~後宮御用聞き、迅と朱雀の君メジロと月に咲く花
「嵐山、こんなとこにいた」
「じん」
継宮の梨園の端っこで木を見上げていたらしい若君に、迅はほっと息をついた。
「何を見てたの? 珍しい鳥でもいた?」
隣に並んで同じように見上げたメジロは首を傾げる。
継宮の庭園らしく整えられた庭木以外に目立ったものはないと思うのだが。
「あの黄色の花はなんだろう、と思って」
嵐山は精一杯腕を伸ばしてこんもりとした緑の枝先を指した。
「なんだかとても良い匂いがするのも、あの花だろうか?」
「ああ、そうだね。あれは金木犀だよ。確かに良い匂いのする花だよね」
「きんもくせい……あんなに小さな花なのに。すごいな」
感心したように言うこの若君は、高地の赤の国の元王子だ。確かに金木犀は寒さや乾燥にやや弱いから国元では見たことがないのかもしれない、と思い至る。
「この木はまだ咲き始めたばかりみたいだね」
だから黄色が上の方に密集しているのだな、と迅は一生懸命、背伸びしている小さな若君に手を差し伸べた。
「よいしょ!」
「わっ、」
「気を付けてよ」
「高いな! すごい!」
ひょい、と肩車された嵐山が歓声を上げるのに『落ちないように気を付けて』と注意する。
「ありがとう、迅! 花が近くなって良く見える」
「それは良かった。けど、こんな端っこの木に良く気がついたね」
「毎日、庭の散歩をするからな。何日か前から微かに香りがしてて気になってたんだ」
『ああ、本当に良い匂いだなあ』と嵐山は枝先に手を添えてうっとりしたように言った。
「季節がもう少し進めば庭のあちこちで咲くと思うよ。継宮の東の対屋にも大きな木がある」
「本当か!」
「うん。それに匂いが好きなら桂花茶とかあるし」
「けいか?」
「金木犀のお茶。あとは金木犀の砂糖漬けとか、おまえにはまだ無理だけど、桂花陳酒とかいろいろあるよ」
「それは素敵だなあ」
「たくさん咲くけど長くは持たないし、長雨が来たら落ちてしまうからね。だから、いろんな形で楽しむんだよ」
「みんな、この花が好きなんだな」
「そうだね。秋はお月見の季節だし」
「お月見と関係があるのか?」
「月には大きな金木犀の木が生えているってお話があるんだ」
「月に?」
「月に住んでる女神の宮の庭にね。秋に満月が金色に輝いて見えるのは、その金木犀の花が満開になるからなんだって」
『月の女神が地上の月見の宴の美しさにつられて舞いを舞ったら、女神の夫が花ざかりの木の幹を叩いて拍子を取った。それで花弁がこぼれ落ちて、そのおかげで地上にも金木犀が根付いた、というお話』
と、迅が説明してやると嵐山は頭上で『ふうん』と唸った。
「舞を舞ったら……きっと夫が喜ぶくらい美しい舞だったんだな」
「そこ?」
常に芸事の鍛錬に余念がない若君に、迅は苦笑してしまった。
本当に真面目でがんばりやの若君だ。
「さて、もう戻ろう。侍従の君が心配するよ」
「あ、待ってくれ! 充にも見せたいから、ひと枝だけ……あ、でも、手折ったりしたらかわいそうかな……」
「花盗人は風流のうち、とは言うけどね」
迅は笑って『大丈夫、メジロにお任せ下さい』とのたまった。
「うん?」
「ちゃんと掴まっといてよ」
そして、そのまま歩き出すと嵐山は慌てた声を上げた。
「迅、重くないのか?」
「ぜんぜん」
「全然重くないのか……」
「あ、いやいや重いよ! 若君は成長著しいから、重くて大変!」
「なら、下ろしてくれていいのに……」
少し拗ねたような口調が可愛らしくて迅は思わず『あはは!』と声を上げて笑ってしまった。齢九つになったばかりの少年は、早く大きくなりたい、と事あるごとにそればかり願っている。でも。
「肩車、楽しくない?」
「たのしい。すごく景色が高い。空が近い」
嵐山が空を見上げたのが分かった。澄んだ水色の高い秋空。のどかに流れる鰯雲に金木犀の香り。肩にのせた重みとぬくもり。
ありふれた、けれど愛おしい秋の日だ。
「なら、いいじゃない。肩車なんて今のうちしかしてあげられないよ、きっと」
「……そうか。なら、迅号、速歩(はやあし)だ!」
「ええ!?」
迅の頭にそっと手を添えた嵐山は、そんなことを言って軽やかに笑った。
「継宮の若君に皇帝陛下からの贈り物をお持ちしました」
「これはこれは、また改まって。ありがとうございます、迅さん」
両腕いっぱいの荷物を運んできた迅に、侍従の時枝が慌てて手伝ってくれる。
「うわあ、すごく良い香りがしますね、なんですか、こんなにたくさん」
「これはね、」
運びこんだ品々を全部、居間の卓にのせながら迅が得意げに口を開いたところで、若君が廊下から駆けてきた。
「迅!」
「こんにちは、若君。ご機嫌はいかがかな」
「元気だぞ! 金木犀の匂いがするな!」
「さすがだね」
卓上でがさがさと包みを広げる。
「まずこれが桂花茶。それと桂花醤に、それを練り込んだ月餅。お香と香油。あと一応、お酒。飲めなくても金木犀の花の姿が浮かんで見えるよ」
「すごい、こんなにたくさん」
嵐山が目を丸くするのに、迅はこれでも品数を絞ったんだけどな、と内心で思う。嵐山が妃嬪だったなら、きっと金木犀の柄を織り込んだ錦で仕立てた衣装だとか、橙色の宝玉を使った首飾りだとか、花の形の金細工の歩揺だとか、もっともっと貢いでしまったことだろう。
「本当に良い香りですね。若君、こちらのお茶をさっそくお淹れしましょうか?」
時枝が微笑むのに嵐山は勢い良くうなづいた。
「迅、一緒にお茶を飲もう!」
「喜んで」
溢れんばかりに広げられた品々をためつすがめつしている若君に、迅は声を掛ける。
「嵐山」
「うん?」
懐から出した手巾に包んだものを取り出した。
「あと、これだ」
と、それを若君の頭上で広げた。
「わあ……?」
たくさんの金木犀の花弁が中から零れて若君に降りかかる。
──月の女神の夫が地上に零したという雫のように。
艶々した黒髪を黄金の粉をまぶしたように飾り付ける花弁に、迅は心の内で快哉した。
身を飾る高価な宝飾品など、なにも望まない小さな妃候補に、それはとても良く似合っていた。
桂花の庭院、月は紛紛。
「──一枝を折り得て携へれば袖に満ちて、羅衣、今夜熏ずるを須たず」
「迅?」
「このひと枝がありさえすれば、他に香を焚きしめる必要もないってこと」
「本当にそうだな。良い香りでいっぱいだ。迅、ありがとう!」
「どういたしまして」
心から嬉しそうに笑ってくれる顔に、それだけで迅の胸は満たされる。
まるで金木犀の香りのように、豊かで甘やかな気持ち。
この小さな花が掌中にありさえすれば、他に花は必要ないのだ、と、迅は穏やかに思った。