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    タカネ

    @takaneyuki2021

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    タカネ

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    🪭✨
    其の三[三]終
    若君は七夕の祭事に参加なさるようで…‪🦜‬🎋🌌✨

    #迅嵐
    swiftashi

    ~後宮御用聞き、迅と朱雀の君継宮の若君、官位を賜ること。[三]

    …水が怖いんですって?
    准は神獣朱雀の血を濃く受け継いだのね。
    いいえ、恥じることはないの。四神獣の相剋は末裔の性なのだから。
    水の性は火に剋すもの。而れども火性、金を剋し、土を生ず。
    そうやって巡り、支え合っていくものなのよ。
    だからね准、あなたは木の性の方と巡り会えたら良いわね。
    きっと朱雀(あなた)を助けてくれるから。
    木性は東の青龍。土に打ち克ち、火を生じ、これを助ける──。

    「……ははうえ、」
    嵐山は自分の呟きで目が覚めた。
    眠りは揺蕩うような浅さで、なにか懐かしい夢を見ていたような気がする。
    えーと、自分はどうしたんだっけ……? と寝台の上でしばらく考える。
    ようやく見慣れてきた気がする豪華な天蓋を見上げて、ここは継宮の自分の寝室だ、と認識する。
    そうだ、昨日嵐の中で蓮池に落ちたのだ。それで時枝を大層、心配させてしまった。
    心配させて叱られて、しばらくは大人しく過ごして下さい、と昼寝をさせられたのだった。
    もう元気だし寝台に入っても眠れない、と思っていたけれど、いつのまにか眠っていたらしい。
    横たわったまま人の気配を探すが、どうやらその時枝も近くにはいないようだった。
    静かな広い部屋に誰もいない。ひとりきり。
    淋しいな、と思う。
    赤の国は困窮していたから城内の官吏も女官も不足していて。けれど、その分みんなが身を寄せあって大きな家族のようだったのだ。いつも親しい誰かがいる空気の中で暮らしていたからか、嵐山はつい側に人の気配を探してしまう。
    もうひとり立ちしたのだから、そんな癖はやめなければ、と思うのに。思う端から考える。
    ──迅は来てくれないのだろうか。
    池に落ちた後のことはまるで覚えていないけれど、助けてくれたのが迅だ、ということだけは覚えていた。
    この大きくて厳格な城の中の誰とも違う、故郷の家族みたいに親しい空気を持っている人。人恋しい嵐山はどうしても彼を慕わしく思ってしまう。
    四神獣の性も関係があるのかもしれないな、といつかの母の言葉を思い出す。
    木は土を克し、火を生じる。
    朱雀の末裔たる故郷にいる間は意識したことはなかったけれど、今は少し分かる。
    火性の自分は生きるために木の気を求めてしまうらしい。
    『メジロ』という皇帝陛下に近しいお役目を務めているのだから、迅も木性──青龍の血筋ということはあるんじゃないだろうか。
    だって、本当に迅は俺を助けてくれた──。
    早く会いに来てくれないだろうか。顔を見たら安心できる。それからちゃんとお礼を言いたいのに。
    寝台の上でそんな思いを巡らせている内に、ふと柔らかい香りに気がついた。
    なんだかとても良い匂いがしている。
    「お目覚めですか?」
    「え?」
    そっと声を掛けられて慌てて起き上がる。
    心配そうな顔をした知らない女官が、部屋の入口からこちらを覗いていた。
    「若君は大変な目に遭われたとのこと。お体の具合はいかがですか?」
    「……大丈夫です」
    驚いたのでもごもごとした答えになってしまった。
    「お部屋に香炉がありましたから勝手ながら点けさせて頂きました。良い香りで気持ちも落ち着かれますでしょう?」
    「ああ、だから良い匂いがして……」
    「このお部屋の調度品は豪奢で申し分ないですが、若君には少し背伸びのような気がいたしますわね。やはり殿方はその辺には気が回らないのだわ」
    ぐるりと部屋を見回してひとりごとのように言った女官は、目を丸くしている嵐山に気づいて微笑んだ。
