瞼を透かして、朝の淡いこがねの光にやさしく意識が呼び起こされる。
理性を紡ぎ上げるまでのわずかな思考の空白の中、穏やかさに満ちた目覚ましにカーヴェはゆるりと瞼をあけた。
「っ……!?」
それを台無しにするかのように頭に響いた鈍痛にカーヴェは呻くと力を入れていた体を弛緩させてそのままシーツに崩れ落ちる。
この不調には覚えがありすぎる。カーヴェは昨夜の自分がどれだけアルコールと仲良しだったか理解をし、そして記憶を探ることを放棄した。頭痛に耐える心構えができると同時に、今度は気持ち悪さに襲われる。歴代の最悪な二日酔いを更新するほどではなかったのが幸いだ。
室内に人の気配がしたのにカーヴェは安心した。
どうやら同居人はまだ出勤前だったようだ。だったら出ていく前に水を持ってきておいてもらおうとカーヴェは口を開く。
「アルハイゼン……!っう……あたまにひびく……わるいが水を持ってきてくれないか……」
カーヴェが声をかけると、人の気配は返事をせずに衣擦れの音をさせてカーヴェの近くから去っていく。
なんだ、返事のひとつもなしか?
と、腹立たしいのと、返されたら返されたで嫌味がひとつどころではなくついてきただろうことを考えてカーヴェはため息をついた。
「君の“アルハイゼン“ではないが」
不意にかけられたその聞き覚えのない声にカーヴェははっと目を開く。
「それで良かったらこれを」
視線を上げた先に立っていた男を見て、この世界の何もかもが静止したような錯覚に陥った。
知らない──男だ。
身を起こしながら、カーヴェは自分がいったいなにに見惚れているのか理解したくて男を見つめた。
美しい男だ。美しいが、彼の何が美しい?
カーヴェを見返している目は目頭から目尻までの流線が完璧だ。丸すぎないところが好みだった。青い瞳は朝日が入っているせいか、どこか水を思わせる涼やかさがある。この前まで仕事をしていたあの現場、一番近くのオアシスの朝4時の水の色だった。
頬の輪郭は滑らかであの目を収めるなら最適解。鼻梁も通り、顔のひとつひとつの配置が天才的だ。そして今のわずかな笑みの割合が最高に彼の良さを引き立ててる。これ以上笑っても無表情でも駄目だ。
黒髪なのは少し重たい色合いに思えるが、男のミステリアスさに一役買っているようなのでよしとした。髪型は自分が指示して人に切らせた方がもっと良くなる。今の前髪がアシンメトリーに分けられて右目に少しにかかっているのは悪くはなかったが、もうすこし額を見せてもいい。
「……大丈夫か?」
呼びかけられてはっとカーヴェは意識を取り戻す。
そして。
「うおえっ……」
急に身を起こした時の衝撃と急に戻ってきたひどい頭痛のショックでカーヴェは初対面の好みの顔の前で吐いたのだった。
男は特に嫌がることもなく、カーヴェの粗相を片付けてくれ、適当な寝巻きを貸してくれ、シャワーも貸してくれた。
与えられた水を少しずつ飲みながらシャワーを浴びて部屋に戻ってくるころには、カーヴェの体調はかなりマシになっていた。
とはいえ気分は最悪だ。
よりによってこんな好みの顔の前であんな失態をするなんて。
カーヴェは新しく取り替えられていたグラスの水を飲み、清涼な香りに気づく。
「清心だよ。アレルギーはないと聞いたから入れたんだ。苦味を隠すのに少しだけ蜂蜜。二日酔いの時に飲みやすい」
カーヴェが顔を上げると、男が奥の部屋からこのリビングに戻ってくるところだった。
「ありがとう。随分と迷惑をかけてしまったな。すまない」
「気にしなくていい。君を拾った理由は好奇心だ。感謝をされるようなものじゃない」
「好奇心?」
どういうことだろう?と首を傾げると、男は続ける。
「昨日の夜、君は俺の家の裏で眠ってたんだよ。俺の作りかけのテーブルに突っ伏するようにしてな。泥棒をするようには見えないし、あまりに気持ちよさそうだったから起こすのも可哀想だなと思って勝手に宿を提供したんだ」
「……もしかして僕が寝ていたあのベッドは君の?」
問いかけると男はあっさりと頷く。
「寝心地は良いはずだ」
カーヴェは項垂れた。謝罪は散々したのでこれ以上はしつこい気がしたが謝る以外に自分ができることがない。
「君に何かお礼をしたい」
せめてとそう続けたカーヴェのセリフに上手に割り込んで男が言う。
「好奇心と言っただろ。気にするな。体調が戻ったのなら君のおうちに帰るんだな」
男はそのまま玄関の方へと向かう。
「俺は用事があるから出かけるよ。鍵はそのチェストの上。出る時にかけて植木鉢の下に置いておいてくれ」
「え?ちょ、ちょっとまってくれ!」
「じゃあ、さようなら」
ひらりと手を振って男はカーヴェの制止も聞かずにさっさとドアから出て行ってしまった。
唖然とその背を見送って、カーヴェはふと気づく。
「名前聞いてない…………」
カーヴェは名前も知らぬ男の見知らぬ部屋に一人残されたのだった。
