お八つ、パンケーキ「うぅん、疲れたぁ」
イオリは凝った身体を伸ばした。目指す目標のため、行きたい学校が決まったのは良いが、いざ受験勉強を始めるとなかなかに大変だった。
こんこん、とドアをノックする音がした。
「イオリ君お疲れ様」
「セツさん!」
お盆片手にやって来たのは、イオリよりも一回り大きな大学生だった。3ヶ月前からお願いしている家庭教師で、名前をセツといった。髪も肌も白い人で、はじめは外人の人かと思ったが、どうやらそういった体質らしく、日本人なのは間違いないらしい。
「今日の分もう終わったんだ、頑張ったね」
「はい!」
セツは褒めて伸ばす教育方針なようで、イオリが課題をおわらせると必ず褒めてくれる。そしてわかりやすく教えてくれるので、イオリの成績も勉強意欲も上がっていた。
そしてセツが家庭教師となってから楽しみなことがひとつ増えた。それは。
「じゃ、休憩しようか。おやつ頂いてきたよ」
このおやつの時間である。大学生の知り合いはそういないので、休憩中雑談をする時間がイオリの楽しみであった。
「わ、きな粉すごいや」
「葛餅だって。ご両親から書き置きがあったよ」
今日は両親ともに出張で外泊、さらに同居している祖父も久々に遠方の友人と会う約束があるとかで今夜は帰らない。
もう高校生になろうという歳なのだから、1人で留守番できるけれど、心配性な両親たちはこの家庭教師にイオリとの留守番を頼んだのだった。
「ごめんなさい、セツさん。ウチの都合に巻き込んでしまって…」
「ううん、気にしないで。明日の講義もなくなったしのんびり出来るから、ちょうど良かったよ」
講義。イオリには聞きなれない言葉だ。
「講義、って、何してるんですか?」
「ああそうか、中学生は授業か。内容は一緒だよ。先生の話を聞いたり生徒でグループ作って調べ物して発表したり」
いいな、講義。ボクもそう言ってみたい。はやく大人になりたいな。と未来に胸を膨らませていると、お腹が鳴ってしまった。こういうところが子どもと言われてしまうのだろう、背伸びしようとしたときに出鼻を挫かれたようで気恥ずかしかった。
「うう…」
「ああごめんごめん、頂こうか」
いただきます、と2人して手を合わせて葛餅を頬張った。もちもちとした食感が心地いい。葛餅自体甘めに味付けされているからか、きな粉そのものはそこまで甘くなかった。単なる風味づけなのだろうか。
とはいえ、中学生男子にとって葛餅だけでは物足りず。自分の分はすぐ食べ終わってしまった。
「イオリ君食べるのはやいな」
「ああ、ええと、お腹空いてて」
あはは、と恥ずかしくなって頬をかくと、セツが温かい目をした。
「そうか、育ち盛りだもんな」
あはは、と笑ったがやはり気恥ずかしいイオリは目を膝の上の皿に落とした。皿にはたくさんのきな粉が残っている。今日はセツが泊まりに来ることもあり、どうやら評判のいいお店の葛餅を買ってきたようで、きな粉をたくさん使っていた。葛餅と絡めて食べるには多すぎるほど。
「なんだかこのきな粉、勿体無いなあ」
「イオリ君、きな粉好きなの?」
セツにイオリがなんとなくこぼした一言が聞こえたらしい。イオリは慌てて答えた。
「えっ、ああいや、特別好きってわけじゃないですけど、こんなにいっぱいあったらなにかに使えないかなって」
「確かになあ、ちょっと勿体ないよな」
セツもまた食べ終わったのだろう、皿の上の大量のきな粉を見ていた。
「砂糖を加えてお餅につけるとか?」
「イオリ君、ここお餅ある?」
「いえ…」
「うーんそうか」
きな粉のレパートリーそんなにないなあ、とスマートフォンでセツがレシピの検索を始めた。
何となくその様子を眺めていたイオリは、セツのふわふわと揺れる髪に目がいった。