    「初めまして、継宮の若君。わたくしは後宮で碧水宮にお仕えする者でございます。本日は我が主より若君にお見舞いの品をお持ちしました」
    「後宮の、」
    「はい。白蓮とお呼び下さいませ」
    寝台の脇に寄った女官はゆったりと拝礼した。
    翠色に白と青を合わせた美しい衣は碧水宮にちなんでいるのだろうか。花のように結い上げた艶やかな黒髪には銀と水晶の歩揺が揺れている。真っ白な肌に控え目に紅を差した天女のような美しさに、後宮のお妃さまかと思った、と嵐山は声もなく見蕩れてしまった。
    そんな反応には慣れているらしい女官──白蓮はにっこりと笑った。
    「こちらは主の領地にて収穫された果物でございます。お腹は空いていませんか? よろしければお茶をお淹れいたしましょう」
    卓の上につやつやとした葡萄や梨が盛られているのを目にした途端、お腹がぐう、と鳴った。
    「あ、」
    嵐山が思わず顔を赤くすると白蓮はころころと笑った。

    寝台から下りて卓につくと、白蓮は優雅な所作でお茶を淹れてくれる。
    時枝とも違う、後宮女官の鮮やかな手並みに『茶は妃の嗜み』とはこういうことか、と嵐山は作法をじっと観察した。
    自分も練習して、これくらいできるようにならなくてはいけない。
    「さあ、どうぞ」
    「とても良い匂いだ。それに綺麗だな」
    「こちらは花茶です。少し揺らして頂くと花弁が開きます」
    「すごい」
    嵐山は飲杯の中身に目を丸くする。ゆらゆらと茶の中で花びらがほころんで茉莉花の香りがした。とても高級なお茶なのだろうな、と思う。
    『──部屋の調度品は豪奢で申し分ない』言われてやっと意識した。この部屋のすべての物が皇帝陛下からの賜り物なのだということ。
    寝台も寝具も、香炉だってお茶だって何もかも上等な品ばかり。落ち着いた赤色で統一されていて、織物は赤の国の名産品で揃えられている。
    子どもには不似合いで落ち着かないだろう、と気を遣われたけれど、嵐山は、でもこの部屋が好きだな、と思う。
    持参品もなく身ひとつでやって来た、赤の国の妃への心尽くしを感じられるから。
    きっと皇帝陛下は優しい方なのだろう──。
    物思いしながらお茶を味わう嵐山に、白蓮は心配を滲ませて言う。
    「嵐の日に蓮池に落ちるだなんて災難でございましたね。怖い思いをなさったでしょう」
    「俺が不注意だったんだ。黒を探していて足を滑らせた」
    「黒?」
    「この宮の猫です。黒くて首に赤い紐を結んでいて可愛いんです」
    「若君の飼い猫なんですね」
    「いや、どうだろう。黒の方が先にいたから先輩かもしれない」
    首を傾げて言うと『おかしなことを仰る』と白蓮は笑った。
    「若君はこの継宮で毎日どのようにお過ごしなのですか?」
    「えーと、毎日いろんな教師が来てくれるので必要な勉強をしています。あと庭を散歩したり馬の世話もします」
    「おひとりでお淋しくはありませんか? 後宮の催しにも参加なさらないのでは」
    「……俺はまだ無品なので皇帝陛下の御前には上がれません」
    「まあ」
    小さく言った嵐山に白蓮は驚いたような声を出した。
    「お小さい王子さまはそのような事を気になさらなくても」
    「元王子なだけです。継宮(ここ)に部屋を賜ったからには、それが陛下の思し召しなのだと思います。あ、でも! 一日も早く官位を賜れるように鍛錬します!」
    ともかくそれが目標なのだ、と顔を上げて勢い良く言うと、白蓮はしなやかな指を頬に当てて何か思案する。
    「宮中行事は後宮の領分。陛下の許可などなくとも参加なさればよろしいのです。拝顔が叶わないというなら陛下の方に御簾の内に引っ込んで頂けば良いのですし」
    「ええと、」
    「ああ、でも確かに慣例に従うことも大切ですわね。隙を見せて後でああだこうだ言われるのは癪ですもの」
    何やら嵐山には良く分からないことを呟いて、そこで女官は難しい顔をした。
    「そもそも無聊をお慰めする手立てもなしに、中奥に留め置くなんていかがなものかしら」
    声音に陛下に対する憤りを感じたので、そんなことはない、と嵐山は慌てて言った。
    「でも、たまにメジロの迅が来てくれます!」
    「メジロ?」
    「はい、陛下の御用聞きです。たまに様子を見にきて話し相手をしてくれます」
