庵53『俳優になるのを諦めた僕が、なぜか人気俳優の付き人をやることになった話』③「……くん、シンジくん」
なんだかとてもいい夢を見ていた気がする。
最近は先行きの見えない不安から、眠りが浅くなり、夜中に何度も目を覚ましてしまうことが多かったけど、久しぶりにぐっすり眠れたと思う。
しかし、ふわふわといい気持ちで寝ている最中、頬を撫でてくる手があって、シンジはふっと目を覚ました。
ぼやけた視界がクリアになると、とんでもなく美しい顔が目の前にあった。
「シンジくん、気持ちよさそうに寝てるところ悪いけど、そろそろ仕事に行く時間だ。起きられるかい?」
一瞬、ドラマでも見ていたかな、と思ったが、鼓膜に直接響く声はリアルで、現実であることを知る。
「昨日の今日だ。キツいというなら、今日は休みということでかまわないけど、僕は行くから鍵を……」
目の前にいるのは、渚カヲル。
そうだ、昨日、なぜか一緒にお風呂に入ることになり、湯船につかっている最中に急激な眠気に襲われて、カヲルに借りたパジャマをかろうじて自力で着たものの、その後、カヲルのベッドに寝かしつけられてしまったのだ。
「い、行きます! 大丈夫です! 五分で仕度します!」
急に就職することになったとはいえ、初日から寝過ごしている場合ではない。シンジは勢いよく起き上がった。
「いや、十五分ぐらいはあるから、そんなに急がなくても大丈夫だよ。まずは顔を洗っておいで。洗面台の横にある戸棚の中のタオルを適当に使っていいから。君の服も用意したから、これに着替えて」
カヲルはすでに身支度を終え、今すぐ出られる、という状態だった。
「す、すみません!」
カヲルは意外と面倒見がいい。
昨日も、眠気と戦いながらも『渚さんのベッドなんて使えません』と恐縮するシンジを上手いことなだめて、完全に眠るまで背中を撫でてくれていたことを思い出した。
お礼も言わなきゃいけないけど、今は時間がない。
急いで顔を洗いに行くと、カヲルもついてきて、シンジの頭の横あたりをちょいちょいと指先で触った。
「寝癖がついてる。直してあげるからじっとしてて」
「すすすみません! なにからなにまで!」
「僕が楽しくてやっているだけだから気にしないで」
スプレーと櫛で、カヲルはあっという間に、跳ねた毛を直してくれた。これでは、どっちが付き人だかわからない。
「あ、あの……! 僕も渚さんのお役に立てるようがんばります!」
申し訳ないという気持ちは強いけど、俄然、仕事のやる気はわいてきた。
カヲルは嬉しそうに口元を緩めた。
「期待しているよ、碇シンジくん」
期待している――期待しているなんて言葉を人に言われたのは、いつ以来だろう。
妙に浮き足立った気分でなんとか仕度を終え、ガレージに行くと、カヲルは助手席の方に座るよう、シンジを促してきた。
「行きは僕が運転していくよ。帰りは頼むから、道を覚えておいて」
カヲルは運転席に乗り込む。
その一連の仕草だけで、なんてかっこいいんだろう。車のCMでも見ているような気分だ。
「いいんですか?」
「うん。この時間帯なら車通りが少ないしね。運転自体は、別に嫌いではないんだ」
カヲルが気にしているのはひと目につくことだろう。常にマスコミに追われているような人だ。素顔で街を歩くだけで大騒ぎになるし、なにかと気を遣うことが多いのだと察する。
「いつもは、マネージャーさんに運転してもらうことが多いんですか?」
「マネージャーは……一応はいるんだけどね。彼には今、総務関係の仕事を優先してやってもらっているから、最近は一人で動くことが多いよ。運転手は、雇おうと思えば雇えるけど、プライバシーの関係で人選が難しくてね」
慣れた手つきでカヲルはハンドルを捌いて、まだ夜が明けていない道路に出る。
ほう、と思わずシンジはため息をついてしまった。
「僕が運転しているのがおもしろいかい?」
「い、いえ……! すごくかっこいいなぁ、って思って見惚れちゃいました」
「ふふ。君は何をするにもいちいち可愛いね」
「可愛いなんてそんな……」
男に使う言葉ではない。顔も一般人以下だし、彼のまわりにはもっと可愛い人がたくさんいるはずだ。
慣れない賛辞に戸惑って俯くシンジを、カヲルはあたたかい目で見つめてくる。
