キスしなくても出られるけど、お互いの事を忘れてしまう部屋※ナマエ表記
人生で三本指に入るくらい酷い事態が起きた。ナマエさんと「キスせずに出たら相手を忘れる部屋」に入ってしまった。
私たちは表向き嫌い合っている。実際には、私だけは学生時代から恋焦がれ続けているけれど隠し方が上手くないせいでナマエさんからは嫌われている。ナマエさんの答えなんてわかりきっている。アッサリとそこのドアノブを捻り何事もなかったかのようにこの部屋から出ていくのだろう。そして私を忘れるのだ。
先にこの任務に就いた術師は「秘密を暴露しないと出られない部屋」に入ったと言っていた。内側からはどんな攻撃をしても傷一つ付かなかったが、秘密を暴露すれば簡単に部屋から出られたらしい。「相手を忘れる」というのも嘘ではないだろう。だとすれば。ナマエさんの中から私が消える。そしてきっと私の中からもナマエさんが消える。
嫌だ。忘れたくない。忘れられたくない。ナマエさんの中から消えたくない。ナマエさんを好きになった理由なんてないのだから、忘れたところできっとまた好きになってしまう。ナマエさんとの決して多くはない思い出を忘れたくない。ああ憎い。こんな任務、引き受けなければよかった。しかしナマエさんと他の誰かが密室に入って出られなくなる可能性を考えれば、断るわけにはいかなかった。それがまさかこんな結果になるなんて。
「七海のことを忘れたら任務のことも忘れるのかな」
「知りませんよそんなもの」
忘れる前提で話を進めないでほしい。無理矢理キスして嫌われた記憶が残ってしまうのだとしても、ナマエさんには忘れてほしくない。もしあのドアノブに手をかけようものならひっつかんで引き倒してでもキスをしなければならない。ナマエさんが出ていった後の部屋で何を思えばいい。追いかけて出れるわけもない。ナマエさんの中から居なくなってしまうなんて、受け入れられない。
「嫌そうな顔」
「貴女もそうでしょう」
「キスは好きな人とすることだから……」
大きな舌打ちを一つ零してから「私もそう思います」と吐き捨てた。本当に忘れてしまうんだろうか。ナマエさんはそれでも平気なんだろうか。私を忘れてしまうことよりも、私とキスすることへの嫌悪感のほうが大切なのか。
あまりにも報われない想いが浮き彫りになって、腹の底が熱くなってきた。このままここで抱き潰してキスせずに部屋を出てやろうかとさえ思う。いつもナマエさんに見せている「不機嫌そうな顔」なんかではなく心の底からの苛立ちを表に出していると静かな一言が聞こえた。
「でも忘れるのは良くないと思う」
「……は?」
♂♀
お互いに嫌い合っている後輩ととんでもない部屋に入ってしまった。その名もなんと「キスせずに出たら相手を忘れてしまう部屋」。あまりにもおふざけが過ぎる。
七海は学生時代から私のことが大嫌いだった。私とだけはロクに話さないしたまに目が合えば睨むし何かと口うるさいし私といる時は必ず不機嫌そうにする。それほど露骨にされながら後輩という一点だけで優しく出来るような女ではない。おそらく悪循環に入ってしまった私たちは散々嫌い合った後七海の卒業という形で縁が切れたものの、結局七海が出戻ったことで同僚として細々と縁を結び続けている。
過去の報告から察するに、キスしないと忘れてしまうという部屋におそらく偽りはない。七海はどう思っているんだろう。いっそのこと記憶を無くして好感度をリセットして同僚としてやり直すのもいいかもしれないとは考えたけれど、腐っても学生時代を共にした数少ない仲間の一人。いくら七海が相手でもいくら条件がふざけていても、流石に忘れたいとは思えなかった。
少し離れて立つ男の顔を覗き見る。心底嫌そうな顔をして溜め息を吐いてしまった。勝手に出て行かないのは少し意外かもしれない。動かないのは、どういうつもりだろう。忘れたくないんだろうか。最後に何か言い残してから忘れるつもりなんだろうか。
七海のことは忘れたくない。かと言ってキスなんかしたくない。どうにかして避けたいところではあるけれど、もし忘れてしまったら任務遂行に影響が出てしまうんだろうか。
「七海のことを忘れたら任務のことも忘れるのかな」
「知りませんよそんなもの」
吐き捨てるような言い方にカチンときてしまう。睨みつけてみたけれど、変わらず目を合わせないままただ不愉快を全面に押し出している。やっぱりキスしたくないのはお互い様なんだろう。
「嫌そうな顔」
「貴女もそうでしょう」
「キスは好きな人とすることだから……」