    メジロにそういう命令をしたのなら、それは自分を気に掛けてくれているからだろう、と思うのだ。
    それに迅はお役目以上に良くしてくれている。
    「まあ」
    さっきの『まあ』とは違う調子で言った白蓮は美しい口元に笑みを浮かべた。
    たおやかな女官の微笑みとは違う。組み紐の掛け違っている所を見つけたときの母がこんな顔をしていた気がする。
    「?」
    「ええ……いいえ、存じておりますよ。そう、メジロの迅ね」
    すぐに楚々とした顔に戻った白蓮は『それはそうと』と続けた。
    「若君、乞巧奠の祭事に登壇なさいませんか? 陛下の御前で技芸を披露できる機会ですもの」
    「え、でも、」
    「わたくしに考えがありますの。此度の祭事を取り仕切るのは我が碧水宮ですから、演目を考えて盛り上げるのもお役目の内です」
    白蓮は今度はにっこりと微笑んだ。
    なんだか少女のように瞳をきらめかせていて美しさとはまた別に、なんて可愛らしいのだろう、と嵐山は感心してしまった。
    「若君にぴったりの役があるのです」

    執務室の椅子の上で大きなため息をついた迅は、手にしていた書状を卓に投げ出して、背もたれにぐんにゃりに寄りかかった。
    『四神返り』に詳しい医洞の博士に意見を求めた結果、やはりいかな朱雀の末裔であろうと、八歳で『春獣期』を迎えることは有り得ない、記録に残る一番早い例でも十代前半である、との回答だった。
    しかし、と背もたれに乗せた頭で天井を睨みながら思う。
    池から嵐山を救い出した後の、惑乱の記憶を呼び覚まして眉根を寄せる。
    あれは確かに『四神返り』の神気だった。
    迅は立場上、どんな事態にも耐えうるように、わざわざ春獣期の四神返りに引き合わされたこともあるから断言できる。
    小さな体が放っていた、あの香りのかぐわしさ。
    庇護するべき幼子の神気にあてられて、今にも襲い掛かりそうだった自分を振り返るとぞっとする。あってはならない過ちを犯すところだった。
    そんな事態は絶対に避けなければならないから、秘密裏にいろいろと調べていたのだが。
    集めた資料の中に、一件だけ載っていた事例。
    ──命の危機に晒されたから。
    そのせいで突発的に本能の部分が暴走した、と、そう結論するしかないかと思う。
    全ての『四神返り』に起こりうるとも限らないのだろう。あくまで嵐山の血の濃さが引き起こした事態だ……と思いたい。
    大の大人で由緒正しい神獣青龍の末裔である自分が惑わされるほどの神気の強さ。末恐ろしい、と思う。
    どんな運命の巡り合わせか、そんな『四神返り』が自分の手の中にもたらされたのだから、なんとしても守ってやらなくてはいけない。それが力ある末裔の義務というものだ──。
    半ば自分に言い聞かせて、迅は記憶に蓋をする努力をする。
    あの未熟でありながら甘やかな香りがどれほど魅惑的だったか。
    それが脳髄を痺れさせたときの快感と、それ以上に己の身の内を震えさせた『碧眼』で見た先の光景。
    若竹の少年の体を奪い尽くす、その予感──。
    今は忘れなければならない。悪い夢のようなものだ。
    あまりにも甘美な夢は毒にもなるのだから。
    迅は片腕を眼の上に乗せて、細く長い息をついた。
    『天啓』なんて良いものではない、と思う。
    こうして自分を縛り付けては、心のままに振る舞えないようにする。
    国の大事のためならば幾らでも利用しようと思うけれど、その一方で、己自身の幸福からは遠ざかっていくばかりな気がする。
    そのとき扉を叩く音がして、護衛官が仰々しく声を上げた。
    『側用人筆頭、烏丸京介どの!』
    「入れ」
    迅が頭を元に戻したところで扉が開いて大量の書簡を抱えた烏丸が入ってきた。
    「あれ、サボり中でしたか。失礼しました」
    「サボってない。不敬罪って知ってる?」
    「存じております。もし俺が不敬を働いたなら、どうぞ首を刎て下さい。もしも、不敬だったなら、ですよ」
    「今まさにそうじゃないのか?」
    迅が半目で睨んでも、平淡に言う烏丸はまったく堪えていない。
    烏丸は若手官吏の中で抜きん出ていたのを一足飛びに側近に取り立てた。
