優しい死神の凪砂×蛇の悪魔茨────────
「……私はもう、この手で魂を奪いたくない」
薄暗く、冥府の埃が舞い、澱んだ空気の深い深い、魔のものたちが犇く暗い世界が私の住むところ。
私は『死神』───生命の死を司る、魂の管理者。
「閣下、突然どうされたんですか?」
そばに仕えているのは、私の使い魔である蛇の悪魔の茨。
暗紅の髪に理知的な容姿の彼は、私の仕事をサポートしてくれるとても賢い子だ。
私の発言に首を傾げ、こちらへ近付いてくる。
「…奪いたくない、そう言った。魂は、私たちが管理なんてするものじゃないんだ…。人には正しい輪廻があって、」
「閣下」
私を呼んだ、普段と違う冷たい声音に両手で覆った顔をあげる。
そうすると茨は、貼り付けたような笑顔を向けてきた。
「いけませんねぇ、閣下。かつてはその冷酷さによる正確な判断力と、見惚れるような手捌きで管理者としての役目をきちんと果たしていて、冥府全体から崇められていた存在である貴方が…何故そんな妄想に未だ囚われているんですか?」
「…違う、妄想なんかじゃ…!」
しかし一歩一歩、近付く足音が私に言い聞かせる。
「魂の管理をしてやらねば、人の体から出たそれはただ永遠に彷徨うのみ。どこでもない虚空を。我々は正しいことをしているのですよ。誇るべきこの仕事を、何故そんなに嫌がるのか理解に苦しみます」
「………」
「どこのどいつに唆されたのか知りませんが、それは我々冥府の者が持っていい思考ではありません。そして職務放棄は大罪。追放されてもいいんですか?」
───それでもいい。
そう思うほどに、私は……
「"それでもいい"」
「!」
「──なんて、思ってないですよね?」
「……そんな、…っ!」
思考を読まれる。茨はとても聡いから。
俯いた顔をあげると、目の前にまで茨が迫っていた。
二又に分かれた長い舌先が薄く開いた唇から覗く。
驚いた私に、茨は微笑んで少し離れた。
そして近くにあった、人の世を覗ける水晶に何かを映し出した。
「閣下、こちらをご覧ください」
「……あ……」
そこには、清潔そうな白のベッドと無機質な壁に囲まれ、体中に多くの管をつけた少年がいた。
「衰弱しきって、今にも息を引き取りそうな子供です。彼はもう指の先すら自らろくに動かせず、あとはもう死を待つのみ…。そう宣告されています」
その少年を見詰める私の首に、茨の白くしなやかな指が絡み付いた。
「けど、そうなるより先に閣下が魂の回収をして下されば…彼はこれ以上苦しむことなく、安らかに逝けるのです」
そして耳元に唇を近付け、囁かれる。
「……でも、茨」
「閣下ぁ?お願いですから、これ以上自分を失望させないでください。本当、以前のお姿は見る影もありませんねぇ…?」
言葉を遮られた。まるで聞きたくないとでも言うかのように。
冷たい声が、私にまとわりついてくる。
「それに、冥府にはまだ貴方を尊敬し憧れる者達が多く居るんです。そんな貴方が、今は子供の魂すら回収出来ないと知れると……ああ、想像しただけで胸が痛みます!無いはずの心臓が苦しい!」
私から離れた茨が、次は身振り手振りを交え、大袈裟に声を上げる。
「…茨…」
「……ねえ、閣下」
と思えば、今度は落ち着きを取り戻し、じろりと蛇の目がこちらを見遣る。
「貴方がこのまま腑抜けていってしまうと『俺』は、また下層に戻されてしまいます」
「───!」
「もう嫌ですよ。あんな何もない、右も左も分からない漆黒の闇。その中でただ一つ分かるのは、身体に纏わりついている不快な何か。振り解けもせず、体内に入り込まれ、蠢くんです。悪魔だって根を上げてしまう、…他にも思い出したくないことが、多いですけど」
冥府の下層。
それは、冥府の更に更に深いところ。
堕ちたら最後、二度と出ることは叶わないとされる場所だ。
…茨は以前、そこに堕とされた。
「俺は、貴方と離れたくない。あの闇から拾い上げてくれた、ただ一人の貴方のそばを。俺の救いで、この冥府において眩いほどの…。離れるなんて嫌です、そばに居させてください。俺から離れないで……愛しているんです、俺だけの閣下…」
茨が縋るように、私に抱きつく。
首元に頭を擦り寄らせ、懇願する。
「だから見ず知らずの子供なんかより、…目の前の俺を見捨てないで」
視線が絡む。
鋭さを潜めた揺れる青色から、目が離せない。
(……そうだ。私は、茨を守らないと。この愛しい子を、私が…)
「……ごめんね、茨…そんなつもりは無いんだ。ああ、私はなんて酷いことを…。思い出したくないことまで、君に言わせて。──私が、間違っていた」
「閣下、それでは…!」
「……うん。君の言う通りにするよ」
「ありがとうございます…!良かった、閣下が追放なんてことになったら、自分はどうしたら良いのかと…」
「…大丈夫。君を一人にはさせない。私とずっと、共に在ると誓ってくれたんだから…その誓いも、守らないと」
柔らかな髪を撫で、私は水晶に映る少年を再び見た。
(……もう、迷わない。茨のために、私は…)
「───さあ、こちらを手に取って…しっかり握り締めてください」
茨から、私専用に装飾の施された大振りな銀製の鎌を渡される。
受け取ると、少し手が震えた。
(……久しぶりに、持つ)
「閣下」
「!」
それを見逃されず、茨が優しく言う。
「自分も手伝います。ですから、手元が狂うなんてことは万に一つもありません。ご心配なさらずとも結構ですよ」
「……茨…?」
そしてそっと、手を重ねてくる。
「自分如きが閣下のお手伝いだなんて烏滸がましいですが、それでもこうしてやらねばならぬほどに今の閣下は精神も少々不安定ですから…。ね?こうして手を重ねれば、貴方も安心でしょう?」
冥府の者は体温を持たないはずなのに、重ねて握られた手から熱が伝わってくるような気がした。
茨のあたたかさ、…私だけの、茨の。
ぐっと握り締め、一度深呼吸。
そして前を見据える。
「……手早く終わらせよう、茨」
隣に付き従う彼を一瞥し、黒衣を翻して私は歩み始めた。
「ああっ、懐かしいその眼差し…!それでこそ、まさに自分の尊敬し愛する閣下でございます!茨は嬉しいです。閣下!今夜はいつもより深く愛し合いましょうね……♪」
俺の大好きな閣下。
愛してやまない貴方。
───お願いだから、俺を捨てないで。
終
…凪砂をコントロールしているように見えてその実、茨の口からは本心しか出ていない。
しかし大仰な言い方だったりどこか演技めいた話し方なのは蛇の悪魔であるが故。
心から凪砂を尊敬し愛している。
依存すらしているのです。…