大きな舌打ちの後に「私もそう思います」と嫌そうな声色。やっぱり七海は私を忘れたいんだろうか。七海にとって私なんかどうでもいいんだろうか。七海のことは好きじゃないけど、忘れてもいい相手とまでは思ってないのに。なんだかんだ七海への嫌悪感も七海からのマイナスの好感度もひっくるめて青春の一部だと思っていたのに、そこまで嫌いだったんだろうか。
「でも忘れるのは良くないと思う」
「……は?」
間抜けた声。チラリと目を向けると、声以上に間抜けな表情を浮かべていた。
「……昔からクソ生意気でいつ見てもムカつくし普通に嫌いだけど、忘れたいとまでは思ってない」
「悪口をカバーしきれていないんですが」
「今更カバーしてもらえると思うな」
「……キスすることになりますが」
「言われなくてもわかってる……」
「良いんですか」
「七海はどうなの」
「忘れたくありません」
「じゃあもう、仕方ないじゃん……」
「……」
「……」
嫌な沈黙。逃げ出したいけど当然逃げ場なんてどこにもない。お互いに忘れたくないと思っているなら、すべきことは一つ。七海まで四歩くらいあるこの距離は私から埋めるべきなんだろうか。自分の爪先をじっと見つめたまま動けない。スタスタと歩いて、キス……というか唇をくっつけて、またスタスタと歩いて部屋を出る。それだけだ。それだけでいい。これは任務遂行に必要なこと。……七海はどんな反応をするんだろう。どうせ嫌悪感を隠しもしないんだろうな。ああしたくない……。私の経験の中に「嫌がる相手とのキス」が入ってしまうのがとても嫌だ。……けれど、避けられるわけでもないし。これは身体の一部をちょっとくっつけるだけだ。お互いに他意なんてない。嫌がられるのは癪だから、七海が理解してからすればいいか……。
小さく溜め息を吐くと、七海がチャキとサングラスを外して胸ポケットにしまった。そしてゆっくり一歩ずつ踏みしめるようにこちらへと向かってくる。……私にキスをするために。
「私は、……私なりに貴女を大切に想っています」
「そりゃどうも……」
見え透いた社交辞令にげんなりしてしまうけど、七海だって言いたくて言っているわけじゃないだろう。おそらく嫌々ながらもキスする相手に最低限の礼儀を払っているだけ。だとしたら私が嫌悪感を剥き出しにするのは間違っている。……けど表情に出てしまうから、俯いて誤魔化した。
七海の革靴が私の目の前で止まった。
「顔を上げてください」
「……ちょっと待って」
「……」
「……本当に、するってことでいいんだよね」
「私は」
「……」
「貴女こそ、私とキスするということでいいんですか」
「……良くはないけど仕方がない」
「……」
「……」
キスとか言葉に出さないでくれないかな。嫌な実感が湧いてしまう。覚悟を決めるように細く長く息を吐いて、顔を上げた。いつもよりも力の入った瞳とパチンと目が合って咄嗟に目を逸らしてしまう。
「……少し触れますよ」
「ん」
七海のカサついた指先がするりと頬を撫でて、頬に落ちていた髪を一束耳に掛けた。そのまま耳を伝って左頬の少し後ろを大きな手のひらが覆う。思っていた触れ方と違う。どくどくと早鐘を打つ心臓のせいで顔が赤くなっていないか不安になってしまう。……いやいや七海相手にそれはないって。またパチンと目を合わせると、思った以上に顔が近い。
……え、本当に七海とキスするの?あの七海と?私が?キスを?だめだ、なんだか無性に照れくさくなってきた。口角が上がってしまう。ぐ、と唇を噛んだものの堪えきれず小さく吹き出してしまった。
「ふ、」
「……何笑ってるんですか」
「や、なんか、……恥ずかしくて……ふふ、んぅ、」
一旦待てと言わんばかりに七海の肩に手を添えてくすくすと笑っていたのに、それを遮るように唇が重ねられた。私にだけ冷たい七海の、知らない温もりがダイレクトに伝わってくる。目を見開く私と、ほんの僅かに目元に笑みを携えた七海。甘ったるさに耐えられず目を閉じると感触を確かめるように唇で柔らかく食まれる。そこまでする必要はないでしょ。ちゅ、ちゅ、と可愛らしい音を立てて何度か繰り返されるそれに身体が妙に疼いてしまう。良くない衝動に胸を埋められる前に仰け反って逃げようとしたのに、後頭部を押さえられて唇にねっとりと何かが這った。
ビクリと肩を震わせる私のことなんか気にせず、私の中を暴こうと唇の隙間にぬるりと割って入って来ようとする。口を開けず言葉にならない声で抗議しながらパンパンと肩を叩くのに変わらない。顔を逸らして逃げながら「やめて」と言おうとしたのに後頭部を押さえる力が思っていたより強くて侵入を許してしまった。ぬるりと入り込んできた舌が私のそれと触れた瞬間ぞくりと背筋に甘い痺れが走る。だめだ、これはまずい。捕獲されるようにぬるぬると舌どうしを重ねられて頭の奥底に良くない感情が湧き始める。もう十分なはずだ、ここまでしなくてもいい!
