残り香の代わりに菩提樹寮に射し込む光は暖かさよりもむしろ暑さすら感じられる4月。
始業式を数日後に控えた唯は日差しに誘われるように楽器を背負いながら外の空気を吸うことにした。
こんな天気のいい日は部屋にこもっていてはもったいない。もっと自然の息吹が感じられるような場所で演奏をしたいと思ったから。
自然と足が向いた先は港が見える丘公園。
高い場所に位置するため風が通り抜けていき、日差しを近くに感じられるこの場所が唯は気に入っていた。難点はたどり着くまでにキツい坂を登ることであるが、ここから見える景色がそのことを帳消しにする。
坂を登り終え、港を見下ろすことのできる場所に近づいたそのとき、唯の耳に聞き覚えのある音が入ってくる。
もしかして、この音色は……
「御門さん!」
走り出した先にいたのは御門の姿であった。
去年、一時だけ唯と演奏をともにし、そこで縁は切れたかと思ったが、その後も不思議と巡り合わせのある者。
「おや……」
唯の訪れに気づいたらしい。
御門は楽器を吹くのをいったんやめ、唯に視線を向けてくる。
「本日はこの近くで撮影がありまして、早めに終わりましたので、こちらに足を運びました」
そう言われて見ると、以前彼が着ていた服とは異なるテイストの服を着ているような気がする。
そう、以前は清楚とすら感じられたのが、今日は大胆という表現がふさわしいくらいには。
「あなたにお会いできたらという気持ちがどこかにありましたが、本当にお会いできるとは……」
伏し目がちにそう言われ、唯はドキリとするのを感じる。
昨年、京都で過ごしたときにはなかなか本心を見せてくれず、近寄らせてもくれなかった相手。
存在が気になりつつも、淡い想いで終わるとすら思わせた人。
だけど、このような言葉を掛けられると、つい意識してしまう。
このままだと彼に惹かれる気持ちを抑えられなくなりそうなので、唯は別のことに意識を向ける。
「私も一緒に弾いていいですか?」
「もちろんですとも」
御門が快諾したことで安心し、唯は楽器ケースを開き、演奏の準備を始める。
それにしても。黒橡で活動している影響なのだろうか。
以前の彼はもう少し透明感のある音色だった気がするが、そこに憂いとその中で光を求めて凛と輝く音色が入り混ざったものに変化したように感じる。
どきりとして彼の方を向くと、以前見た制服姿と異なる姿に一瞬ドキリとする。
肌の露出を極力抑えた詰め襟の姿を見てきたため、ボタンが開いている白いシャツの間からは肌がチラチラと見える様子に目が慣れない。
そういえば、彼と初めて出会った頃は既に秋の終わりを告げる頃であったため、私服姿もストールを羽織っていたことも思い出す。
あの頃は彼を取り巻く環境が変化していくのを目の当たりにしていてそれどころではなかったし、端麗な顔立ちに目を奪われ、他のところに意識が向かなかったのもある。
だけど、あらためて意識すると、シャツの下にはそれなりの筋肉がついていることがわかり、彼が男性であるということを思い知る。
視線をどこに向けていいのかわからず楽器を見ると、今度は作りがしっかりとした大きな手がそこにはあった。
以前は見せることのなかった男性らしい面をまざまざと見せつけられ、唯は胸が高鳴るのを抑えることができない。
「おや……」
御門の演奏が止まったかと思いきや、唯の頭に御門の頭が載せられる。
やはり女性とは違う大きい手が一瞬頭に触れる。
すると、彼が見せてきたのは、花びら。淡いピンクの色をした。
「花びらに彩られたあなたも美しいですが……」
そう言いながら目線をこちらに向けてくる。
「今のあなたに近づくものは、桜にすら嫉妬してしまいますね」
紫色の瞳が唯の姿をとらえ、術を掛けられたかのように唯は動くことができない。
「私のことも少し意識していただければ……」
端正な顔が近づき、直視できずに思わず目を閉じるとほんのりと香りが漂ってくる。
記憶が正しければそうこれは伽羅の香り。
そして、次の瞬間、布越しに筋肉質の身体を感じとる。先ほどよりも伽羅の香りが強くなり、目を開かなくてもこの力強い腕が誰のものか唯は理解する。
一方で思い当たる人物がこのようなことをすることが信じられず、顔を上げるとそこには既に浮葉の姿はなかった。
唯は狐につままれた気持ちになる。
あれは桜による幻覚だったのだろうか、と。
そして、彼が見せてきた態度と言葉はそのまま受け取っていいのだろうか、と。
そう思って楽器を片付けようとした唯はひとつのことに気づく。楽器ケースの上に花びらがひとつ置かれていることに。それらまるで残り香のようだった。