それは突然のことだった。
いったんステージを終え、アンコールに向けて皆が慌ただしく準備を始める中、突如バターンという大きな物音が舞台袖に響き渡った。
誰もが忙しく動かしていた手を止めて音のする方向を見遣ると、そこにあったのは蹲る人の姿。
冷たい床に座り込み膝を抱えたまま動かない燐音に、スタッフの一人が慌てて駆け寄り額に手を当てる。
「酷い熱…」
思わず呟くスタッフに他のメンバーたちも駆け寄るが、燐音は顔も上げない。どうやら高熱と疲労でふらつき、尻餅をついたまま立ち上がれないようだ。頭を打っていないだけマシではあるものの、人前では常に気を張っている燐音がこうも弱りきった姿を晒すのは余程のことである。
「…アンコールは中止にしましょう」
HiMERUが有無を言わせぬ声でそう言うのも無理もないことだった。
倒れたまま立ち上がれないほど具合の悪い人間が数曲とはいえ人前でパフォーマンスをこなせるわけがない。皆がHiMERUの意見に同意し、アンコールを待ち侘びる観客たちにどのようにアナウンスするか話し合おうとしたとき、無言のまま座り込んでいた燐音が顔を上げた。
「……いやだ」
「天城」
「できる、俺できます。だから、アンコールはやらせてくれ」
「燐音はん、無理したらあかんよ。そないに具合悪くてステージ上がれるわけないやんか」
「ちょっとふらついただけっしょ。大したことじゃない」
「天城、駄々をこねないでください。これが最後のライブというわけではないのです。これからもアイドルを続けるつもりなら今日は諦めなさい」
顔を上げた燐音の頬は燃えるように赤く、目も充血し潤んでいる。息も荒い。それでも燐音は絶対に出ると言い続けた。
自分達にとっては最後のライブでなくとも、ここにきたファンの中にはきっとこのライブで最後という者もいるのだ。そうでなくともファンは皆特別な思いを抱いて金と時間をかけてここにいる。そんな彼ら彼女らをこんなことでガッカリさせたくない。自分の体調の悪さもHiMERUの言っていることも理解している。だが燐音はどうしても諦めることができなかった。
「気持ちはわかりますが…」
「頼む…出させてくれ……」
「でも、」
『みんなー!ちょりーっす!』
なかなか諦めない燐音をなんとか説得しようと口を開いたこはくは、突然ステージから聞こえてきた声に驚き口をつぐんだ。
どうやらこのやりとりをずっと黙って聞いていたニキが、いきなりステージに上がったらしい。
割れんばかりの歓声と拍手を一身に受けてステージに立つニキはいたっていつも通りの笑みを浮かべている。
『僕っていつもみんながアンコールしてくれてるときご飯食べてるんすよ。僕お腹空いたらダメになっちゃうんで仕方ないんすけど、それが毎回なんかちょっと申し訳なくてね。だから今日はこのアンコールの時間にみんなと一緒にご飯食べようと思ってたくさん持ってきたっす!』
両手いっぱいに食べ物を抱えて呑気に話しだすニキに、当然ながらステージ裏では誰もが唖然としていた。
アンコールは中止だというのに、まるで時間稼ぎでもするかのようなニキの奇行に、スタッフたちも困惑の表情を浮かべている。
そんな中今すぐやめさせようとするスタッフを静止したのはHiMERUだった。
「…すみません。どなたか即効性の解熱剤と酸素を。身体を冷やせるタオルや冷却シートもありったけお願いします」
「HiMERU…」
「椎名が繋いでくれているうちになんとかしてください。ステージに上がってもなるべく動き回らないでくださいね。倒れられたら大変なので」
HiMERUは苦い顔で、アンコールで着る特別仕様のライブTシャツに腕を通す。
「…恩に着る」
「このあとどうなっても知りませんよ。やると言ったのは天城なのですから、HiMERUは責任取りません」
「HiMERUはん、ええの?」
「ダメと言って聞く人間ではないでしょう」
