目覚めはいつも悪くない。それは昨夜からの今朝でも変わらなかった。目が覚めると隣に鍾離の姿はなく、いつものことだと気にも留めずに、たたんでおいてあったバスローブを適当に羽織って、部屋を出る。用意されてる部屋に服を何着か置いてあるはずだ。若い愛人を演じて、このあられもない恰好でダイニングに行っても良かったが、鍾離の反応が面白くなさそうなのでやめた。
着替えてダイニングの方に歩くと、何かを焼くバター良いにおいがする。
何を用意しているのかと思うと、拾いテーブルの一席に鍾離が座っているのが見えて、あれ、と思った。タブレットを手にしているところを見ると新聞を読んでいるのかもしれない。料理をしているものだと思ったが、と足を踏み入れて、キッチンに覚えのある男の背を見つける。
「唯嘉?」
「おはようございます。タルタリヤさん」
慇懃な声音で挨拶をされてタルタリヤはむくれた。気安く呼ばないでと言ったのはタルタリヤだが、佐神はこのまま自分から変えないつもりらしい。
「おはよう。唯嘉、先生も」
「おはよう。公子殿。よく眠れたようだな」
「おかげ様でね」
タルタリヤの返事をどう受け取ったのか、特に考えるそぶりもなくただ頷いた鍾離がまたタブレットに視線を向けるその横に座る。スーツのジャケットを脱いで、ネクタイを胸ポケットに入れ、腕をまくっている佐神に、呼びつけられたんだろうなと察する。
「タルタリヤさんは、オムレツとスクランブルエッグどちらにします?」
「オムレツ。唯嘉は?朝飯」
「もう済ませています」
鍾離も料理が上手な上に普段の食事で舌が肥えているので、適当な人間に料理を任せるなら自分でするくらいだった。その鍾離が気に留めることなく任せているということは、佐神も料理が上手なのだろう。
スマホの通知のチェックすら放置して、佐神の綺麗な仕草でやわらかそうに揺れるオムレツをひっくり返す姿を眺める。手慣れている。運ばれてきたオムレツは見事な流線を描いており。デニッシュと、サラダ、フルーツにスープが運ばれてくる。
「突然呼び出すから、俺の家にあったものしか持ってきてないからな。文句を言うなよ」
「十分だ。ありがとう唯嘉。忘れていたわけじゃないが、朝食に使える食材を用意してなくてな」
「どうせ、朝、唯嘉を呼び出せばいいか。とか思ったんだろ。お前の考えてることくらいはわかる」
「はは」
「面白いことを言った覚えはないんだが……」
溜息をついて佐神は鍾離の向かいに座った。
「どうぞ」
佐神の前にはコーヒーカップが置いてあるだけだ。済ませたといった通り食べるつもりはないらしい。
「タルタリヤさんは、足りないようなら何か用意します」
「いいよ。十分。今日はオフだって知ってるよね」
「はい」
「俺の心配はしてくれないのか?」
問いかける鍾離のまじめな顔つきに、適当にあしらおうかと思ったらしい佐神は少し間をおいて笑みを浮かべる。
「お弁当を用意しようか?」
「頼む」
即座に返事をした鍾離はどうやら佐神のその提案を期待していたらしい。嬉しそうに佐神を見返す横顔を見やり、タルタリヤも佐神に視線を向ける。
「それ、俺も頼めるの?」
「構いませんよ。どうせ帰り際に買い物をして一度帰宅する予定ですから。昼前に届けます」
「社内の共有キッチンを使えばいいだろう。このまま送って行ってくれ」
「一日お前にしばりつけるつもりか?秘書役が欲しいならよそを当たれ。朝食を作るわがままを聞いたんだから、これ以上何か言うようなら、ウインナーをタコの形にして入れるぞ」
「…………分かった」
しぶしぶといった調子で返事をした鍾離に、タルタリヤは鍾離が海産物が苦手だったことを思い返して、タコ型も駄目なのかと思った。何年離れていたのか知らないが、それでもずいぶんと親しい様子で、ずるいとタルタリヤは思う。嫉妬、というには拗ねた感覚に近い。
「タルタリヤさんは何がリクエストは?」
「好き嫌いはないよ。唯嘉の好きなおかずを入れてよ」
「俺の?」
「そ。唯嘉の好きなものが知りたい」
「……考えておきます」