男がカーヴェに入っていいと許した、というより自分でドアを開いた部屋はリビング、ベッドルーム、シャワールームだ。カーヴェはその中をぐるりと見回した。一軒家だ。クロスも床も張りかえてあるが、建ってから30年は経っている。家具も丁寧に磨き直さ、作りなおされようだった。彫刻の跡が新しいことから男が自分で掘ったのだろう。誰かに依頼したのだろうとも思ったが、内装の調和を見るに全て自分でやっているものだとわかった。
顔が好みだ。そして趣味も合いそうだ。
ここで僕なら、という考えが起きもしないのは、彼が全て大切に扱っていることがわかるからだ。自分のこだわりを大事に扱っている人間に気づくとき、カーヴェは機嫌が良くなる。
とはいえ、男はおそらく家具職人でも内装士でも、ましてや建築家でもないだろう。技術自体は個人の趣味の範囲に収まる。
なんの職業をしているのかさっぱりわからないな。と思いながら、カーヴェはグラスの水を飲み干した。
他の部屋を覗いて帰るほど無礼者になるつもりはない。だからせめてとカーヴェはテーブルの上のペンとメモ帳を手に取る。
何も要求しなかった男に、自分の名と、また会いたいから連絡してくれ、と連絡先を付け加える。
「これでよし!と」
まだ頭痛はするがかなり良くなった。それより次に会う時はもっと良い印象を残したい。
それに、好みの顔の相手とどう付き合いたいかもまだ整理しきれてなかった。
それから1週間、そして1ヶ月が経っても、男からの連絡はなかった。
初印象が最悪だったのは間違いない。だが、彼は想定の範囲内と言わんばかりにカーヴェに優しかった。
カーヴェが妙論派のカーヴェだと気づいていたのなら、金銭どころか厄介な謝礼を要求されてもおかしくなかったのに、彼はそんなものには興味がなさそうだった。好奇心で拾ってもう興味がなくなったということだろうか?
それとも酒に酔って人の家で泥酔する人間と付き合いたくないということだろうか。
自然に考えればそれが一番の分かりやすい理由だとは思うが、自分で考えてカーヴェは少々落ち込んだ。
酒に酔っていなかったら彼に出会えていなかった。酒に酔っていたから彼に嫌煙された。完全に迷宮入りだ。
また会ってくれるならなんとか挽回の余地がありそうだが、あの置き手紙を残して反応がないところを見ると、望みは薄そうだ。
仕事が終わった瞬間にこうして彼のことばかり考えているのだから始末に負えない。
どうしたものかと考えながら、薄暗さを通り越して夜が降りた道を辿り、自宅──後輩の家に到着した。
鍵を取り出してドアに差し込むと、お気に入りの愛らしい虎のキーホルダーが揺れる。
「ただいまー……」
部屋に明かりがついていなくてもついつい言ってしまうのだが、アルハイゼンと同居を始めたせいで余計に黙って帰宅することが出来なくなってしまった。
「おかえり」
返事が返ってきたのにカーヴェは顔を上げる。いつもは自室で読書に興じている男が、珍しくリビングでくつろいだように座っている。その手元には雑誌があるが、カーヴェが視線を向けたと同時に閉じられた。
「君に聞きたいことがある」
「な、なんだ?」
まるでカーヴェを待っていたかのようにすぐさま切り出されてカーヴェはここ数日の自分の行動を思い返した。
あの男のことばかり考えていて過度な飲酒はしていない。ツケ……も、いつもに比べたらかなり控えめなはずだ。きちんと仕事をこなしているし、アルハイゼンの定めたこの家のルールを破っていない。……と思う。
そこまで考えてからカーヴェは腕を組んだ。特に弱みになりそうな事実はない。それなら堂々としているべきだ。この後輩が相手なら特に。
「この1、2ヶ月の間、君はどこかで酔い潰れた挙句、見知らぬ男に拾われた覚えはないか?」
「は?」
そんなことある訳ないだろ!と返事をしようとしてカーヴェははっとした。
ある。とてもある。なんならそのことでずっと頭を悩ませている。
「あ、あったとしてそれがどうしたんだ。君に迷惑はかけてないだろ」
「ああ。確かに迷惑はかけてられていない。だが、好奇心から明らかにしたいことがある。その様子を見ると心当たりがあるようだな」
アルハイゼンは何か考えるようにすると、それ以上は何も言わずに踵を返した。
「おい、せめて何を明らかにしたかったか教えていけ!」
一人で完結するな!と言ったカーヴェに、アルハイゼンは嘆息すると、持っていた雑誌を差し出してきた。
思わず受け取る。
確かこれは稲妻で有名な文芸書だ。娯楽色の強い稲妻小説は、教令院の改革があって以降、輸入が緩和され、スメール内でかなりの人気が出てきている。
この雑誌はその中でも、八重堂が刊行している人気作家の短編を載せたもので、本にはならない短編や、作家が連載している作品のスピンオフなどが収録されることもあり、刊行数が限られていることもあってスメールでは入手困難なものだ。
