~後宮御用聞き、迅と朱雀の君継宮の若君、皇帝陛下の筆跡を賜ること。
継宮は皇帝が後宮へ渡る前に支度をするための休息所である。
しかし、奥泊まりよりも気楽に行ける場所であるため単に息抜きにおとずれて、そのまま後宮へ渡らずに中泊まりをすることもある。
後宮へ赴く回数を最低限で済ませたい今上帝はとくにその傾向が強い。
広大な皇居よりもこじんまりとした趣の宮を皇帝──迅は元々好ましく思っていた。
規模が小さい故に護衛官の数も少なくなるし、何かをする度に挟まれる儀式の仰々しさも減るので気が休まるのだ。
歴代の為政者は皆、同じような思いをしていたとは思うのだが、後宮へ行くのが気晴らしにはならない迅は、本当にここを手近な離宮と思って、いろいろと自分に取って居心地良く整えてきた。
主寝室と居間と控えの間の数部屋しか使用してはいなかったが、そこからの築山の眺めが好きだったため、迅は主に東の対屋を使っていた。
西の対屋に継宮の主として若君が暮らし始めてからは、そちらへ足を運ぶ事の方が多く、東の自身の居室は放置気味であった。
それでも嵐山が来てからの継宮は、皇帝がごく稀に足を運ぶだけだったときより活気が感じられて良いと思う。
特に厨の料理人などは毎日、腕を奮うことができるようになって喜んでいる、というのは側用人から聞いたので本当のことだろう。
そこから聞いた食膳の話であるが、若君は特に魚介類を好むという。
大陸の南の辺境、天険、華南山脈の膝元で育った王子には海の幸がなによりのご馳走だったのだろう。
青の帝国は有用な港を幾つも有し、王都からも三日もあれば海市へ行くことができる。
いつか皇帝の行幸に同道させて海を見せてやりたいものだ、と迅は先に思いを馳せる。
珍しいもの、美しいもの。いろんなものを見せてやりたい。きっと嵐山はあの翠玉を輝かせて喜んでくれるはずだ。
そういう楽しみを想像出来る、というだけでも迅にとっては嵐山の存在は本当に貴重だった。
そんなわけで東の対屋に足を踏み入れるのは本当に久しぶりだった。
絨毯や天蓋の色柄から寝具や家具の調度品まで自分の好みで統一された宮はやはり心地がいい。
とはいえ今日は皇帝として訪れたわけではない。
常の如くメジロとして西の対屋へ嵐山のご機嫌伺いに来たところ、侍従の時枝が『若君が行方不明です』と困り果てていたのだった。
さして広くもない中奥の事だ。手分けしてくまなく探せば見つかりそうなものだったが、常駐の官吏がいない継宮ではそれがまかり通らないところがある。
継宮の主として嵐山は宮内をどこでも好きに歩いて良い、と皇帝から許されているのだが、従者や下男はそうはいかない。
要するに畏れ多くも皇帝陛下の居室のある東の対屋には踏み入れない、という事情があるのだった。
嵐山が今更迷子になることもないであろうし、隠れんぼをして人を困らせることもない。
大方、何か書物にでも夢中になっているか眠り込んでしまっているか、といったところだろう。
『迅さんはお役目柄、東の対屋へ足を踏み入れられますよね?』と圧のある笑顔で頼まれれば断る理由もない。
迅は東側の庭園を臨む廊下を久しぶりにゆっくりと歩いていた。
折しも昼下がりの穏やかな時間。庭園の樹木に住む小鳥の囀りがたまに耳に入る以外は静かなもので、もし嵐山が探索にでも来ていたのなら、どこか陽当たりの良い場所でお昼寝をしてしまっていてもおかしくない。
「あれ?」
さて、若君はどこにおられるものか、と外廊下から使われていない部屋を覗いてみると飾り棚の上に黒猫がいた。
「えーと、黒?」
自分が嵐山に出逢うためのだしとして使ったときは本当に小さな子猫だったのだが、久しぶりに見るとだいぶ成長したようだった。
もはや迅のことなど知らんぷりの様子に思わず苦笑しながら問い掛ける。
「黒、おまえは東の対屋も縄張りなの? ひょっとして若君がどこにいるか知ってる?」
黒猫は聞いているのかいないのか、棚からひょいと下りるとひとつ伸びをした。
話しが通じたとは思わないが、滑らかに腰をくねらせながら歩いていく黒猫の後ろに付いていってみることにする。
