カノン~東京の冬会いたい。
自分には似合わぬ感情を抱えて御門浮葉が電車に乗り込んだのは、グランツの練習を終えた後。
全体練習で合わせた「未完成」。クラリネットのソロが重要なこの曲において指摘事項がなかったわけではない。
その修正は早めに取り組んだ方がいいこともわかっている。そして、今の自分では短時間でそれに応じられることも。
しかし、グランツの整っているがゆえの演奏に物足りなさを感じてしまうのも事実。平たく言えば、つまらない。
満たされているゆえに不足しているものが何であるか探したかった。
…もっともそう口実を作っているだけで自分の本心はわかっている。
夏の太陽の日差しを思い出させるような彼女をひと目見たいのだと。
「私としたことが」
思わずそんな言葉が口から漏れてしまう。
京都とは異なる東京の乾いた風。グランツの演奏もそれに似たところがある。
今欲しいのは自分には縁遠い湿っぽさを含む浜風。
姿を見ることは叶わなくても彼女が日頃過ごしている空気を感じとりたい。それだけの想いで電車に揺られる。
途中で乗り換えをし、空いている席に無事座ることができた。
楽器を丁寧に膝の上に乗せれば、あとは目的地まで特にすることもない。遠心力がかかった特急は心地よさよりも不安さが大きいが、それでも身体は眠りを欲していたらしい。
気がつくと瞼がふたつの眼に覆い被さっていた。
寒い。そして、騒がしい気配がする。
もしかすると電車は終点の目的地までたどり着いたのかもしれない。
そう思いながらも疲労に襲われた身体を奮い立たせ瞼を持ち上げる。
ぼんやりする眼差しであたりを見回したところやはり終点、そして彼女が通う高校の最寄駅にたどり着いたらしい。
乗客のほとんどは電車から降り、そして今度は始発駅となったため、大量の乗客が乗り込もうとしていた。
楽器を落とさないようにしながら乗客をかき分け電車から降りる。
そして、長いエスカレーターを昇って地上に出る。
改札口付近は想定していたよりもこじんまりとしていた。
日差しはすっかり落ちているが、すぐ近くにあるショッピングストリートは光に溢れている。
…彼女も学校帰りや休みの日にここをあるいたのだろうか。
そんな自分には似つかわしくない考えが無意識に脳裏によぎる。
彼女の音色を切り捨てたのは自分。
それなのに今さらその音に恋い焦がれている。
自分の身勝手さにあきれ果てたそのとき、浮葉の耳に聞き覚えのある音色が飛び込んできた。
近くはない。だけど、たどれば必ずめぐりあえる場所にある。
懐かしく、そしてどこか荒削りのあるヴァイオリン。
威勢のあるヴィオラ。
包み込むような優しさを持つチェロ。
…それから安定感のあるオーボエ。
この音色が集まっている集団はひとつしか思い浮かばない。
彼にしては珍しく小走りともいうべき早さで音の出所を求め始めた。
そして、奇遇、いや、奇跡と呼ぶしかないであろう。
自分が会いたいと焦がれていた女性の姿を見つけることができた。
ショッピングストリートのちょうど真ん中に位置するのであろう。
十字路になった場所の中心でまるで天に向かって響かせるような演奏している。
その様子は冬の寒さも物ともせず、神々しさすら感じる。
曲はハッペルベルのカノン。本来はヴァイオリン3本とヴィオラ、チェロで演奏する曲であるが、ヴァイオリンの代わりにオーボエが演奏するように編曲されていた。その自然な編曲に思わず耳をすませてしまう。
そして目に入るのは足元には彼女のトレードマークともいうべき黄色のヴァイオリンケース。開かれた状態で置かれており、そこにチラシが立て掛けられていた。おそらくスタオケの次の演奏会の案内。
あいにく遠目のため日程ははっきりと見えないが、今夜の路上ライブはその宣伝も兼ねているのだろう。
以前よりも落ち着き、自信に満ちた様子で彼女ー唯はヴァイオリンを奏でていた。
やはり本選を勝ち抜いたことが自信につながったのだろうか。そして、そこまでに至る過程で得た経験も。
そんな彼女を支える竜崎疾風と成宮智治の姿も相変わらずであるが、自分が知っている姿より頼もしく見える。
本選のときもスターライトオーケストラのメンバーを遠目で見かけることがあったが、自分が離れてから新たなメンバーも入ったのであろう。以前、九条朔夜がいた場所に今日は見知らぬ男性が立っている。
そして、特筆すべきは彼らと一緒にいる源一郎の姿であった。
「素晴らしい仲間に恵まれたようだね」
いつか舞台に立てる日を夢見て御門の家で練習を積み重ねてきた日々。
やはり実戦は何よりも経験につながるのだろう。
別れの時には予想もしなかった伸びやかな、それでいてしっかりとした音程の音色が飛び出してくる。
気がつけば最後まで演奏に聞き惚れていた。
彼らに見つかるかもしれないという警戒心すらなくして。
やがて竜崎疾風が帰ろうとする客にチラシを配り始めるのが見える。
彼らに見つからないようにするため、こっそりとその場から立ち去る。
だけど、様子が気になり、遠くから思わず見守ってしまう。
唯もチラシを配っていたが、それが一段落するとヴァイオリンを片付けながら自分の見知らぬメンバーの男性へと話しかける。
「仁科さんのヴァイオリン、やっぱり安定感がありますね」
