断たれた夢路の先に「御門浮葉か……」
コンサートホールのこけら落とし公演のため、京都に着いたのはつい先ほど。
ホテルのチェックインまで時間があるため、ホールのまわりで観光をしていたところ、優美でありながらどことなく儚さを持つ人と出会った朝日奈唯は心ここにあらずといった様子であった。
ホテルに戻り、銀河たちにその一連の出来事を伝えると、あっけないほどそのときの人物が誰であるか特定された。
銀河はひとりの人物の名を呟く。その声は記憶の糸をたどっているかのようにも感じる。
「みかど、うきは、さん……?」
先ほど別れた人の姿を思い浮かべる。
そこはかとなく漂う高貴さ、一方で儚い雰囲気。
名は体を表すというが、彼の名はこれ以上ないというくらい彼にふさわしかった。上品であり、それでありながらどこかに消えていきそう。
一方で、その名前に聞き覚えがあるような気がする。
記憶の蓋を開け中を探る唯に、銀河は面白がるように話す。
「お、忘れちまったのか。あんなに浮葉くん、浮葉くんうるさかったのに」
うきはくん……
幼い頃の唯の言葉を真似る銀河を見て思い出した。
そうだ、確かに自分はあの人に会ったことがある。
そして、そのときも彼に心惹かれた。
恋というにはまだ早い。だけど、確実にあのときは心の大半を占めていた。そんな相手。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
全国小中学生ジュニアオーケストラ。
月城慧の父親の意向で結成され、全国各地から集まった子どもたちの中からオーディションで選ばれた将来有望なものたちが参加するオーケストラで、1週間の強化合宿を行い、その成果発表の場として最終日に演奏会を開くのが通例であった。
演奏会が行われるのがクラシック音楽に携わるものにとっての憧れの場所でもあるSホールということもあり、どちらかというと子ども達よりも親の方が熱が入っていることが多かった。
唯ももちろんヴァイオリンを演奏していて楽しいこともあったが、その頃は親や習っている先生の意思に従うことも多い少女であった。オーケストラへの参加も両親の熱烈な勧めであり、オーディションも母親に手を引かれながら向かうこととなったのだ。
「きんちょうするな……」
オーディション会場の控え室でヴァイオリンケースを開けた唯は思わずそんな言葉を口にしてしまう。
人前での演奏は何回もある。これこそ練習の成果を披露する発表会であったり、腕前を競うコンクールであったり。
しかし、オーディションとなればそれらとは違う緊張感が自分の中に漂う。
先ほど母親から掛けられた「いつも通りに弾けば大丈夫よ」という言葉を何度も繰り返すが、やはり弓を握る手が汗だらけになるのは止められない。
するとそのとき、後ろから声を掛けられた。
「緊張しているのですか?」
見ればそこにいたのは唯と身長はさほど変わらず、色白な少年であった。
ただ、その整った美貌に唯は思わず息を呑んでしまう。
また髪はその年の男子にしては珍しく結ぶくらい長いため、一瞬女の子かと思ったくらいであった。
ただ、声変わりはまだしていないものの声の低さや、手のゴツゴツした感じなどは彼が少年であることを示していた。
自分ごときが話しかけていいものか迷いつつも、彼から向けられる視線の優しさにつられてつい本音を言ってしまう。
「ええ」
文字にするとたった二文字。
だけど、言葉にすることで唯は少しではあるものの気が楽になるのを感じる。
「そうですか。僕もです」
先程から見せる年相応とは言いがたい落ち着きからは信じられなかった。
彼はむしろ会場の空気すら味方にしそうな感じがしたから。
だけど、その言葉を聞いて安心したのも事実。唯は自然と笑顔になるのを感じた。
すると、どこからか係員の声が聞こえてきた。
「御門浮葉さーん」
目の前の少年の名前だろうか。彼は係員の方に視線を向けて応答する。
そして、
「では、またお会いしましょう」
それだけを言い残すと彼は先にオーディション会場へと向かっていった。
そのときの言葉に力をもらったのだろうか。
唯はオーディション会場で緊張することなく実力を発揮できたと自分でも感じた。
そして、オーケストラの練習会場で例の彼-御門浮葉と再会したのだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「午前中の練習はこれで終わり! さあ、メシの時間だぞー!」
その年の全国小中学生ジュニアオーケストラの指揮者を務めたのは一ノ瀬銀河。
