フォール イン ラブ【Side K】 息を吐くと視界が薄く白濁する。といってもまだそれほど寒い時期ではない。騒ぎ疲れた街のネオンを少し煙らせて、その先の星までは届かずに、タバコの副流煙は立ち上ってすぐ消えた。
「おつかれす、謝花サン」
「おう。おつかれぇ。」
「おつかれーっす! あっ獪岳、俺にも火ィちょうだい」
居酒屋のバイトのシフトは、たまに閉店時間までになることがある。そんなときは、バイト仲間の同年代野郎どもが、店の外の喫煙所で顔を合わせるのが通例になっていた。
獪岳のライターを受け取ったのは、長髪だが馬のたてがみのように側頭部の髪だけ剃り上げたヘアスタイルをしている男子大学生だ。三白眼の目つきもあいまって、初見の客には怖そうな店員だと思われがちなのを本人―玄弥は内心気にしているらしい。
「さんきゅ」
そう言ってライターを投げて返す時に見せるような玄弥の笑顔は、ギャップがあってカワイイ、などと一部の女性客に囁かれていることを獪岳は知っている。知っているが本人には教えていない。
「ほら、おめぇらのタバコ切れそうだってから、買ってきてやったぞぉ。感謝しろや」
「マジすか謝花センパイ! あざっす!」
「ありがとうございます」
「おめぇらはやく自分らで買いに行けるようになれよぉ、この不良未成年どもが」
「いや、最初タバコ勧めてきたのって謝花センパイだったじゃないすか。確か俺らがバイト始めたばっかの頃のさ、シフト後とかにさ」
「最初は未成年だと思わなかったんだよ、お前らのツラじゃあよぉ」
「謝花サンも相当ですけどね」
「獪岳も言うようになったじゃねえか」
はは、と唯一の成人―謝花は軽く笑った。笑うと彼の顔面に散った青い痣が歪む。生まれつきだと説明したその痣のせいか、元々の性格か、謝花はバイト先でも客先には出ない厨房で働いている。
身長は優に二人を追い越すほどなのに、常に猫背気味で、下からねめつけるような目つきで気だるげに話す。『俺が注文取りに出たら客が嫌がるだろぉ』と自分で言い放ち、飄々と姿勢を変えないところを、獪岳は気に入っている。
「でも謝花サンはなんだかんだ言って面倒見いいっすよね」
新品のタバコと代金を引き替えて、獪岳は空に向かって白い煙を吐く。
「そうそう、兄貴って感じする。下にきょうだいいます?」
「うーん。妹がひとりなぁ」
「知ってますよ。すげー美人が来店したって興奮してたら謝花サンの妹だったって、他のバイト連中が話してた」
「美人!? 写真とかないんすか、見たい」
謝花はタバコを挟んでいない手で扱っていたスマートフォンを何度かタップし、玄弥にその画面を見せた。
「うわー!! マジ美人じゃないっすか!! モデルさんですか?」
画面をのぞくと、なるほど、玄弥が声を上げるのも頷ける。芸能人のSNS写真だと言われても違和感がないほどの美少女が映っていた。正直な感想を言えば、本当にこの男の妹なのか、とおそらく万人が疑問に持つだろう。兄とは似ても似つかない容姿をしている。
「見た目よりうるせぇから、手ぇ出すなよぉ」
ひひ、と笑って玄弥からスマートフォンを取り返す。
「…いい兄貴なんでしょうね、謝花サンは」
「わかる。今めっちゃ優しい目してたもんな」
「…んだそれ。玄弥んとこはきょうだい大所帯だっつってたろ。油売ってねぇでさっさと帰れや」
「いやもう下のチビたちは寝てるし。今日は兄ちゃんがちょうど遅いんで、これから迎えにきてくれることになってて」
「兄ちゃん、な」
「あっ。兄貴が…。つーか獪岳も弟いるんじゃなかったっけ?」
獪岳が言葉尻を捉えると、玄弥は少し慌てて話題を振った。
「あー…、まぁ。ひとり」
変な話題になっちまったな、と獪岳は長めにタバコを吸った。
確かにあれは弟だが。今もあれは弟と言えるのか。もちろん、他人にこんな微妙な関係など説明しようがない。
「仲良い? いくつなの弟くん。似てんの?」
「似てねえよ」
