※本文は今後加筆修正する可能性があります。
幼い頃、風船を膨らませるのが苦手だった。たんに肺活量がなかったのか、それとも吹き込み方に難があったのかは定かでない。年端もいかない少年にしては比較的なんでもこなしていた我が子に意外な弱点があることが嬉しかったのか、父親が珍しく気が抜けたように笑っていたのを憶えている。ビリーは風船が苦手なんだな。いまにして思えば、あれは自分のせいで子供らしからぬ子供で在ることを強いてしまったと後ろめたく思う父が、ほんの一瞬でもビリーの『子供らしさ』を垣間見たことへの安堵だった。ただそれを、つい額面通りに受け取ってしまったことで猛練習の末に克服してしまったのだけれど。
薄くてあまい膜を体外に膨張させるその行為は、まるで息吹を吸い取られているようだと思う。風船を膨らませることも、それを模した菓子に命を吹き込むことも。いつしかまばたきの如く容易なものとなった。ほんとうは、幼い頃とは違う理由で風船が苦手なのは変わらないのだけれど、直接口をつけて息吹をとじこめずとも膨らませられる方法を手に入れた。つまらない大人になろうとしていることは自覚している。
「——すごい、どうして勝手に膨らむの?」
「どうしてだろうネ? オイラのマジックにはタネも仕掛けもありまセン」
昼下がりのリトルイタリー。鴇色のガムを膨らませながら歩くパトロール中のヒーローを捕まえたのは、焦茶の髪を耳元でふたつに結った幼き少女だった。ビリーの脇腹にも満たないちいさな身長の少女は、いまにも転がり落ちてしまいそうな瞳で天を見上げ脚に抱きついてきたのだ。ヒーローのお兄ちゃんにお願いがあるの。そう言った彼女の手には、色とりどりの萎んだゴムの入った袋が握られていた。きっとそう多くはない、けれど彼女にとっては大金を代価に手に入れたのであろうことがひしひしと伝わってくる。
「すごい、ほんとうにすごいわ。わたし、このあいだ空気入れを壊しちゃって……でもお小遣いが足りなくて買えなかったの」
「ふっふっふ、これくらいお安い御用だヨ」
ビリーがひとつ風船を膨らませるたび、少女は跳ねるようによろこんだ。すべての風船に紐をつけ、細っこい、けれどやわらかい掌に紐を握らせる。頭上に浮かぶたくさんの風船を地に繋ぎ止める彼女はご満悦だったけれど、なんだかそのまま飛んでいってしまいそうでおもわずビリーは苦笑した。
「ありがとう、ヒーローのお兄ちゃん」
「どういたしまして! それにしても、そんなにたくさんの風船どうするの?」
しゃがみ込んだ先、ほんのわずか上にある彼女の瞳。それが蜂蜜のような色をしていることは視線を合わせてから知った。ビリーのゴーグルに、屈託のない笑顔が降って来る。少女はくつくつと笑った。
「あのね、いまからオリビアのバースデーパーティーがあるの! オリビアは風船がとってもすきだから、たくさんの風船でお部屋をかざりつけしようと思って」
「へえ、お友達が誕生日なんだ! それはきっと喜んでくれるヨ」
街角、広い交差点の隅でヒーローと和気藹々と過ごす少女の姿を微笑ましがるように、通りすがりの人々がゆるやかな笑みをこぼしていく。
「オリビアはリゼのいちばんの友だちなの。プリスクールのときからずっと一緒にいるのよ。オリビアはとってもかわいくて、とってもやさしい子なの! だからわたし、オリビアのバースデーには世界中で一番しあわせになってほしい」
「ナルホド……リゼは、そのオリビアって子が大好きなんだネ」
名をリゼというらしい少女は、それはもう花が綻ぶように、草木がそよ風に踊るように笑った。うん、だいすきだよ。そう告げたリゼのまなざしは、ゴーグル越しでもひどくあざやかで、そして眩しかった。このまぶしさをビリーは知っている。いまは、心の奥底にそうっとしまいこんでいるだけで。
「お兄ちゃんもいるでしょ? だいすきなお友だち」
「え?」
「リゼはね、たくさんすきなお友だちがいるけど……だいすきなのはオリビアだけなの。たまーにけんかしちゃったりするけど、オリビアと遊ぶのがいちばんたのしいから! お勉強がむつかしくて学校に行きたくない日も、オリビアがいるからがんばろうって思えるんだよ」
「……」
向日葵色をしたリゼの声が、たしかにビリーの鼓膜を震わせ脳へ染み込んでくる。ちいさなこどもの手に内側から心臓を握られた心地がした。
「お兄ちゃんも。そういうすてきなお友だち、いるでしょ?」
残酷なまでに純粋で無垢なことばたち。鈍い刃となってビリーの肌の奥を撫でる。心地よくもむず痒く、そして——とてつもなく狂おしくなる。
「……うん。いるよ」
「ふふ、そうなの! お兄ちゃんのお友だちはどんなひと?」
「夜、かな」
「よる?」
ビリーのことばをそのまま反芻するように、ちいさな唇を突き出させてリゼは首を傾げた。
「夜が来ないと朝は来ないデショ? 深くて、優しくて、さびしくて、あったかくて……オイラの友だちはそういう、夜みたいなひと」
——ビリーくん。たった五文字のことばに、何度も何度も朝焼けに近いものを感じた。ありがとうだとかごめんねだとか、そういう何も特別じゃないことでさえ。彼の唇や瞳からこぼされるものが泣きたくなるほど特別だった。
「よる……リゼにはよくわかんない」
「ふふ、リゼがもうすこし大きくなったらわかるヨ」
さらさらと額にかかる少女の前髪を撫でつけてやれば、唇を尖らせながらもぎこちなく頷いてくれる。
「でも、」
「うん?」
「お兄ちゃんが、そのお友だちのことを大好きってのはわかった」
同じような微笑みを咄嗟に返すことができたかどうか自信がなかった。ほんの一瞬だけでも、ゴーグルの奥にとじこめたものを露わにしてしまった気がしてならなかった。それでも。きっとそのことばを欲しているのはビリー自身なのだろうな、と心の深いところで思いながら、みずからを納得させるように小さく何度も頷く。
「そうだネ……大好きだよ」
まるで自分のことのように喜び跳ねる少女を眺めて、ビリーは思い立った風を装って立ち上がる。そろそろ行かなくていいの、と時計を指し示せば、彼女は慌てたように一番の友だちのもとへと駆けてゆく。
「ありがとう! ヒーローのお兄ちゃん!」
たくさんの風船を握るほうとは逆の手を精一杯振り、そして数メートル先に待つ夫婦の姿を捉えると、リゼは足取り軽く夫婦の足元へ抱きついた。あくまで迷子ではなかったらしいことを悟って、ビリーも振り返る。
ほんのすこし東に傾いだ影。これから街は朱に染まり、西の空へ溶けてゆき、そうして、夜がやってくる。
「……」
スラックスのポケットに指先を忍ばせれば、すぐに硬い何かに行きあたった。極彩色の包装紙につつまれたキャンディをじっと見下ろす。ショートケーキ味のそれをもう一度ポケットに押し込んで、反対側からガムを取り出した。いまのビリーには薄味くらいがちょうどよかった。込み上げる何かごと噛み潰し、広げて伸ばす。まだ快晴の青空の下を歩き出しながら、ビリーはガムに命を吹き込んだ。グレイが目を覚まさなくなってから一か月が経っていた。
(本文冒頭より抜粋)