    ひとりくらいは気の置けない歳が近いのに居てほしい、というのと、烏丸が仰々しい家柄の出ではないためしがらみがない、というのが大きな理由だったが、めきめきと頭角を現し、今や皇帝の懐刀と呼ばれている。
    有能でなにより遠慮というものがなくて、そこが気に入っているのだが、たまに普通に頭にくる。
    「人員配置の件ですが、兵部の文官がごねています。結局、あそこをどうにかしませんと新しい制度は頓挫します」
    「またか。もういい、宰相に仲介させて兵部尚書と中央将軍に妥協させろ。キリがない」
    「承知致しました」
    「他には」
    「華南山脈が間もなく山越え可能になるとのこと。赤の国の国境警備を強化する必要があります」
    「夏國は性懲りもなくまた侵入してくるな」
    「おそらく」
    「州軍を進めて防衛線を押し上げろ。帝国の庇護下にあることの意味を思い知らせてやれ」
    「承知致しました」
    「他は?」
    「以上です。あ、いや、」
    「なに?」
    「継宮の若君がメジロの迅さんをご所望です」
    迅の喉がぐう、と鳴る。
    「……そう」
    「メジロは皇帝陛下の直属ですから、陛下がご多忙ですとメジロも多忙になってしまう、と、まあそのように言い訳をしておいて差し上げました」
    「わかったわかった!」
    「ご多忙なのは嘘ではありませんが……ひょっとして避けておいでですか? 若君が池に落ちた日からもう一週間経ってますよ」
    「いろいろ気掛かりがあったんだよ」
    「忙しさにかまけて放置する位なら最初から構わない方がましかと思いますが」
    「……手厳しいな」
    「最初の日からお世話していれば、それは多少なりとも情は湧きますから。一番下の弟と同じお年頃ですし」
    烏丸の言うことはもっともだ。犬や猫でも気が向いたときだけ構うのは褒められたことではない。
    それでも、あの神気にまた出くわすことがあったらと思うと、なかなかに怖い。
    他の誰でもない自分こそが、守るべき子どもを『四神返り』の理不尽に遭わせてしまったらと思うと──。
    とはいえ、自制に自信がないのは迅の都合だ。大人なんだからしっかりせねば。
    「……淋しい思いをさせちゃったかな」
    「早く講座を開ければ良いんですが」
    「いつになりそう?」
    「早くても秋になるかと」
    「そう。まあ、急な話だったし仕方ない」
    嵐山の本当の年齢が判明してから皇帝命令でねじ込んだ案件だ。
    「門弟の選抜はなるべく急がせて。最終的にはおれが決めるから」
    卓に手をついて立ち上がった迅は、気分を変えるために大きく伸びをした。朝から座り続けの体の節々が音を立てる。
    「じゃあ京介、おれは今から休憩する」
    「御意」
    烏丸は恭しく拝礼をした。

    継宮を訪うと嵐山が稽古をしているのか、宮の中から横笛の音が聞こえてきた。
    なかなか上手で危なげなくこなしている。何よりも一生懸命吹いているのが伝わってくる清々しい音色が好ましい、と迅は微笑む。
    「こんにちは。若君はご機嫌いかがかな?」
    「迅!」
    笛の音を止めた嵐山はぱっと顔を上げた。待ち望まれていたのが伝わってくる喜色は素直にかわいい。絆される。
    「稽古の邪魔をしたかな」
    「いいや、ずっと迅を待ってた!」
    「そっか。遅くなって悪かったな。あれから調子はどう?」
    「もうすっかり元気だぞ」
    『座ってくれ!』と自ら椅子を進めてくれるので、迅は有り難く腰を下ろした。
    若君の顔色や瞳を注意深く眺めてみるが、以前と変わったところはないように見えて、ひとまず安心する。
    「今日は侍従の君は?」
    「充か? 今はたぶん厨に……そうだ、お茶を入れてもらおうか?」
    「頂けると嬉しいな。少し喉が渇いてるんだ」
    「わかった! 頼んでくる!」
    部屋から駆け出していく張り切った様子は実に微笑ましい。
    本来ならメジロをもてなす必要などないのだが、今は他の誰かにいて欲しいのであえて止めなかった。
    嵐山が赤の国から連れてきた唯一の従者である時枝は、末裔とは呼べない平民の出である、と把握していた。彼は『四神返り』の影響を受けない。もちろん、その辺を加味して選ばれたのだろう、とも思う。
    「……こんにちは、迅さん。准さまからお話はかねがね伺っていましたが、こうしてちゃんとお話させて頂くのは初めてですね。侍従の時枝充と申します」
