鈍く頭が痛んで意識が持ち上がった。頭痛なんてほとんど感じたことがない。どうして痛むのかと重い瞼を開く。見知らぬ天上が自分を見下ろしていた。
「色」
呼びかけられてゆっくりと振り向くと、端正な顔立ちの知らない男が、ベッド横の椅子に座っている。濃茶の毛先が金に透けるような不思議な髪の色をしている男は、不思議な光をたたえた金の瞳をしており、その下に赤くアイラインが引いてある。身を起こそうとした一瀬に、無理をするな。と男は言った。
「体調はどうだ」
「体調……」
言われてぐるりと体の隅々まで意識をしてみるが、頭が痛む以外に気になることはない。室内を見回して、見覚えがないことと、ここに来るまでの記憶が妙にはっきりしないことから、どこかで怪我でもして運ばれたのだろうか。
「少し頭が痛むけど、問題はなさそうだよ」
「そうか。良かった。……心配した」
安堵した息をついた男の表情が、無表情に見えたものから柔らかい笑みに変わる。
「ありがとう。……ええと、君の名前を聞きたいんだけど、俺を助けてくれた人?」
「何?」
目が見はられたその反応に、一瀬はそうじゃないことを理解した。
「俺のことが分からないのか?」
「……知り合いだった?」
だったらすごく悪い質問をしたなと思いながら、一瀬は自分の記憶を疑った。男は一瀬の思い出せる一番新しい記憶や、親しい人間について尋ねてきたが、一瀬が思い出せる記憶はどうやら三年前までの記憶のようで、親しい人間の心当たりはなかった。一瀬の知る街の人間の名前ならいくらでも言えるが、道端であいさつをして少し話す程度の知り合いしかいない。
記憶喪失、とつぶやいた一瀬に、男は何か考え込む仕草をする。
美しい人だな。と一瀬は思った。
顔立ちが美しいのはそうだが、姿勢や所作も綺麗で、こんな状況でも急く様子もなく、こちらを気遣いながら状況を整理することが出来る。
見た目通りのきちんとした大人だという印象を受けながら、一瀬は男の反応を待った。
「お前が俺のことを覚えていないのなら、名乗るべきだな。俺は鍾離。往生堂で客卿をしている」
「鍾離君だね」
頷いた一瀬がそう呼んだのに、鍾離は何か思うところがあるように一瀬を見返した。なんだろうと不思議に思った一瀬に、鍾離は言葉を続ける。
「そして、お前の恋人だ」
目を見張ってまじまじと一瀬は鍾離の顔を見返した。
生真面目に見える、服装もかっちりとしている男の口から、恋人だという紹介を受けるとは思いもよらなかった。
疑いはしなかった。一瀬は人を疑わないことにしているし、疑う理由も今のところなかった。
それよりも、と一瀬は眉を下げる。そうなんだ、という声が落ち込んだ響きになった。
「恋人なのに、名乗らせるようなことをさせてごめんね、鍾離君」
謝った一瀬に、今度は鍾離が目を見張る。それから鍾離は首を横に振った。
「いや、作為的なものではないだろう。貴殿に非はない。無事に目覚めて良かった」
「無事にって、そんなに俺寝てたの?」
「ああ。三日ほど目覚めなかった」
鍾離の言葉に、急に喉の渇きと空腹を思い出す。思わずつばを飲み込んだ一瀬に、鍾離はサイドテーブルに置かれていた水差しとコップを手にする。一瀬はゆっくりと起き上がると、手渡された水を口にする。
しみわたるような感覚に息をつく。気のせいか先ほどよりも頭痛はましになっていた。
「消化に良い食事を用意する。医者も手配する。心配しないで寝てて良い」
「ありがとう」
立ち上がった鍾離を見上げ、一瀬は微笑む。
自分に何が起こったのかは分からないが、この誠実そうな青年なら順番に説明してくれるだろう。部屋を出て行った背を見送って、一瀬は再び部屋の中を見回す。
物の多い部屋だ。自分の部屋かまでは分からなかった。
「鍾離君、か」
恋人。
まさか三年の間に、恋人という存在を作っているとは思わなかった。
一瀬は大事な人を作らないことを誓って旅に出たのであり、その誓いを破るほどの出会いが一瀬にはあったということになる。
知ってるのかな。と一瀬は先ほどの鍾離の様子を思い出す。
知っていて、彼は一瀬と恋人になってくれたのだろうか。
だとしたら寛大な人間だ。そんなに出来た人を、どうやって自分は捕まえたのだろう。