がぶりと七海の舌を噛むとようやく離れた。
「このドスケベが……」
「……」
口元を手で覆って黙っていた七海は、しばらく私の目より少し下を見つめた後深い溜息を吐いた。溜息を吐きたいのはこっち。
「絶対にここまでする必要なんてない」
「それは部屋を出てみなければわからないでしょう。もしもダメなら取り返しがつきません。試すことが出来ないなら最善を尽くしておくのが」
「うるさいムッツリ」
「……」
「いくらなんでもやりすぎ。帰ったら硝子に言いつけ……。……」
言いつけられるわけがない!
七海とこんな部屋に入ってしまったことは報告書からいずれバレるだろう。だとしても報告書以上の情報なんてどう考えても与えるべきではない。『キスをしなければ忘れる部屋』に入って『忘れずに出てきた』これでもう十分すぎるほどからかわれるネタになっている。出たあとのことを考えると気が重い。こんな部屋とっとと出てさっさと家に帰ろう。キスはしたからもう七海のことは忘れないだろう。
ツカツカと扉まで歩いて、制止する声も全速力で近付いてくる足音も丸無視してドアノブを捻る。まるで会議室のドアみたいなつまらない装飾のそれは簡単にまわって、僅かに力を込めただけで簡単に開いた。一歩踏み出すのと同時に何故か七海が強く手首を掴んだ。驚いて振り返る私と、口をはくはくと開閉させる七海。さっきまでとは違い明らかに顔色が悪くて、その変化に戸惑ってしまう。
「な……何……?」
「私が誰だかわかりますか……?」
「知りません……」
「は……、……」
「貴方みたいな危機に乗じてセクハラしてくる男なんか知りませ、んぐ」
「ハァ──────……」
掴んでいた手首を引っ張ってそのまま苦しい程に抱き締められる。何。今日はなんの日。どういうつもりなの。七海ってこういう男なの?他人とハグしてるところとか見たことないんだけど。私にこんな触り方してきたのなんか初めてだ。何がしたいんだ。胸筋に顔が埋まって苦しい。初めて顔で味わうジャケットが、少しかたい。力が強すぎて肺が圧迫されている。
「寿命が縮まりました……」
「……そーね、あと三秒で死ぬもんね私に殺されて」
「無事帰還出来たことを喜ぶくらい良いでしょう」
「ハグは意味わかんないって。離して」
なんでそこで黙るかな。
杭でも穿つように背中をドンドンとグーで叩いて、ふと灰原が亡くなった時の七海を思い出して手が止まった。あの時ほどじゃないにしても、失うということをもしかすると恐れていたのかもしれない。多少のフラッシュバックがあったのかもしれない。さっきの顔色はまさかそういうことだったんだろうか。……少しだけ静かにしてやるか……。溜息を吐いて心の中でたっぷり三秒数えた後、七海の脇の下から腕を通してなんとか届いた髪の毛を引っ張れば離れるまであっという間だった。
「正気の沙汰と思えません」
「その言葉そっくりそのままお返しします」
「五条さんからは何の理由もなくハグされているのに私はダメですか」
「あれも別に許してるわけじゃないし、許してたところで七海は関係ない」
「キスした仲でしょう」
「次それ言ったら本気で殴るから」
「出来るものなら」
「本当に嫌い」
「……。わざわざ言わなくても知っています」