庵53『俳優になるのを諦めた僕が、なぜか人気俳優の付き人をやることになった話』② 寿司の出前が到着したのは、家に入って五分後のことだった。
どうやら、ここに着くまでの間に、スマホから注文を入れていたらしい。ジャストタイミングだ。
「飲み物はなににする? 悪いけど、ジュースの類いは置いてないんだけど」
「……水道水でも、なんでもいいです」
ドラマに出てくるような広々したリビングのローテーブルに、小さめの丸い桶に入った一人前の寿司が二つ並べられている。
なんで僕、ここにいるんだっけ、という気分になった。
「お酒は飲めるかな?」
「……あんまりアルコールがきつくないやつなら」
「そう。じゃあ、軽めの白ワインにしておこうか」
ワインなんて、今まで一口ぐらいしか飲んだことがない。不安になってきた。でも、彼が選んでくれたものを断るわけにもいかない。
「どうして、床に座ってるんだい?」
テーブルの前でガチガチに緊張しながら正座しているシンジを見て、ワインの瓶とグラスを持ってきたカヲルが首を傾げる。
「すすすすみません! 家ではいつも、床に座って食べてるので!」
ソファはすぐ後ろにある。
しかし、何百万円するんだろうという革張りのソファに腰掛けることも、ソファに座りながら食べるのも気が引けて、床に座ってしまったのである。
「じゃあ僕も床に座ろうかな」
「えっ!? あああの、お気になさらず……!」
「たまにはこういうのもいいね」
彼が腰をおろしたのは、向かい側ではなくシンジの隣である。距離がとても、近い。
緊張感が増して、ますます寿司を食べるどころではなくなる。
「そんなに緊張しないで。僕のことは気軽に、カヲルと呼び捨てにしてくれ」
「む、無理ですぅ……!」
畏れ多いにもほどがある。同じ空気を吸っていると思うだけで卒倒するファンがいるほどの大スターなのだ。
「シンジくんは、寿司のネタは何が好きかな?」
対するカヲルは、物凄くフランクに話しかけてくる。テレビで見ていた時はもっと近寄りがたい印象があったので、ギャップに戸惑う。
「あ、あの……イクラが……」
「ふふ。そうなんだね。可愛いな」
イクラといえば、子供が好きな寿司ネタの代表である。子供っぽいと思われたかもしれないと考えると、かあぁぁぁ、と顔が赤くなる。
「……渚さん、は……なにが好きなんですか?」
こういうのは聞き返すのが礼儀だろうと思って、シンジも勇気を振り絞って聞いてみる。
「特にこれというのはないけど、貝類がわりと好きかな」
「意外、ですね……」
「食感がおもしろいからね。あとは、脂っぽいのはあまり好きではないから」
「……なるほど」
ファンが聞いたら、明日から貝系の寿司が馬鹿売れするんだろうなぁ、と思いつつシンジは頷く。
「さぁ食べて。新鮮なうちに食べるのが一番だよ」
「ありがとうございます。いただきます」
最初に手をつけたのはイクラ……ではなく、大トロだった。そこらへんの寿司屋では絶対に拝めないような艶があるのに、ついそそられてしまったのである。
「お、おいしい……!」
口の中で一瞬でとろける食感に感動した。
「そう? 僕のもあげようか」
「い、いえ……大丈夫です」
「食べなよ」
カヲルが箸で掴んで醤油までつけられた大トロを、口元に差し出される。
さっきから思っていたことだけど、この人、控えめに見えてけっこう強引だ。
「いいんですか?」
「脂っぽいのはあまり好きではないと言ったはずだよ」
「そういうことなら……」
口をあけたら、そのまま口に押し込まれてきた。
「お、おいひいれしゅ……ありがとうございましゅ」
もごもごしながら感謝の気持ちを伝えると、彼は小動物を見るような目で微笑んだ。
「君はとても餌付けのしがいがありそうだね」
どういう意味だろう。困惑している間に、カヲルはその箸のまま、海老を自分の口に入れている。
「あの、箸、汚しちゃってすみません!」
さっき食べさせてもらった時に、少しだけ口が触れてしまったはずだ。
「ああ、大丈夫だよ。それより、ワインも飲んでみてくれ。寿司に合いそうなのを選んだんだ」
薄いガラスでできたグラスを、シンジはおそるおそる手に取る。
「……いただきます」
そっと一口だけ飲んだら、想像していたよりもアルコールっぽさが薄くて驚く。
続いて、今度はちゃんと味わえるぐらい口に含んでみた。
「ワインって、もっと飲みにくい印象がありました」
