に立った。
「了見」
「さっきの言葉は本当か」
「さっき?」
「不快ではないと」
「ああ、俺は本当に嫌ではなくて──……その、だな」
遊作は頷いたものの、改めて気が付いた。嫌ではないというのは本当だが、言うべきではなかったかもしれない。なんとなく。
「そうか。それなら良かった」
「何が良──うわ」
予感がして距離をとろうとしたのだが、了見の方が早かった。案外大きな手ががしりと遊作の手をつかまえる。
「了見」
「ああ、分かっている」
了見は神妙に頷いた。
「責任はとる」
「とらなくていいから反省してくれ」
「無論反省もしている」
「悪いと思っているなら食べるものをくれ。さすがに腹が減った」
カフェナギに直行するから適当なものでいいからと言うと、了見は少し困ったような顔をした。
「簡単な物になるが何か作ろう。その間にシャワーを使うといい。店まで車で送るからそのくらいの時間はとれるだろう」
非常に助かる申し出だ。遊作は厚意に素直に甘えることにした。
了見は何故かバスタオルと一緒に絆創膏を出してきたので首を傾げたが、バスルームで鏡に映った自身の首元に痕があることに気が付いて半目で納得した。本当に好き勝手してきたし、了見が途中で睡魔に負けていなければどうなっていたことやら──まあこうなると互いのためにあまり深く考えない方が良いだろう。
何はともあれ、作ってもらった朝食はとてもおいしかった。
*
というわけで、了見が車で店まで送ってくれたのでバイトには余裕で間に合った。
だが──昨日と同じ服な上微妙に髪の乾ききってない遊作と遊作の首元の絆創膏を見た草薙とAiが何か誤解をしてしまい、了見は改めて詫びをするとでも言いたかったのだろうが「責任は取るつもりなので」などと言い出したため誤解が加速した。どういう事だ何があったとAiが騒ぐので遊作はきちんと「ちょっとした手違いで了見と一晩寝ただけだ」と了見の体面を慮ってプロポーズ事件を伏せた上で事実を言ったのだが、なぜか火に油を注いだ状態となり草薙は頭痛が痛いみたいな顔になり了見はどこか遠くを見つめていた。
そんなこんなでカフェナギの開店はちょっと遅れたしAiが了見へデュエルを挑んで二人でリンクヴレインズで勝負をはじめてしまったため戻ってくるまで草薙と二人で店を回す羽目になった。そういう時に限って客が多くて大変だった。
というわけでこの一件以降遊作は生涯エイプリルフールに参加しないと決め、了見は適宜休息をとるようになり、スペクターから遊作へ菓子折りが届いたのだった。
そしてそれからずっと後──遊作がデンシティハイスクールを卒業した際に了見の「責任をとる」発言が本気だったと発覚しもうひと騒動起きるのだが、この日の遊作は知る由もなかった。