夢の残り香「夢だったのか……」
朝、寮の自室で目を覚ました唯はそう呟く。
カーテンからは朝の光が漏れており、今日という一日が始まることを容赦なく教えてくれる。
御門の誕生日であった昨日はたまたまと言っていいのだろうか。グランツ交響楽団のメンバーの手引きもあり、彼と「偶然」会うことができた。
誕生日プレゼントとして渡したのはグランツのメンバーはもちろん、スタオケでも彼のことを知っているものたちからの寄せ書き。
ふたつの楽団を行き来しつつ、御門に知られないように準備する時間は至福のひとときであったのを唯は思い出す。もっとも個人的な贈り物をできる立場でないことが歯がゆかったが。
そして、御門を待っている間、現在スタオケで練習している曲が愛をテーマとしたものであり、解釈を深められないかと恋人たちの観察をして、より一層悩みが深くなったのも記憶に新しい。
それを見かねたのだろうか。ノノが魔法をかけてくれ、夢の中とはいえ、御門と恋人として過ごすことができた。そう、それは奇跡としか言えない状況で。
日頃、何を考えているのかいまいち掴めない御門であったが、時折見せる仕草やくちびるから零れる言葉はとても甘く、夢であるとわかっていながらも舞い上がるような幸せな時間であった。
一方、いくつか自分の教養ではわかりかねる箇所があったため、スマホで調べる。
すると、勘違いでなければ直接的な表現よりも激しく愛を伝えていると思われる内容で、唯は思わずスマホを落としそうになったりもした。
だけど……
「所詮夢、だもんね……」
どんなに幸せな時間を過ごしても所詮夢。
現実ではグランツの協力がなければ彼に会うことすら容易ではないし、ましてや彼が自分に想いを寄せてくるのは夢のまた夢。実際は自分が御門に対して一方的に熱を上げているだけに過ぎなかった。
「はぁ……」
状況を思い知って唯は溜め息を吐く。
こんな思いをするくらいなら夢なんて見なければよかったとすら思う。
だけど、たとえ夢でも彼と恋人として過ごすことができた時間を思い出すと切ない気持ちももちろんあるが、暖かい気持ちにもなる。
当分の間はこれを糧に生きていこう。
そう思いながら唯は身支度を整え、スタオケの練習へ向かうこととした。
その日の練習はいつもと何か様子がおかしかった。
会う人会う人が自分に何か言いたげにしており、中でもトランペットを担当している常陽工業学校の刑部と桐ケ谷は遠目から何か面白がっているようにすら感じた。
顔に何かついているのだろうか。
そう思って休憩時間にトイレで鏡を見に行くが、特に変わった様子はなかった。
「うん、『愛』の解釈が深まっているから、演奏に迷いがなくなったな。いい感じだ」
その後も唯は自分に向けられる視線を感じつつも、練習を続ける。
もっとも練習自体は大きなトラブルもなく、全体練習終了後に銀河がそう言ったのを聞いて唯は安心する。
昨日はあんなにわからなくなっていた愛の解釈であったが、たとえ現実ではない幻のものであっても、御門と過ごした時間は自分の中で経験として生きていたのかもしれない。
それが嬉しいことなのか寂しいことなのか、今は判断できないが。
そして唯が譜面を片付けようとすると、その日一日隣にいた朔夜が話しかけてきた。
「朝日奈.....」
その声は気まずそうで、その続きを話してもいいのか迷っているようにすら感じる。
「何?」
そう問いかけると朔夜は目線をそらして、口ごもる。
「いや、いい」
そして、楽器を片付け始める。
彼が言いたいのは何だろう。
そう思いながら彼を見続ける唯に対し、今度は仁科が話し掛けてきた。
「コンミス、 もしかしてだけど、御門くんに会った?」
「ええ」
夢の中で過ごした時間が濃厚でそっちき記憶が引っ張られてしまうが、短時間ではあったが確かに御門には会っている。
唯が笑みを見せたことで仁科は何かを察したのだろうか。ニコッと笑って唯に話し掛ける。
「仲が良いのはよいことだけど、御門くんに伝えておいて。残り香には気をつけて」 と。
「え……」
確かに昨日、御門には会っているが、ともに過ごした時間も距離も考えると、自分に香りが移るとは到底思えない。
心当たりあるのは夢の中の出来事。自分たちの境界線がなくなるかのように、彼自身の香りを自分に移るように身体を寄せてきたことを思い出し、つい頬が赤くなってしまう。
もっとも唯が見ていた夢のことなど知らない仁科は都合よく勘違いしているのか、「御門くんによろしく~」、それだけを告げて去っていく。
寮への帰り道、あらためて思う。
あれは本当に夢だったのだろうか……と。
夢にしては記憶が濃厚で、そして香りは現実味のあるものだった、と。
すると、唯の目の前に1台の黒い車が停まる。
中から出てきたのは昨日会い、そして夢の中でともに過ごし、今日一日考えていた相手。
「昨日はありがとうございました。ちょっと不思議な夢を見まして…… 気になったものですから、会いに来ました」