cogito ergo sum. 墨で塗りたくったような暗闇の中、オレンジの街灯が等間隔で明かりを灯して車内を照らす。部屋の蛍光灯なんかよりも随分と温かみのあるように感じる街灯が、手にしていたペットボトルに反射した自分の顔を映す。
——随分と間抜けな顔をしている
こんな顔をしているのは、運転席に座る男のせいだ。鯉登は助手席の背もたれに深く寄り掛かり窓の外を眺める。外は相変わらず真っ暗だった。
『悪いが次のライブ、車で移動してもらってもらうぞ』
九月のとある日、マネージャーの月島が練習のために集まった四人に向けてこう言い放った。
『次って、場所はどこだっけ?』
杉元の言葉に、ベースをケースから取り出した尾形が深いため息をつきながら眉間に皴をよせて答える。
『盛岡だよ』
『え、遠くない?』
盛岡、ということは東北か。尾形の言葉に鯉登は脳内で日本地図を描く。自分たちが普段活動しているのは関東圏が中心だ。時折地方のライブハウスの企画や仲の良いバンドの対バン相手として、遠方のライブハウスに足を運ぶことはよくある。しかし、基本的に移動は新幹線が多い。
『負担を減らしてやるのも経営者の力量だ』
社長の鶴見の経営方針の一つらしく、デビューしてからこの二年間、移動は新幹線など公共交通機関を使っていた。今回のように車で移動するということは初めてだ。
『楽しそうで良いじゃないか』
鯉登の呑気な言葉に他の三人が勢いよくこちらを振り向く。その表情は信じられない、と遠回しに鯉登の発言を否定するようなものだった。
『な、なんだ、一体』
『鯉登。お前免許持ってんのか?』
『馬鹿にするな、免許は地元で取得済みだ。ただ、こっちで一切運転していない』
『ホラ見ろ! そうだと思ったぜ!』
『深夜の首都高を鯉登に走らせて事故るか、杉元の危険運転で事故るかのどちらかだな』
『うっせぇ! 俺は無事故無違反ゴールド免許じゃ!』
『私だってまだ無事故無違反だ!』
『運転してねぇから当たり前だろ、クソボンボンが』
『落ち着きなよ、三人とも。珍しいね、軍曹が新幹線取り忘れるの』
白石に落ち着くように言われ鯉登は不服だが口を閉じ、尾形や杉元をじとりと睨みつける。運転経験は確かに少ないが、それでこんなに反感を買うのはなんだか納得がいかない。鯉登は唇を尖らせ、如何にも不服ですという顔をしながら白石と月島の話に耳を傾けた。
『予約を取り忘れたわけじゃない。わざとだ』
『えっ、』
『は?』
『ん?』
『あ?』
四人が同時に疑問の声を上げて一斉に月島を見る。
『次のアルバムかシングルの特典としてドキュメンタリー風の映像を付けようと思ってな。別に映像は一部だけだし、撮るのはお前たち自身だから移動中全部を使うわけではない』
月島はいつの間にか手にしていた資料と思われる紙を見ながら話をしているが、突然のことに鯉登を含めた四人は頭が着いていかないらしく、全員がぽかんとした表情をして月島を見ていた。
『それって、軍曹のアイディア?』
杉元の問いかけに月島は人当たりの良い笑みを浮かべる。
『鶴見社長の一声だ』
四人の絶叫が練習スタジオの中に響き渡った。
そんなことがあったのが二週間ほど前のことだ。既に十月に差し掛かろうとしている九月の末の金曜日。鯉登たちは月島が用意した車に乗り、東北を目指して走り出した。
『運転初心者は助手席に座ってろ』
尾形に言われた通り鯉登は助手席に座り、三人が運転するのを眺めていた。出発は二十三時過ぎという遅い時間だ。高速道路の深夜帯は比較的交通量が少ない上に、高速の料金も安い。途中にあるサービスエリアで睡眠を取りつつ、目的地に向けて移動するといった大雑把な行程だが、そもそもライブの日も翌々日とかなり時間に余裕がある日程になっているので問題はないらしい。ゆっくりと来いと月島から言われていたこともあり、鯉登たちは小旅行の気分で移動を始めた。「鯉登、起きてるか」
「起きてる」
運転席から尾形の気だるげな声が聞こえ、それに鯉登は返事をする。隣を見れば前髪を下ろし、眼鏡をかけた男——尾形がこちらを見ることもなく運転をしていた。普段は挙げられている前髪が下ろされているのを見るのは初めてだった。いつもの厳つい雰囲気はどこかに消え、年齢よりも幼く見える容姿は鯉登を落ち着かせない。
——こんなはずじゃなかったんだが
鯉登は眉間に皴をよせて尾形を横目で見る。尾形のようで尾形じゃない、何とも言えない感覚に、鯉登はそわそわと姿勢を直した。
「そんなに見るなよ、照れるだろ」
「そんなこと思っていないだろ」
「ハハァ、バレましたかぁ」
ちゃんと前を見て運転しろ。鯉登の言葉に尾形は「わかりましたよ」と答え、ハンドルを握り直しアクセルを踏んだ。
デビューしてから二年。尾形との距離は昔に比べたら近くなったように感じる。同じバンドのメンバーだけでなく恋人という関係になった鯉登と尾形であったが、そこから先の段階——キスはしたがセックスには至っていない。今どきの高校生の方が進んでいるだろう、むしろ中学生の方が恋人らしいことをしているんじゃないかと思うほど、二人の関係は現状維持という言葉がしっくりくる。鯉登自身は尾形とそういった行為をすること自体は嫌ではない。むしろ若さもあって出来ることならやってみたい、というのも本音だ。しかし、それに至るには自分たちには圧倒的に足りないものがある。
——それ以前に、私はまだ尾形のことを全然知らない
尾形百之助という人間は必要以上に自分のことを話さない人間だ。それが原因で、過去に鯉登は尾形に対して怒りを爆発させたこともある。お前のことが知りたいと、こちらが一方的に話をしたところで尾形の性格上、自分で話をしようと決めない限りは話をしないと分かっている。付き合いの長い杉元や白石は尾形のことを理解しているし、だからこそ自分たちの関係を受け入れてくれていると分かっている。待つことしか鯉登には出来ないのだ。
「なぁ、尾形」
「なんだ」
「人間って難しいんだな」
何言ってんだ、という少し呆れつつも随分と優しい声色で答える尾形の横顔を見つめる。もう少し先に進みたい。鯉登は思わず口に出そうになった言葉を飲み込み、再び窓の外に視線を映した。