「鍾離くん!」
それから一週間後、待ちかねたその声が自分を読んだのに、鍾離は街中で声の方向を振り返った。
珍しく息を切らせた様子で鍾離にとびかかるように近寄ってきたシキに、大型犬を重ねながら鍾離は笑みを浮かべる。
「ずいぶんと慌てているな、どうかした?」
「お願いがあるんだけど」
背を伸ばして鍾離と目を合わせたシキは、真剣な様子で口を開く。
「俺に手紙の書き方を教えてほしいんだ」
「手紙?」
シキの意図を察しながらも、鍾離は注意深くその思惑を問いかける。
「嬉しい手紙をもらったんだよ。でも俺は璃月での手紙の書き方なんて知らないから、返事が上手く出せなくて」
「親しい者に送るのであれば、そう畏まらずとも良いのではないかと思うが」
「……格好をつけたいんだよ。教えて、鍾離くん」
少しはにかむようにしたシキの声音に鍾離はうなずいた。
「良いだろう。授業料は高いぞ」
「君の言う額だけ払うよ」
気負うことなくそういったシキの財力がどれくらいのものかは知らないが、この件に関しては鍾離はモラで測ることをするつもりはなかった。
「まずこの前の約束の催促をしたい」
「大丈夫。覚えてるよ。ごめんね、出かけちゃって。日付を決めていたわけじゃないから、先に友達の手伝いに行っちゃったんだ」
「そうだろうな。だから咎めるつもりはない。そして授業料の話だが、お前と酒を飲みたい」
「お酒?構わないよ」
そう答えたとなると、多少なりとも飲める体質のようだ。酒と風情を楽しむことができる鍾離にとって、それは行幸だった。
「せっかくだ。街の外で、手合わせの後飲まないか?」
「いいね。そうしようか」
すんなりとシキは承諾する。話がテンポよく進む。心地よさを感じた。
「いつにする?」
シキの楽しみにするような声音に、鍾離はシキを見やる。
「手紙を書きあげてからだな。この後時間はあるか?」
「あるよ。この一週間は君のために空けてるよ。鍾離くん」
そんな言葉に喜んでしまう自分に、まだこれほど容易く心動かされる自分がいることを新鮮に感じる。とはいえそれほど表情を変えての反応はしていないので、シキの目にはいつもと変わらない鍾離に見えるのかもしれない。
往生堂に行くと机越しに向かいあい、鍾離は手紙の書き方を教えた。シキはお手本のような字を書く。鍾離が送った手紙は、恋文だ。お前がいないと寂しいので早く会いたいを遠回しにつづったものだったが、そういえば、その返事を書くのだ。つまり、シキが書く返事を見ながら直すことになる。手紙には普段心の奥から出ない言葉がつづられることが多い。近くにはいない相手を思いやり、知ってほしい自分のこと、知りたい相手のことを問う。
シキの手紙は、色鮮やかな文章だった。シキがモンドで体験したことを綴り、その地での友人のことを綴り、そして鍾離の言葉に喜んでいる素直な心が綴られていた。手紙が嬉しかったこと、もらうのは初めてだという文章を見、鍾離はシキの顔を眺めた。
シキも旅人だ。行く先を知る人などいない。出したとしてシキには今まで届かなかったのだろう。シキは手紙を書くのが楽しいらしく、表情にもそれが出ている。最後には手合わせを楽しみにしていると綴り、それを封筒に入れると、シキは立ち上がる。
「どこに行く?」
「手紙を出しに行くんだよ」
目の前に宛先人がいるのに、律儀だと思いながら、鍾離はそれも道理だとうなずいた。届くのが楽しみだ。
速足で一度出ていくと、シキはすぐに戻ってきた。
「それじゃあ、鍾離くん、お酒買いに行こうか。おすすめの銘柄、教えてくれる?」
微笑んで鍾離を誘い出すシキの内心は読めない。この後手合わせが待っているというのに、気負う様子もない。それがシキの常態なのだと鍾離はもうわかっている。
街を出て適当な草原で行おうと、二人はともに璃月を出た。
人目につかなさそうな崖下を見つけると、シキは距離を取って鍾離に向かいあう。ピンッと金属をはじく音がして、コインがシキの手元から空に弾かれたのを見た。
「これはボードゲームに使うコインだよ。これが地面についた瞬間に、手合わせ開始」
「良いだろう」
武器を手に、二人とも軽く構えるだけにとどめる。この前、わずかに背を預けただけで、お互いの手の内をすべて知っているわけじゃない
「準備は?」
「出来ている」
頷いてシキが涼やかな金属音をさせてコインをはじいた。放物線を描いて、それはシキと鍾離の中央に綺麗に落ちる。同時に地を蹴った。速さはシキのほうが勢いづいている。先手必勝を狙った突きに、読んでいたと鍾離は槍を蹴り力をかけてシキの鋭い一撃を上に跳ねのける。
防がれたというのに、シキの口元が楽しそうに笑んだ。
鍾離は力の流れを殺さず、槍を回転させた。構えなおすと同時に突きの動き。初撃が弾かれるのを予想していたらしく、シキは武器で受けずにくるりと体を回して避ける。そのまま大きく薙刀を振り回し、上からたたきこんでくる。
即座に飛びのいて、シキの攻撃が空振りしたのに、深追いをせずに体勢を立て直す。
防がれるたびにシキが楽しそうになるのに、なるほどと鍾離は言葉だけで聞いていたシキの性質を理解した。
どちらも長柄物だ。いかに間合いに踏み込むかが勝利の鍵となる。
