撮影時間に間に合うどころか随分余裕を持って支度をし、自室の扉から外に出ると佐神が待っていた。住所を知っているのは不思議ではないとして、タルタリヤが支度する時間に間に合わせているところに、佐神の卒のなさを感じる。
「おはようございます。タルタリヤさん」
あの夜のことなど覚えてないとでもいうような仕事用の微笑でタルタリヤを出迎えた男に、ふーん?とタルタリヤは目を細めた。
「おはよう。いつから待ってたの?」
「ちょうど今来たところです。俺のことはお気になさらず。車は地下に停めてあります」
佐神の後について、マンションの地下駐車場へと向かう。タルタリヤが住んでいる場所は億ションと呼ばれるだけあって、名だたる高級車が並ぶ駐車場だが、その中でも黒塗りのその車はタルタリヤを喜ばせた。上に開くシザードアにも興奮して、助手席に乗り込むと、シートの滑らかな触り心地や、違う視界の高さを堪能する。
「俺も運転したいなあ」
「免許を取りたいのなら手配しますよ」
「いいね。って……手配できるの?」
有名人ゆえに、学校もままならず全てファトゥスが用意した家庭教師と自習で勉学は身につけ、試験さえパスすれば単位が取れる学校に通っていた。
「ええ。金で解決出来る問題ですよ。方法さえ知っていればね。社長はあなたが望むなら同意してくれるでしょう。スケジュールの調整は必要にはなりますが」
何でもないことのようにいうが、それはタルタリヤには出来なかったことだ。違法だが、金で免許を買うことはできる。金で免許を買うような人間は、実際にレースに使われるようなサーキット場のコースを貸し切って練習をするようだが、鍾離はそんな不正をよしとしない。ファトゥスに頼めば簡単な話だが、タルタリヤもそれをよしとしなかった。やるからにはちゃんと身につけ、撮影でも使えるようになりたい。14歳でタルタリヤという芸名をつけられ、華やかなデビューを果たし、トップアイドルとして駆けてきたタルタリヤが、自由になったことは人生でほとんどない。それでも、普通の人生では味わえない興奮を追い求めて、タルタリヤはいっそストイックだった。
「じゃあお願いするよ。スケジュールは自分で立てるからね」
「ええ。承知しています」
今までつけられたマネージャーたちのように、口うるさいこともない。もともと悩む性質ではないのと、仕事上で何らかの問題が起こったときには、実力での解決か、もしくはすぐに鍾離に声をかけられるためにすぐに解決してしまう。そのため仕事の悩みというものはほとんど存在しなかった。多少頭を悩ませている性欲についても、鍾離と、そして今は佐神が居る。完璧じゃん。と機嫌を良くしながら、タルタリヤは佐神を眺めた。その顔を眺めてから、タルタリヤはふと後ろを振り返る。
「どうかしましたか?」
「いや、唯嘉が後ろを気にしているように見えたからね。気になることでもあるのかな」
「気になることというか、ふらついていたので気になっただけですよ。単にスマホをいじってただけみたいです」
「ああ、そう」
佐神の返事に興味をなくしたタルタリヤに佐神は口元に笑みを浮かべる。
「そんなに見つめられても何も面白いことは起こりませんよ」
「俺は結構楽しいよ。今何考えてるんだろう、とか考えたりね」
「通行止めの準備が始まっているようなので、人が集まりだしているのに、少し厄介だなと考えていたところです」
「撮影現場の?」
窓の外を見やってタルタリヤは、人と車が多いのに嘆息する。
「俺がついてからにしてほしかったな」
交通整理の制服を着た男が、佐神たちを乗せた車を誘導しようとするのに、窓を開けてタルタリヤは顔をのぞかせる。
「通してくれる?」
「おはようございます。タルタリヤさんですね。どうぞ」
男はびっくりした顔をしてから、さすがモラクスが手配している人員なだけあり、スムーズに通行止め用の柵を退けて車ごと中に招き入れる。乗り入れた先には、璃月らしさのある建物が並ぶ通りが続いている。関係者用の駐車スペースになっている道路に車を停めた佐神が良いという前に車から降りると、監督とスタッフが集まっている方へと足を向けた。
