兄貴にお揃いのパジャマを絶対着せたい善逸 VS 絶対に着たくない獪岳「なんでそんなに俺とお揃いになるのがイヤなのさ、獪岳は」
もっちりしたホイップクリームが乗ったコールドドリンクは、人気コーヒーショップの看板メニューだ。溶かしたチョコレートに甘いクリームを添えた味のどこが一体コーヒーなのか、少し疑問ではある。
獪岳はアイスコーヒーをオーダーしていた。サンドイッチとケーキも追加している。
日曜で混みあう大型ショッピングモールの一角、ようやく空席を見つけたコーヒーショップで、獪岳と俺は用事を済ませて一息ついている。
「うるせぇカス」
はいはい、といつものようにあしらいながら、俺は今さっき手に入れたばかりの新しいスマートフォンを撫でまわす。早速獪岳を被写体に写真を撮ってみた。画質もきれいだ。
そもそもの発端は、先日獪岳がいきなり俺のスマホを地面にぶん投げてぶっ壊したのが原因だ。
じいちゃんが買ってくれたお揃いのパジャマの写真を見せたら、怒涛の勢いで俺のスマホをぶん投げた。ちょっと怖かった。
案の定画面がバキバキになってしまったので、買い替え案件となり、じいちゃんに泣きついたら、獪岳が渋々買い替えてくれることになったのだ。
いや、俺のスマホ壊したアンタが悪いんじゃん。
苦虫をまとめて百匹分噛みつぶしたような渋い顔で、それはもう見事な皺が眉間に渓谷のような深さで刻まれて、纏う空気は帯電するほどピリピリさせていたけど、獪岳はちゃんとスマホの買い替えのために、この混雑する日曜日のショッピングモールまでついてきてくれたのだ。
根が真面目なんだよなあ。ホント。
スマホ代は獪岳がイヤそうにしながらも全額支払ってくれたので、俺はありがたく頂戴したうえ、今このコーヒーショップでささやかながらコーヒーなどでもてなしている。
獪岳はサンドイッチを片手に自分の黒いスマホをいじっている。
俺の新しいスマホは、獪岳の機種とは違う。色も白にした。獪岳の機種と同じがいいと言ったら、まためちゃくちゃイヤな顔をされたので。
俺のチョコレートドリンクはクリームが溶けて輪郭を失くし始めている。
獪岳のブラックコーヒーは、窓辺の日光に透けてきれいだった。
「そんなに俺とお揃いはイヤなの?」
アンタがオーダーしかけたチョコレートドリンクを『俺も一緒がいい』って言った途端アイスコーヒーに変更した獪岳さんよ。
「嫌だね。なんでもカスと同じなんて本当に恥だぜ。スマホ買い替えてやっただけありがたく思え」
「そうね! ありがとうね! じゃあ今度お揃いのパジャマ着よ?」
「着るかよカス! どうしてそうなるんだバカ」
スマホから顔を上げてアイスコーヒーを一気に飲み干す。
「俺はお揃い着たいよ。っていうか百歩譲ってもさ、じいちゃんがせっかく買ってくれたんだからその気持ちだけは受け取ってよ」
「分かってねぇのはお前だカス」
カツン、と音を立てて空になったプラカップをテーブルに置いた。
「俺は、お前みたいなカスと一緒にされるのが嫌だって言ってんだよ。勉強も何もかも俺より出来ねぇ癖に、どうでもいいモンで俺と『揃い』になるなって言ってんだ、カァ――――ス!」
嫌味ったらしく語尾を伸ばして、獪岳は席を立って行ってしまった。
ぐうの音も出なかった俺はその場で唇を噛む。
「なにさ、じいちゃんの前ではジジイって呼べないくせに、クーーーズ!」