似てたまるか、と思う。いつもヘラヘラしているか騒いでいるかの顔しか思い出せない。そしてそんな野郎に自分が丸め込まれてしまっていることが、一番他人に言えたことではない。
ふーーー・・・と肺に溜まった煙を吐く。澄んだ夜空を一瞬曇らせて、煙は消えた。
「そんで、兄ちゃんはいつお迎えに来てくれるんだよ。タバコなんか吸ってっとこ見られて怒らるぞ」
「や、別に。むしろ家で吸えねぇし」
「そうだよなぁ。梅も匂いが服に移るってうるせぇんだよなぁ」
会話だけ取り出すと、年ごろの子供を抱えた中年の父親同士のような会話に聞こえる。
「タバコは息抜きみたいなモンすよね」
偉そうに玄弥が言う。
「あー、まぁ、わかる」
そう、わかる。その言葉は煙より軽く、獪岳の口から吐き出された。
煙の代わりに吸い込んだ秋の夜風は、肺に冷たく心地が良い。
なるべく音を立てないように玄関の戸を開けるも、古い家なのでガチャガチャとうるさくなってしまう。深夜に帰宅すると、大概善逸は既に眠っている。夕飯は賄いで済ませてあるので、軽くシャワーを浴びてすぐに布団に入る。
今日の善逸は目覚める気配もなく、すやすやと寝息を立てていた。寝室の暗闇に目が慣れると、その能天気そうな寝顔がぼんやり見える。
最近は、バイトと大学生活が忙しくてまともにこの顔を見ていなかったような気がする。
それは結果論なのか、それとも多忙を目的として無為に詰め込んだだけなのか、今善逸が目を覚ましたらその茶色い瞳に説明するのが面倒だった。
だから眠っている間だけだ。無防備なその唇を自分の勝手で塞ぐのは。
善逸の体温で温まっている布団にもぐりこむ。起こさない程度に唇をついばむ。それから頬を、耳朶を、首筋を。
んん、と呻いて善逸が身じろぎする。いたずらするのを止めて、様子をうかがう。
「…お前いつもしつこく吸い付いてくるから、息できねえんだよ」
起きなかった善逸に、日頃言いそびれていた文句を垂れて、そのまま善逸のスウェットの上着の中へ手を滑り込ませる。自分に比べれば薄い胸板を掌で確かめながら、口づけを落とす。喉に、鎖骨に、胸に、その先端に。
「…っんん…」
夢見心地でいたはずの善逸がびくりと反応する。反応に合わせて爪先と舌先でくすぐって、眠りを邪魔してやる。しばらく遊んでいると、モゾモゾと身体が動き出して、善逸は薄く目を開いた。
「…ん…? あにき…? かえったの…?」
「…起きるな。寝てろ」
「んん…。おかえり…」
善逸は寝ぼけ眼のまま、ふんわりとほほ笑んで獪岳の頬を掌で包んだ。
自分はこんな腑抜けた顔をしてたまるか、と思った。
「…結局、お前は俺のなんなんだろうな…」
「…?」
自分の芯を熱くしている醜態を自覚して、笑えるような、安堵するような、形容しがたい高ぶりを抑え込む。
「おやすみ」
眠そうな善逸の額に短く口づけを落として、上着を腹まで隠してやり、獪岳は布団を這い出した。温まった体温があっという間に奪われていく。
「…どこ…いくの…」
「タバコ、吸ってくる」
後ろ手で襖をそっと閉めて、冷えた深夜の窓を少しだけ開ける。新品のタバコの封を開けて火をつけると、赤い先端だけが闇に鮮やかだ。くすぶる身体の熱に似ている。
玄弥の、迎えに来た兄の車に嬉しそうに手を振っていたその横顔を思い出す。
謝花が、似ても似つかないとこれまでに言外に常に比較されたであろう妹に見せた、穏やかな顔を思い出す。
自分は善逸に、あんなに腑抜けた面などするだろうか。
『似てんの?』
玄弥の声を思い出す。
似ているものか。善逸の寝ぼけた笑みのほうが、あの二人に似ている。
すると自分だけが世界からはみ出しているような錯覚に陥るのはなぜだろう。
理屈で説明できない感情は厄介だ。自分の輪郭が溶けてなくなる気がする。溶かされて形が保てなくなる前に、少しだけ冷やして固めてしまいたい。
上がった熱を、秋風が冷ましていく。大きく吸って吐くと、タバコの煙が隙間風に乗って外へ逃げ出す。
息抜き、とは言いえて妙だな、と獪岳は一人でタバコを燻らせる。