何故カーヴェがその雑誌について知っているのかというと、つい最近クライアントにコレクター品として見せてもらったことがあるからだった。
アルハイゼンの入手経緯について、この男のことだから疑問はないが、アルハイゼンがこの娯楽小説雑誌を読んでいるという事実に違和感がある。
「76ページからの短編だ」
そう言って自室にもどり、ぱたんとドアを閉めたのを見送って、カーヴェはアルハイゼンが座っていたソファにすぐに座ると該当ページを開く。
一行目で興味をそそられ、三行目で引き込まれた。
内容は金髪の男がとある事情でやけ酒を飲み、気がついたら見知らぬ部屋で目覚めたことから始まる。男を介抱してくれたのは性別もわからないローブのフードを深く被った老人で、もう目が悪くて読めないから、ここにある本を一冊貰っていってくれないか、と言われる。部屋にある本棚の中に収められた本の中の一冊に、タイトルのない本があった。
適当にそれを選んで男は老人に礼を行って家に帰り、本を開くと、そこには聞いたこともない技術が記されていた。
男が老人の家を訪ねてもその家は跡形もなく、男は悩みながらも、必要に駆られてその技術を使い、成功していくこととなる。
ストーリー自体はそれほど目新しいものじゃない。だが、カーヴェはそんな物語など今まで読んだことがないかのように没頭して小説を読んだ。
主人公の男には愛嬌があり、悩み、喜び、苦悩するたびに男と同じ感情を覚えた。展開を想像させる余裕すら与えず、小説はカーヴェを捕えてその先へと引きずり込んでいく。
男が誰のものとも知れない技術を使い、成り上がったことを苦悩していく前半を越えて、男はとうとう抱えきれなくなった真実を告白することにした。その相手に選んだのは親友の男だ。この技術は自分のものではない、と言った男に、親友は驚きながらも言う。その持ち帰ってきた本を見せてくれ。と。言われた通り本を開いて男は驚いた。その本の筆跡は、明らかに男のものだったのだ。製図の書き方も、筆圧の掛け方までまるで一緒だった。混乱した男は、ふと糊で閉じられたページに気づく。そこには、驚くべき真実が書かれていた──。
読み終わってから数秒、ほう、と息をつき、それから数秒、はたとカーヴェは気づく。
「これ、僕のことだ……!?」
慌てて読み返してから、カーヴェは部屋がカーヴェが目覚めたあの部屋をイメージして書かれていることに気づいた。主人公視点で進んでいくため描写は少ないが、容姿がカーヴェと一致している。感情の露出の傾向も似てる。雑誌を握りしめ、カーヴェは玄関から外へと飛び出す。
目指すはあの男の家だった。
途中で不安になったように、男の家がなくなっていることはなかった。
室内には明かりがある。いささか乱暴にドアをノックすると、しばらくしてドアが開き、あの男が顔を覗かせた。
その顔にむかってびし!とカーヴェは指差し指を突きつける。
「一つ言っておく!僕はたとえそれが未来の自分の技術だったとしても、自分のものじゃない技術を使ったりしない!」
男はドア枠にもたれてカーヴェを眺めるように見返す。
「なんの話だ?」
口元に浮かんでいるのは、どこか面白がるような笑みだ。
うっ、そう言う意地の悪い顔も絵になりすぎる……!とたじろぎながらもカーヴェは続ける。
「これ!この雑誌に載っている小説!これの作者は君だろう!」
「例えそうだったとして……」
低い声音が、夜に密やかに響いたのにカーヴェは今の時間帯を思い出して慌てて口をつぐむ。
「君はどうしたいんだ?」
問いかけられてカーヴェは男が何が言いたいのか掴めずに首を傾げる。
「どう……とは?」
「君の話から察するに、君は俺がその雑誌に載っている小説の作者で、君のことを勝手にモデルにしたと主張をしているんだろう?」
そこまではまだ言ってないのだが、男は遠回しに正解だと言いながらも、カーヴェを試しているようだ。
「その要求は一体なんだ?と聞いているんだ」
カーヴェはまじまじと男の顔を見返した。見れば見るほど好みの顔だ。
自分がモデルだと気づいた時の興奮やその他の様々な感情で何も考えていなかったが、また会えて嬉しいの感情の方が先に立ってしまう。
「それは……」
「それは?」
促す男に焦りながら考え、それからカーヴェは答えを捻り出した。
「この前介抱してくれたお礼をさせて欲しい」
「んん?」
男も首を傾げてカーヴェを見返してから、少ししてくすくすと笑い出す。
「そこはサインって言えよな」
滅多に人前に出ないから高く売れるのに、と言う男に、ようやくカーヴェは目の前のこの男が稲妻の人気作家だという事実を思い出した。
「まあいいさ。そんなアルバイト代で良かったら出そう。とはいえ今夜はもう遅い。明日以降、都合が良ければ訪ねてきてくれ」
「分かった。絶対に来る」
頷いたカーヴェに男は頷く。
「ああ。気が向いたら待ってるよ」