俺は掌の中のスマホに悪態をつく。データフォルダにはまだ一枚だけしかない、さっき撮ったばかりの獪岳の写真。全く、顔を合わせれば喧嘩ばかりしてしまうのに、写真のアンタはなんでこんなに可愛いんだろう。
「ということで! アンタに勝負を申し込みます! 一回でも俺が勝てたらお揃いのパジャマ着てくださいお願いします」
「意味わかんね……」
獪岳はさっさとショッピングモールから一人で帰ってしまったのだが、夕飯時に俺の宣戦布告を聞いてまた顔をしかめた。
今日の夕飯を作ってくれたのは獪岳で、ちょっとこの季節には気の早い、冷やし中華がドンとテーブルに鎮座している。
じいちゃんは珍しいメニューに「美味しそうじゃのう」とご機嫌なので、その点では獪岳も悪い気はしていないようだ。
「俺がカスだからお揃いがイヤなんでしょ⁉ じゃあ俺がカスじゃないってことが証明できればいいんでしょ。やってやろうじゃん?」
「それでなんで『一回でも』ってハードル下げてんだカス。プライドはないのか」
「だって勝てそうな見込みがないから……」
「じゃあ一生カスのままでいいだろ」
「やだ!」
「こらこら、食事時まで喧嘩するでない」
じいちゃんがたしなめるのも慣れたものである。
不毛な口論を止めて『いただきます』と箸をとる。切りそろえられた薄焼き卵ときゅうり、半熟卵まで乗った盛り付けは、崩すのがもったいないくらいキレイで、性格が出るなぁと思う。
ちゅるん、と麺をすすると、いつもとつゆの味もちょっと違う。
「うっま! どしたのこれ!」
思わず声を上げると、獪岳は鼻を鳴らした。
「じゃあ、まずは俺の一勝な」
なるほど、結構乗り気じゃないですか。ぜったいお揃いのパジャマ着せてやろうじゃん。
じいちゃんはもはや俺たちに構うことなく、美味そうに冷やし中華をすすっている。
それにしたって、どこでこんなレシピ見つけたんだろ。
次の日から俺と獪岳の熾烈な争いは始まった。
まずは勉強だ。近々英語の小テストが控えている。学校から帰ってから俺は有能にも教科書を開いた。
しかし早々に心が折れた。まだ教科書を開いただけなのに、何をしたらいいのか分からない。ノートには授業中に書いた落書きや、それを隠滅するためにちぎった形跡しかなかった。
この家の間取りは、俺と獪岳の部屋が薄い壁を挟んで隣接している。獪岳が帰宅している気配を感じたので「勉強……教えて?」とドアをノックして開けた。
と同時に、俺の頭に何か飛んできてぶつかった。ボスン! と音をたててクリーンヒットした枕が俺の頭からずり落ちる。
「消えろよ」
手と口が同時に出るあたり、まったく育ちが悪い。誰のせいだって言われるから言わないけど。
そのままバタン! と扉は閉められた。
仕方がないので自室に戻り、再び教科書を開く。何が分からないのか分からない。
「ええい、しょうがない! 丸暗記だ! 今日はもう寝ない!」
――そしてテスト後の結果は、徹夜の努力も虚しく、いつもと変わらず低空飛行だ。
後日返却されたテストの結果について、居間でじいちゃんにこんこんと説教されている間、獪岳はいつも座る大きなクッションに身体を預けて悠々と漫画を読んでいたものである。
暗記じゃダメだったのかなぁ。
勉強がダメならスポーツだ。あくる日の体育の授業は陸上の短距離走である。
これならイケる。自慢だが、俺は足は速いほうなのだ。五十メートルの距離を電光石火で駆け抜け、体育教師の富岡先生がストップウォッチを止める。