確か雌猫だと聞いたし、これは確かに継宮一の美姫である、と思えば、迅も男なのでほいほい付いていってもおかしくはないだろう。
冗談のネタは幾つあっても良い、なんて以前の自分は思わなかったな、と我ながら可笑しくて忍び笑いをしながらのんびりと猫の尻尾を追っていく。
「ん、ここ?」
やがて黒猫は廊下をすいっと曲がり皇帝の私室の見切りの手前で立ち止まった。
まるで入室許可を待っているような姿に、まさかね、と思いつつも、
「良い。黒猫姫に皇帝の私室の間への入室を許す」
と軽口を言ってみると、本当にそれを聞いてから猫は居間へ入っていった。
「ええー、賢いな……?」
ひょっとして猫にまで正体がバレているのかなあ、とも思って苦笑した。よくよく気を引き締めなければならないかもしれない。
久しぶりの自分の居間に入って中を見渡すと、掃除は行き届いているし空気も綺麗だ。黒猫は? と見れば小上がりに敷き詰められた座布団の上ですでに丸くなっていた。
ふかふかの座布団や枕を集めたそこは迅も気に入っているので、やっぱり大した猫姫だなあ、と呆れ気味に感心した。
と、そこでやっと隅の長椅子に嵐山がいるのに気がついた。肘掛けにもたれてすやすやと寝息を立てている。
飾り格子の丸窓の下に置かれた長椅子は装飾品の意味合いの方が強い。
窓から射し込む午後の陽射しにきらきらと埃の粒が舞っている。梨園の小鳥の囀りだけが聞こえてくる窓辺で、健やかな寝息を立てている継宮の若君。
迅は穏やかな、その美しい絵のような眺めに見蕩れて……ふと違う光景を見た。
場所は同じ丸窓の下の長椅子で。
でもそこにゆったりと横たわって黒猫を構っている美しい人は青年だった。
寛いだ表情で猫をあやして、ふと目線を上げて迅を見ると翡翠色の瞳を細めて微笑んだ。
その身に纏った豪奢な上衣は皇帝の禁色、瑠璃碧で──。
「……、」
思わず声を掛けそうになったところで、その景色はかき消えて、目の前では幼い若君が穏やかに眠っている。
思わず息をついた。安堵の息だ。
垣間見た未来(さき)の光景。あの明るい笑顔は、今迅が辿っている道筋が間違っていない、と教えてくれている。
嵐山が手元にやって来てから、迅はそれまでの自分の人生は、心持ちは、荒んだものだったのかもしれない、と考えるようになった。
齢十二にして皇帝位に就いてから、否、それ以前からも自分という存在は人というより物に近かった。
青龍碧眼を発揮するための『物』皇帝という装置。
後宮の妃嬪たちとてそうだ。妃という物。側近たちは官吏という物だった。
国をつつがなく動かすための部品でしかなく、そこでは個人がしあわせか否かなど問題にもされない。
荒んでいた、と言えよう。
『献上品』としてやって来た嵐山は、その最たるものだったはずなのに。
この子どもを物としていかようにも扱う権利が自分にはあった。けれど、そうしたくない、と思って。それから自然と、人としての有り様を思い出していったのだ。
嵐山が健やかに笑っていてくれれば嬉しいし、しあわせだと感じる。自分もしあわせを感じることのある人間なのだと思い出した。
嵐山が本当に書類の通りに十八歳の大人だったならこうは思わなかったかもしれない。
今はこの若君の幼さを幸運な巡り合わせだと思っている。
ただ聡明と評されるだけが取り柄の装置のような皇帝より、今の自分の方が、国と民のための皇帝でいられていると思えるから。
だからまあ、特別扱いしちゃうのは仕方ないよなあ、とひっそり言い訳してしまう。
誰よりも何よりも特別だと思えば『いつか』を幾らでも待てる……とまでは言い切れないのは男の性かな。
迅の気配にも気付かず午睡に浸っている若君は、しあわせそうだから、今はまあ良しとしよう。
よく見れば嵐山の膝の上には書紙があり、手には筆を持ったままだった。
こんな所で何を書き付けていたのだろう、とそっと抜き出して読んでみるとそれは詩歌だった。
在天願作比翼鳥 在地願為連理枝
天長地久有時尽 此恨綿綿無絶期
天に在っては願わくは比翼の鳥と作らん
地に在っては願わくは連理の枝と為らん
