首筋に秘められた真実「別れよう」
桐ケ谷さんから紡がれるその言葉を、自分に向けられたものだとはすぐに認識することはできず、私は口を開いてポカーンとしていた。
「どうして……」
やっとのことで口から言葉が出てくるけど、声は掠れていた。
「理由は言えねー」
悔しさ、とでも言うのだろうか。やりきれない想いがこもった口調で桐ケ谷さんはそう言う。視線は私に向けず。
「ただ、あんたは俺が思っていたような人間ではなかったんだな」
私をチラッと見たかと思えば、そう自嘲的な笑みをこぼす。
詳しいことは何一つわからないけれど、ただ彼が落ち込んでいる。それだけは伝わってきた。
桐ケ谷さんは私に失望している。
それは確かなこと。
問題は何に失望したか。
それが私にはわからなかった。
「くるみ割りの入りを間違えたから?」
今、スタオケでは2週間後のクリスマスコンサートに向けての練習が行われている。
それは小さな子どもたちを対象にしたもの。
そのため、クラシックに詳しくない人でも聞いたことあるような曲を中心としたプログラムになっている。
最初に演奏するのはくるみ割り人形の行進曲。
誰もが耳にしたことがあり、軽快なリズムは子どもたちの心をつかみやすいだろうという意見で決められた。
そしてその曲で最初に音を出すのはトランペット。桐ケ谷さんを中心にしたまとまりあるリズムは毎回聞き惚れてしまう。
…だけど、今日は聞き惚れすぎてしまい、なんと、そのあとに自分たちファーストヴァイオリンが入るということをすっかり忘れてしまった。
私がザッツを出すのを忘れてしまったため、私と一緒に入りそこねた人、独自の判断で勝手に入った人、戸惑いながら若干遅れて入った人など、十人以上いるファーストヴァイオリンが見事にバラバラになり、銀河先生は苦笑しながら指揮を止めた。
もっとも銀河先生は笑っていたけど、後ろで練習の光景を見守っていた篠森先生は氷のような眼差しで私を見ていて、私は背筋が凍るような思いをしたのだけど。
「そんなんじゃねー。心当たりがないということは、あんたにとってはそれくらい大したことないってことだよな……」
そう言って桐ケ谷さんは背中を向けて去っていく。
あとに残された私は理由がわからず茫然とするしかない。
少なくともコンミスとしての実力不足で呆れられたとかではなさそうだ。
でも、だとすれば桐ケ谷さんがあんな態度を取る理由がわからない。
もし何か誤解されたのであれば、いつか誤解が解けるのを待つしかない。
……でも、その日は来るのだろうか。
しょんぼりとしながら私は菩提樹寮の自室に戻り、ベッドでうつ伏せになって寝てしまった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
次の日の練習。
銀河先生がいったん止めて気になった点を各パートに指摘してくる。
ファーストヴァイオリンも高音では音程が崩れやすくなると注意され、そのことを隣の席の朔夜が譜面に書き込んでいく。
すると、隣の朔夜が私と目が合ったのかと思えば、急に視線を反らす。
「朔夜、どうしたの?」
そう言うと、彼はひとり言のように呟く。
「いや、すまない。俺の見間違えだった」
そう言って銀河先生に指摘されたことをさらっと練習する。まるで何かを誤魔化すかのように。
そして、すぐに全体での合わせは再開され、私は朔夜が何を気にしていたのかわからずじまいだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
翌週。
「報道部の並川と申します」
星奏学院の報道部が運用するサイトでスタオケの活動を紹介したいとの申し出があり、コンサートミストレスである私は取材対応をすることとなった。
普通科の私がコンミスを務めるから、きっと興味本位の記事にするのだろうと勝手に思い込んでいた。
だけど、実際はスタオケ発展の経緯や今までの活動内容、これから目指すものなどについて丁寧に聴いてくれ、私は安心して自分の気持ちを話すことができた。
だけど、やはりそれだけだと閲覧数を稼げないと思ったのだろう。
最後の質問と言って、目の前の彼女はこんな質問をしてきた。
「朝日奈さんには、スタオケのメンバーであり、他校に通っていらっしゃる方とお付き合いされているとうかがっているのですが……」
……やっぱり知っている人は知っていたのか。
頭の中に浮かぶのは先週別れを切り出された桐ケ谷さんのこと。
単位交換制度を利用していることもあり、星奏学院でも彼のことを知っている人は多い。そして、学院には珍しいタイプの生徒であるため、直接話しかけることはなくても、影で人気があることも知っている。
「それが別れてしまって…」
情報を嗅ぎ付けるのがうまいであろう報道部の人にこう話すのは気がひける。本当は何か真実をつかんでいて、そのために私の口から話させようとしている可能性もありうるから。
だけど、報道部の並川さんは意外そうに私の顔を見つめてきた。
「そうなんですか?」
そして、ペンを持った右手で私の首筋を指してくる。
「そんな、はっきりと見えるところにキスマークをつけているのに」
え!?