「可愛いよ。君の魅力は、僕が誰よりも理解している」
「……な、渚さん、やっぱりそういうセリフ、似合いますね」
「セリフではなく、僕自身の言葉なんだけどね。ああそうだ、現場では、僕のことを下の名前で呼んでくれるかな」
「? なんでですか?」
「僕のことを下の名前で呼べるぐらい親しい人間が付き人をやっている、と思わせる方が、なにかと君も立ち回りやすいと思うからね」
「え、と……カヲル様……?」
「なんで『様』? 普通でいいよ」
カヲルはくすくす笑っている。
ファンの多くが彼のことを『カヲル様』と呼んでいるのを知っているので、つい出てきてしまった言葉である。
「じゃあ、カヲルさん……?」
「もっと親しみをこめて」
「か、カヲルくん……?」
さすがに呼び捨てはできない。ここらへんが、ギリギリの妥協点だろう。
「うん、いいね」
納得してくれたらしい。眩しい笑顔を向けられて、シンジは目がくらみそうになる。
「ついでに、敬語もいらないよ」
「いや、それはさすがに……」
カヲルは確かいま、二十九歳ぐらいだったはずだ。年も離れているし、芸歴も大先輩だ。気安くタメ口をきけるような相手ではない。
「僕がいいと言っているんだからいいんだよ。……じゃあこうしようか。僕に敬語で話しかけたら、罰としてそのたびに一回キスをする」
「なに言ってるんですか。そんな……」
ちょうど、赤信号で車が停まった。
直後、唇にやわらかなものが触れてきて、シンジは固まる。
「ほら、今ので一回」
「……………」
(キス? 僕、いまキスされた……?)
「……ひ、ひどいです……! 僕、ファーストキスだったのに……!」
完全にパニックになったシンジは、なにを言っていいのかわからず、ついついそんなことを言い出してしまう。
すると、また敬語を使ってしまったからか、二回目のキスをされた。
「それはすまないことをしたね。でも、君のはじめてをもらえて嬉しいよ」
数多の女性を発狂させてきたであろう美貌で囁かれたシンジは、もはや反論することもできず、真っ赤になるしかなかった。
信号はそこで青に変わる。
こんなところ誰かに見られたら大事になるんじゃ、と思ったけど、幸いにも対向車はいなかった。周囲に人通りもなくてほっとする。
カメラに撮られでもしたら、彼のファンに刺し殺されるかもしれないのだ。
そわそわと落ち着かない様子で座っているシンジに対し、カヲルはいつもと変わらない涼しげな表情でハンドルを握っている。
大人の余裕、というやつを感じた。
よく考えれば、彼は仕事でキスシーンをこなすことも珍しくないのだから、彼にとってはキスなんてたいしたことではなくて、誰が相手でもできるコミュニケーションの一種なのかもしれない。
(そ、そうだよね……ちょっとからかわれただけだよね)
だったら自分もさっさと流すべきだ。そう思うのに、さっきの唇の感触が忘れられない。
(やわらかかったな……)
それに、いい匂いがした。
思い出して、またじわりと体温があがる。
今日の現場は、東京湾に面する港の方だった。
内容は、ドラマの撮影。
どうやら、夜明け直後の日差しの中での映像が撮りたかったらしく、外での撮影だ。
「どうする? 車の中で待っているかい? 外は寒いと思うし、時間もかかるはずだから」
「えっと、僕、見学してもいいんですか? ……じゃなくて、いいの?」
癖でつい敬語を使ってしまったことに気づいて言い直すと、カヲルはにっこりしていた。
今回はキスされなかった。よかった。
「興味があるなら、そばで見ててくれてかまわないよ」
「それならぜひ……!」
撮影現場に入ったことはあるが、彼ほどのハイレベルな俳優の演技を間近でじっくり拝める機会はそうそうない。諦めたとはいえ、これでも元俳優志望だ。興味がないわけがなかった。
それに、付き人なら、そばについていろいろサポートするべきだろう。
「うちの事務所の新しい社員の、碇シンジくん。僕の付き人の仕事もしてもらうことになったから、よろしくね。まだ慣れてないから、優しくしてあげて」
カヲルはスタッフたちに、シンジをそう紹介した。
「碇くん、ずいぶん若いのにすごいね。がんばって」