じゃあ、おやすみ、そう言って男はひらりと手を振るとドアを閉めようとしたところで、あ、とカーヴェは声を出した。
「ん?」
「鍵を持って出てくるのを忘れた……」
「つまり?」
「締め出された…………」
この時間の鍵を持たない帰宅に、アルハイゼンは応じないだろう。鍵を開けに出てきてくれる可能性は限りなく低い。
手持ちはあったかな、またツケか……。と思いながらこの時間に開いてそうな宿屋の心当たりはない。主人を叩き起こして頭を下げ、泊まらせてもらう上にツケにするしかないだろう。最悪すぎる。
はあ、とため息をついたカーヴェは、それから、別れるはずだったのに男を引き止めてしまったことに気づく。
「いや、なんでもない。おやすみ。またあし……」
「泊まっていくか?」
思いもがけない問いかけにカーヴェは目を丸くする。
「正気か?」
思わずそんな失礼な問いかけをしてしまうほどだった。
「親切心をそんな風に問い返される謂れはないんだがな」
「だ、だって酔い潰れて人様の家に入り込み寝落ちるような人間だぞ?」
「自覚があるようでなによりだ。でも別に構わないさ。盗まれて困るようなものは何もないし、何より一度助けたのに二度は助けないというわけにもいかないだろう?」
「う…………」
挽回したいと思っていたはずなのに、この展開にカーヴェは肩を落としながらも、提案の魅力に抗えずに頷いた。
「ああ。よろしく頼む」
開かれたドアの中に入る。
背後で鍵をかけた音にどきりとして振り返ると、男はカーヴェを通り過ぎて先にリビングへと入っていく。
「食事は出さないぞ。ハーブティーを淹れるつもりだったが、ついでだ、君にもご馳走しようか?」
「ありがとう。いただくよ」
少し悩んだが、ここで断るのも気遣いを無駄にするだろう。
テーブルは二人用だが、キッチンはカウンターキッチンの形式だ。少し悩んで、カーヴェはカウンターの椅子に座った。男がハーブティーを入れている姿を見ながら、そういえば、とカーヴェは口を開く。
「君の名前を聞いてなかった」
すると男は顔を上げてカーヴェを見る。その顔が奇妙に驚いたようなものであるのに、カーヴェはなんだ?と目を瞬く。
「読んだんじゃないのか?」
「君の小説か?ああ、読んだ」
「作者の名前を読まなかったのか?」
「あっ…………!」
読んだが結びついていなかった。完全に情報と現実のこの男が結びついていなかったのだ。カーヴェは記憶に残っているその名前を口にする。
「宮瀬唯織」
「正解だ。妙論派のカーヴェ」
微笑んだ男が自分の名前を呼んだのに、思わず溶けそうな気分になりながらカーヴェは頬杖をつく。
美しいものが目の前で自分のためにお茶を入れているのを眺めていると、この先、1ヶ月の仕事は酒がなくてもやってけそうなくらいだった。まあ飲むが。
「ところで、君のベッドは一つしかないと聞いたが、どうするつもりなんだ?」
「君が使うといい。君が朝起きて出かけたら寝るとするさ。ああ、シーツは変えておく」
「ありがとう。世話をかけてすまない。……って、いくら自由業といえ僕のせいで昼夜逆転させられない。どうせ現場で寝ることもある。僕は床で構わない」
「気遣ってるわけじゃない。夜に筆が捗るんだ。少し物入りでな。もう一作何か書こうと考えている」
カップを口元に運んだ男の姿は絵になる。
絵画とするなら正面よりも少し斜めから横顔の輪郭を描きたい。
「安心してくれ。もう君を題材にすることはない」
「……それは……」
それで残念な気がする。だからといってぜひモデルにしてくれと言うのも流石に面の皮が厚い。
作中の男の描写は美しかった。容姿が美しく描かれていたわけじゃない。その人となり、言葉遣い、思考や感情、一人の人間としてありありと思い描ける。挿絵一つなかった。あったとしたらむしろ興醒めだろう。
「君は執筆中は喋らないタイプか?」
「いいや、多少効率は落ちるが、会話しながら文章を書くことが出来る」
「器用なんだな。僕は一度没頭すると喋れない。というか人の話が聞こえないんだ」
感心したカーヴェに宮瀬は笑った。その友人に向けるような会話を楽しんでいる表情にどきりとする。
「ああ、そんな感じがする」
理解を示す言葉に落ち着かない気分になりながら、カーヴェはおずおずと宮瀬を見やった。
「その……君さえ良ければだが…………」
言いかけてカーヴェはやっぱりやめることにした。作家と建築家では作業内容は違うが、己の想像を形にするプロセスは同じとも言える。邪魔をしたくない。
「一晩お喋りしたいって?別に構わないが、話題は君が振ってくれ」
カーヴェは目を丸くする。
拒否の返事が返ってくることを半ば覚悟していたからだ。それよりもカーヴェの心情を汲み取ってくれたことにも嬉しさが湧き上がる。
「良いのか?」
「締め切りがあるわけじゃない。だが今の稲妻で作家としての人気を保つなら、新作にあまり期間をあけないほうがいいんだ」