「……我妻善逸、タイムでは学年一位だな」
それみたことか! と休み時間に、意気揚々と獪岳のいる三年生の教室へ足を延ばした。
「聞いてよ! 俺さっきの授業で短距離走、学年で一番速かったんだぜ! これで俺の勝ち!?」
窓から入り込んだ虫を追い払うように、自席に座ったまま獪岳はノートでパタパタとこちらを仰いでくる。そしてふと思い出したように獪岳はつぶやいた。
「……そういや前に、やけに足が速い不審者が出没したよな。パチモンのブランド時計を派手にいくつも腕に巻いて、サングラスかけて、でかい声で話しかけてきて、金髪の、それでやたらと足が速い不審者」
俺の顔がギクリとこわばった。忘れたい黒歴史を何で今更……。
「え、ああ、いたね? なんで今そんなこと……」
「別に、足が速いってテメェが言うから何となく思い出しただけだ。で、何の用だ?」
唇の端がツンと少しだけ上がっているくせに、黒い大きな瞳はちっとも笑っていない。
完全に牽制している……。
「あんな不審者が知り合いだったとしたら、本当に恥だぜ。犯人を見つけ次第通報しないとな?」
「ううううるさいよ! もういいわ! バカ!」
鳴り出した予鈴に助けられるようにして、獪岳の教室から転がり出た。
「獪岳ー、この間の必勝ノート、貸してくれてありがとのう。これはささやかだが礼じゃ」
どこかの女子がそんなことを言うのを俺は背中で聞きながら俺は走り去る。
「くそぉ、あの外面イケメンがぁ……」
第二ラウンドもこうしてなぜか敗北感だけが残った。一年筍組に飛び込むと、俺は親友に泣きついた。
「うわぁぁぁん! 助けてよたぁんじろぉ~……」
△▲△▲
カランカラン、とドアベルが軽やかに響き、店の扉が揺れる。
「ありがとうございましたー」
俺は店を出たお客さんの後ろ姿に挨拶を投げかけ、ふいに無人になった店内でふう、と息をつく。店内に並べられたバスケットやトレイにはまだわずかに商品が残っているが、本日の来客ラッシュも落ち着くと、ほぼ完売と言っていい。
ここがどこかというと、街で評判のベーカリー店であり、炭治郎の実家でもある。
無理を承知でアルバイトを頼み込んでから、はや数か月。ようやく俺はパン屋の店員という姿にもなじんできた。最初は藪から棒になんだと驚いた炭治郎だが、俺の心意気を聞くと快く雇ってくれたことに感謝している。
「善逸、お疲れ様。急に混雑して大変だったろう」
「お疲れ様、炭治郎。もう、なんでってくらい急に波が来るよね。そんでこうやってすぐに誰も居なくなったり」
「そうなんだ。不思議だよな」
厨房を片付けていたらしい炭治郎が、手が空いたのか俺のいるレジに来て疲れをねぎらってくれる。
「善逸も随分客あしらいに慣れたみたいだな。助かるよ」
「そお?」
褒められるとだらしない笑顔が漏れてしまう。「気持ち悪ぃ顔すんな」と獪岳が言うような顔である。まったく、アイツも少しは炭治郎の人当たりの良さを見習うべきだ。
「それで、獪岳さんとの勝負はついたのか?」
「いや、なんかもう何をどうしたら勝ちになるのか分かんなくなってきたわ。アイツが何かアヤシいバイトしてるからって対抗して俺もバイト始めたんだけど、じゃあこれで何したら勝ちになるんだろうな……。結局まだアイツ一度もお揃いのパジャマ、着てないし」
俺がバイトをやりたいと志願した理由がこんなに間抜けでも、炭治郎は受け入れてくれた。でも竈門家のきょうだいはみな仲が良いので、こんなくだらない意地の張り合いは想像できないのだろう。炭治郎は爽やかに笑って見守っている。