遠慮がちだが、敬意を払ったスタッフの態度に、『渚カヲルの付き人』という肩書きの威力はすごいな、と思い知る。
大勢いる撮影スタッフの中には、別の現場で顔を合わせた者もいたが、ただのエキストラだった時とは対応がだいぶ違う。聞いてもいないのに、今日のタイムスケジュールやらトイレの場所まで、丁寧に教えてくれた。
(渚さん、やっぱり上手いなぁ……)
できるだけ邪魔にならない場所に立ちながらも、シンジの視線は食い入るように、撮影がスタートした現場の中心に立つカヲルに見つめていた。
見目がいいだけじゃない。彼がセリフを喋り始めると、その場の空気が一気に変わる。
自分にはないと言われた『華』はこういうものなのだろう。
(これがプロの仕事かぁ……)
今まで自分がやってきた仕事が、いかに素人に毛が生えた程度の生ぬるいレベルであったのか思い知らされる。
今日のカヲルは弁護士役で、長台詞を堂々と喋っている。
本番前に台本を見るそぶりはなかったが、現場に入る前に、完全に台詞が頭の中に入っていたらしい。
どうしたらこんなふうに演じられるのだろう。
自分だって、それなりに努力してきたはずだ。
その努力が足りなかったのは明らかだけど、そもそもの土台が違う気がする。
ただ、悔しいかといえば案外そうでもない。
(この人の演技をもっと間近で見ていたい)
純粋な憧れの感情が、より強くなった。
「お疲れさまですっ!」
潮風が強く吹きつけてくる朝の港は冷える。
ひとまず休憩に入ったカヲルを、上着を持ったシンジが出迎えた。
「うん。ありがとう。寒かっただろう。大丈夫かい?」
「いえ! 渚さ……カヲルくんが貸してくれた上着が暖かったので、助かったよ」
シンジはもこもこのダウンを着せられていた。
カヲルは薄手のスーツの上にコートを羽織ると、休憩スペースに向かった。
「飲み物はコーヒーとお茶、どちらがいいですか?」
「コーヒーがいいな。ブラックでかまわないよ」
「わかりました。お弁当はどうします?」
少なくともシンジが見る限り、カヲルは起きてから一度も食べ物を口にしていないはずだ。
「いまもらおうかな」
「はい。今持ってきますね」
「その前に、シンジくん、ちょっと手を握ってくれないかな」
「え?」
「手が冷えてしまったんだ」
おそるおそるカヲルの手に自らの手を伸ばすと、びっくりするほど冷たくなっていた。
いくら天下の渚カヲルといえど、これではつらいだろう。
シンジはぬくもりを分け与えるように、両手でカヲルの手をぎゅっと握りしめた。
「これでいいですか?」
「うん。シンジくんの手はとてもあたたかいね。ほっとするよ」
無意識のうちにまた敬語に戻ってしまっているが、それに言及される気配はない。カヲルはにこにこしていた。
ただ、通りかかったスタッフに、ぎょっとした様子で二度見される気配はあった。
傍目から見れば、男二人が手を握って見つめ合っているような光景だ。事情を知らなければ、そりゃあ驚くだろう。
「あの、カヲルくん、ちょっと恥ずかしいんだけど……」
「こうすればもっと早く暖まるかもしれないね」
今度は指を一本一本絡められる。それも両手だ。ますます、『なにをやってるんだ』という状態になる。
「こ、これ、誤解されないですか……!?」
「大丈夫だよ。可愛い付き人と、休憩中にいちゃいちゃしているだけにしか見えないよ」
「それがまずいんじゃ、って言ってるんですが……!」
完全に指の温度が戻るまで、カヲルはシンジの手を解放してくれなかった。
おかげでシンジは、必要以上に体温をあげてしまうこととなった。
ようやくお弁当を取りに行って戻ると、「半分食べていいよ」とカヲルが言い出す。
「え、でも……」
「僕は朝はあまり食べないから、半分もらってくれると助かる。君も朝ご飯がまだだろう? 初日からバタバタさせてしまってすまないね」
確かにいろいろと急すぎたが、カヲルにそんなふうに気を遣われてしまうと、シンジは恐縮するしかない。
「僕は大丈夫です! あの、それじゃあ、残った分をもらうので、カヲルくんが先に食べてください!」
「そうかい? じゃあ一緒に食べよう」
「え……」
箸を取りだしたカヲルは、鮭を半分にして、シンジに差し出してきた。
「ほら、隣に座って、口を開けて」