    「はじめまして。皇帝陛下よりメジロのお役目を頂戴しています。以後お見知り置きを」
    丁寧に挨拶を交わすのを嵐山がきらきらした目で見ているのがなんだかこそばゆい。なんでそんなに嬉しそうなんだろう。
    「先日は准さまを助けて頂き、誠にありがとうございました」
    「医官づてに話は聞いてたけれど、もうすっかり元気なようで安心した。夜、うなされたりはしてない?」
    「平気だ。俺は水に落ちた後のことをぜんぜん覚えていないから」
    「その方がいいよ」
    怖い思いも悪い夢も忘れてしまった方がいい、と多少の身勝手を込めて思う。
    おれもきっと忘れてみせるから、と胸の内で呟きながら、迅は嵐山の両手を取った。
    「でも、これからは気をつけてむちゃな真似はしないでね。おまえになにかあったら皇帝陛下もかなしむよ」
    「……うん。迅、助けてくれてありがとう」
    嵐山は迅の手を握り返して真摯に言った。
    「俺もいつか泳ぎを習って、次は俺が誰かを助けられるように精進するよ」
    「それは立派な志だな」
    反省を生かす、と意気込む嵐山の様子をじっと見る。
    青龍の末裔の自分を前にしても、変わったところは見られない。やはりあれは突発的なものであったのだ、と胸を撫で下ろした。
    これからはより一層注意して危険な目に遭わせないようにしよう。それが出来れば嵐山はまだ当分、春獣期を迎える心配はない『子ども』で間違いないだろう。
    境遇は全きしあわせとは程遠いかもしれないが、せめて健やかに成長できるようにしてやりたい。
    『──たいそうな執着に見えますけれど』
    いやいや、と内心で首を横に振る。
    そういうことではないのだ。
    自分が母を失くしたのと同じ歳の子どもを、結局は親元から引き離したのだから、まずはその責任を取らなければ。
    和やかな雰囲気の中、時枝が慣れた手つきでお茶を入れてくれる。時枝自らが毒味をしてから飲杯に良い匂いの茶が注がれた。
    「良い匂いだな……これは蓮の香り?」
    「後宮のお妃さまがお見舞いに下さった茶葉だ」
    「え? 後宮の?」
    なぜ後宮の妃が嵐山に見舞いなど寄越すのか。それに蓮の香の茶葉は最上級品だ。新参者の継宮に贈るには、ずいぶん豪勢な見舞いの品だな……と迅は嫌な予感に襲われる。
    「どの宮の方だって?」
    「碧水宮だと言ってた。そちらの女官がお見舞いに来てくれて、いろいろ良くしてくれたんだ」
    「……へえ」
    「とても綺麗な人で、女官ですらあんなに綺麗だなんて後宮はすごいところなんだな……」
    と嵐山は真面目な顔で続けた。
    「あー、そうかもね」
    自分が入ることを望んでいる場所の格の違い、というものについて、思うところがあったらしい若君の様子に、しかし迅は上の空で返事をしてしまった。
    「なんて名前の女官?」
    「白蓮」
    白蓮とは──また良く言ったものだ、と迅は脳内で呻いた。
    嵐山の存在はどうにも蓮の好奇心を刺激してやまないらしい。油断も隙もないとはこの事だ。
    しかし、人の事は言えない。まったく言えやしない、という自覚はある。
    「お茶のお代わりはいかがですか?」
    各々が何やら微妙な気分になっているのを察したらしい侍従がそっと言ってくれる。
    「ありがとう。頂くよ」
    茶が注がれた飲杯が差し出されてから受け取る。
    と、時枝が自分の所作をじっと見つめている気配がした。何かおかしいことをしただろうか? いや、メジロは作法やしきたりからはみ出した存在だから多少不調法でも大丈夫なはずだけど。
    「メジロというのは皇帝陛下の直属であると側用人さまに伺いました」
    迅の内心を見透かしたように時枝が言った。
    「そうだよ。メジロは皇帝の耳目であり手足。いろんな垣根を越えたお役目だからね」
    「ならば、迅さんは陛下に拝謁できるのですか?」
    「……いや、直接お目もじはしないよ。御簾越しにお声を聞くことはあるかな」
    「皇帝陛下は実際のところ、お幾つでいらっしゃるのでしょう」
    「え? それ知らなかったの?」
    「お若いらしいとは。まあ事情が事情でしたから細かい事は二の次と言いますか」
