小さな主人と暗紅の執事─────
「……♪」
広大な屋敷にあるだだっ広い庭園の、その片隅。
毎日使用人が手入れをしている花壇で、小さな背中がしゃがんで夢中で土をいじる。
傍目に見ても高級そうな衣服や装飾でその身を飾りながら、それをお構いなしに土や埃まみれにして。
そして夢中になるその背後に、一つの影がかぶさる。
「───見つけましたよ、凪砂様」
すらりとした体躯を燕尾服に身を包み、美しい暗紅の髪と端正な顔立ち。
きらりと眼鏡を光らせ、小さな背中に声をかけた。
凪砂、と呼ばれた彼が振り返る。
呼び方からして分かるように、凪砂はこの屋敷に住まう当主──の、息子だ。
柔らかな銀の髪が日光によりきらきら眩い。
ゆるく片側で結ばれた髪にまで土をつけ、声の主を見ると手を止めた。
「……ん、茨。遅かったね」
茨。そう呼ばれた暗紅の髪の彼は、凪砂専属の執事だ。
ぽんぽん、と土を元のかたちに慣らし、雑に顔を服の裾で拭いながら凪砂が立ち上がる。
「遅かったね、ではありませんよ。ああ、またこんなに汚れて…」
立ち上がった凪砂の姿を見て、茨はすぐさま衣服の土を払ってやったり、顔をハンカチで拭う。
髪にも櫛を通してやり、少しは落ちてマシ、になった凪砂を抱き上げる。
「すぐお風呂に入ってもらいますからね」
「……うん。茨が、洗ってくれるでしょう?」
「もちろんです。徹底的に綺麗にしてあげますよ」
茨の言葉に凪砂は笑う。
嬉しい、と首に抱き着き擦り寄ってみると、凪砂より大きい手がそっと頭を撫でてくれた。
「……この服。あまり、好きじゃない…」
「窮屈なのは我慢してください。これから旦那様とのお夕食なんです、きちんとしないと」
綺麗に頭のてっぺんからつま先まで茨に洗われた凪砂に、皺一つないシャツを着せて一番上までボタンを閉めると、いつも顔を顰める。
ボタンを外そうとする手を制し、紺のネクタイを締めた。
スラックスも穿かせ、靴下、最後に靴。
髪も結い直してやれば、先程の土まみれな姿とは打って変わって、まるで人形のように愛らしく美しい。
誰もが見惚れるその容姿に、満足げに微笑んだ茨。
「出来ました。完璧です」
「……ありがとう。私、どう?」
「とてもお似合いです。格好良いですよ」
「……そう」
茨の言葉に、凪砂も微笑む。
結われた髪を少しいじり、目の前に立つ茨を見上げた。
「……じゃあ、茨。はい」
そう告げる凪砂の、歳のわりには形のよく長い指が『下』を指す。
それを見た茨は何を言うでもなく、当然のように凪砂の前に跪いた。
「……いい子」
頬へ手を添えて、顔を上げさせる。
うっすら赤く染まる頬に凪砂が軽く口付けた。
そして、そのまま茨の唇に重なる。
「───っ……」
何度も啄むようにしたり、離れずに重ねていたり、舌で唇をなぞったり。
覚えたばかりの動きで、ただこうするのが楽しいという主人の戯れに付き合っているだけだというのに。
凪砂にされるまま。じっと瞳に見つめられ、止むまで口付けを受けていると、茨の足からは不思議と力が抜けてしまう。
「あっ……。申し訳、ございません…」
「……ふふ。かわいい。かわいいね、私の茨」
「からかうのは、おやめください」
こうなるとずっと可愛い、可愛いと言い続ける凪砂。
心底愛おしいといわんばかりの表情で、美しい色の瞳で茨を見つめる。
その仕草がくすぐったい。
つい目を逸らさずにはいられない。
「……茨からも、触れてほしい」
「それは、出来ません」
凪砂の口からぽつりとこぼれた言葉。
すかさず返すと、少し寂しげな顔が見えた。
「……分かってる」
主人と、専属とはいえ一介の使用人である茨。
こんなことをしているのが、屋敷の人間や当主に見つかりでもしたらどうなるか。
詳しく言わずともお互いそれを理解しているが故に、『これは凪砂の我儘。戯れでしていたこと』で片付けられるために。
茨は、この時凪砂へ一切触れない。
触れては、ならない。
それを分かっていても求めてしまうのは、子供なりに茨へ抱く淡い想いの表れ。
「……ごめんね」
ちゅ、ともう一度頬へ口付けたところで凪砂が離れた。
「……うん、満足。行こう、茨」
「はい」
凪砂の言葉にスッと立ち上がり、先を行く主人の背を茨は見つめ、彼に聞こえないように呟いた。
「───もう、…やめさせないと」
全てあふれてしまう前に。
自分で止められなくなる前に。
どうしても離してくれないから、こちらから手を離さないといけない。
…まだ戻れる、今のうちに。
終