kiss me, darling さまとき、と普段より舌足らずな声で名前を呼ぶ。ソファに座ったまま両手を広げて「ん」とだけ言えば、キッチンに立っていた男は一瞬だけ目を丸くして、それから呆れたようなため息を吐いた。ぽす、ぽす、とスリッパがのんびり音を立てながら近づいてくる。目の前に立った男はこちらを見下ろしながら、わざとらしく再びため息を零した。
「この酔っ払いが」
広げていた両手で腰の辺りに抱きついてみる。大きな手のひらが乱暴に髪を撫でた。犬のような扱いも今は心地よくて、身を任せながら鳩尾の辺りにぐりぐり頭を擦りつける。へらへらしている自覚はあった。
ソファの前のテーブルに散らかっている、二本の空き缶。多少のつまみと口直しのアイスも全部食べ終えて、そこに残っているのはただのゴミだ。
決して荒れていたわけではない。むしろ逆だ。機嫌が良かったのでせっかくだからとアルコールを買い、ようやく手に入れたお気に入りのアニメの初回限定盤ブルーレイ最終巻を左馬刻の家の大きなテレビで見ていた。もともと良かった作画はさらに修正されており、特典のオーディオコメンタリーでは監督の口からこだわりポイントまで聞けて、感想は大満足の一言に尽きる。
最後まで見終わったちょうどそのタイミングで、愛しの恋人が帰ってきたのだ。浮かれていたって仕方がないだろう。左馬刻もだいたいの事情をわかっているからこそ、何も言ってこなかったのだ。……それが、今日はちょっとだけおもしろくなかった。
一緒に見ろとは言わない。ただ、もう少しだけ構ってほしい。そんな願望をそのまま態度で示せば、すべてを察したかのように男は紅い目を細めてこちらを見下ろす。
「…………」
下からじっと、その瞳を見つめた。同じような熱を浮かべた視線が絡むが、一向に距離は縮まらない。じりじりと熱だけが高まって、なぁ、と思わず呟く。求めているものが伝わっていないはずがない。
「お前は、どんなふうにされたい?」
「……へ……?」
しかし、返ってきたのは予想もしていなかった言葉だった。髪を撫でていた手がゆっくりと頬を滑り落ちる。少しだけかさついた指先はそのまま顎の下をくすぐって、思わずごくりと喉を鳴らした。
どんなって、どんな。
左馬刻の声だけは何度も頭の中をぐるぐると回るのに、答えはこれっぽっちも見つからない。中途半端に開いた唇は何も告げることができず、けれど一度絡んだ視線を外すこともできなくて。どくん、どくん、と自身の鼓動だけが耳に響く。
「可愛いなァ、一郎」
悪戯な指先が、今度は耳たぶを弄る。すっかり力の抜けた腕から抜け出した左馬刻は、そのまま隣に腰を下ろした。そうして、ゆるりと腕が回される。
顔が近づく。吐息が触れる。額がこつんと重なって、まっすぐな視線に捕らえられたまま、離れることなどできやしない。
一秒。二秒。三秒。
「……?」
いくら待っても、今日はなぜか、唇だけが重ならなかった。頬はすでに痛いくらいに熱を帯びていて、仕方なくこちらからキスをする。ゆっくり触れて、啄んで、舌先でつついてみても、いつまでたっても唇は開かない。
「……待てのできねぇ悪い奴だなぁ」
諦めて離れれば、開口一番に意地悪な男はくつくつと嗤った。
「どうせ慣れねぇことやんならもっと思いきり甘えてみろや」
いくらでも付き合ってやんよ、と。茶番を見透かした男は甘く囁いた。