名残の月 零に真実を聞きに行った二人の背中をしばらく目で追ってから、一郎はくるりと背を向け反対方向へと歩き出す。めざましい速度で成長する弟たちに寂しさのようなものはもうあまり感じなくなっていて、こちらを見上げる二人の瞳には頼もしさすら覚えた。
自身の胸の内がだいぶ穏やかになっていることに安堵し、次のバトルに向け決意を新たに顔を上げる。澄んだ青空には、白い雲が薄く広がっていた。
買い物でもしてから帰るかと小さく息を吐き、しかしエコバッグを持ってきていないことに気がついておとなしく帰路を辿る。一人一人がビートに乗せた想いを振り返り、あの眩しい光景を思い出しながら、開発プロジェクトの行く末に思いを馳せた。
「よォ」
声を掛けられたのはそんな時だった。「ア?」とつい返してから、目の前の男にぱちくりと瞬きを繰り返す。
「左馬刻……? なんでここに」
「最近ブクロでキナ臭ぇ動きがあるから見てこいって言われてよ」
そう言って左馬刻は煙草を取り出し、何の躊躇いもなく火をつける。そんな男の一歩後ろには、舎弟らしき男が二名立っていた。路上喫煙を咎める者はいなかった。
イケブクロで左馬刻と会ったのはいつぶりだろう。敵意のない瞳と見慣れた景色になんとなくあの頃を思い出してしまい、一郎の胸は、ことんと小さく音を立てる。
「……ハハッ。ようやく、あの頃のあんたの気持ちがわかった気がするぜ」
「アァ?」
唐突な言葉に、左馬刻は当然、怪訝そうに眉を顰める。それでも一郎は構うことなく、足元に視線を向けたまま、ぽつり、ぽつりと言葉を零した。否、止まらなかった。
「俺が早く大人になりたいって言っても『ゆっくりでいい』っつってただろ」
「……何かあったのか」
「ねぇよ。別に。なんにも」
そう、何があったわけでもない。二郎も三郎も、何かをきっかけに突然変わったわけではないのだ。きっと最初から、二人は子どもでいたいだなんて思ってなどいなかったし、むしろ子ども扱いされるたびに、早く大人になりたいと願っていたのだろう。一郎自身にもその気持ちには覚えがあった。自分たち三人は似ている部分も似ていない部分もあるけれど、前を見つめる姿勢が似ているところは、誇りをもって自負していた。
(何もねぇ、けど……)
ゆっくりと顔を上げ、ほとんど変わらない高さにある赤い瞳をじっと見つめる。
あの頃は特にそうだった。早く一人前の男にならなくてはと気持ちは逸るばかりで、大人の真似事をして心を閉じて、道を間違えて。けれど、それを正して、見守って、前のめって転びそうになる前に止めてくれる人が、傍にいて。
「……俺も、まだまだガキだなって思っただけだ」
「ハァ? そりゃそうだろ」
自重気味に零した言葉はあっさりと拾われ、迷うことなく肯定される。心底呆れたような、あるいは何を当たり前のことを言っているのだとでもいうような口調に、思わずまじまじと目の前の男を見つめた。
そうか。そうなのか。あんたはそう言うのか。
不思議と、ガキ扱いされても苛立ちはしなかった。それどころかどこかほっとしたような気さえして、一郎の胸はまた一つ、小さく音を立てる。なぜだか唇がむずむずして、思わず力を込めた。
左馬刻は、早く大人になりたいとは思わなかったのだろうか。しかし尋ねたところで答えははぐらかされてしまうような気がして、代わりにただぼんやりとたなびく白い煙を見上げる。空を覆う白に届く前に、すうっと空気に溶け込んでいく柔らかな煙。その色と匂いが、じわりじわりと、少しずつ身体に浸食してくる。
「……左馬刻」
赤色の瞳は、呼びかける前からずっとこちらを向いていた。
「次のバトル。俺らは俺らのやり方と信念で戦う」
「ハッ、今更何言ってやがる」
その声はどこか楽しそうにも聞こえて、つい同じように口元に笑みを浮かべた。
ぽとりと落とされた白い筒は綺麗な靴底に踏みつけられ、左馬刻はそのまま背を向ける。行くぞ、という小さな声は一緒にいた二人に向けられたものでしかなく、一郎は男の背中をただ静かに見送った。