    「あー……ええと若いよ。齢十二で即位して今、十九だね」
    「陛下は十九歳でいらっしゃる。なるほど。では迅さんは?」
    「え?」
    「迅さんもそのくらいとお見受けします。ちなみに俺は十六です」
    「えーと、そう、おれはじきにはたちだよ……」
    「そうですか」
    「俺はもうじき九歳になるぞ!」
    「そっか。誕辰はいつなの? お祝いしないとね」
    時枝の口調がなんだか空々しくて、内心冷や汗をかく心地だった迅は、若君の元気な主張にこれ幸いとのっかった。
    「七夕の後なんだ」
    「それは本当にもうじきだね。なにか欲しいものはある? 言ってごらん」
    なんでも言って欲しい。なんと言っても自分は皇帝なので、大抵の物は叶えてやれるはずだ。
    「欲しいものはあるけど、それは自分で頑張らないと駄目なものなんだ」
    つい前のめりになってしまったが、嵐山は子どもらしくない生真面目さでそう言った。
    「……陛下は乞巧奠の祭事にはいらっしゃるだろうか」
    「後宮行事にはなるべく顔を出してはいるね」
    最低限ではあるけれど、と若君の真剣な面持ちを見返して何度か瞬いた。
    「嵐山は祭事に出たいんだっけ」
    「うん。参加できるかもしれないと白蓮が言ってくれた。だから頑張るよ」
    「……そうなの?」
    そういえば嵐山が横笛で奏でていたのは七夕縁起の古詩だった。
    祭事での技芸の披露のための稽古をしているということだ。嵐山は本気なのだ。
    「そうか……なら、がんばって。きっと陛下も御覧になるよ」
    「うん!」
    どうやら蓮が嵐山の希望を叶えようとしてくれているらしい、と察した迅は、必ず七夕祭に列席しようと決意する。
    無品の元王子が現状を変えようと頑張っている。
    どう転ぶかは分からないが、この子の努力は報われてほしい──いや、報いるための手段をなんとしてもひねり出さねば、と迅は思った。

    本日の乞巧奠の祭事は後宮の梨園で開催されることとなった。
    妃嬪のための雅やかな宮を幾つも擁し、ひとつの小さな国である、とも称される後宮の梨園は広大だった。畔に四阿を配した池も大きく立派なもので、夏には小舟を浮かべて夕涼みの宴が開かれるのだと言う。
    その池を背後にした場所に野天の舞台が組まれている。
    舞台が一番良く見える場所には、柱と天幕で囲われた皇帝の御座所が設えてあり、その左右にゆったりと設けられた他の席は妃嬪たちのためのものだ。
    薄く夕闇が漂う中で、楽しげに囁き合いながら女官たちが笹竹を飾り付けていく。
    色とりどりの几帳の薄絹や毛氈、着飾った女官たちの衣装や扇や装飾品がきらきらと輝いて見える。すべてが美しくて贅沢で絵巻物みたいだ、と思う。
    舞台の脇で技芸団とともに出番を待っている嵐山は、初めて見る後宮の華やかさに目を見張っていた。
    これが青の帝国の後宮。
    故郷の寂れた後宮とはかけ離れた世界だった。
    嵐山の父が王位についた頃には赤の国は疲弊しきっていて、こんな華やかな祭りも宴も催されることはなかったから。
    まるで物語で読んだそのままの光景で、その中のひとりに自分がなろうとしているなんて、心底不思議な気持ちがした。
    ここまでは碧水宮の女官が案内して連れてきてくれた。
    ここからは自分ひとりだ、と手にした横笛をぎゅっと握りしめた。
    青く透き通った夜空を見上げる。天の河と織女星と牽牛星。数え切れない星々がこの星祭りを見守ってくれている。
    流れ星が見えたなら願いを掛けるといい、と白蓮が教えてくれた。
    きっと今夜はたくさんの流れ星が降るはずだからと。
    嵐山の願い事はいつだって家族のしあわせだ。
    だから自分のための願い事は、自分が頑張って叶えなければいけない。
    やがて夜の帳が下りて、そこかしこの燭台に火が点された。
    いよいよ祭事が始まる。
    嵐山は緊張しながら立ち上がった。
    憧れていたわけではないけれど、でも、今だけは自分もこの煌びやかな後宮絵巻の一員なのだ。
    舞台の正面の皇帝陛下の御座所を見上げる。
    あそこにもう陛下はいらっしゃるのだろうか?
    今から舞台に上がる自分をそれと分かって下さるだろうか──。
    いいや、分かって下さらなくても良い、とふいに思った。
    だって、みんなこんなに美しいのだから。