「ワインにもいろいろあるからね。僕も、勧められるままにいろいろ飲んでいるだけだけど、一緒に食べる食事との相性を考えるとおもしろいよ。シンジくんは、普段はなにを飲んでいるんだい?」
「僕は、恥ずかしながら、缶チューハイぐらいしか……」
「僕はそっちはあまり詳しくないんだ。よかったら今度お勧めを教えてくれ」
「ええ……?」
缶チューハイを缶のまま煽る渚カヲルを思わず想像してしまう。絶対、似合わない。
「そのうち、缶チューハイのCMの仕事がくるかもしれないしね」
「あはは、渚さんがCMをやったら、格安の缶チューハイに高級なイメージがつきそうです」
こうしていると、意外と話しやすい人だ。それにおもしろい。
「缶チューハイのイメージを変えるいい機会になるかもしれないよ」
「確かに」
少しずつだが、気分がほぐれてきた。
一杯目をあっという間に飲み終えてしまうと、カヲルがすぐに二杯目をついでくれる。
「すみません」
「かまわないよ。いつも一人で飲んでいるから、久しぶりに人と飲めて楽しいんだ。ゆっくりしていって」
「……渚さんて、本物の恋人はいないんですか?」
「いたら即刻記者会見を開いて、あんなつまらないスキャンダルはひねり潰しているところだったよ」
「やっぱり女優さんってプライド高いから、自分よりも顔が綺麗な男の人を隣に置くのは嫌がるんですかね」
渚カヲルがモテることは間違いないだろうが、彼はどちらかというと観賞用の美形だ。遠巻きに眺めているだけでいい、というファンも多い。
「君は?」
「え?」
「君は、自分よりも顔のいい男はお好みじゃないかな?」
隣を見たら、予想よりも顔が近くてドキリとする。
底の見えない赤い瞳が、じっとシンジの顔を覗き込んでいた。
色っぽい表情に、まるで口説かれているような錯覚に陥る。
「な、渚さんの顔は好きです……」
「そう? 嬉しいよ」
「でも、あの、綺麗すぎて緊張しちゃうので、そんなに見ないでください……」
直接見返すのが耐えきれずに俯くと、彼はクスクス笑いながら顔を引っ込めてくれた。
「すまない。食事の途中だったね」
緊張感をまぎらわせようと、いつもより勢いよく酒をあおったのが間違いだったらしい。
寿司の桶を空にして、デザートのアイスを食べ終わる頃には、白ワインの瓶もほとんど空になっていた。
「母さんの名前を出せばそれなりに売れることはわかってたんですが、それだけはしたくなくって……父さんは、アメリカに来いと言ってくれたこともあるんですが、それも結局コネで成り上がるみたいで嫌で……僕ひとりの力でのし上がれることを証明しようとしたんですが、やっぱりダメですね。こんなんじゃどうせ、親のコネで仕事をもらったとしても、出来損ないの七光りにしかなれない……」
すっかり酔っ払ったシンジは、ついつい、今まで誰にも話したことのない身の上話をカヲルにしてしまっていた。
「母親は東宝ミュージカルの元看板女優で、父親は現役のブロードウェイミュージカルのプロデューサー……か。あの社長は、そんなことも知らずに君を下っ端の若手として扱っていたんだね」
「母は十七年前に亡くなりましたし、父もそれからほとんど日本には帰国してないから、日本の芸能関係者とはほとんど疎遠になってましたからね……母の昔の知り合いとたまたま顔を合わせたことはありますが、息子だとは気づかれませんでした。……口止めする必要がなくていいんですけど」
「君はお父さんと離れてずっと日本に?」
「はい。母の親戚のおじさんの家でずっと育ててもらって……でも、僕が高校一年生の時に病気で入院して……亡くなる間際に、母が昔、女優をやっていたことを教えられたんです。役者を目指そうと思ったのは、それがきっかけですね」
「お母さんがかつて見たのと同じ景色を見たいと?」
「いえ……僕はただ、母がかつて脚光を浴びていたのと同じ華やかな世界に立つことで、僕を捨てるようにしてアメリカに渡った父を見返したかっただけなのかもしれません」
喋りすぎている自覚はあった。
相手は数時間前にはじめてまともに言葉を交わしたような人で、ほぼ初対面も同然だ。おまけに、本来ならば目を合わせることすら許されないスターである。
それなのにどうして、胸の内をすべてさらけ出すような真似をしているのだろう。
自分でも理解できない。
多分、酒の力のせいだけではない。
彼にはそういう、人の心の奥深くに大事にしまってある箱の紐をほどく、不思議な力があるような気がしてならなかった。
「大学には行っていないんだったね。役者の道を諦めて、そのあとはどうするつもりだい?」