なんだか間があったのを不思議に思いながら、タルタリヤはオムレツにフォークを入れると口に運ぶ。食べて顔がほころんだ。ふわふわのとろとろだ。バターの香りもちょうどよく、甘味が舌にのり、あたたかさに心が満たされる。タルタリヤの顔を眺めていた佐神がくすりと笑ったのに、タルタリヤは笑んだ。
「唯嘉、俺の顔好きだよね」
「ご存じでしたか」
恥ずかしがることもなくあっさりと認めた佐神に、単純なからかい方は出来なさそうだと思いながら、この男をどうにかして揺るがしたいと考える。今はまだその一手がないが、今に征服してみせるとタルタリヤは思った。
「タルタリヤさんはこの後どうしますか?自宅に戻るなら送っていきます」
「俺は今日は唯嘉についていくよ」
オムレツを食べながら答えてタルタリヤは笑った。佐神から表情は変わらずとも、困惑する気配がしたからだ。
「自宅でのんびりなんて退屈だろ?それに、唯嘉はどうせ俺のボディガードなんだから、一緒に居る方が楽だよね」
「俺はあなたが部屋でおとなしく過ごしている方が楽ですよ」
そりゃそうだろうけど、とタルタリヤは首を横に振る。
「家族と通話の約束があるならともかく、一日中部屋にひきこもるなんて無理」
「そうでしょうね。分かりました」
ごねられるかと思いきや、佐神があっさり了承したのが意外でタルタリヤは目を見張る。
「どちらにせよ、契約期間はプライベートはないものとして考えていますから。社長が他の人間を手配していない時と、あのマンション滞在時以外はすべて承ります」
珈琲を飲む佐神の所作を眺めながら、タルタリヤは契約期間のことについて考える。どれくらいと聞いていない。二週間だったりしたらどうしよう、なんて思ってから今更ながらに気づいた。
「というか俺、先生と唯嘉の契約の話何にも知らないんだけど?」
タルタリヤの台詞に鍾離と佐神は顔を見合わせる。
「話してないのか?」
佐神の呆れた表情に、鍾離も首を傾ける。
「お前が話したものと思っていた。どちらにしても、公子殿が今知っている情報以上のことはない」
「いや、契約期間すら知らないからね……」
鍾離が呼び出した、という根拠があるせいで完全に信頼していたが、この男のことを何も知らない。佐神唯嘉という名前と、ボディガードが出来る知識と体術を身に着けているということ、セックスが上手い。あと電話番号。それくらいだ。
「期間は……明確にはしてないがだいたい一か月くらいだろう」
「それって問題にしているのが日数じゃなくて状況ってこと?」
「ああ。璃月で公子殿をサポートする人員が整うまでの契約だ」
なるほどね。とタルタリヤは璃月に来てから何度か見舞われたトラブルのことを思い出す。悪質なファンや同業者の嫉妬、くだらない芸能界の足の引っ張り合い。プロダクションモラクスは、璃月で最大のプロダクションだが、テレビ局や他の事務所が弱い訳ではない。
「分かったよ。じゃあそれまでに唯嘉を俺におぼれさせないとね」
「それはその通りだな」
「一夜過ごしたカップルの朝食係に呼び出しておいて何を言ってるんだ?」
心から呆れたように言って佐神はコーヒーカップを口元に運ぶ。
「嫌だったか?」
鍾離が表情を確かめるように尋ねたのに、佐神は首を横に振る。
「もともと何とも思っていない。気遣いはいらない」
「そうか。……残念だ」
心底残念そうに言った鍾離に、タルタリヤは思わず笑った。口説き方が下手すぎる。仕事をしたい相手を口説き落とすのは、これ以上なく巧みなのに、どうして佐神相手だとこうなるのだろうかと不思議だ。もともと佐神と鍾離の距離が壊れているのはありそうだなとタルタリヤは思った。
「食べたら食器はそのままで構いません。タルタリヤさんは出かける支度をしてください。社長は……」
言いかけて佐神は溜息をつく。
「送り届けますよ。帰りはご自分で何とかしてください」
「ありがとう」
目を細めて嬉しそうに笑った鍾離に、佐神は視線を逸らすようにして、皿を片付け始める。キッチンへ一度持って行ったその背を見送ったタルタリヤに鍾離は言った。
「いつも甘いんだ。自覚してるだろうに」
笑っているその口元に、タルタリヤは肩を竦める。
「怖い人だ」
「お前も気に入っただろう?公子殿」
たまらなく気分が高揚してくる。これは故郷で参加した、狩りに似ている。タルタリヤはうなずいた。
「ああ。とってもね」