    ただ今宵、陛下のお目を楽しませることが自分にも出来るのなら、それはこの上ない喜びだ。
    頑張ろう、と嵐山はもう一度天の河を見上げた。

    鼓と鈴が鳴り響き、四隅に華やかな篝火がたかれた舞台に嵐山は進み出た。
    教えられた通り、下手に立つと横笛を構える。
    上手から織姫役の少女が現れると、嵐山の笛の音に合わせて舞い始める。
    ふわりと翻る領布としゃらしゃらと鳴る星の飾り。
    彦星に扮した嵐山が奏でるのは七夕縁起の古詩だった。
    天河東有織女 天帝之子也 年年織杼役 織成雲錦天衣──天河の東におわす織女は天帝の子。年ごと熱心に機織りをし、織り出すのは雲の二色の天衣である──。
    小織女と小牽牛の懸命な演技は、七夕の奉納舞に相応しいひたむきさで見る者の微笑みを誘う。
    くるりくるりと舞う織姫は薄衣を巧みに翻し、錫杖の鈴をしゃらしゃらと鳴らす。舞台から見えるたくさんの灯明は星々のようだ。
    まるで本当に天の河にいるみたいだ。
    無心で奏者を務めていた嵐山は、夢のような光景に気分が高揚する。そうして笛の音は伸びやかになり、夜空へ、星へ届けと高らかに放たれていく。
    輝かしい天河の光景に酔いしれる内に、舞姫はふわりと動きを止めて、舞台の中央でお辞儀をした。我に返った嵐山も正面の御座所に叩頭する。
    観客である後宮の女人たちから暖かい拍手を送られて、小織女と小牽牛は舞台を下りた。
    前座の子どもの出番はこれで終わりだ。あとは技芸団による舞曲の披露になる。
    舞台の脇の衝立の影に下がった嵐山は大きく息をついた。出来映えはどうだか分からないが、とても楽しかったな、とひとりそっと微笑んだ。
    皇帝陛下の目にも快いものであったなら、と願う。
    舞台では妓女たちが涼やかな楽の音に乗って繊細優美な舞を披露している。
    篝火に照らされて旋回する度にきらきらと光って見える磨き抜かれた技芸。ひらりと空気をはらむ薄布はまるで本当の天女の羽衣のようで。
    なんて素晴らしいのだろう、と嵐山はしばしみとれた。

    無品の若君である嵐山の、今夜のこの参加は特例だ。
    白蓮が技芸団の一員ならば官位は関係がないとして、嵐山が登壇できる役を考えてくれたのだ。
    毎年恒例の七夕縁起の演目は、恒例だから飽きがこないようにいろいろな趣向を凝らすもの。
    小織女と小牽牛という趣向は、過去には後宮に暮らす幼い皇子や皇女も扮することもあったそうで、嵐山をそれに推挙してくれた。
    それができる白蓮はすごく位の高い官女なのだな、と思う。
    白蓮と、その案を許可してくれた碧水宮の貴妃さまの期待に応えられたのならいいけれど。
    皇帝陛下は小牽牛が嵐山であることを知っているのかは分からない。
    それでも、一心に頑張れたことが嵐山は嬉しかった。
    いつか、もっとちゃんと陛下の前で披露できる技芸を身に付けるためにもっと鍛錬しよう、と思えた。
    目的があれば、嵐山はどれだけだって頑張れるのだ。
    舞台脇で控えていると尚儀の女官たちが冷たい水を持ってきてくれた。
    奉納舞は無事に終了し祭事はもう後半になっている。楽員たちが緩やかな音楽を奏で、妃嬪たちも宴を楽しみ始めている。
    和やかな空気にようやく人心地ついて、嵐山も冷水をごくごくと飲み干した。
    技芸団の一員としてこの場にいる嵐山は宴に参加する立場にはない。
    それでも夜風が笹竹の飾りや幕や、薄絹を揺らしていく涼やかな様を楽しんでいた。
    「まあ、見て! 流れ星が!」
    誰かの声がして、皆が一斉に空を見上げた。
    天の河が美しくたなびく夜空を流れ星がいくつも駆けていく。
    「まあ、あんなにたくさん!」
    「三回唱えるなんて間に合わないわ」
    そこかしこで笑いさざめく声。皆が浮き足立って、流星を指差しては願いを掛ける。
    嵐山も目を見張って夜空を見上げた。
    流星群が来ることは天文道によって分かっていたことだと言うけれど、それがこうして七夕の星祭りに重なるなんて素敵な偶然だと思う。
    ──ああ、星は赤の国で眺めていたのと変わらない。
    山がちの国は晴れた夜空がここよりも近くて、貧しい国の中でも豪奢な星空だけはどこにも負けていなかった、と懐かしく思い出す。
    この流れ星は朱明城からも見えているだろうか?