「かかかカヲルくん!? それはちょっとさすがに……」
「僕の言うことがきけないのかい?」
「うう……」
そう言われてしまえば逆らえるわけなどなく、シンジはおとなしくイスを寄せて座り、口を開くしかなかった。
焼き鮭は、冷めているわりにおいしかった。さすが、そこらへんのコンビニで売ってる安い弁当とは違う。
「待ってください。これ、僕がカヲルくんに食べさせた方がいいんじゃ……」
大スターにこんなことさせるわけにはいかない。ハッと我に返って、シンジは言い出す。
「それはお昼の時に頼むよ」
「お昼の時!?」
戸惑っている間に、続いて卵焼きを口に押し込まれる。
「君が食べている姿はとっても愛らしいね。癒やされるよ」
ペット扱いされているような雰囲気だが、とりあえずカヲルはとても上機嫌だ。
「渚くーん、そこの可愛い男の子、誰?」
通りがかりに、共演者の一人が話しかけてきた。
顔を見て、シンジは思わず「ひぃっ」と声をあげそうになる。
大河ドラマにも何度も出演したことのある、大物ベテラン俳優だった。
「西城さん……僕の新しい付き人です」
「朝から撮影だというわりに君がやたらと機嫌よさそうなのは、その子のおかげかな?」
「そうですね。彼が見ててくれると思うと、朝早くからの仕事もがんばろう、という気分になれるので」
「あっはっは! 渚くんがそんな殊勝なことを言うとはね。今の、録画しておけばよかったかな」
「やめてください」
それなりに親しい仲なのか、カヲルも砕けた様子で笑っている。
ごく普通の雑談なのだろうが、シンジからすれば、異次元に迷い込んでしまったような気分だった。だって、テレビでいつも見ている大物俳優が二人も揃って喋っているのだ。どう考えても、自分がいるべき場所じゃない。
「ええと、君……」
「碇シンジくんです」
「碇くん、そこの彼の機嫌を損ねると撮影が滞るから、引き続き、ご機嫌取りよろしくね」
彼はそうシンジに声をかけると、にこやかに去って行った。シンジは、深々と頭を下げることしかできなかった。
「漬物は食べれるかい?」
カヲルは何事もなかったように、次のおかずを口元に差し出してくる。
「……はい、なんでも食べられます」
おとなしく口を開いたシンジは、もぐもぐ咀嚼しながら、チラリとカヲルの顔色を窺った。
「……渚さん」
「…………」
物言いたげな視線が返された。
「あ、えっと……カヲルくん」
「よくできました」
笑顔を浮かべたカヲルが、頭を撫でてくる。やっぱり、ペットにでもなったような気分だ。
「なにかな?」
「カヲルくんは……朝は苦手なの?」
ついでにがんばって、敬語を使わないようにしてみた。
「苦手というほどではないけど、いまいち気分が乗らないことが多くてね。人から見ると、不機嫌そうに見えるみたいなんだ」
テレビや雑誌では、不機嫌そうなカヲルというのは実はそんなに珍しくない。ただ、不機嫌そうな時は美貌に凄みが増すので、それはそれで好き、というファンも少なくないと聞いたことがある。
「ごめん……それなら、朝の仕度や運転は僕がやるべきだったんだよね? 明日からはがんばります」
しゅん、とうなだれるシンジの口元に、少々量が多めのご飯が押し込まれてきた。
「慣れるまでは君のペースでかまわないさ。僕は、君がついてきてくれただけでも嬉しいのだから」
「……僕、たいして役に立ってるようには思えないんですけど」
「ここにくるまでの間、話し相手になってくれたじゃないか。さっきは上着を用意してくれたし、手もあたためてくれた。そして今は、僕の食事につき合ってくれている。それだけでじゅうぶんさ」
「僕の食事……って、カヲルくんはまだ一口も食べてないよ」
気づけば、弁当の中身がそこそこ減っている。
半分くれるとは言われたものの、申し訳なかった。
「君が食べている姿を見るだけで僕はお腹いっぱいになりそうな気がするよ」
「そんなわけよ。ちゃんと食べて」
ドラマに出てきそうなセリフに顔を赤らめながらも箸を奪い取り、鮭の残り半分をカヲルの口に押し込む。
「ふふ、おいしいね」
とろけそうなほど甘い笑みを向けられて、視線のやり場に困ったシンジは俯く。
余計に恥ずかしいことになってしまった。どうしよう、この状況。