練習中は真剣だが、休み時間に入るときは子どもたち以上に楽しむ姿が印象的だった。
そして、唯自身、知っているものがいるため、安心してオーケストラに参加することができるのも事実。
そして、安心できる理由はもうひとつ。
「うきはくん、ごはん、いっしょにたべてもいい?」
「ええ、いいですよ」
ヴァイオリンパートは大所帯であるが、他のものたちはきょうだいや友達同士で参加していることも多く、唯はそこになじめずにいた。彼女が唯一自分から話しかけられるのは、オーディション会場で出会った浮葉くらいしかいなかった。そのため、つい頼ってしまう。
そして、浮葉も唯のことを何かと気にかけてくれているのか、イヤな顔はしてこなかった。
「お前ら楽器違うのに、しかも弦楽器と木管なのに、仲良いよな」
銀河の冷やかしとも取れる言葉が唯にはくすぐったく感じる。
「ええ、そうですね。唯さんはとてもまっすぐなかたですから、一緒にいて心地良いです」
年に似合わない落ち着きで浮葉はそう返す。
自分と一学年しか変わらないのに、大人びた様子が眩しい反面、離れがたい気持ちもある。
そして、そんな感じで唯は浮葉と一緒に過ごし、いつしかその夏に一番心を占める人となっていた。
そして、演奏会も終わり、オーケストラの解散を迎えたその日。
浮葉も母親と思われる人とともに会場から去っていくことになった。
-もう会えなくなる。
そう思ったものの、まだ幼かった唯には連絡先を交換するという発想も生まれず、小さくなっていく浮葉の姿をおとなしく見るしかなかった。
ただ。
「うきはくん!」
緊張している中、なんとか声を振り絞り名前を呼んでいた。
その声は届いたのだろう。
去っていったはずの浮葉が戻ってきて、そして頭に手をポンと置きながらそっとつぶやいてきた。
「音楽を道を歩んでいれば、また再会できますよ」
確かに一緒に過ごす夏はここで終わる。
だけど、今は道が別れたとしても、また音楽を続けていればどこかで会える。
そんな気がしていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
元旦。
菩提樹寮では正月に親元で過ごさなかったものたちが簡単ではあるが、新年を祝っていた。
年賀状も届いており、みんなでわいわい騒ぎながら宛名ごとに分ける。
すると唯のもとに一通の封書が紛れていることに気がつく。
筆跡に見覚えはないが、流れるように筆で名を記してくるものと言えば限られてくる。
一刻も封を開けるため、唯は適当に理由をつけて自室に戻ることにした。
差出人を見ると、予想通りというべきか、御門浮葉の名。
住所は京都の邸と思われるもの。
新年の挨拶と、スタオケが日本代表に選ばれたことへの祝辞。
それらが浮葉らしい端的な言葉で綴られている。
そして、一枚の写真が同封されていることに唯は気がつく。
「京都の屋敷に戻ったら懐かしいものを見つけましたので」
手紙にはそう書かれていた。
そこに写っていたのは幼い頃の唯と浮葉の姿。
唯は屈託のない笑みを、浮葉も今ほど儚げな印象はなく少しの笑顔がこぼれていた。
唯はまだ音楽の楽しさも苦しさも知らなかった頃。それとは対照的に浮葉はおそらく今よりも楽しく音を奏でていた頃。
「音楽を道を歩んでいれば、また巡り合える日が来るかと思います」
最後にそう添えられていた。
「傲慢だよね……」
思わずそう呟いてしまう。
そう、京都では浮葉が選ぶ立場にあった。逆に言えば唯は彼と源一郎がスターライトオーケストラに入るかどうかを決めるのを待つしかなかった。
そして、それは今も変わりない。
グランツはスタオケに敗北したにも関わらず、浮葉はまだ自分は選べる立場にあると思っている。そして、唯自身もそのことを認めている。
決してとらえることのできない、まるで雲のような人。
永遠にその日は来ないのかもしれない。
だけど、心の中で望んでしまう。
彼と一緒に演奏ができるその日のことを。
「せめて彼に頼らないで済むコンミスになろう」
思わずそう呟いてしまう。
幼い頃のあの日は、ひたすらうきはくんうきはくん言いながら、彼に頼りっぱなしだった。
そして、京都でも彼が加入してくれれば力強いと頼ってしまう自分がどこかにいた。
だけど、そんな自分は去年で終わり。
今年からはひとりで立ち、彼に頼らないような人になりたい。
演奏家としても、ひとりの人間としても。
カーテンを開けると、新年の太陽の光が唯の目に差し込んできて眩しかった。
まるでそれは唯の誓いに呼応しているかのようだった。