beloved and stupid おやすみと言って同じベッドに潜り込んだ男は、そのまま壁の方を向いて息を潜めた。ダウンライトがオレンジ色の薄明かりだけを残した寝室には、スマホの明かりがぼんやりと灯ることもなく、かといって規則的な寝息が聞こえてくることもない。
向けられた背中からは、いつになく不自然な沈黙と緊張だけが広がっていた。少しだけ上がった肩と、毛先の跳ねた黒髪をじっと見つめる。
そんな態度をとられる理由は一つしかない。心当たりがあるどころか、左馬刻は確信を持っていた。だからたいして戸惑うこともなく、ただただ男の後ろ姿を観察している。
きっと、この珍しい姿を見られるのは今だけだ。今晩だけ、あるいは、その次くらいまでだろう。そう思うと、こんな時でも愛しさにも似た想いばかりが募った。
とはいえ、動かない身体を眺め続けることにも飽きた頃、左馬刻は身体を横たえたまま僅かに移動した。広いベッドの上、二人の間にあったわざとらしい隙間を少しだけ縮める。ゆるりと腕を伸ばせば、男の腰へと容易く触れることができる距離だ。
びくりっ、と。
思っていた通りの反応に、左馬刻はとうとう我慢できずにククッと笑みを零した。そのまま回した腕にもう少しだけ力を込め、「いーちろ」と、機嫌の良さを隠しもせず名前を呼ぶ。今度は驚かれることもなく、代わりに、わざとらしいため息が零された。同時に緊張も吐き出したのか、上がっていた肩がそっと落ちる。
「……なんだよ」
左馬刻は口元にうっすらと笑みを浮かべながら、「んー?」と適当な返事だけを返した。一郎のその声のトーンは、時間への配慮からくるものだろうか。それともこの距離のせいか。あるいは、強がっているだけなのかもしれない……なんて、そんなことをのんびりと考える。
知らなかったのだ。この男がこんなにも、他人のぬくもりに不慣れだったなんて。求めて、飢えていただなんて。きっと、本人ですら自覚がなかったに違いない。
鼻先を寄せれば、この家のシャンプーの匂いに混じって、昨日知ったばかりの素肌の匂いがする。触れるか触れないかの距離に、またぴくりと小さく肩が跳ねた。
「意識しすぎだろ」
「……誰のせいだよ」
「俺様だな」
悪びれもなくそう言えば、そんな返答すらも予想の範囲内だったのか、腰に回した腕をぺちりと軽く叩かれて終了だ。顔が見えないのをいいことに、左馬刻はほくそ笑む。子どもじみたささやかな抵抗が、恋人だけに見せるものだと知っているから。
「……俺、今日は眠いんだよ」
「寝ればいいだろ」
「この状態じゃ寝れねぇっつってんの」
わかってんだろ、と背を向けたまま恨みがましく言ってくるものの、今の左馬刻にはそんな姿すらも拗ねた仔犬がキャンキャン吠えているように見える。
ようやく、一つのベッドに入っても自然体でいてくれるようになったところだったのだ。キスをしてもうっとりと目を閉じてくるようになったし、向こうから手を繋いでくることも増えた。我慢して我慢して我慢して、決して無理のないペースで少しずつ恋人らしくなっていって――そして、もう一歩踏み込んだ結果、こうなった。
これは、逆戻りではなく進展である。
「いちろーくんよォ」
「……ンだよ」
「…………」
ぼそっと聞こえてきた声に、左馬刻は小さく笑う。こんな不貞腐れた声ですら好きだと言ったら、一郎は笑うだろうか。
「こっち向けや」
「…………」
「……なぁ、一郎」
どんなに渋ったって、結局はその可愛い顔を見せてくれると知っている。
二色の瞳でじっと見つめてくることを知っている。
きっとこの腕の中で眠ってくれると信じている。
命令ではなく、ただの恋人からのおねだりだと、そのくらいのことはお見通しだろう。それならさっさと素直にこちらを向けばいいのだ。尖らせた唇に、そっとキスをしたいから。