優しい。とカーヴェは感心してから、自分が存外同居人の男に毒されていることに気づいた。大抵の人間は一言目から皮肉を口にしない。
「ありがとう。色々聞きたいことがあったんだ」
すると宮瀬は目を見張ってから苦笑する。
「そんなに喜ばれても面白いものは何も出ない」
「そ、そんなに顔に出てるか?」
「ああ。酒が飲みたいならキッチンの戸棚から好きなものを開けていい。金には困ってないから遠慮も必要ない」
酒の単語に反応してから、カーヴェは大きな葛藤のあと首を横に振った。せっかく一晩付き合ってくれるというのだ。酒で台無しにはしたくない。
「君は稲妻の作家だろう?スメールにはどうして?」
「新たな題材探しだ。稲妻は開国してから他国への興味が高まっている。その流行に乗っかろうと思ったのと、ひと処に定住できない性質でな。鎖国中は息が詰まって仕方がなかった」
「来てからどれくらい経つんだ?」
「まだ1ヶ月だ」
となると、スメールで大賢者の失脚があってからすぐ来たことになる。
「これから2年ほど滞在してから稲妻に戻る予定だな。まあ決めているわけじゃない。何か心が動かされたらすぐに立つこともある」
あっさり訪れるかもしれない別れの可能性に内心で息を飲みながらも、カーヴェはまた問いかけた。
「この家具は君が?」
「ああ。趣味の範囲だ。大建築士様に言及されると少し居心地が悪いな」
「人の趣味に口を出すほど無粋じゃない。職業は関係なく、君の家の居心地は良いと思う。僕は好きだ」
宮瀬の趣味が良いのだろう。この家でどういう感情で過ごそうと思っているのかが明確だ。意識に触れすぎないバランスの色合いとデザイン。自宅で仕事をするならば快適だろう。
「ありがとう」
微笑んでお茶のおかわりは?と問いかけてくる宮瀬に、カーヴェはありがたく貰うことにした。
「じゃあ、困ってることはないか?僕に出来る範囲のことになってしまうが……」
「お礼の話か?今の所困ってないよ。まあ酒は好きだな。君が美味しいと思うスメールの酒を教えてくれ」
謙虚であり、またカーヴェが出来る範囲のことには違いなく、カーヴェは宮瀬の器の大きさに、勝手に距離をあけられたような気がした。
「そんなのは礼にならないだろ。他に何かないか?」
なおも問い詰めると、宮瀬はわずかに首を傾ける。
「なくはないが、君の分野の話じゃないな」
「言ってみてくれ」
意気込んで身を乗り出したカーヴェに、宮瀬は口を開く。その唇はこう言った。
「知恵の殿堂への入館許可証が欲しい」
「…………え?」
思っていたような物質が出てこなかったのに、カーヴェは一瞬きょとんとした。
「職業上、資料はあればあるほど良いんだ。だが教令院は学生と学者しか入れないだろう?知恵の殿堂なんてもってのほかだ。スメールは過ごしやすい国ではあるが、作家が暮らせば良質な資料に手が届かないもどかしさに苦しむだろうな」
宮瀬の声音は淡々としていて、台詞ほど理不尽を感じているようではなかった。
それがスメールだと受け入れているのだろう。
「教令院は学術的価値のない娯楽小説は嫌煙しがちだ。窓口で却下されてしまった」
「そうだったのか」
カーヴェは肩を落とした。教令院の在り方はよく知っている。どんなふうに門前払いされたのか想像すら出来そうだ。
「君のせいじゃないだろう」
話しているうちにリラックスしたのか、頬杖をついた宮瀬が苦笑しながら言うのに、ああ、とカーヴェは返事をする。
カーヴェのせいではない。だが、素晴らしい芸術が生まれる可能性を狭めているとなれば、心苦しい。それが好みの人間の可能性なら尚更だ。
だが、カーヴェには一つ、許可証を手に入れるための当てがあった。
「もしかすると、なんとか出来るかもしれない」
宮瀬は目を丸くしたが、大袈裟な反応はせずに微笑んだ。
「それは朗報だな。だが納得していることではあるんだ。君のお礼をしたい気持ちは理解したが、無理をしてまで返さなくていい」
「無理はしないさ。まあ、期待して待っててくれ」
なんせカーヴェの当ては優秀だ。
可愛げのない後輩だが、彼には許可証を出すだけの権力がある。話せば分かってくれるだろう。……多分。
宮瀬はそんなカーヴェをみて少し笑っている。
「なんだ?」
不思議に思って首を傾げると、宮瀬はいや、と首を横に振る。
「期待して待ってるよ。カーヴェ」
名前を呼んでくれたのは2回目だ。
「っああ!」
許可証を用意する事ができれば、彼ともっと親しくなる機会になるかもしれない。友人までなれば、お茶をしてこの容姿を眺める機会も得られるだろう。
そうなったら、宮瀬に絵のモデルになってもらえるか頼んでみようか。
絵画は専門じゃないが、彼を描くことはインスピレーションのきっかけにもなりそうだ。
明るい未来が見えた気がして、カーヴェは機嫌良く一晩宮瀬とお喋りを楽しんだ。
よし、とカーヴェは気合を入れると、リビングに仁王立ちした。