「ふわふわ…」
「ん?」
「あ、えっと、ふわふわ、なものがいいなって」
髪を見てました、とは何となく言えず、リクエストにになってしまった。
「ふわふわしたものか…あ、これなんてどう?パンケーキだって」
「パンケーキ、いいなあ。でもボク、1度もふわふわに作れたことないです」
「あれにはコツがあるんだよ。教えてあげる」
そうと決まったら実行だ、と2人は台所に向かった。
「ホットケーキミックス…あった!」
「お、じゃそれを使わせてもらおう」
卵、牛乳、ホットケーキミックス、砂糖、そして2人のきな粉。材料は揃った。
「よし、じゃあそれぞれのきな粉を使ってやってみようか」
「はい、先生」
「もう授業じゃないんだから先生じゃないよ」
「でもふわふわのやり方教えてもらうから」
なんだか緊張するなあ、と言いつつセツは笑っていた。
セツからまず卵を卵黄と卵白に分けて、と指示された。スプーンで掬うと取りやすいよと言われ、早速すくってみる。卵白がまとわりついてきたけれど、なんとかすくえた。
「卵黄取れました!」
「ありがとう、イオリ君上手だな」
「えへへ」
卵黄は牛乳、ホットケーキミックス、あときな粉と混ぜてね、と支持されその通り手を動かす。その間、セツは卵白を入れたボウルにラップをして冷蔵庫に入れていた。
「ところで、どうして卵黄と卵白を分けるんですか?」
「卵白使ってメレンゲを作るんだよ。これがふわふわの正体。メレンゲ作りじゃ油分は禁物なんだ。泡立たなくなる」
卵黄は油分入ってるからね、だからこの作業は結構大事、と付け加えられた。
「さて、それじゃメレンゲを作ろう!」
「はい!」
ハンドミキサーってある?と聞かれたが、イオリにはどこにハンドミキサーがあるか分からなかった。台所の中を捜索する羽目になったが(このとき、材料と一緒に使う器具も一通り出してみるべきだったなあ、とセツが反省していた)、ようやく見つけた時には、冷蔵庫の卵白が冷えていた。
「うーんまあ、怪我の功名かな」
イオリ君ハンドミキサー使ってみる?と言われたが、少し怖いので遠慮します、と答えた。母が使っているのを何度か見たことがあるが、すごい音がしていた記憶があったからだ。それじゃ、俺が泡立てるから、3回に分けて砂糖を入れていってね。と指示された。
セツが卵白を泡立てている間イオリは質問した。
「卵白冷やすとメレンゲ作りやすいんですか?」
「うーん、むしろ作りにくいかも」
「えっ」
「卵白って元々泡立ちやすい性質なんだけど、常温だとすぐ泡立つ代わりに大きい気泡ができて不安定ですぐ泡が消えるんだって。しぼみやすいんだな」
「それじゃ冷やすと?」
「うん、冷やすと泡立ちにくい代わりに均一で細かい泡が出来るんだって。しぼみにくい。」
だから、スフレパンケーキとかシフォンケーキみたいなメレンゲのふわふわ感を出したい場合には冷やした方が良いんだよ。と教えられた。
へえ、と感心している間にメレンゲが出来上がってきた。
「うん、ツノ立ってるしこんなものかな」
「それで、この後どうするんですか?」
「さっきイオリ君が混ぜてくれたやつとこれを合わせる。泡を潰さない程度にさっくりまぜたらいいよ」
さっくり、と言われてもどのぐらい混ぜたらいいのか分からない。これも3回に分けて混ぜていこうか、と言われ、今度は混ぜる役がイオリになった。
「うん、これぐらいでいいか」
「色、まばらですけど大丈夫ですか?」
「大丈夫だと思う、焼けたら一緒だから」
イオリの分とセツの分と生地が出来た。これからこれがどう変わるだろう。ちゃんとふっくらできるかな、イオリはわくわくと胸が躍った。
「それぞれフライパンで焼いていこうか、好きに入れていいよ」
