かたわらに風穴 与えられた観覧席に、どかりと掛ける。いくつものスポットライトに照らされた眩いステージには、初戦を勝ち抜いた三チームが各々の矜持を持って立っていた。堂々とした立ち姿。敗者が勝者を見下ろすこの図は、何度味わっても趣味が悪いなと思う。左馬刻の手は、自然とポケットにあるはずの煙草の箱へと伸びていた。
「Buster Brosは随分と強くなったな」
最初に口を開いたのは理鶯だった。低くも柔らかな声は、チームの重苦しい空気をほんの少しだけ和らげる。ゆるりと視線だけをそちらに向けると、すかさず、今度は反対側から声がした。
「ええ。最初のディビジョン・ラップバトルの時とは大違いです」
銃兎の声に、左馬刻はまた、視線を移動させる。
言葉を交わしながらも、二人はただまっすぐに煌びやかなステージを見下ろしていた。悔しさを滲ませるでもなく、ただ前だけを見据えるチームメイトに、左馬刻も同じ方を向く。
ステージ上にいるのは、初戦を勝ち上がった三チームだ。その中の一人に、山田一郎がいる。
「……変わんねぇよ」
強がりではなかった。俺は、あいつのスキルを知っている。昔からずっと、認めている。
「………………山田一郎個人の話をしてるわけじゃねぇぞ?」
「わぁってんよ」
苛立ちに任せて煙草に火をつけ、深く掛けた椅子に背を凭れる。これが今日何本目かなんて覚えていない。煙にため息を混ぜ天井に向けてふうと吐き出し、そのまま、ゆらゆら漂う紫煙をぼんやりと眺めていた。
すべてを置いてきたと言うには、バトルはあまりにも一瞬だった。
今回のバトルがファイナルと銘打たれたせいもあり、左馬刻の頭の中では、自然とこれまで行われたあらゆる試合が思い出されていた。バトルにも、そして一つ増えたピアスにも、苦い想いばかりが募り、自然と眉間に皺が寄る。ギリギリのところで舌打ちは堪え、トン、と軽く灰を落としてから、ステージ上へと視線を戻した。
かつての後輩が、自分たちよりも前のステージへ進んでいるところを見るのは今日で二度目だ。なんだか懐かしいような気もするし、つい最近のことのような気もするし、やっぱり随分と昔のことのような気もする。ここ一年は特に目まぐるしく過ぎていったものだから、感覚がおかしくなるのもなおさらだった。
だが、変わらないなと思う。あの瞳は、ずっと変わらない色をしている。
「結局……昔っから、あいつはラップを楽しんでんだ」
それは、誰に向けて吐いた言葉でもなかった。
出会った頃から、一郎のラップを楽しむ姿勢は変わらない。もちろん、ただ純粋に楽しんでいるだけではなかっただろうし、何なら左馬刻だって一郎をそうさせてしまったことがあった。
左馬刻は二度、この場で一郎と直接対峙している。そのうちの一回は、銃兎も理鶯も知らない。
今の形式とは違う、一対一で戦ったあの日――唯一、ステージで最後まで膝をつかなかったあの日ですら、左馬刻にとっては勝利を祝える思い出なんてものにはならなかった。
(…………一郎……)
直接やり合った二回とも、左馬刻は勝っている。しかしそうではないここ二回、左馬刻はこの場所から、勝ち上がった一郎の姿を見下ろしている。もうそれを屈辱だと感じるような関係ではなかったが、自身があの男の向かい側に立っていないことにはまだ慣れない。もう最後だと頭ではわかっていても、いまいち実感がないのはそのせいかもしれなかった。
「楽しんだもん勝ち……と言い切れるようなものではありませんがね」
「ああ」
だが、揺るぎない想いは強い。言葉を。ラップを。音楽を。確信を持って信じてきた道だからこそ、一郎は強かった。それは何も今回に限った話ではなく、いつぞやのフェスだって同じである。曲がらない信念というものは強く、そして、結果を伴う。左馬刻の中にあるいくつかの転機のうちの一つが、まさしくあのフェスのステージに立つ一郎の姿だったから。
「……なら、お前も信じてみるか? 音楽の力ってやつを」
銃兎の声色に、ついちらりと視線を向ける。それから、反対側に立つ理鶯にも。
二人からの真剣な視線を受け止め、左馬刻は、煙草を咥えたまま呟いた。
「…………さぁな」
ステージには、まだ三つのチームが残っている。それから、観覧席よりもさらに高いところには、チュウオウ・ディビジョンも。
「俺らみてぇな奴は、ンなもんで世界丸ごと変えられるほど世の中甘かねぇってことを知ってんだろ」
暴力ではない何らかの力で世界を変えたいと思っている。それ自体は間違っていないだろう。自身に染み込んだそれを塗り替えることも強さであり力であるからこそ、覚悟を持って臨んだはずだった。
だが結局、左馬刻には、それを成し遂げられる力の正体がまだわからない。天秤はぐらぐらと揺れるばかりだった。
「甘くはねぇが…………だがまぁ、結果次第では考えてやってもいいのかもしんねぇな」
世界がそこまで甘くはないことを知っている。けれど、音楽にはたしかに、人の心を動かす力があることも知っている。もしも、二度も音楽の力とやらを見せつけられてしまったら、信じてみたいと思うようになるのかもしれない。
(見ててやろうじゃねぇか。……なぁ、一郎)
地獄へ行くにはまだ早い。敗北の先は、終わりではないのだから。