「でも頑張り過ぎて、あんまり根を詰め過ぎるなよ。最近、ちゃんと寝てるか?」
「うーん。でもそれは炭治郎もでしょ。朝早くから店手伝ったりしてるんだろ?」
「俺にとっては家業だからな。それに楽しいんだ。今はな、新作のアイデアを考えてるんだ。そうだ、ちょっと見てくれ」
炭治郎は奥の厨房に引っ込むと、すぐにトレイの上に何か乗せて戻ってきた。そこには丸いドーナツが乗っている。真ん中に穴が空いた、色白な生地のプレーンなドーナツだ。
「もうすぐ六月で、ジューンブライドの季節だろう? 六月の新商品としてジューンブライドにあやかった新作を出したいんだ。名づけてリングパン!」
「リング……ああ、結婚指輪的な……?」
確かに、輪っかの形が指輪と言えば指輪に見立てられるかもしれない。
「でもこのままだと普通のドーナツにしか……」
俺は控えめに意見した。
「そうか……。アイデアはいいと思ったんだけどなぁ」
「いや、すごいいいと思う! 季節に合わせてるし! 美味しそうだし!」
パン屋にジューンブライド企画の需要があるのかどうかはちょっとよくわからないが、家業について真剣に取り組んでいる親友は、なんて真面目で健全なのだろうか。
つまらない意地の張り合いでバイトに押しかけている自分は、なんてちっちゃい男なのだろう。
「ただいまぁ~……」
パン屋のバイトが終わってから帰宅すると、じいちゃんと獪岳は既に夕飯を食べ終えている。居間では二人がテレビを見ていた。俺は『お土産に』と炭治郎が持たせてくれたリングパンとその他いくつかのパンを食卓に置く。
「おかえり善逸。夜遅くまでご苦労じゃったな。」
「もらうぞ」
目ざとくお土産を見つけた獪岳は一言断ったかと思うと、勝手にそれをゴソゴソと探る。炭治郎のパン屋のパンは、獪岳の好みに合うらしい。
「ちょっとぉ、そんなに食べたいんならさ、アンタも怪しいバイトやめてさ、一緒にパン屋やろうよ」
「やなこった」
「ここのパン好きなくせに……」
「二人とも、無理してバイトせんでも、欲しいものなら買ってやるから、ちゃんと言うんじゃぞ?」
じいちゃんが割って入る。
「そういう問題じゃないんだよ。お金で買えないもののために頑張ってるの!」
既に風呂上がりらしい獪岳はスウェットの上下で、やはり全くあのパジャマを着る気はないようだ。
試作品のリングパンをもぐもぐと頬張りながら、シレっとした横顔でこちらを向かない。
「大変じゃのう。獪岳も何のためにバイトしとるんじゃ?」
じいちゃんは笑いながらも割と核心に近いところをズバリと突いた。
獪岳は少し目線を泳がせ、じいちゃんのほうを見ないまま「……社会勉強と、地位向上、今後の信頼の獲得のため」とちょっと的を外れたような返事をした。面接でそんな志望動機言ったらドン引かれるんじゃないの。
「そうか。じじいが買って与えてやれるものならなんでもやれるのにのぅ……。二人共大人になったもんじゃ。頑張りなさい」
じいちゃんは朗らかに笑う。口髭がふさふさ揺れた。
「えーっ。俺のはともかく、獪岳のバイトは反対すべきじゃない? そもそも何のバイトしてんのさ」
「獪岳がやりたいことなら、ワシは何も言わんよ」
隣で獪岳がきょとんとしているのに気づいて、俺はそれ以上反論するタイミングを失った。
「さて、善逸は夕飯は食べるじゃろ」