「それじゃ、ボク大きいの作ろうかな」
「そしたら俺は1口大にしておこう」
イオリがどうしてですか、と聞くと、実験したいからと返ってきた。
「小さく焼くのと大きく焼くのと仕上がりがどう変わるか試してみたいんだ」
こころなしか、セツもわくわくしているようだった。自分と同じくこの人も楽しみなんだ。先生と思ってたお兄さんがボクと同じ目線でボクと同じように未知のものに胸躍らせていると思うと、イオリはセツともっと距離が縮まったようで嬉しくなった。
「よおし、焼くぞお!」
「おー!」
油を引いたフライパンに生地を垂らし、水を垂らして中火で焼く。水が沸騰し始めたら弱火にして、蓋をして蒸し焼きにする。数分したらひっくり返して更に蒸し焼きにした。
蓋を開けてみると、香ばしい香りときな粉の香りがふんわりと漂ってきた。
「わあ、美味しそう!」
「上手く焼きあがって良かったなあ、いい匂いだ」
「はやく食べたいです!」
自分の分を皿に乗せ、いただきます、と2人は揃って手を合わせた。
出来立てほかほかのパンケーキは、ふわふわとした食感で、ほのかな甘味がした。熱さでほふほふと口の中で冷ましていると、きな粉の香りが奥からふんわりとやってきた。
「ほふ、ほふ、おいひいれす」
この美味しさをはやく共有したい。イオリは熱さを我慢しながら話した。祖父がいたら食べてから喋れと叱られるところだ。
「はは、慌てないで大丈夫だよ、ゆっくり食べてね」
この優しい家庭教師のお兄さんは祖父のように叱ったりはしないと分かっているから、安心してちょっと羽目を外せる。
「セツさんのほうはどうですか?」
「うん、俺の方も美味しく仕上がったみたいだ。でも多分、きな粉の風味はそっちのほうがいいんじゃないかな。小さい分焼けすぎてて香ばしさが勝っちゃった」
それならボクの分食べますか?と聞くと、ありがとう、でも気を遣わなくて大丈夫だよ。と返された。
「どのぐらいの大きさからきな粉がちゃんと主張するか試したいんだ」
セツの皿をみると、いくつかのパンケーキがあったが、一つ一つ大きさが違っていた。
「あ、ちょっとずつ違う」
「うん。高さもどれぐらい変わるかな、とか。気になっちゃってさ」
ボク作ってる時そんなことまで考えてませんでした、とイオリがいうと、俺が気にしすぎなだけだと思う。友達からもよく言われるんだ。とセツは苦笑した。
「食えればそれで十分なんだから、必要以上に気にしすぎだってさ」
「もしかして、その友達ってセツさんの手作りご飯たべてるんですか?」
「うん。いつもつい作りすぎちゃうから、持っていくんだ。よく食べるやつだから助かるんだよ」
ボク以外にこの人と作った食事を共有する誰かがいる。そう思うと、なんとなく面白くなかった。その感情の正体が分からなくて、イオリは戸惑った。けれど、あまり気分のいいものじゃないことだけは理解した。
「いいなあ」
つい口に出た。ああいけない、これでは手作り料理をせがんでるみたいじゃないか。イオリははっとして自分の口を塞いだ。
「え?イオリ君…」
「あ、い、いえ!なんでもないです!」
いそいで残りのパンケーキを口に放り込んだ。ここに両親がいたら落ち着いて食べなさい、と嗜められるところだけど、いないからいいんだと、もちもちとパンケーキを頬張った。
「さてはもうご飯のお腹になったな?やっぱり食べ盛りなんだなあ」
流石中学生だなあ。イオリ君大きく育つよ。とまた温かい目で見られた。
セツさんがいうならそういうことなんだろうか。お腹減ったから機嫌が悪くなったのだろうか。でも、なんとなく違う気がする。違うならこのぐるぐると胸に渦巻く黒くて重い気持ちはなんだろう。幼く純真なイオリはまだその正体を知らなかった。
おしまい