それは、ほんのちょっとした事故だった。
勤務終了後にトレーニングルームを予約していたセイジは、上がり時間が同じだったニコをスパーリングに誘っていた。久しぶりに二人きりで手合わせができるということもあり、気合いが入っていたのはセイジだけではない。ある程度体を温め終えた二人は、休憩を挟むこともなく、実践を交えたトレーニングをかれこれ一時間は行っていた。
いくらトレーニングルームの空調が効いていたとしても、激しく動けば汗は止まらない。ニコからの攻撃を避けようと体を捻ったところで、セイジは床に溜まり始めていた汗に足を取られた。
「うわっ」
「セイジ!」
思わず間の抜けた声がセイジの口から出る。咄嗟にニコがセイジを支えようと手を掴んだが、重力に逆らうことはできなかった。セイジの背中には蠢く影がクッションのように現れたため、背中を強打することだけは避けられた。しかし、ニコの体の重みはなんの隔たりもなく胸で受け止めたため「うっ」という声が漏れ出る。
「ごめん。セイジ、大丈夫?」
「……」
むくりと起き上がったニコは、心配そうに眉を下げながらセイジを見下ろした。セイジは「大丈夫」と返そうとしたが、その言葉は生唾と共に飲み込まれてしまった。
自分の腰に跨り汗で額にまとわりついた前髪をかきあげたニコの姿が、セイジの何かを刺激したのだ。長時間に渡る運動のせいで火照った頬やら、戦闘中に見せる本能的な光をわずかばかりに残した黄金の瞳やらが、どうしようもなく扇情的に見える。
「セイジ?」
ぼんやりとした目でなんの反応も示さないセイジを心配したのだろう。ニコはその体勢のまま前屈みになると、セイジの額に手をやった。じっとりとした湿り気と熱を持ったその手に、セイジはハッとして目を見開いた。
「え、あ……ごめん!」
「もしかして、頭打った?」
「ううん、大丈夫!」
「本当に?」
ニコはいくらか疑うような目をしながらも、ようやくセイジの上から立ち退いた。そして、セイジに手を差し伸べ立ち上がらせる。
「医務室なら連れて行く」
「ううん、本当に大丈夫だよ。影が緩衝材になってたから」
「でも、ぼーっとしてた」
「それは……」
じっと見つめてくるニコの目から逃げるように、セイジは視線を逸らした。
──まさか、押し倒されたみたいに見えてドキドキしたなんて言えるわけがない。
今までだって、トレーニング中にもつれて転ぶなんてことはいくらでもあった。でもそれは恋人になる前の話だ。今の二人は付き合っており、ただの仲間や友人の枠で収まる関係ではないのだ。
付き合って数ヶ月が経っているものの、キス以上のことはしたことがない。同じベッドで朝を迎えたことはあるものの、その実際は添い寝をしただけの至って健全なお付き合いだ。
好きな相手と肌を重ねてみたいという欲がないわけでない。セイジは純粋そうだよな、とかつて友人に言われたこともある。しかしそれは見た目の話であり、必ずしも中身と一致するものではない。セイジとて成人男性であり、性欲が皆無だと思われるのは心外だ。
だが、対するニコはどうなのだろうか──というのが目下のセイジの悩みだった。今の関係性に不満があるわけではないし、人間の三大欲求が食欲に全振りしていそうな恋人に己の浅ましい欲を打ち明けるのはかなりの勇気を要する。
ぐるぐると考え込んでしまったものの、セイジはいつも通りの笑顔を作った。
「さすがに休憩なしで動き続けてたから、ちょっと疲れが出始めてただけだよ。それにもう部屋の使用時間が終わっちゃう」
時計に目をやりながら、セイジは仕切り直すように明るい声を出した。
「……そう?」
セイジはそうそう!と返事をしながらトレーニングルームの後片付けを始めた。ニコもそれに倣い手を動かす。その間に、二人はスパーリングの反省点や、今夜のご飯の話をした。どこか上の空だったのはセイジだけではなかったのだが、それを知るのはまだもう少し先の話。