何もかも分からないことばかりだ。
でも今はもう少しの休養が必要だろう。頭痛はまだ残っているし、空腹のせいで体に力も入らない。
鍾離が戻るのを、一瀬は大人しく待った。
何故記憶を失ったのか、その理由は医者が来てもはっきりとは分からなかった。
一瀬は璃月の街の入り口で力尽きたように倒れており、そのあと鍾離の言った通り三日三晩の昏睡状態の末、目を覚ましたそうだ。
おそらく、鍾離は一瀬の正体を知らないのだろうと一瀬は思った。
一瀬色はこのテイワットの人間ではない。
この世界よりも発展した世界の技術を使って、この世界に遊びに来た。
テイワットには五年ほど滞在する予定であり、三年前の記憶では、テイワットに来て半年ほどのころだ。
一瀬が鍾離の服装を見てすぐに今いる場所が自分の世界じゃないことを察した。
自分の正体について、ひとまず口をつぐんだことは正解だったようだ。
休んでいないのではないかと心配した一瀬に、また来ると言って鍾離は帰って行った。
改めて自分の家と自分自身を確認して、一瀬は大問題に気づいた。
元の世界へ帰還するためのアイテムがない。
それはピアスの形をしており、連絡を取ろうと思えば、元の世界のオペレーターと会話もできるものだ。
一瀬が持っている疑似的な神の目の故障で一回世話になった覚えもある。
それがない。
代わりに鍾離のしていたピアスと対のものだと思われるピアスがサイドテーブルの小箱に入っており、一瀬は唸った。
翌日、また鍾離が訪ねて来るのを待ち、玄関先で一瀬は鍾離に尋ねた。
「鍾離君、俺のピアス知らない?こういう、白い四角の飾りがついてて……」
「貴殿が昔つけていたやつか?それなら、無くしたと言っていた」
「無くした…………?」
目を見張った一瀬に、大切なものだったのか?と問いかけてくる鍾離に、一瀬は頷く。
「うん。今の俺にとっては重要なものなんだけど……。鍾離君、少し出てくるよ」
「色、まだ病み上がり、」
「ごめんね」
焦燥に早足で歩き始めた一瀬は、視線が追いかけるのを感じながらも、立ち止まることが出来なかった。
何が起こったのか分からない。
恋人に、ピアスの紛失。いったいこの三年間で自分に何が起こったのだろうか。
今の自分にとっては馴染んでない世界で、一瀬は自分を知っている人達を探した。
一瀬は冒険者として活動しており、道を歩けば、様々な人間が声をかけてきた。一瀬が記憶喪失だというと気の毒がってくれ、どんなことがあったのかを一瀬に教えてくれた。
この三年で一瀬は自分が全く変わっていないことを実感した。
困った人に出会えば助け、難しい依頼があれば喜んで受け、人生と戦いと恋を楽しみ、他人を慈しんだ。
一瀬が苦手なのは、人の心を察することだ。
様々なことに秀でている一瀬は、大抵のことを出来るゆえに人の苦悩が分からないことが多かった。また、楽観的で悩みなどもそう抱えたことがないため、寄り添ってやることも難しかった。
そんな一瀬の本質に気づく人間はほとんどいない。
相談事を受けるときは、良いアドバイスが出来ないことをあらかじめ断って、その代わりに相手が吐き出したかった言葉を全部聞いた。その他、武力や技能で解決出来ることは、一瀬はなるべく手伝ってやった。
相手が自分に寄りかかりすぎない程度にしないと、相手が可哀そうなことになるのを一瀬は何度か失敗して分かっている。
一瀬が色々な世界を渡り歩くのはそのせいだ。ひとところに留まると、周囲を駄目にしてしまうのが一瀬色という男だった。もちろん、自立的な人間もたくさんいた。だが、一瀬は人が好きだ。困っていたら手伝ってしまいたくなる。だから、定住しないのだ。
テイワットでも、自分は色々な人間を助けたり、依頼を受けたりしていたようだ。
もう100を越えたエピソードを情報として記憶しながら、一瀬は二週間ほどあちこちを飛び回った。
この地に定住したきっかけらしき話や、ピアスについての情報も見つけられずに、一瀬は自分のものらしい家に戻ってきた。鍵を取り出してあけようと扉に近寄った瞬間、内側から扉が開けられて一瀬は目を見張る。
出てきたのは鍾離で、鍾離も遭遇するとは思っていなかったのか、目を見張って一瀬と見つめあった。