「うん……。でもなんか今日は食欲がないから、もらったパンだけちょっと食べようかな」
「おや、珍しい。体調が悪いんじゃないか」
じいちゃんが早速俺の額に手を当てて、自分の体温と比べている。
「うわーん。じいちゃん優しい」
しかし、まだ寝るわけにはいかない。勝負はまだついていないのだから。
バイト、勉強、体力づくりだっておろそかにしてはいけない。
俺たちが小さな子供だったころから、じいちゃんは剣道の指南をしてくれた。今も少しは竹刀を振ることができる。高校に入ってからはなかなかその機会も減ってしまったのだが、一番身体になじむ体力づくりは素振りだった。
バイトがある日は少しリズムが狂うが、寝る前に家の庭先で風を切って竹刀を振るうことも日課になった。
もう家の中の電気は消えてしまっている。曇天の空は水分を含んで重く沈み、今にも雨になって落ちてきそうだ。
暗闇に目が慣れると、庭の植木の辺りはさらに闇が濃くて怖い。湿気の多い空気がじっとりと汗に変わって肌に張り付く。そして何の音もしないのだ。
ここ最近、そんな日々を繰り返している。
毎夜一人竹刀を振っていると、ふと宇宙の黒に飲み込まれて、世界に一人きりになったかのような孤独に包まれる感覚がする。恐れを振り払うように闇を斬る。何度も、何度も。
何かを削って、削った分を別のところに継ぎ足す。不器用な粘土細工のように、努力というナイフで自分の体力を削って闇雲に継ぎ足していくと、完成形が見えないままどんどん不細工な粘土人形が出来上がる。
そしていつのまにか台座から大きくはみ出してバランスを崩すものだ。
六月に入ったその日も、バイト先にいたことまでは覚えている。
ありがとうございましたー、とお客さんに頭を下げたら、そのまま視界が暗転した。
「善逸!? 大丈夫か!?」
炭治郎の慌てた声が耳に残っているが、そのまま意識は暗い意識の内側に吸い込まれてしまった。
「……ぅぅ……」
身体がぐったりして動かない。熱に溶かされて暗闇とべったり同化してしまったみたいだ。眠くて瞼も動かない。バイト先の有線の音楽も聞こえないし、パンの香りもしない。
でも、すぐ近くで安定したリズムが聞こえる。誰かの鼓動。
ゴロリと自分の身体が床に寝かされた緩い衝撃が伝わった。
「ちょっと最近頑張り過ぎたようじゃの。このまま寝かせてやろう。ここまで運んでくれてご苦労じゃったな、獪岳」
「まったく、情けない奴だぜ」
「お前さんは……」
夢うつつに、そんな会話を聞いた気がする。耳はいいんだぜ、誰よりも。なのに眠くてもう何もしゃべれない。
――獪岳はこんな不器用な努力なんかしないでも、なんでも俺よりずっと遠くにいる。
暗い夜の闇の中には誰もいない。だからきっと出口には居るはずなんだ。
チュン、と雀の鳴き声が聞こえた。さえずりに意識を引き上げられて、俺は身じろぎした。
重い瞼をゆっくりこじ開ける。カーテンの外が薄明るい。早起きの鳥たちが目を覚ます時刻のようだ。
伸びをすると、こわばっていた身体の筋肉がぎこちなく引っ張られるのが分かる。
「……あれ?」
自分は布団で寝かされていて、気が付けばじいちゃんが買ってくれたあのパジャマに着替えている。しかし寝汗で随分しっとりしている。そういえば、熱を出した後特有の、妙な浮遊感がした。
喉の渇きを自覚したので、布団から這い出し、階下の台所に向かってヨロヨロと歩き出した。