    どうか家族が元気でしあわせでありますように──。
    嵐山も皆と共に流星に願いを掛ける。
    夜空に尾を引く星々は見る間に勢いを増し、まるで光の雨のようだった。
    奇跡のような光景に人々は息も忘れ、酔いしれるように夜空を眺める。
    「あら? ……きゃあ!」
    流れ落ちていく星のひとつが、一際眩しい光を放って弾けた。
    「流星が! まあ、また……!」
    続けてふたつ、みっつ。燃え尽きるでもなく弾けた光は、やや赤みを帯びたもやになって夜空を漂う。
    彼方の天河の手前で突然に、続けざまに星が砕ける様は異様に見えた。
    「なんと……不吉な」
    「嫌だわ、まるで凶兆のよう」
    「わたくし、今弾けた星に願いを掛けてしまいました……」
    「わたくしもよ。嫌だ、願いが叶わなくなるんじゃないかしら……」
    「声に出すのじゃなかったわ……!」
    動揺した声が広がって、気の弱い女官の中には泣き出す者さえ現れた。ざわざわと『不吉だ』という囁きが広がっていく。
    『奉納舞が失敗したのだろうか』『今宵の技芸を織女星はお気に召さなかったのか』『技芸団を手配した者の不手際ではないか──』
    不安な空気に飲まれた人々の間から不穏な憶測が飛び交い始める。
    今年の祭事を取り仕切った者──それは碧水宮の貴妃さまだ。
    白蓮がお仕えしているお妃さま。自分を舞台に出して下さった方。その方が悪者にされそうになっている。
    いけない、と嵐山は思う。
    みんな雰囲気に流されている。星が流れるのも燃え尽きるのも、珍しいことではない。赤の国にいたときは、もっと遠くのもっと大きな星が弾けるのだって見たことがある。こんなのは偶然だ。
    不測の事態に楽員たちも演奏を止めてしまっている。
    陛下の御前で失態をしてはならない。碧水宮のせいになってしまう──。
    嵐山はつと立ち上がると、舞台の前に進み出た。
    笛を構えると思い切り高い音で吹き鳴らした。
    夜空に届くような高く澄んだ笛の音色を響かせて──それから一番得意な曲を吹き始めた。
    故郷の、赤の国では誰もが知っている詩。身に染み付いた懐かしい曲を一心不乱に精一杯奏でる。
    ざわめいていた人々は、いつの間にかそれに引き込まれていた。
    帝国には馴染みのない異国の情緒を感じさせる調べに、ほう、と肩の力を抜いて聞き入る。
    妓女たちがそっと舞台に上がり、嵐山の奏でる調べに合わせて即興で舞い始めた。各国を巡る技芸団の者たちは、赤の国の素朴な詩も知っていたらしく、笛の音と合奏し始めた。
    嵐山は嬉しくなって、何度も繰り返して故郷の調べを響かせる。
    やがて合奏は一笛から始まったとは思えない見事な盛り上がりを見せ、異国情緒の美しい演し物となって終着した。
    一斉に拍手が沸き起こり、技芸団員たちが拱手して膝を着く。嵐山も慌てて頭を下げた。
    「──見事な演舞でした。そなたらが磨き上げた見事な技芸、織姫星に奉納にするに相応しいでしょう」
    『技芸団のすべての者に褒美を』と涼やかな声がした。
    御座所の右側に設えられた席からしたそれは、きっと碧水宮の貴妃さまだ。
    観客たちも皆、満足そうで先程までの不穏さは払拭されている。
    「皆、流星に驚いていたようですが、あれは凶兆などではありません」
    と几帳の影から貴妃が凛と続けた。
    「星々の一生は長く、その流れるは旅路です。あれだけ多くの星々が、我が国の皇帝陛下の御前を、旅路を終え、果てるに相応しい場所としたのです。陛下の叡智は夜空の星さえも知るところの証でしょう。青龍碧眼の我らが藍玉帝に誉れあれ」
    その淀みのない口上に、祭事に参加した者全てが御座所に向かって跪礼をした。
    「──今宵の祭事は見事であった」
    応えて御簾の内から言葉が下る。皇帝陛下のお言葉に皆、いよいよ頭を垂れた。
    御座所からの声は京介のものだった。ならきっと本当に皇帝陛下があそこにいらっしゃるのだ。
    赤の国から到着し、謁見でご挨拶をして以来のことに嵐山の胸は高鳴った。
    「天を流れる星々をも魅力した技芸は最上の賛辞に値する。特に皆のために尽くした横笛の奏者に褒美を遣わそう」
    宦官が盆に何かをのせてこちらへ捧げ持って来る。
    「これを収めるがよい」
    目の前に差し出されて、嵐山はようやく『横笛の奏者』が自分のことだと気がついた。
    慌てて拝領し、お礼の口上を述べる。
    「……皇帝陛下のご厚意をありがたく拝受し、今後も更なる精進をすることをここに誓います」
    受け取ったそれが陛下の扇であると見て取って、後宮の女人たちも色めき立った。
    皇帝の装身具を下賜されるなんて名誉なことこの上ない。
    「ならびに、その横笛の技芸に対し文童六位下に叙することとする。学寮にて以後も鍛錬によく励むように」
    嵐山は思わず顔を上げそうになったのをこらえて、再び最敬礼をした。跪礼し続けた膝の痛みも吹っ飛んでいた。
    ──陛下に認めて頂けた。俺を見て下さった。
    それは嵐山の短い人生の中で味わったことのない歓喜だった。
    無品の元王子が、今初めて皇帝陛下から青の国の官位を賜ったのだ。
    きっと、きっとあなたにふさわしい妃になってみせます。
    自らの意志で、そう決意するのに十分な出来事だった。
    皇帝の庇護、ただそれのみを後ろ盾としていた若君にとって、やっと自分の居場所を見つけられた。小さな胸に抱いていた願い事が叶った夜だった。






     
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