瀬を早み「コンミス、俺と一緒に京都に行かないか?」
もうすぐ夏休み。そんなときに鷲上くんが言った一言に私は思わず手にしていた紙を落としそうになる。
思いもしない人物から思いもしない言葉を言われるとそうなるだろう。ましてや、今、私が交際しているのが浮葉さんともなればなおさら。
「鷲上、何言ってるんだ!」
「へぇ、面白い」
「横恋慕だなんて、鷲上さんやるな~」
その場にいるスタオケのメンバーが口々に好き勝手話す。
「言葉足らずだったな。申し訳ない」
そう言って鷲上くんは私の目を真っ直ぐ見つめる。
その真摯な眼差しを見ていると、ここにはいない想い人が彼の身を案じ、そしてスタオケに加入するように仕向けたのかわかるような気がする。
「俺は京都の大学に進学するつもりだ。
そしてコンミス、君が浮葉様と懇意なのも知っている。あの方は今、東京で生活をされているが、いずれ京都にお戻りになられるであろう」
少し前から3年生の間で話題にしている進路の話。
既に竜崎くんは決めていたけど、音楽の道に本格的に進むことを決意した朔夜や三上くん、違う形だけど自分の歩むべき道を見つけた赤羽くんや鷲上くん。
少しずつみんな自分の道を見つけている。
そして、その実現に向けて、去年の3年生の姿はそんな悩める現3年生の私たちのいいお手本だ。
そんな中、私は正直悩んでいた。
現実的に考えれば星奏学院大学に進学するのが確実だろう。
だけど、スタオケがいろいろな学校の生徒が集まり、それでお互いの演奏に磨きが掛かったように、私自身も星奏以外の学校に進みさまざまなことを吸収するという選択肢もあった。
「今は堂本もいるが、やはり浮葉様にとって君の存在は相方の存在以上に大きいかと思う。もちろん俺よりも。
それに京都という街で得られるものもある。
幸い京都でも音楽を学ぶことができるから、高校卒業後は京都に行ってもいいのではないだろうか」
鷲上くんが話してくれた思いもよらない選択肢。
全くといっていいほど考えていなかった京都に住むという選択肢。
だけど、急にそれが現実のものとして近づくのを感じた。
数日後、「少し時間が取れましたので」。
そんな連絡とともに浮葉さんと会うことにした。
場所は目黒。春は桜並木が連なり人で混雑するエリアだけど、それ以外の時期はそんなに人通りもなく、私たちは人目を意識することなく会うことができる。
会って間もなく鷲上くんから言われたことを浮葉さんに話す。
「おや、源一郎がそんなことを。面白いことを言うものですね」
目を丸くしている様子からすると、浮葉さんにしてみても思いもよらないことだったのだろう。
すると浮葉さんは私を見つめてきた。
「そうですね。私は御門家当主としていずれ京都に戻るつもりです。
ですが、唯さん、あなたがこの地に留まるには早いと思うのです」
それはまるで私が京都に来るのを拒んでいるようにも受け取れた。
だけど、浮葉さんの眼差しは優しい。
「私たちは幾度の別れを経たけど、そのたびに再会したでしょう?」
そう言われて私は浮葉さんと出会ってから今日までのことを思い出す。
何度あったかわからない別れ。そして、同じ数だけの再会。
そのたびに私たちの絆は深くなり、そして互いの大切さと自分の中にある愛しいという感情を意識した。
「私は京都という街も、そこにある御門の家も大好きです。だからこそ、あなたが帰ってくる場所がいずれは京都であり、それが御門の家になることを願わずにはいられません」
さりげなく話すけど、それがとんでもなくすごい意味なのは気のせいだろうか。
でも浮葉さんは顔色ひとつ変えず続ける。
「だからこそ、あなたは今しかできないことをしていただきたいのです。これこそ、私が今、リーガルでいろいろ学んでいるように」
その言葉を聞いて私はすっと何かが落ちた感覚になる。
ここ数日、ずっと手にしていたのは進路希望調査票。
最初は星奏学院大学と書いたものの、鷲上くんの言葉を受けて消した。
だからといって京都の学校を書く勇気も湧かずにいた。
でも、浮葉さんの言葉で決意することができた。
やはり星奏学院大学に進もうと。
ずっと入ることを望んでいた学院。
高校は残念ながら音楽科とは縁がなかったけれど、あの学院だからこそ幅広い勉強ができ、広い世界を見ることができた。
おそらく私らしい大学生活を送ることができるのは、やはり星奏だろう。
まだまだ浮葉さんとは離れて暮らす日々が続きそうだけど、大丈夫。今もこうして限られた時間でも会っているように、互いへの信頼があれば気持ちは重なり続ける。
すると、浮葉さんが川を眺めながら一人言のように呟いた。
「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」
あいにく教養がないため、和歌の意味はわからない。
だけど、その力強い内容はまるで私たちを現しているかのように思えた。