そろそろアルハイゼンが帰ってくる頃だ。今日は絶対に許可証を出すとアルハイゼンに言わせる。
彼は表情が豊かなわけではないが、思ったよりも笑う男だった。表情のバリエーションはいくらでも見たい。その為ならあの可愛くない後輩から許可証をぶん取る労力も厭わない。
ドアの鍵を開ける音がして、開いたドアからアルハイゼンが姿を現す。彼はカーヴェを見てはあ、と息を吐いた。
「君、仕事はどうしたんだ?」
「今日予定している作業は終わった。仕事は順調だ。それよりもアルハイゼン、君に……」
頼みがある、とは言いたくない。
「先輩を労う機会をやる」
腰に手を当ててアルハイゼンを見返す。嫌味と皮肉が倍になって返ってくるかと思えば、アルハイゼンはカーヴェに手のひらを見せる。
「続きを」
「え?」
「続きをと言った。まさかただ因縁をつけようとしただけだったか?」
言いながらアルハイゼンは腕を組み直す。
「ち、違う!君に外部者の知恵の殿堂への入館許可証を出して欲しいんだ」
「良いだろう。だが条件がある」
「え?」
とんとんと進む話に戸惑ったカーヴェに、アルハイゼンは勝手に続ける。
「その許可証を出す相手に会いたい」
それからアルハイゼンはテーブルに置いてあるカーヴェ用のメモ帳にさらりと何かをかきつけた。
「俺が時間を取れるのはこの日程だけだ。それ以外は応じない」
差し出されたメモ帳には、日付と時間が書かれている。
「君の要望だ。君が相手の都合をつけろ。他には何かあるか?」
「いや、ない……が……」
「そうか」
あっさりカーヴェの横を通り過ぎるアルハイゼンをカーヴェは振り向いてその背に声を書ける。
「もしかして僕が誰の許可証を取ろうとしているのか分かってるのか?」
アルハイゼンは足を止めると、ちらりとだけカーヴェを振り向いた。
「君にあの作家の情報を渡したのは俺だ。君がそこまでその作家に入れ込む理由について興味はないが、君が突然そんなことを言い出す理由を察するのはそれほど難しくはない」
「君は彼に会いたいのか?」
カーヴェの問いかけに、アルハイゼンはひとつ間を置く。
「君は知らないようだが、作家、宮瀬唯織は性別年齢不明の作家だ。名前が本名かも分からない。サイン会を行った記録はなく、読者の前に姿を現すどころか、ファンレターの返事も出したことはない。以前、確かめたいことがあり、宮瀬唯織に手紙を出したことがあるが返事はなかった。君が彼と伝手があるというのなら、便宜を図ってもいい」
「確かめたいことって?」
カーヴェの問いかけに、アルハイゼンは自室へと歩き出す。
「君には分からないことだ」
そのままパタン、と閉まったドアとアルハイゼンに若干腹を立てながら、カーヴェはすぐさま宮瀬の家へ出向くことにした。
宮瀬の家のドアの戸を叩き、出てきた宮瀬が若干呆れた顔をして自分を見るのにカーヴェは首を傾げた。そのやれやれとした顔も悪くないが、そんな顔をする理由が分からない。
カーヴェは中に入れてくれる宮瀬について玄関に足を踏み入れると、ドアが閉まるやいなや、口を開いた。
「宮瀬!許可証が貰えそうだぞ!」
目を瞬いた宮瀬に、カーヴェは事情を話し始める。
「教令院で今は代理賢者をしているアルハイゼンという男がいるんだが、アルハイゼンが許可証を出してくれるそうだ。ただ条件があって、君と会いたいらしい」
少し早口になったが早く伝えたかったから仕方がない。喜んでくれるかと思ったが、宮瀬は少し考えるように腕を組む。
その思案するかのような反応に、カーヴェは戸惑った。
「もしかして、迷惑だったか?君が表に出ない人間だと聞いた」
そういえばアルハイゼンがそのようなことを言っていたと思い出す。
すると宮瀬は口元に笑みを浮かべて首を横に振った。
「いや、君が俺のために手配してくれたのは嬉しい。ただ、気掛かりがあるんだ。そのアルハイゼンという人は俺に良い印象を持っていないんじゃないだろうか?」
「どうしてそう思うんだ?」
思いがけない言葉に目を瞬いて宮瀬を見返す。アルハイゼンの言葉を聞く限り、接点は全くないはずだ。
「その人はどうして俺と会いたいのか聞いてるか?」
「確かめたいことがある。と、言っていた」
また考えこむようにする宮瀬に、カーヴェは先走り過ぎたかもしれないと、その表情を見ながら口を開く。
「もし問題があるなら断ってくれ。君の事情を組まずに条件を承諾してしまった」
宮瀬が望まないなら別の条件をつけさせるまでだ。
「ちなみに、君は俺のことをなんと説明しているんだ?」
「説明はしていないな。アルハイゼンは許可証が欲しいのは君だと推測していた」
「なるほどな……まあ、どちらにしてもやましいところはないし、問題ないだろう」
最後の方の台詞を呟くように言った宮瀬にカーヴェはなんのことだ?と首を傾げる。アルハイゼンが何か勘違いをするようなことをしたのだろうか。だが、宮瀬は説明する気はなさそうだった。