「鍾離君?」
問いかけると、鍾離は少し黙ったあとに、すまないと言った。
「すぐ帰ってくるものだと思っていたから、待たせてもらっていた」
待っていたということは二週間、一瀬の家にずっと居たということだろうか。
鍾離が困ったように眉を動かすのに、一瀬は特に気にせずに返事をする。
「別に構わないよ。恋人なんでしょう。誰かに勝手に入られて困るものもないし、そう申し訳なさそうにしないで」
一瀬が話すごとに、鍾離はなんだか消沈していくような気がした。表情には何も出ていないが、そんな気がしたのだ。
「鍾離君」
呼んで一瀬はじっとその顔を見つめると、躊躇いながら言ってみる。
「もしかして、寂しかった?」
図星をつかれた、というほどの表情はなかったのだが、一瀬にはその反応が肯定に思えた。
申し訳なくなって一瀬は手を伸ばす。ぎゅっと抱きしめると、鍾離は驚いたようだった。
「……ごめんね。寂しい思いをさせて」
眉を下げて一瀬は素直に詫びた。
恋人に寂しい思いをさせるなんて、自分はなんてひどい男だ。そのつもりはなかったが、一瀬は自分の心配りが足りなかったことを申し訳なく思った。
「お前は、」
細身の体は、抱きしめれば思ったよりもしっかりとしている。戦う人の体だ、と一瀬は思った。
「ん?」
「誰にでもこうして気軽に抱擁するのか?」
問いかけに、あれ、と一瀬はそっと離れる。
「ごめん、嫌だった?」
「嫌ではない。だが、恋人と聞いただけの、好いているか分からない相手への態度には思えなかった」
そんな風に言われて首をかしげる。
「鍾離君は記憶を失った俺にハグされるのが嫌?」
「嫌ではないと言った。俺のではなく、お前の感情のことだ」
鍾離に何を問いかけられているのか良く分からないが、一瀬は考えていたことを素直に口にする。
「俺は鍾離君のことを信じてるし、俺が好きになった人なら、きっと君は素敵な人なんだと思うよ。だから好きになりたいと思ってるし、君を悲しませたくない」
一瀬から見て、鍾離は魅力的な人だ。外面内面ともに磨かれているように感じる。
鍾離はふむ、と腕を組む。
「何故俺を信じようと思った?」
「だって、三日三晩つきっきりで看病してくれたんでしょう?いつ起きるとも分からない相手をそんな風に看病してくれるなんて、君も俺のことを好きだと思ってくれてるんだろうと思ったから」
「確かに好いてはいるが……」
躊躇いがちなその返事に一瀬がにこにこと笑うと鍾離は、一瀬を招き入れるように扉を大きく開く。
「色、中で話そう」
「うん。鍾離君」
それから一瀬はもしかして、と口を開く。
「俺と同居しようとしてた?」
「ああ。何故分かった?」
問われて一瀬は微笑む。家の中を探したときに、奇妙に思っていたのだ。
「俺が置かないだろう家具や本が置いてあった。ほとんど同居してたんじゃない?」
「お前は物を持たないからな。気質が旅人なのだろう」
「そうかもね。でも俺は、鍾離君のために旅をやめたのかな」
テーブルを挟んで向かい側同士で、目が合う。
「俺には記憶を失う前の貴殿が何を考えていたかまでは分からない。貴殿は自分のことを話さない傾向にある。なぜそう思ったのか聞いても良いか?」
「良いよ。それにお前でいいよ。鍾離君。俺、君にお前って親しく言われるの好きみたいだからね」
言いながら一瀬は椅子には座らず、そのままキッチンへと入ると、お茶を探す。一緒に入ってきた鍾離が、これだ、と袋を戸棚から出したのに、一瀬はお湯を沸かした。二人で竈の前にたたずみながら、話をする。
「さっきの話の答えだけど、今の俺からすれば信じられないことがいくつかあったから、きっと鍾離君を選んだんだろうなって思ったんだ」
「もし、本当にそうであるなら光栄に思うが、お前にとっては俺は初対面の他人だろう」
淡々とした口調の鍾離に、一瀬は少し首を傾ける。
「君を知らない俺はもう好きじゃない?」
「お前だから好きになった。記憶があろうとなかろうと、お前は変わらないだろう」
鍾離はいつもきちんと世界と相手を見据えている。その在り方を一瀬はもう好きだった。
「そうだと良いけど」
ふふ、と嬉しくて笑う。