途切れた記憶を手繰り寄せる。バイト先でぶっ倒れたらしい。そのあとぐっすり眠ってしまったらしい。
冷蔵庫から取り出した冷たい麦茶をガラスのコップに注ぎ、浮遊感と一緒に飲み干すと少し頭がすっきりした。
家の中はコチコチと壁掛け時計の秒針が聞こえるほど静かで、まだ誰も起きてきていないようだ。なるべく音を立てないようにして、俺は玄関から庭先へ出る。
「うわ……」
眩しくて目を細めた。空が明るい。
顔を出したばかりの太陽が闇色を溶かして薄めて水色にする。雲の端から朝日がこぼれだす。雀たちが挨拶を交わしながら飛んでいく。庭先の茂みは、赤や青に色づいたアジサイだったことに初めて気が付いた。
久しぶりに朝を見た。
唐突に、朝日が記憶に差し込んで、思い出を照らし出す。
それはまだ俺も獪岳も小学校くらいのクソガキだったころだ。じいちゃんに朝稽古をつけてもらっていたころ。
すぐにへたばる俺の隣で、獪岳はよそ見することなく、まっすぐ前を向いて竹刀を振るっていた。額に光る汗が、振り下ろして空気を斬る竹刀の音が、朝日に縁取られる輪郭が、とても美しかった。どきどきと早鐘を打つ鼓動さえ聞こえた気がする。
そう、ずっとその背中を探して追いかけていたんだ。
背中が見えるのなら、その背を照らす光がその先にあるんだ。
「……何してんだカス」
振り向くと獪岳がギョッとした顔で玄関先に立っている。ランニングウェアとシューズ。朝から走りに出かけるところだったらしい。庭で夢遊病のように立ち尽くしている俺を見て、気味悪そうに遠巻きにしている。
朝日が、柔らかくその姿を照らしている。
そして、ぷつんと、俺の中で張りつめていたものが切れた。
「……うわぁぁぁん。行かないでよぉかいがくぅぅ………」
「ハァ!?」
迷子の子供が保護者を見つけて泣き出すように、俺は声を上げて泣いた。べそべそに泣いた。後から後から溢れる涙をパジャマで拭うから、あっという間に袖が重くなった。
「もう俺これ以上頑張れないよぉ。十分頑張ったよぉ。なんでアンタはそんなに一人で俺を置いて行っちゃうのさぁ……」
発熱して随分寝汗をかいたはずなのに、まだこんなにも身体の中に水分が残っていたものか。
「かいがくぅ……すきだよぉぉぉ……一緒にいてよぉ……」
しゃっくりが言葉を詰まらせる。
「頑張った分、隣にいてよぉ……」
涙と鼻水まみれの情けない声音が澄んだ朝の空気を揺らした。雀の群れが驚いて飛び立つ。
「お願……もがッ」
「あっさっからビービー泣いて、恥ずかしくねぇのかよ」
ラリアットのような形で獪岳の肘が俺の首をひっかけて、そのまま小脇に抱えられてズルズルと家の中まで引きずられていく。「ぐるじい」と窒息寸前のまま俺の部屋まで連行され、敷きっぱなしの布団の上に投げ飛ばされた。ギャッ、と叫ぶも、俺の声はすぐに飛んできた何かに塞がれた。
「ちょっ、なにすんのさ、何これ……、え、これって……」
投げつけられた何かが顔面から滑り落ち、手元に納まる。
それは、今俺が着ているのと同じ柄で色違いのパジャマ。獪岳のパジャマだ。まだ折り目正しい新品のまま。
「寝汗かいたまんまで身体冷やして、また風邪ひきてぇのか。これ以上迷惑かけんなカス」
仁王立ちで見下ろす獪岳の表情はいつもと変わらない。
低い声で静かに続ける。
「さっさと着替えて寝てろ。あと、それ明日ちゃんとキレイに洗濯して返せよな。俺のモンなんだから」
返せだって?