「そりゃあ、就職するしかないですよね……今まではバイト生活だったんですけど、いつまでもそんなフラフラしているわけにはいかないし……バイト先のスーパーが入っていたビルが先週から改装工事に入っちゃって、新しいバイト先探さなきゃと思ってたんですけど、ちょうどいい機会なんで、やっぱり正社員で雇ってくれるところを探そうと思います」
ふにゃふにゃと笑いながら話すシンジに、カヲルはふむ、と考え込む仕草を見せた。
「ひとまず、月給三十万、週五勤務でどうかな」
「え、なんの話ですか?」
「一日の労働時間は日によっては十時間を越えてしまうかもしれないけど、その分の手当は出すよ。ああ、食事代と住宅費はこちらで完全に負担するから安心して」
「だからなんの……」
「事務所を立ち上げたばかりで人手が足りないんだ。手伝ってくれないかな。あまり楽な仕事ではないかもしれないけど、給料は保証するよ」
カヲルは真顔だった。
どうやら冗談ではないらしいと察したシンジの酔いが次第に醒めていく。
「手伝うって、具体的にはなにを……」
「基本的には、僕の付き人のようなことをしてもらえると助かるな。あとは、手があいていたら、事務作業を頼むかもしれないけど」
「あ、えっと、スーパーで事務職の仕事をやっていたので、伝票処理とか経理関係も多少手伝えるかもしれません」
もともとは食品の品出しのバイトをしていたのだが、事務所の方で欠員が出たとかで、断りきれずにそっちの方に行かされてしまったのである。
「へぇ、頼もしいな。それじゃあ、明日から頼むよ」
物凄くあっさり、就職先が決まってしまった。
じわじわと、信じられないという思いがこみ上げてくる。
「……渚さん、やっぱり酒の席の冗談でした、なんてあとから言わないですよね?」
「言わないよ。君にはできれば役者を続けてもらいたかったけど、君はまだ若い。他の仕事を経験するのも、いい勉強になるだろう。それにほら、あの社長を警察に売ったのが僕だとバラさないように、監視しておく必要もあるしね」
クスクス笑いながらカヲルは答える。
「だから、絶対に口外しませんって」
「君を信用していないわけではないけど、彼の背後についていた暴力団に睨まれたら面倒だ。しばらくは僕の元で、おとなしくしているといい」
さて、と呟いて立ち上がると、カヲルはすっかり軽くなったワインの瓶とグラスを手にした。
「実は、明日は朝の六時から仕事なんだ。早速だけど、運転手を頼んでもいいかな?」
「六時!?」
時計を見たら、とっくに日付は変わっている。今から風呂に入って寝ることを考えると、そんなにゆっくりしている場合ではなさそうだ。
「撮影の間は、車で寝ててかまわないから」
「……よく考えたら、終電はもう終わってますよね。僕、どうやって帰れば……」
朝から働くのは別にかまわないのだが、シンジの家はここから遠いので、通勤には困る。
「? 君は今日からここに住むんだよ。引っ越し作業が後日になってしまうのは申し訳ないけど、とりあえず必要な着替えはこちらで用意するから心配する必要はない」
「住む!?」
ごく当然のようにさらりと告げられた言葉に、シンジはぎょっとして聞き返す。もはや、アルコールは完全に頭から飛んでいた。
「今日はたまたま仕事が早く終わったけど、撮影が深夜に及ぶことも珍しくはない。一緒に住んだ方がなにかと便利だろう。部屋はいくつかあいている。好きな部屋を選ぶといい」
「…………」
反論する気力もなく呆然としていると、カヲルは空き部屋のみならず、豪邸の中の部屋をすべて、ひとつひとつ見せてくれた。
「……あの、僕はここでいいです」
「そこは物置部屋だからベッドもないよ。隣の客間にしたらどうだい?」
「ここが一番落ち着きそうなので……」
物置部屋といっても、シンジが今まで一人暮らしをしていたワンルームの部屋と同じぐらいの広さがある。
他の部屋はもっと広々としていたので、多分落ち着くのは、この物置部屋ぐらいしかない。
「まあ、ベッドは主寝室のを使えばいいから、それでもいいか」
カヲルは一応納得してくれたようだが、一部、聞き捨てならない言葉が含まれていたのは気のせいだろうか。気のせいであってほしい。
「あの、僕は毛布が一枚あれば、それでじゅうぶんなので……!」
「まあまあ。部屋も決まったことだし、お風呂に行こうか、シンジくん。背中を流してくれるかな?」
「そ、それも付き人の仕事ですか!?」
「ふふ、そういうことにしておこうか」