成程、一目惚れかと、鍾離は一冊の本を読みながら考えていた。
第二性を扱った作品には恋愛小説が多い。虚構の話であっても、人間たちの中に潜む第二性への印象やどのような理想を持っているのか、読んでみれば見えてくるものもあり中々に面白い。人間の営みが好きであることもあり、今まで読んだことがなかったわけではないが、自分が第二性を獲得して初めて理解できることも多々ある。
恋愛小説の中で、しばしばテーマとなる一目惚れの話を読み、鍾離は琉嘉に初めてケアしてもらった時のことを思い返していた。
あれは、極限状態だったからこそ得られた最高のプレイだったのだろう。救われるという意味があれほど理解できた瞬間もなかった。だからこそ、一目惚れの単語に、納得を覚えたのだ。
彼は上等なDomであり、鍾離に対して上質なプレイをする。自分の趣味嗜好から考えて、琉嘉をパートナーとして選ばない理由がなかった。選ぶならより上等なものを。彼と自分がより癒されるプレイを出来るなら、それが鍾離の目的とするところだ。
それに、何より彼を気に入っている。興味をそそられると言っても良い。
彼のことを知りたいと思っている。たとえそれが、未知のものであったとして、琉嘉の口から琉嘉の話を聞きたい。
そのためにはどうにかして琉嘉にプライベートを許させなければならないが、彼のプロ意識を感じると中々の難問だった。だが急ぐ話ではない。ゆっくりと距離を詰めていけばいいことだ。
そんなことを考えていた次の約束の日、鍾離はいつものように白駒逆旅の部屋を訪れて、待っていた琉嘉の顔色がまた良くないことに気づいた。また、というより今までで一番悪いだろう。うっすらと隈が出来ている。
「琉嘉」
名前を呼ぶと、いつも通り微笑んで、何事もないように琉嘉はおいでと自分を呼ぶ。
「琉嘉」
問いかけるように名を呼べば、その意味を理解してか琉嘉は首を横に振った。
「昨日、調べものがあって眠るのが遅かったんだ」
心配してくれてありがとう、と口にする琉嘉は、鍾離の目には随分とストレスを感じているように見えた。体調が悪い時の人間は、周囲に気を遣う余裕もないことが多い。仕事とはいえこの男は、自分の体調をかえりみずに他人のケアをしようとしているらしい。
鍾離は琉嘉の隣に座ると、琉嘉を振り向く。
「肩を貸すぞ。胸でも膝でも構わない。眠るか、少し目を瞑り休んだ方が良い。お前が多忙なことは知っているが、適した休息をとってこそ、良い仕事が出来る」
鍾離の言葉に琉嘉は苦味を帯びた小さな笑みを浮かべる。
「《契約者》あなたに心配させるなんてな」
「生き物であれば、体調を完璧にコントロールすることは難しい。俺はお前に頼られることを嬉しいと感じる。プレイとして問題ない。気になるならそうだな、動くなと一言、commandを付け加えればいい。褒美のために我慢することはそれほど苦ではない」
「枕になれって?それは……」
返事をするまえに、琉嘉の腕を掴んで自分の膝の上に引き寄せる。無防備だった琉嘉の体はあっさりと鍾離の膝を枕にして横たわった。驚いたように目を瞬いていた琉嘉は、それから額を押さえる。
「……先生……。俺はまだ命令してない」
「叱ってくれるのか?」
「仕置きをされるのにわくわくしないでくれ」
困ったような声を出しながら、頭を鍾離の膝に預けたまま、琉嘉は鍾離の顔が見えるように体の向きを変える。
「お前はいつも俺に甘い。だから俺がそうすることにも何も問題はないはずだ」
「俺は対応の公平性を気にしているんじゃないが……。あなたがそれで良いなら良いか」
最初の頃だったらそんな返事をしなかっただろう琉嘉の返事に、鍾離はわずかに笑んだ。
力を抜いて大人しく身を預けたからか、すこし億劫そうな仕草をみせた琉嘉は鍾離を目を合わせる。
「このままじっとしていて。終わる15分前に起こしてくれ。ちゃんと出来たらたくさん褒めてあげる」
「ああ」
おやすみ、と声をかけた時には琉嘉はもう目をつぶっていた。ほどなくして気を失うように眠ってしまった琉嘉に、それほど疲れていたのなら、約束を伸ばしても良かったのだが、と考える。だがケアの周期のことも分かっていた。唐突な休みを許されない仕事だ。彼がなぜこの職を選んだのかはまだ知らないが、溜め込む性質だろうと感じる。
じっとしていろと言われたが、動くなとは言われていない。
琉嘉の髪を梳いても身動き一つしない。琉嘉は深く眠っている。他人の前で眠るのは信頼の証だ。己にとって同等の価値がある信頼を帰されるのは嬉しいことだった。
起きたら、食事の約束でも取り付けよう。一晩程度の夜更かしでこんなに憔悴しているはずがない。
隙を突くのは得意な方だ。この状況なら彼も、誤魔化しはしないはずだ。
「 」
ふと琉嘉から零れ落ちた声に、聞き取り損ねて鍾離は琉嘉の顔を見下ろした。夢を見ているのだろうか。
声はかけずにそのまま琉嘉の寝顔を眺めて過ごし、それから鍾離が声をかける前に琉嘉は目を覚ました。ぼんやりした表情で何度かゆっくりと目を瞬く琉嘉は、目覚めきってないようだ。視線を彷徨わせてから鍾離を見上げた琉嘉の瞳の焦点が徐々に合い、それから溶かすような微笑を浮かべる。視線が甘い。
「……やっぱりあんたとは、プライベートな関係にはなれないな」
どういう、思考の着地だったのか、鍾離には推測することは出来なかった。他人に向けるとは思えないまなざしを与えた相手にかける言葉ではない。
鍾離は琉嘉との関係性の発展を望み、そのことを隠していない。知っていて言ったということになる。
わずかに眉根が寄る。
「琉嘉」
「ん?」
「いささか意地が悪い。そのようなことを言われるほど、お前にとってSubとしての俺は魅力がないのか?」
目を丸くした琉嘉がまじまじと鍾離の顔を見上げてくる。
「先生、拗ねたのか?」
口をつぐむと琉嘉が笑って身を起こす。隣に座り直すと手をこちらに伸ばしてくる。
「仕事だから優しく出来る。このままの方が良い」
言い聞かせるように両頬を包まれても、鍾離は表情を変えなかった。
「俺がglare程度に臆さないことは知っているだろう。理由がそれだけとは思えないが」
「…………先生、良い子だから、これ以上は追及しないでくれ」
目を見据えて、瞳を覗き込むようにゆっくりと言われた言葉には、わずかにだけcommandめいた響きがある。卑怯とまでは思わないが、鍾離は意図せずお預けになっているご褒美の期待もくすぶっていたこともあり、もう一度黙ると、それから頷いた。
「分かった」
「よし、良い子だ」
頭を撫でられてぎゅっと抱きしめられる。会話のために我慢していたが、褒美を与えられる喜びに目を閉じた。初めて琉嘉の背に手を回す。抱きしめ返すと驚いたような息の音がした。
「先生」
「もっと褒めないと掘り返すぞ」
「先生……」
呆れたような声音の琉嘉に抱き着いたまま、鍾離は琉嘉の持つ表現力を試すように散々褒めるようねだり、表情だけは拗ねたままで次の約束をすると、その日は帰ることにした。
だが布石は打てた。期待してもおそらく外れない。
お互い、ずるいことをしているが、なに、恋の駆け引きとはそういうものだと、あの恋愛小説には書いてあった。