夜中に目が覚めた遊作の話 のおまけ*
悲鳴が聞こえた。
微かだが、聞き違えようはなかった。
了見は作業を中断してすぐに立ち上がった。音を立てないよう注意を払いながら部屋を出て、隣室のドアの前に立つ。
中の様子を伺うが、今はしんと静まり返っている。外の波音だけが微かに響く。
了見は小さくドアをノックした。
「──遊作」
客人の名を呼ぶが、返事はない。もう一度ノックするが何の音沙汰もない。
「開けるぞ」
言いながらそっとドアを開けて部屋を覗く。
室内は深夜の青い薄闇に覆われている。了見はそっと部屋に入るとできるだけ静かにドアを閉じた。
星明りの入る窓辺のベッドの上で、遊作は毛布に包まり身を縮めるように蹲っている。想像よりずっと状態は悪そうだ。
「遊作?」
もう一度呼ぶと、毛布の塊がもそもそ動き、藤木遊作が顔を出した。星明りでも分かる程度にひどい顔をしている。
そんな状態だというのに、遊作は申し訳なさそうに眉を下げた。
「すまない、起こしてしまった」
「私はもともと所用で起きていたところだ。謝ることは何もない。そんなことよりお前は──」
「俺は大丈夫だ」
歩み寄ろうとした了見を留めるように、小さく手を挙げて遊作は言う。
「驚かせたかもしれないが、こんなの昔からで慣れている。少し落ち着いたら寝るから安心してくれ」
それはきっと、本当にそう思っての言葉なのだろう。だが、まるで力のない震え声で言われても全く説得力がない上、本人はそのことに気づいていないようだった。それほどに余裕がないのだ。
了見は無視してベッドへ歩み寄り、遊作の手をつかむ。
「聞けないな」
「了見」
「今は一度ベッドを出ろ」
血の気の失せた指先はいつも以上に白く見えて、ひどく冷たい。
その手を引いて腕の中に強く抱き込んで、この身の温度を全て与えて温めたい──反射的に湧いた衝動をなんとか抑え込み、了見は極力優しく、だが決して緩めず手を引いて遊作をベッドから引っ張り出した。
「汗をかいているし身体も冷えているだろう。こういう時は、面倒がらずにきちんと着替えろ」
「……大げさ」
「合理的判断だ」
起きぬけもあってかふらついた身体をそっと支えて、間近で顔を覗き込む。暗がりの中、戸惑ったようにこちらを見返す翠の目は案の定乾いていた。
「そもそも、そんな有様で眠れるものか。いっそシャワーを浴びてこい」
言ってやると遊作はきまり悪そうに口を引き結んで、ややあって小さく頷いた。
遊作が浴室に入っている間に、着替えを用意しながら了見はどうしたものかと考える。
合理的などと言ったが、本当のところはとにかく遊作を悪夢から引き離したいという合理的とは真逆の行動だった。
時が経とうとも事件に区切りがつこうとも、傷は癒えることがあれど消えはしない。そして一頃より良くなっているとは言え藤木遊作は心的外傷による睡眠障害を抱えたままだ。
そうと知っていたからこそ了見は、何があってもすぐ駆けつけられるよう自室ではなく遊作にあてがった部屋の隣で、仕事の処理がてら起きて様子を見ていた。
分かってはいたが先刻その現実を目の当たりにして、了見は動揺した。かつての所業がどれだけのものだったかと改めて思い知る。
しかしそれ以上に堪えたのは、遊作があのような状態にありながら眼の前の人間の助けを全く期待していないことだ。
「……恥知らずめ」
毒づいて、ぎり、と奥歯を噛み締めて──しかしすぐに切り替える。自責などいつでもできる。今は藤木遊作だ。
(考えろ。場所を変えて状態をリセットする、までは良かったはずだ。だがここで『夢を忘れろ』というのは無しだ)
人は、あることを考えないよう禁止されると逆にそのことに思考がとらわれてしまうという厄介な性質がある。
(明日も休みだ、無理に寝かせる必要はない。とにかく落ち着かせて、意識を過去から引き離す)
着替えとタオルを用意した了見は、脱衣所に持って行ったついでに遊作へシャワーが終わったらそのままリビングへ来るよう言った。
リビングに顔を出した遊作を、続きのキッチンスペースへ手招く。
「ありがとう、了見。さっぱりした」
「そのようだな」
きちんと温まってきたかと確認のつもりでなんの気無しに触れた頬は想像よりやわらかくて、手を出しておいて驚いた。が、もちろんそんな狼狽はおくびにも出さない。
遊作の方もいきなり頬を撫でられておきながら、それについては何も気にする様子はなかった。それはそれでどうかと思う。