仁科と呼ばれた男はまんざらでもないと言った様子でその言葉に笑みを向けている。
彼が唯に抱いている感情がどのような種類のものであるかこれだけでは判断できない。
ただわかるのは、それが自分に向けられないことになぜか心が引き裂かれるような想いがする。そう、今さらながらと知りながらも。
その感情に気がつかない振りをしていると、仁科は源一郎にも話しかける。
「源一郎くんもお疲れ様。ほんと、君は演奏はもちろんだけどチューニングも頼りになるよ」
「ありがとうございます」
源一郎もスタオケに馴染んでいるのだろう。
他のメンバーと過ごしているときの表情は自分には見せなかった種類のもの。
あのとき、無理矢理の形ではあるが彼を自分のもとから飛び立たせたのは正解だったのだろう。
音も表情もそのことを示している。
だからこそ自分のもとで彼を成長させることの出来なかった歯がゆさを感じる。これも今さらの感情であるが。
「何かを見つけ出せていないのは私だけか……」
駅に向かいながら浮葉はそんなことを呟いてしまう。
よくいえば穏やか、悪くいえばぬるま湯の中に浸かって満足しきっている成長が止まった演奏。
そう判断を下したのは自分。
だからこそ、求められるがままグランツに加入することにした。
だけど、自分が訣別したあとの彼らに何があったのであろう。
本選のときも伸びやかさを持ちながらもオーケストラとしてのまとまりに優れていた。
グランツはほんの一瞬の事故があったとはいえ、それがなくても勝てたのか正直疑わしいくらいだ。
それに比べて自分は彼らと出会ってからの数ヶ月に得たものはあるのだろうか。
思わずそんなことを考えてしまう。
京都から行くことを考えると、東京から横浜は電車で簡単に行けるとはいえ、高校生が夜出歩くことを考えると決して短い時間とは言えない。
「彼女に会いたいと思ってここまで来たのに… 何も得られないなんて愚かですね」
そこまで言って気がつく。
以前の自分はそこまでの情熱を持ち合わせていたのかと。
そして、他者に激しい感情を持つことも。
「やはり、私も変わっていたかもしれませんね」
気がつかなかっただけで。
そうしたのは何人もの存在のおかげ。
そして、すべてのきっかけとなったのはあの秋の彼女との出会い。
自分に欠けているもの、満たされないもの、そう思っていたものが何であるか気がつく。
そして、それを無意識に得ていたことも。
どこか満足した気持ちを抱えながら浮葉は帰りの電車に飛び乗る。ただし胸に小さな痛みを抱えながら。
「お、練習帰りに慌てて飛び出したかと思いきや、随分遅い帰りだな」
東京で拠点としているマンションに帰ると、そこで待ち構えていたのはひとりの男。
今は一番乗り会いたくない存在。
おそらく向こうもそれをわかっていながら待ち構えているあたりがイヤらしいと思う。
「わざわざ待っていなくても構わないのに。連絡なら携帯電話もあるでしょう」
そう冷たく言い放ち、玄関を開けようとしたそのとき、堂本が手に持っていたものを目線の高さまで持ち上げる。
「ほら、差し入れだ。まだ食ってないだろ?」
手にしているのはビニール袋。そして、そこからチラリと見えるのはタッパー。
「カレーさ。たまに作りたくなるけど、ひとりじゃ食いきれないもんでね」
その言葉は半分本当で半分嘘だと思う。
一箱からできるカレーは8食とか10食だという。
もちろんその半分の量を作ることも可能だ。
成長期で健康状態に問題ない彼ならその日は無理でも翌日に分ければ食べきれるであろう。
それをわざわざ分けたというのは彼なりの気遣いなのだろうか。
「そうですか。では、ありがたくいただきます」
実際、彼の料理は一見粗野な外見からは想像もつかないくらい繊細だったのを思い出す。
それは音色にも表れていると実感したことも。
「では、お返しといっては何ですが、こちらをどうぞ」
そう言いながら帰りに駅前で見かけ思わず立ち寄った店で買ってきた品物を渡す。
彼女ほどではないものの、彼も新しい自分の一面を切り開いたことには変わりないから。そして、だからこそ今日の行動につながった部分もある。
「へぇ、横浜ね……」
含みを持たせた言い方。
どこまで察したのかはわからない。
ただ、彼のことだ。「誰が」目的かはわかっているだろう。
「社長からの伝言だ。明日は9時スタジオ入り。遅れるなよ」
それだけ言い残して堂本は立ち去っていく。
部屋に入り、浮葉はカレーを食べる。
やはり、あの男の外見からは想像つかない優しい味が口の中に広がる。
そして、思わず呟いてしまう。
「あなたの成長に負けていられませんね……」
人は望んでもいないにも関わらず変わらざるを得ないときがある。
おそらく今がその瞬間なのだろう。
そして、彼女もそのときを過ごしているのかもしれない。
秋の京都で感じた淡い気持ち。
そして、先ほど意識してしまった自分の中に眠っていた情熱。
これからもどんどん変わっていくに違いない。そして、その変化がどのように向かっていくのか今は想像つかない。
「ただ、もし縁(えにし)があるのであれば…」
その先に彼女ともう一度交わる運命が巡ってほしい。
そう思いながら浮葉は最後のカレーを口にした。