聞き間違いじゃないのかと自分の耳を疑ったが、俺は耳はいいんだぜ。
間違いではない証拠に、ぽかんと見つめ返す俺の視線を、獪岳はふいとそっぽを向いて反らした。
また涙が溢れてしまう。
「……わーん獪岳ありがとう! うれしい! いいの? 獪岳の大事なもの貸してくれるの? うれしい! ありがとう!」
草むらから飛び出したカエルみたいな勢いで獪岳に抱きついてしまって、床に二人ゴロゴロと絡まり合って倒れ込む。
それでもしがみついた両腕は緩めない。やっとこの腕のなかに捕らえた身体を、もう手放したくなかった。
「いってぇな……クソ、離せカス」
「やだね! もう絶対離してやんない」
△▲△▲
「体調が戻って本当に良かった! もう無理するなよ!」
シフトの入っていないある土曜日の午後、ぶっ倒れたことを詫びに、獪岳と二人で店に出向いた。炭治郎はちょうど接客中で長くは話せなかったが、俺の隣にたたずむ獪岳の姿を見て、何も言わずに微笑んだ。
山ほどパンを買い込んで店を出る。今日は梅雨の晴れ間で、ところどころにある水溜まりが青空を映し出している。
お腹がすいていたのか、獪岳はすぐに袋から取り出して食べ歩きを始めた。
「あっ、リングパン改良版! 可愛くなったの見てから味わってよ!」
試作品だったリングパンは、禰豆子ちゃんのアイデアをもとに改良され、プレーンドーナツにリボン型のチョコレートをトッピングし、白い粉砂糖をヴェールのように振りかけてある。リボンもピンクのイチゴ味バージョンと、ブラウンのダークチョコバージョンがある。二種類あることで新郎・新婦ということらしい。そうすることで二種類をついで買いする客が増えたそうである。なるほど商売上手だ。
しかし獪岳は全く気にしていない様子でピンクのチョコをかじっている。
「美味しい?」
「パンくらいで、俺にかけた迷惑料をチャラにしろっていうわけじゃねぇだろうな」
「わかってますよ! 倒れた時助けに来てくれてありがとうね! お礼と言ってはなんですけど、バイト代も入ったし、これからどっか行こうよ。アンタの好きなもの買ってあげるから!」
「テメェの軽い財布じゃ足りねぇな。自分で稼ぐ」
「あーっまた怪しいバイトする気!? なんなのそれ」
「うっせ。……別にジジイも止めろとはいわなかっただろ」
確かにじいちゃんは何も言わなかったが。しかし、じいちゃん公認というところで、獪岳の態度も軟化したような気がする。
未だに獪岳は俺の前ではお揃いのパジャマを着ようとはしない。だけど、あの朝から少し変わった。
『お前さんは、まだヘタクソな頑張り方しかできん善逸を、ほんのちょっとでも認められないか』
あの時夢うつつに、じいちゃんの言葉を聞いた気がする。
「まぁいいや。リクエストがないなら、俺のセンスでお揃い買っちゃうもんね。パジャマに続いて何にしようかな」
「ざけんな。いらねぇ。捨てる」
本当にイヤそうな顔を見ながら、俺は笑みが零れて止められない。本当はリングパンじゃなくて本物のお揃いのリングをあげたいな、などと飛躍したことを考えていたのだけど、まだちょっと時期尚早かもしれない。
獪岳が「本当に欲しい」と思えるものをあげたいし、なんなら俺を欲しいって思って欲しい。
だからまだ、俺と獪岳の勝負の日々は続くのだ。
「あっ。あと少しで駅前行きのバスが来るよ。急ごう!」
まだ真新しいスマホで時刻を確認し、振り返って獪岳の手を取る。
引っ張られている獪岳が体重をかけて前進に抵抗していることに笑ってしまうが、それでも放してなんかやらない。
夏を予感させる六月の日差しが燦燦と降り注ぐ。
街のどこかの教会から鐘の音が聞こえた。今日は誰かが幸せを誓った良き日なのかもしれない。
風に乗り聞こえてきた祝福の音色が、何の変哲もないこの道さえ輝かせてくれる。案外、ヴァージンロードの先にある人生とは、こんなふうに平凡な日常の延長にあるのかもしれないと夢想した。
獪岳と歩むこの道が、このままずっと未来まで続いていきますように。
教会で誓いの言葉を述べるときもきっとこんな気持ちだろうな、と爽やかな予感が胸にあふれる。