「これがアルハイゼンが提示してきた日程だ。都合はどうだ?」
カーヴェは宮瀬に渡されたメモを渡す。
「問題ないよ。この1ヶ月は何も予定がないからな」
頷いて宮瀬はテーブルの方に手のひらを向けた。
「玄関で話しこませてしまったが、お茶でも飲んでいくか?」
「あ、いや……。そろそろ夜になるから帰るよ。アルハイゼンに返事を伝えたいし」
首を横に振ると、宮瀬は微笑んだ。
「世話になるな。カーヴェ」
「そもそも僕が君に迷惑をかけたんだ。その……アルハイゼンが君に迷惑をかけないと良いんだが……」
アルハイゼンがこの男に何を言い出すのかさっぱり分からない。確かめたいことの内容についても見当がつかなかった。
「問題ない。変わった人間と話をするのは好きだよ。経験になるからな」
好き、の単語に僅かにどきりとしたカーヴェは、アルハイゼンの方が興味を持たれたらどうしようかと、ふと不安になる。
「君も含めてな。カーヴェ」
そんな風に続けられてカーヴェは不意打ちをくらった感覚で若干頬が熱くなるのを感じた。
「今度は君とも都合を合わせて食事でもしよう。君が俺のことばかり聞くから、君の話を聞いたことがない」
言われてみれば……、とこれまでの会話を思い返してカーヴェはぜひとばかりに頷いた。
「じゃあまた。宮瀬」
「ああ。気をつけて帰るんだぞ、カーヴェ」
「流石に素面で道端で眠り込んだりしないからな!」
アルハイゼンに言うように返してしまって少し慌てたカーヴェは、揶揄うように唇の端を上げた宮瀬の顔に見惚れた。
「分かってるよ」
くすくすと笑う宮瀬をぽかんと見ていたカーヴェは、咳払いをしてドアへと向かう。
「その日は僕も同席する。アルハイゼンが何を考えているのか僕にも分からないが、安心してくれ。あいつが失礼なことをしたらぶん殴ってやる!」
宮瀬は柔らかく目を細めた。
「ああ。でもまあ……」
考えるように区切ってから宮瀬は続けた。
「大抵のことは自分でなんとか出来るよ。心配してくれてありがとう。カーヴェ」
その言葉が、カーヴェを安心させるためのものではなく、宮瀬にとっても事実を伝えるかのような声音であったのに、カーヴェは改めて宮瀬を眺めた。
作家として才能のある男であることは間違いない。金銭的に余裕があり、旅をするだけの護身が出来、他国へきて生活する適応力がある。少し人を揶揄う気質はあるが、カーヴェが飛びつくように仲良くなろうとしても、拒絶しないおおらかさがある。カーヴェ自身、この距離の縮め方は強引かな、という自覚はあるが、だからといって、遠回りに交流を結ぶ器用さは自分にはない。
この安定した余裕はアルハイゼンを少し思い出させて、カーヴェはすぐにその考えを振り払った。
「じゃあ僕は帰るよ。夜に押しかけて悪かった」
「気にしなくていい。どうせ夜に押しかけてくるような友達は君しかいないし、君なら今更だ」
「うっ……」
宮瀬は笑う。その表情を見ながら、カーヴェはドアに手をかけた。
「おやすみ、カーヴェ」
優しい声がする。
「おやすみ、宮瀬」
名前で呼べたらなあ、とカーヴェは思う。この男がどれだけ近づくことを許してくれるのか分からない。
ドアを閉めて、少し足を止めたまま宮瀬の声を思い出してから、カーヴェは後輩の家、もとい自宅に足を向けた。
アルハイゼンとの面会に同席するなら、仕事のペースを上げる必要がある。カーヴェの仕事の進行はコンディションによるところも大きいが、きっと大丈夫だろう。
カーヴェは鼻歌を歌いそうな足取りで、帰宅した。
それから三日。ばたばたと仕事をしているうちに、すぐに約束の日は来てしまった。何かアルハイゼンの対策をした方がいいか、とも考えたが、何か思いつくわけでもない。カーヴェはアルハイゼンと宮瀬の家へと向かうこととなった。最初はカフェで、という話だったが、宮瀬が自宅が良いと言ったのだ。何も聞いてこないアルハイゼンに、カーヴェは迷惑をかけるなよと何度も言った。途中で面倒になったらしいアルハイゼンに追い返されそうになったが、口をつぐむことで事なきを得、宮瀬の家の前に到着した。
ドアをノックする。返事はない。
「……あれ?」
もう一度ノックする。
「宮瀬?居ないのか?」
まさか約束を破るような人間じゃないとは思うが、とドアを引いてみると、鍵は掛かっていなかった。もしや何かあったのでは、と不安になり家の中に足を踏み入れる。
「宮瀬!」
すでに慣れ始めた廊下を通り抜けてリビングに行くと、──そこは、本に埋まっていた。
床やテーブルにたくさんの本が積み上げられ、その中に隠れるようにしてペンを走らせる宮瀬の姿があった。
「カーヴェ?」
顔も上げずに呼びかけられ、カーヴェは本を倒さないように宮瀬の元に辿りつくルートを見つけられずに、とりあえず本の山をそっとずらす。
「ああ、そんな時間か……。すまない、終わらせるつもりだったんだが興が乗ってな」