「……せやね。わしも準備せな」
俄に慌ただしくなる舞台裏。額に冷却シートを貼り、スタッフにうちわで仰がれながら必死に酸素を吸入する燐音をちらりと見て、こはくはなぜか目尻に滲んできた涙を乱暴に拭った。
◆ ◆ ◆
ステージでファンに見守られながら携行食を食べ続けるニキは、舞台裏の喧騒を毛ほども感じさせないいつもの陽気な笑顔で最近あったメンバーとの出来事を客席に向かって話している。
『そうそう!こないだなんて燐音くんが酷いんすよ!僕が食堂でバイトしてる時に…』
そうこうしているうちに大量にあった食糧もついに底をつき、ニキは初めて舞台袖に一瞬目をやった。そして──
『待たせたなァ!おめェら!!!』
『大変お待たせいたしました』
『みんな!待っててくれておおきに!』
颯爽と現れた3人を、観客たちが大歓声で迎える。
『もぉ!みんな遅いっすよぉ!待ちくたびれたっす!』
『ニキきゅんがいきなり勝手な真似しやがったからだろォが!!』
『んぎゃ!痛いっす!!!』
いつも通りのやりとりだった。燐音がニキの首に腕を回し締め上げる。痛い痛いと叫ぶニキに、マイクを切った燐音が耳打ちしていたことに気づいたファンは誰もいなかった。
「アンコは最初と最後の2曲だけになった。とりあえず流れは周りに合わせてくれ」
「了解っす」
◆ ◆ ◆
時間的には通常のライブよりも少なくはあったものの、その分いつも以上にファンサービスに徹した甲斐もあり、ファンの満足度は概ね高かったようだ。
中でもアンコール中のニキの行動は多くのファンを喜ばせたという。
「今日のニキくん、アンコールの時しょっちゅう燐音のとこ肩組みに行っててかわいかった!」
「いつも燐音くんから行く方が多いから貴重だよね!アンコールの前も一人で出てきてくれてたし、いつもよりテンション上がってたのかな?」
最後の挨拶まで完璧にやり遂げて笑顔でステージを後にした燐音は、舞台袖に着いた途端意識を失い、ライブ会場の裏手にひっそりと待機していた救急車ですぐに病院へと運ばれていった。
◆ ◆ ◆
「ニキ、ありがとな」
後日、すっかり元気になった燐音はニキと共にニキのアパートにいた。
ここ最近はライブの準備で共に忙しく、なかなか二人きりになれることがなかったため、本当に久しぶりの逢瀬である。甘い交歓を終えた二人はのんびりとピロートークを楽しんでいたが、話の流れは自然とあの日のライブへと進んでいく。
「…あのままアンコールできなかったら燐音くん凹むっしょ。燐音くんが凹んでると僕ご飯を美味しく食べられなくなっちゃうんすよ。それって僕にとっては死活問題じゃないっすか。だからこれは僕のためっす」
ニキにもあの時の行動が正しいことであったのかは分からない。結果的にライブは成功し、燐音も一日入院するだけですんだものの、ニキが無理をさせたせいで、体調が悪化して長期入院になってしまっていたかもしれない。あるいは大勢の観客の前で倒れたり、ふらついてステージから転落する危険性だってあった。副所長である茨にも散々言われたが、かなり短絡的で危険な考え方だったと思う。ここで燐音を説得するのが、相棒であり恋人でもある自分の役目だったのかもしれない。
それでもニキはステージに上がった。
動かない身体を押して必死にステージに立とうとする燐音を見て、居ても立っても居られなくなったのだ。
立ちたくてもステージに立てず苦しい思いをする燐音をずっと見てきたニキには、やっと叶えた夢の舞台を諦めさせることがどうしてもできなかった。
そう、これはまごうことなきニキのエゴだった。
「うん、それでもありがとう」
申し訳なさげに俯くニキに、燐音は穏やかに笑う。
俺の勝利の女神様。お前が信じてくれるから俺はステージに立てるんだよ。
燐音はありったけの感謝の気持ちを込めて、愛しい恋人の唇に口づけを落とした。