天は長く地は久しきも時有りて尽くとも
此の想いは綿綿として絶ゆる時無からん
「……生々死々に決して離れまいと誓う」
思わず口の中で暗唱してしまった。
長椅子の前で振り向くと、向かい側の壁にその一節の書画が飾ってある。
当代の書聖と名高い書家の手によるものを掛け軸に仕立てたものだった。
それがここにあると誰かに聞いてお手本にしようと思ったのだろう。単に静かな場所で昼寝をしていたわけではない。嵐山は本当に勉強熱心な素晴らしい若君だ。
けれど、肘掛けに不自然にもたれた格好では首を痛めてしまうかもしれない。
迅は起こしてしまわないように嵐山の体をそうっと抱き上げると居間を出る。
控えの間を過ぎると皇帝の主寝室へ入り、大きな寝台の上に下ろしてやった。
「……ん、む、」
小さく息を漏らした嵐山はごそごそと体勢を変えると丁度良くなったのか、またすうすうと寝息を立て始めた。
迅はくすり、と笑う。いいこだ。寝る子は育つ。
寝室の衣桁には予備の衣装が掛けてある。
まあ、この時期に風邪を引くことはないだろうけれど。
迅は瑠璃碧のそれを、眠っている嵐山にふわりと掛けてやった。
いつか、この色の正装を身に纏うこいつの姿をこの目で見たいものだ、と。
きっと目映いほどに美しく、誰よりも良く似合うだろう。
「……ん、あれ?」
目を覚ましたらそこは見知らぬ部屋だった。美しく整えられた室内、見事な天井の梁飾り。
はっとしてがばりと身を起こす。
広くて立派な天蓋付きの寝台。これって皇帝陛下の寝台じゃないか!?
なんでこんなところで寝てしまったのか。いくら自由に出入りして良いとお許し頂いていても、これはあんまり不敬じゃないか──。
「あ、れ……これは、」
寝台の上で起き直ってみて、肩から滑り落ちたものに気が付いた。
上等な絹地に銀糸の刺繍。水晶の玉の縫い取りの豪奢な瑠璃碧の上衣。
「陛下──?」
禁色の衣装を、誰か官吏が嵐山に着せ掛けるなんて有り得ない。
皇帝陛下がここにいらした?
寝てしまった自分を寝台に運んで下さったのか──?
「……。」
膝に乗せた衣装を嵐山はするり、と撫でた。手触りの良い上等の絹地をそっと。何度も。
それは幼いながらにも慕わしさのこもった手付きだった。
だいぶ日差しが傾いてきている。
どれくらい昼寝してしまっていたのか分からないけれど、きっと時枝が心配している。西の対に帰ろう、と居間へ片付けに入ったとき、それに気付いた。
部屋の中央の丸い卓に自分の筆記用具がまとめられていた。
これも陛下がして下さったのか、といそいそとそれを持ち上げる。
「あ!」
自分が書いていた書紙の余白に詩が書き足されていた。
桃之夭夭 灼灼其華
之子于帰 宜其室家
桃の夭夭たる しゃくしゃくたる其の華
この子往き嫁がば その家に宜しからん
「!」
鮮やかな墨つきの精緻な文字の形。
これが陛下のお筆跡(て)なのだ! と嵐山は直筆の書を賜ったことに興奮した。
初めて皇帝陛下に頂いた文を思わず抱きしめそうになったが、もったいない! とわたわたと手を上げ下げしてしまった。
どうしよう。とても嬉しい。お返事を書いても良いものだろうか?
ああ、すぐに京介に訊きたい。それとも迅が来てくれないかしら。
城内には桃園もあると迅が言っていた。いつか、陛下とともに桃の花を眺めたいです、と伝えたい。
ひとり胸を高鳴らせる嵐山のことなど、素知らぬ様子で座布団から下りてきた黒猫がくあ、と欠伸をした。
「黒? 黒もここで昼寝してたのか?」
嵐山は黒猫にそっと呼び掛けてみる。
「黒は陛下にお会いしたか? お前と話しができたら良いのになあ」
黒猫は尻尾を揺らしながら『存じませんわ』と言うようにするりと部屋から出て行ってしまった。さすがは継宮唯一の姫宮さま。
『ふふ』と笑ってから、卓の上の陛下の筆跡に向き直る。
詩歌の勉強をしている嵐山は知っていた。
──桃の木は若く、その花は燃え立つように美しい。この子が嫁ぐのならば、その嫁ぎ先の良き妻となるだろう。
「……はい」
早くふさわしい妃になれるように、もっと鍛錬に励みます。