この道路の使用許可が出ているのは4時間だけだ。出した一曲で何パターンかMVを作るのを好んでおり、今回はダンスMVの他に、璃月でしか撮れないMVを撮るつもりでロケ地を決めた。打ち合わせは写真を用いて既に行われており、確認のあとすぐに撮影が始まる予定だ。タルタリヤは佐神のことを監督に紹介しておこうとして、佐神が居なくなっていることに気づいた。車があるのでいるはずだが、姿は見当たらない。一服でもしてるのかも、とポケットに入っていた煙草のことを思い出したタルタリヤは、それならいいかと撮影に頭を切り替える。
異変があったのは、エキストラを配置につかせた直後だった。
撮影を始めようと全員が待機し、監督が口を開こうとしたその時、佐神がまっすぐにタルタリヤとカメラの前を横切る。その有り得ない行動にタルタリヤが目を見張った次の瞬間。
「ああああああああ!!!!」
撮影前の静寂を破って、男の叫び声が周囲に響き渡る。同時に身をかがめて走り出した男の手元には、ぎらりと光るナイフがある。タルタリヤの前に出た佐神は、臆するそぶりもなく足を踏み出した。
「どけええええ!!!」
ナイフを振り回し、佐神を追いやろうとした男に、佐神が軽くその手を叩くとナイフがあっけなく地面へと転がる。
「なっ」
慌ててナイフを拾おうと地面に手を伸ばした男の手を佐神は遠慮なく踏みつけると、小突くような軽い動きで、膝で頭を蹴る。弾かれたような反応をしてから、男は地面に崩れ落ちる。気絶したんだと気づいた時には、佐神は自分のネクタイを引き抜くと、男の手を後ろに回して手首を縛りあげる。
「さ、佐神君」
監督が慌てたように近寄るのに、知り合いだったのかと目を丸くしていたタルタリヤは、面白がって笑みを浮かべると佐神たちに近寄った。
「撮影の邪魔をして申し訳ありません」
「いや、あらかじめ聞いていたから構わないが……、身体検査もしてあるのに……」
ナイフを拾い上げた佐神の手元を見ながら、青ざめた顔で監督は溜息をつく。
「撮影場所が街中ならあまり意味をなしませんからね」
「いや、助かったよ。しかしこのエキストラ、私の撮影によく来てくれていたのに、どうして……」
惜しむような声を出した監督を気にかけず、タルタリヤは口を開く。
「唯嘉」
機嫌の良いタルタリヤの声音に、佐神は困ったやつだなと言わんばかりに小さく笑みを浮かべる。
「スリリングでしたか?」
「割とね。サプライズにしちゃ上出来だ。それに、唯嘉の容赦のなさにも興奮しちゃったよ」
「加減したので怪我はしてないはずですよ。数時間は痛むかもしれませんが」
「ただのマネージャーにしては、身のこなしがよすぎるよね」
「マネージャーじゃありませんよ」
さらりと返した佐神に、問い返す間もなく佐神は監督に視線を向ける。
「警官が待機してくれているので、引き渡します。話はつけてあるので、事情聴取は撮影後で問題ないと思います」
「ありがとう。いや、鍾離先生の言ってた通りに頼りになりますね」
「仕事ですから」
微笑んで佐神は、話を聞いていたらしい他のスタッフに声をかけ、男を運び、機材などを準備していたテントの方へと連れていく。
「タルタリヤ君、撮影できそうかい?」
心配げな監督にタルタリヤは笑った。
「もちろん。むしろ楽しくなってきたよ」
「君らしいね。じゃあ、五分休憩いれて落ち着いたら、撮影開始しようか」
「はあい」
返事をして、タルタリヤは佐神の方を振り向く。警官と何か話している姿があった。気にしていなかったが、集まっている野次馬からどよめきが聞こえたので、今の事件は写真を撮られているだろう。そういえば、とタルタリヤは先ほどの佐神の動きを思い返す。顔がしっかり撮られないような振る舞いをしていた。メディアに出たくないらしい。
撮影が終わったら聞くことがいろいろできた、と楽しみにしながら、改めて頭を切り替える。良いMVが撮れそうだった。
撮影が終わり、佐神を探せば警官と一緒に警察署へ行ってしまったという。凝光が迎えに来てくれたので車に乗りながら、タルタリヤは機嫌が悪くなっていくのを自覚した。全く気遣いがない。鍾離が待っているというので、ノックも雑に社長室に足を踏み入れると、来たか、と涼やかな声がする。
「来たよ。唯嘉は?」
「まだ戻ってきてないな。というより今夜は戻ってこないだろう」
「なんで」
「撮影が中止にならないように手を回させた。その後片付けに行ってもらっている」