高揚する自分を鍾離は丁寧になだめた。シキをよく観察し、呼吸の途中で攻撃に移る。タイミングをずらされたシキは、それでも鍾離の槍の先端を、細い柄で器用に受け止めた。バランス感覚が良い。強弱をつけて揺さぶっても防御が揺るがない。離した瞬間に隙を狙ってシキが踏み込んでくる、薙いできたシキの攻撃を二歩下がって避けた。もう一歩踏み込んできたシキの突きをかいくぐる。笑みが浮かぶ。心が躍る。その瞬間、シキが動揺したように気配を揺らがせたのを感じた。逃さないと柄の先でシキの体をとらえて腹を突く。
「ぐっ」
思いがけず綺麗に入った攻撃に、鍾離は好機と槍を突き出した。シキの目が見開かれる。攻撃が決まる、その直前で、ぴたりと、シキの眼前で切っ先を止める。
思ったよりもあっけなく勝負がついたのに、その理由を問おうとした鍾離は、シキがわずかに頬を染めているのに気が付く。
「鍾離くんもそんな顔をするんだね。……不意を突かれちゃったな」
口元を隠すようにしたシキの、これまでにない反応に目を数回瞬いた鍾離は、それから小さく笑う。
「お前が楽しそうだからついな」
「ずるいよ。……油断したのは俺だけど。」
もどかしそうな様子で髪をかき上げるシキは、それから溜息をついた。
「勝てないな。また勝負してくれる?」
「お前がもう少し、自制を覚えられたらな」
「そういうことを言う。鍾離くん年上ぶるよね」
年上ぶるもなにも、岩王帝君なんだが、知っているだろう、とばかりに視線を向ける鍾離に、シキは先ほどの戦いを思い返しているのか真剣に何かを考えている様子だった。鍾離も先ほどの戦いを思い返す。楽し気なシキは、強敵に高揚しているようだった。瞳に自制の光が消えていくのを感じていた。なるほど、快楽主義とはそういうことなのだろう。
シキと一緒に崖の上にのぼり、二人は並んで座った。夕暮れに紫が徐々に夜の色に変わるのを二人で眺める。シキはだまってその風景を楽しんでいるようだった。黙って隣に居て心地よい。静寂を、風情を楽しむことができる。
少し待てば世界に夜が訪れる。良く晴れた夜空に満天の星が浮かぶ。
「世界は美しいね」
やがて口を開いたシキは、そう口にした。飾り気のない素直な言葉は、感嘆の息が込められて、シキの本心だとよく伝わってきた。
「ああ」
「少し前まで、俺にはこの美しさが分からなかったんだ」
つぶやくようにそう口にしたシキを振り向く。シキは風景を眺めながら、穏やかな声音で話を続ける。
「空くん達と出会うまで、俺には多分、心がなかった。人の定義を君はどう思う?俺は人の心があるかどうかだと、思ってるんだよ」
時折感じる、感情の抜け落ちたようなシキの様子は、それに由来しているのかもしれない。
「笑うことを覚えた。悲しむことを覚えた。誰かの幸福を願うことも、誰かの幸福を喜ぶことも覚えた。でも俺は、誰かを大切に思うことは分かっても、人を愛するということが分からない。だから恋なんてしたことがないよ。それがどんな感情か、俺は知らない」
はい、と、酒の口を空けて、持ってきていた盃を鍾離に渡す。注ごうと傾けるその先に盃を上げて、鍾離はシキに酒を注がれた。
「鍾離くんが俺に向けてくれる感情を嬉しいと思う。応えたいと思うこともある。でもそれは単に鍾離くんを喜ばせたいだけで、俺は君を好きなんじゃないのかもしれない。モンドに一度出ながら、そんなことを考えてた」
シキに酒を注いでやると、二人で軽く掲げて、酒を口にする。芳醇な香りだ。度数は高いが、するりと飲めてしまう。
「どうして俺を喜ばせたいんだ?」
「それは、君が空くんとパイモンちゃん、そして俺の友人だからだよ」
「お前に友人はたくさんいるが、その全員の願いをお前は叶えたいと具体的なことを考えるのか?」
「そ、れは……」
シキは目を見張ってから、首をかしげる。
「俺、鍾離くんが好きなのかな?」
「はは。そう聞かれたらそうだと俺は答える。駆け引きに自信とはったりは必要だ。もちろん根拠も必要だが」
「鍾離くん結構、侮れないというか、適わないなって思うときがあるよ」
「何を目的に送仙の儀をしたか、お前は知っているだろう」
「そうなんだけどね。先生はすました顔をしているから、そういうしたたかさや愉悦とは無縁に感じちゃうんだよ」
「お前が俺が笑ったことで動揺した理由が分かった」
鍾離は笑みを浮かべる。今度は穏やかなものだ。
「俺の心はもう伝えてある。シキ、あとはお前が好きにすればいい。俺はお前の決めたことなら、受け入れる」
「……分かった。もう少し、考えさせて」
そう言ってシキはやわらかく目を細めるようにして笑う。
「鍾離くんは、俺にとっては、好きだって言ってくれた時から人なんだよ。不敬かもしれないけど、俺の人の定義を聞いたよね。君に好きだと言ってもらえるもので、良かったな」
人と自分のことを定義しなかったシキに、鍾離は目を細める。シキは気づいているのかいないのか、心の奥を探すように胸に手を当てた。
「飲もうか、鍾離くん」
酒瓶を持ち上げたシキに盃を差し出す。注ぐ手の指が長くてきれいで、武器を持つ者の手とは思えず鍾離はそれを眺めた。
シキはもう長く璃月に滞在している。時間はもうないだろう。
発つ前に彼の答えが出るといい。まだ出ないでくれとも願う自分の心の揺れる様と、盃の水面を見比べて、鍾離は口を付けた。