侵蝕 ヒプノシスマイクによって変わった世界は、ヒプノシスマイクの廃棄をもって幕を閉じた。長いようで短かったH歴は、たくさんの傷跡を残して終わりを告げた。
その傷の一つである一郎との衝突は、情けないが酒の力を借りることでようやくきちんと向き合うことができたばかりである。中王区の魂胆に気がついていれば。きちんと一郎の声を聞いていれば。そんな後悔は真相を知ってから心の奥底にずっとあり続けていたのだが、今更もしもの話をしたところで意味などなく、ただ長い間目を逸らし続けていたことを素直に詫びることしかできなかった。
ところが一郎は一郎で、自分が勝っていれば、なんてもしもの話をし始める。楽しそうに考えている様子からしてそれは酔っ払いの戯言でしかないのだろう。あの時の自分たちに「もしも」は不要だ。それでも、俺様が負けるわけねぇだろとついムキになって返せば、微酔の一郎は最終的にふわりと笑ったのだ。その強さにずっと憧れている、と。
ぎこちなくも一応和解の形を取れたのは乱数とも同じで、事情があったとはいえすべてを許せるわけではないが、いつまでも根に持つつもりはなかった。これまでと変わらないノリで無駄に絡んでくるのもきっと乱数なりの和解の仕方なのだろうとわかるから、これまで通り雑にあしらうだけだった。
バトルではないライブが開催されたのは、そんな頃だった。壁の崩壊で得た自由とは裏腹に、世間は混乱し暗然としていた。そんな中で、少しでも明るい催しをと政府直々の提案で開かれたのが、ジャンルに囚われない音楽の祭典だった。三日間、十時から二十一時まで。国民を元気付けるためのそれに、各ジャンルの大物アーティストが呼ばれていた。ヒップホップに関しては、当然のように元ディビジョン代表メンバーが声を掛けられている。そんな三日間に渡る祭りで、人々は少しだけ、笑顔を取り戻した。
その余韻を残したまま連れてこられた打ち上げ会場も、予想通りの盛り上がりを見せていた。考えるまでもなく錚々たるメンバーである。さすがに全員一つの会場に集まることは無理だったが、主宰側で適当に分けられたそこに、元ディビジョン代表メンバーは全員揃っていた。個々の諍いがなくなっていてよかったと心から思う。
「あ、サマトキ〜! こっちこっち!」
「……おー」
部下からの電話で一度席を外した左馬刻は、呼ばれるままに乱数の元へと向かった。自分が座っていたはずの場所がなくなっていた、なんて、こんな宴会場ではよくある話だ。
「どこのオネーサンと電話してたのかなぁ?」
「ちげぇよただの仕事だ」
「ふーん? ま、いいけど。何飲む?」
乱数の向かいには一郎が座っていた。ぱちりと視線が合い、それからへらりと緩んだ表情に、もう酔ってんのかとため息を吐いた。迷うこともなく隣に掛ける。それを見た乱数は一瞬だけ目を丸くして、それからすぐに、空色の瞳に綺麗な光が帯びた。
「よかったよ、二人が元通りになれて」
「……テメェのセリフかよ」
「ボクだからでしょ」
乱数はたいして気にすることもなく勝手に注文をし、一郎は一郎で「ほい」と小皿と割り箸を渡してきた。何事もなかったかのような態度に、どうしたって調子が狂う。
実際、元に戻れてほっとしたのは事実だった。失った信頼を取り戻すことが簡単でないことは知っている。それまでの想いが深かったからこそ、傷跡も大きかったのだから。誤解だった、だけで済むはずのないことをした自覚があったからこそ、一郎の出方に不安があったのは事実だ。
しかし、そんなことをぐるぐると考えているだなんて知らない一郎は、こともなく告げる。
「俺は、ずっとあんたのこと諦めてなかったけどな」
流行りの曲が流れる居酒屋。大所帯での飲み会。ガヤガヤと賑やかなこの場所で、とすん、と刺さる音が自分だけに聴こえた。
「あ……?」
どういう意味だと目だけで問えば、その視線を受け止めた張本人はきょとんとした様子でこちらを見つめ返す。
「あんたが言ったんだろ、生きてればまた話す機会もあるって。今の仲間を大事にしてるの見てたらさ、ヤクザになっちまったとはいえ中身は変わってねぇんだなーって……俺のことを大事にしてくれてたあの頃の左馬刻さんが嘘じゃねぇなら、またちゃんと話がしたいって、俺はずっと思ってた」
「……一郎……」
「わーお、熱烈だねぇ! ……よかったね、左馬刻★」
「だぁからテメェにだけは言われたくねぇっつってんだろ!」
「アハハ!」
身体の中に、赤が侵蝕し始めた合図だった。一郎にも乱数にも、もちろん他の誰にも気づかれることなく、とすんと刺さった赤はじわりじわりと滲み出した。