ドキッとしながら私は自分の首筋を見ようとする。だけど、当たり前なことに場所が場所だから見ることは叶わない。
確かに桐ケ谷さんとは一度だけキスしたことはある。
菩提樹寮で私たちふたりしかいない日に、こっそりと庭の木の影でした。
誰かに見られたらどうしようとハラハラしながら、近づいてくる桐ケ谷さんの顔に見とれていたのを覚えている。
もっとも、『恥ずかしいから、目を閉じてくれ……』そう掠れた声で囁かれたから、私は目を閉じて触れてくる唇の感触をドキドキながら受け止めたのだけど。
だけど、こんな首筋に痕が残るようなキスは見覚えがない……
すると、ひとつのことの心当たりを思い出す。
「あ、これは… その……」
ヴァイオリン弾きには一定数できる痣。
エンドピンが当たり、長時間の練習により消えない痣となったもの。
決して卑猥なものではなく、むしろ練習を真面目にしている誇り。
ただ、場所が場所だからどうしてもキスマークと間違えられやすいし、現に今までも何人かの人に突っ込まれたことはある。
「それだけ朝日奈さんは練習に取り組んでいらっしゃるということですね」
一通り説明すると感心したような声が目の前の女性から漏れてくる。
みんながみんなこうだといいのだけど……
そう思っていると取材は終わり、私は黄色のヴァイオリンケースを背負って学院を出る。
コンサートまであと1週間。まだまだ自分にはできそうなことがあるから、菩提樹寮の練習室で詰めたかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「コンミス、お疲れ様」
「よかったな。子どもたち、みんな楽しそうだったぜ」
クリスマスコンサート終了後、舞台袖で早速団員たちからねぎらいの言葉をもらう。
ただ私が気にしてしまうのは赤い髪で、トランペットを持った人-桐ケ谷さん。
別れを切り出されてから2週間経ったけど、桐ケ谷さんとは直接話をすることはなかった。
ただ、今日もくるみ割り人形の行進曲のトランペットはまとまっていて、子どもたちの目を輝かせたものとしていた。
「桐ケ谷さん、お疲れ様です」
控え室に向かおうとする彼にぎこちなくそう言うと、桐ケ谷さんも「ああ、あんたもお疲れ様」と返してくる。ただそれはいつも明るく挨拶してきた彼にしては珍しく、何かバツの悪そうな顔をしていた。
「このあとのレセプション、あんたも参加するだろ?」
その言葉に頷くと桐ケ谷さんは言葉を続ける。
「その前に話したいことがあるんだ。いいか?」
待ち合わせとしたのは、ホールからほんの少し離れたジャズ喫茶。今までも何度も足を運んだところ。桐ケ谷さんに別れを切り出されたことで来ることはないと思っていたから、ここに来るのは予想外の出来事だった。
「俺、あんたのことを誤解していた」
テーブルの上に置かれたコーヒーの湯気が立つのを見つめていると桐ケ谷さんが神妙な面持ちでそう話してきた。
「誤解、ですか?」
何のことだろう?
そう思っていると、彼は私の首筋を指差す。
「首にあるその痣、ヴァイオリン弾きの特徴なんだってな」
この間も取材のときに誤解された首筋の痣。
私にとっては慣れ親しんだものだけど、何も知らない人にとってはキスマークと間違えてもおかしくないもの。
「俺の知らないところで、他の男ともそんなことしているのかって思っちまって……」
どう話していいのか戸惑っているのだろう。
桐ケ谷さんが頭をポリポリ掻きながらボソボソと呟く。
その言葉を聞いて私は2週間前の桐ケ谷さんの言葉を思い出す。
彼はきっと、私が桐ケ谷さん以外の人ともつき合っていると誤解したのだろう。そう考えると納得するものがある。
「私は桐ケ谷さんだけですよ」
「だよな…… 悪かった、早とちりして、悲しませてしまって」
本当に申し訳なさそうにする彼がかわいくて、私はこの2週間の悲しみはどこかへ行き、また彼と一緒に過ごせるようになるのが嬉しかった。
コンミスがレセプションに遅れるのはよくないということで、喫茶店はすぐに出て、すっかり寒くなった横浜の街を歩く。
街のあちこちにクリスマスのイルミネーションが灯され、そんな中、大好きな人と歩いているという事実がより一層心を軽くする。
一本の大きなもみの木の下で桐ケ谷さんが足を止める。そして、私もつられて彼の隣に立つ。
素敵な装飾が施されているものの、表通りから離れた場所にあるせいか、私たちの他に足を止めている人はいない。
「なあ、いいか?」
それが何を言わんとしているのか何となく察し、私は頷く。
すると、柔らかい彼の唇がそっと自分の唇に重なるのを感じる。
それが震えているのは寒さのせいだけではないだろう。
「木を隠すには森からって言葉もあるよな……」
そう言ったかと思うと、私のマフラーをそっと外し、唇を首筋に落とす。そして、吸引力を感じ、うっとりしてしまう。
「ちょ、こんな見えるところに……!!」
わざとヴァイオリンでできた痣の上にキスしているに違いない。そうすれば、キスマークが隠されてしまうから。
私の反論が心からのものではないと悟ったのか、もう一回首筋にキスを落としてくる。今度は長く丁寧に。
「ほんとはもっとすごいこともしたいけど……」
その言葉の意味にドキリとしているの、唇が離れていくのを感じる。
「でも、あんたのことは大切だから…… だから、そういうことはもう少し大人になってからしたいんだ」
最後に私を見つめ、そう言ってくる。
その瞳の奥に欲望とそれを抑える制御が入り混じっているのが見え、一瞬ドキリとする。
そしてあらためて思う。この人と出会うことができ、つき合うことができてよかったと。さらに言えばこれからもずっと隣にいてほしい、と。
首筋だけではなく、他の人からは見えない秘めた場所にキスの嵐が降り注がれるのは、それから1年とちょっとしてからの高校卒業してからの話。