顔色も良くなった……のだが、なぜか少し不満げに見える。
「なあ了見、このパジャマはおまえのか」
下着は新しいものがあったが、パジャマの手頃なものがなかったので自分のものを出しておいた。身長もあまり変わらないし問題ないと思っていたのだが、実際着ていると少し大きめに見える。
「合わないか?」
大きめではあるが寝るのに不都合なほどには見えない。ただ、遊作の体格は同世代平均よりやや細身だ。裾を折り返していたが、腰回りが細いものだから履き口が下がってしまい、そのせいでだぶついているのだろう。
「探せば昔使っていたもう少し小さめな物もあったと思うが、」
「いらない。丁度いい。ぴったりでなんの問題もない」
遊作は了見の言葉を遮って、ふん、と小さく鼻を鳴らす。
「そんなことより、こんな時間になにかするのか?」
「温かいものを作る」
ミルクパンを取り出して、牛乳をたっぷり注いでコンロに置く。
「こういう時は一度、体を内側から温めるのが有効だ」
遊作は不思議そうな面持ちでそばに寄り、鍋を覗く。ただ牛乳を鍋に入れただけなので何も珍しいことはないのだが。
「上がった体温が下がっていくと同時にに体も休息へ向かう」
「それで温かいものというわけか」
「そういうこと、だ……」
ほとんど触れるような距離の遊作に、少し離れるよう言おうかと目線を向けて了見は言おうとした言葉を忘れた。
遊作は了見のパジャマを着ており、それはサイズが微妙に合っていない。加えて彼はしばしば服を着崩す。
ということで鍋を混ぜる了見の隣で鍋を覗いて少し身をかがめている遊作は、大きめのパジャマのボタン上2つを留めないという暴挙に出ていたため少しだけ高い位置から見下ろす了見に白い首元から鎖骨、更にその下辺りまで見えそうなくらい盛大に晒していた。加えてシャワーを浴びたばかりのせいか常にはないしっとりした空気があって何というか了見の心臓に大変によろしくない様相だった。
「レンジの方が早かったんじゃないか」
「今日はこちらの方が良い」
「そういうものか」
了見は、鍋を混ぜる手を機械的に動かし会話の裏で大数の位を暗唱して冷静になるよう努力した。一十百千から無量大数まできっちり一周したところでようやく、服を直してやれば良いと気がついて手を止める。
「どうしてボタンを上まで留めない」
「着替えた時は暑かった」
きちんと着ないとまた冷えると適当な言い訳をしつつパジャマのボタンを留めてやると、そういう構い方が珍しいからか遊作は口の端を上げた。
出来上がったホットミルクを渡すと、遊作は嬉しそうな笑みを見せる。すっかり落ち着いたようだ。
並んでリビングのソファに掛ける。
大きな窓の外はまだ暗く、夜明けは遠い。部屋の明かりを落とせば瞬く星々が良く見えた。
ホットミルクを口にしながら、ぽつりぽつりと言葉を交わす。他愛のない会話は途切れがちで、星はきれいで、遠く繰り返される波の音は穏やかだった。
空の端で星が流れた。
見えたか、と問うが返事がない。そういえばさっきから静かだと隣を見ると、遊作は船を漕いでいる。
空になっていたマグカップをそっと手から抜き取ってやると、完全に寝入ってはいなかったようで、うっすらをまぶたをあげた。むにゃむにゃと何かを言っていたが全く聞き取れない。
了見は聞き取りを諦め適当な相槌をうって、近くに置いてあったブランケットをかけてやった。ついでに楽なように自分に寄り掛からせる。
「眠いなら、このまま寝ていい」
「ん……」
すう、と深い息を吐いて遊作は目を閉じた。触れる身体が脱力する。
「……おやすみ」
囁くと、遊作は笑ったようだった。
夜は静かに更けていく。
何事もなかったかのような穏やかな寝息を聞きながら、了見は考える。遊作はどれだけの夜を一人で越えてきたのだろうかと。
(そしてきっと、この先も)
想像するだけで息が詰まる。
先のことなど誰にも分かりはしない。このまま生涯引きずるかもしれないし、いつか寛解するかもしれない。少なくとも、すぐに良くなるようなことはないだろう。
(──いずれにせよ私がお前にできることなど、こうして一時しのぎをしてやるくらいがせいぜいだ)
すっかり温まった指先を絡める。
(せめて──明日目覚めた時には、この夜を夢ごと忘れていてくれ)
都合がいいと分かっていてもそう願わずにはいられなかった。
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