「ってことは、俺が襲われるって分かっていたわけ?」
タルタリヤの非難の色が混じった声と視線を受け止め、鍾離はうなずく。
「ああ。情報は佐神がつかんでいた。襲撃をほのめかすような書き込みの一つを気に留めていたようだ。予感は当たったな」
「どうして俺に教えてくれなかったのかなあ。当事者だよね、俺」
「それは俺が口止めした。襲撃されるかもしれないという曖昧な情報でお前の気を散らすわけにはいかないからな」
「散らすわけないでしょ。俺がどんな人間か知ってる?」
「楽しむだろうから口止めしたんだ。公子殿は何事にも挑戦的だからな」
返された言葉をじっくり考え、タルタリヤはその通りではあると認めた。だが、納得はいかない。こんな面白そうなことを二人で対処しようだなんてずる過ぎる。
「唯嘉、マネージャーじゃないって言ってたけど、本当?」
「ああ。彼はボディガードだ」
ボディガード。タルタリヤは繰り返す。マネージャーと全然違う。なんでだましてたの?と聞こうとして、二人とも一度もマネージャーとは言ってないことに気づいた。
「マネージャーみたいなことしてくれてるけど」
「それは俺が、公子殿が甘えるようだったら甘やかしてやってくれ、と頼んでおいたからな」
こっの、余計なことを…………。
そうありありと顔に出したタルタリヤに、分かっているだろうに鍾離は顔色ひとつ変えないでいる。
「あれは、人を甘やかすのが上手いからな。お前のことも上手く甘やかしてくれるだろうと思っていた」
「…………それって、先生も甘やかしてもらってたってこと?」
「お前がそう思うのならそうかもしれないな」
その何処かで聞いたことがある台詞にタルタリヤは笑う。
「そういうところでマウント取られると、やる気が出ちゃうよ」
「何の話だ?」
いぶかしむように少し首を傾けた鍾離に、タルタリヤは顔を近づける。
「ね、先生。今夜あいてる?違う男の話しながらセックスしようよ。俺、先生が唯嘉にどんな風に抱かれてたのか聞きたいな」
タルタリヤの褒められない類の素直な誘いに、鍾離は眉を寄せる。
「……さすがにその趣味は理解しかねるが……」
「でも、俺が唯嘉とどんな風にセックスしたか興味あるんじゃない?」
「否定はしない」
アハ、と笑ってタルタリヤは決まりだと身を離すと、机の上に腰を掛ける。
「見ててあげるから早く終わらせて。鍾離先生」
甘い声音で誘うように言ったタルタリヤを咎めず、鍾離は手元のパソコンの画面に視線を移す。
「いや、今日は終わりだ」
手早くメールの確認だけをして鍾離は立ち上がる。その鍾離に連れだって二人はモラクスビルから抜け出した。鍾離の車に乗り込む前に、タルタリヤはスマホを確認し、佐神からの連絡は来てないことを確認するとバッグの中に放ってしまう。
運転席に座った鍾離の横顔を眺め、あ、キスしたいな、とタルタリヤは思う。
「到着するまで待て」
「そんな犬じゃないんだから。ちゃんと我慢できるよ」
タルタリヤの返事に鍾離は小さく笑う。その顔はごく親しい人間にしか見せない気を許したもので、その顔を眺めながらタルタリヤは佐神に言われたことを思い返す。
『彼が好きなんだろう』
佐神は断定するように言った。好きか嫌いかなら好きだ。恋か恋じゃないかと言われれば、こんなものが恋であるはずがない。そもそも、タルタリヤは仕事的にも、性格的にもまっとうな恋が出来る人間じゃない。独占欲と優越感、征服欲で高度をあげていく感情。それにモチベーションを見出してしまう人間だ。
まあ、鍾離先生はそんな俺のことなんて知ってるんだろうけど。なんて内心でつぶやいてから、タルタリヤは今夜はどう煽ってねだろうかと考え始める。
甘やかすのが上手だと言ったが、鍾離だって甘やかすのは上手い。どちらかというと尽くすタイプの人間だろう。人の世話を焼くのが好きなようだ。そのおかげでタルタリヤは「ほどほど」のスケジュールでこなすことが出来ている。前は出来るなら出来るだけのオファーを受けていた。そんな中、今は平気でもいつかガタが来るだろう働き方の見直しを勧めてくれたのが鍾離だった。だからスネージナヤから璃月に活動拠点を動かすことにした。
「好き、か」
「何か言ったか?」
聞き取れなかったのか、鍾離が横から問いかけてくるのに、タルタリヤは何でもないよ、と窓の外に視線を向けた。