言いながらペンを止めることはない。と思ったところでペンが止まる。宮瀬がちらりと見た右手側の本のひとやまから一冊抜き出す。開いたあたりからぺらぺらと3ページほど進んだところで手を止めて何かを確認する。すぐに本は閉じられてその山の一番上に重ねられる。それはどの本のどのページに何が書いてあるか理解している動きだった。
「邪魔だったか?」
「いや、君たちが不愉快じゃなければこのままで良い。貴重な時間を割かせてすまないが、20分待ってくれ」
カーヴェは横でアルハイゼンが足を止めたのを振り向いた。アルハイゼンは積み上がっている本を眺めて腕を組む。
「問題ない。もとより今日の予定は空けてある」
アルハイゼンの言葉が聞こえているのか、いないのか、宮瀬はさらさらと恐ろしいくらいのスピードで手元の紙に文章を書き続けていった。縦書きの用紙はスメールにはないものだ。少し新鮮に思いながらも、その速度に感嘆する。あれほどの濃密な物語が、この速さで紡がれていくのか。
部屋は文字を書きつける音だけが響き、そしてそれはちょうど10分で止まった。
ペンたてにペンを置き、宮瀬は立ち上がると顔を上げる。
美しい顔立ちが自分たちに向けられ、理知の光を灯した瞳が自分たちを見る。
「大変失礼をいたしました。初めまして。稲妻の八重堂に所属する作家、宮瀬唯織と申します」
右手が胸に当てられた。慇懃な声と共に所作は美しく、カーヴェは釘付けになったように、髪の揺れひとつまで見つめる。
「今は教令院の代理賢者をしている。アルハイゼンと申します。お会いできて光栄です。宮瀬先生」
同じく慇懃な調子で返されたアルハイゼンの台詞にカーヴェは飛び上がりそうになる程驚いた。
アルハイゼンが過去に敬語を使った相手など、今や失脚している大賢者くらいなものだったからだ。それを初対面の素性の知れない作家相手に、と驚愕しているカーヴェに、何も知らないだろう宮瀬は微笑む。
「スメールの学者の方にそんな風に呼んでいただけるとは、こちらこそ光栄です。今片付けますので少しお待ちを」
宮瀬はテキパキと本を丁寧に重ねて避けて、スペースを作るとカーヴェたちに椅子を勧める。それからキッチンへ行き、程なくしてコーヒーの良い香りがしてきて、宮瀬はカーヴェとアルハイゼンの前にカップをおいた。ここまでちょうど10分ほどだ。
「お好きなだけどうぞ」
砂糖とミルクカップも置かれて、クッキーも添えられる。
「ありがとう」
カーヴェは少し考えてからコーヒーをブラックのまま口にして目を丸くした。芳醇な香りに、まろやかな苦味。口当たりが良く、カーヴェが徹夜を続ける際に飲む泥のようなコーヒーとはまるで違う味わいだ。
「アルハイゼンさんが許可証を出す条件が、私と会うことだとお聞きしました。何か私に聞きたいことがおありですか?」
「はい。宮瀬先生が出版された推理の巨塔シリーズについてお聞きしたいことがあります」
形ばかりの前置きをして、間を開けずにアルハイゼンは続ける。
「一巻の表紙に描かれている文字列と章タイトルを組み合わせると、作中とは別の事実を指摘する答えが出てきますが、これは意図的なものですか?」
宮瀬はゆっくりとコーヒーを飲んでから顔を上げる。
その顔が面白がっているものであることに、カーヴェは宮瀬とアルハイゼンを交互に見た。
「ええ」
「成程。では白い楽園シリーズであなたが作中で用いている暗号の解答を見せていただけないでしょうか」
「分からなくてもなんの問題もない演出だと思います」
面白がるような表情をしながらも、素っ気のない返事をした宮瀬に気にする様子もなく、アルハイゼンが続ける。
「あなたが用いている暗号は非常に高度なルールに基づいて考えられていることが察せられます。その暗号の参考にした論文があれば教えていただきたい」
「暗号にはいくつかのパターンがあるでしょう?具体的な参考論文はありません。あれは私が考えたものです。……何か問題が?」
「いえ、興味深い演出でした。作中で暗号の詳細は記載されていません。そもそも存在すら示唆されていない。ただ、解読したので正誤を教えていただけたらと思い、お会いしたいと考えていました」
アルハイゼンの話す本のタイトルをカーヴェは一つも知らない。アルハイゼンと目を合わせている宮瀬は、少しの沈黙の後、唇を開けた。
「アルハイゼンさんは知論派の学者さんですか?」
「はい」
「でしょうね」
ただの確認というかのような首肯をして、宮瀬は続ける。
「わたしは読者に正解を教えるつもりはありません。謎のままの方がずっとこの話のことを覚えていてくれるでしょうから」
アルハイゼンと宮瀬の視線が交錯した瞬間、カーヴェは言いようのない焦燥感にかられた。
二人の話が理解できないと思った時から嫌な緊張があったが、二人の間にだけ通じている物事に置いて行かれたような感覚に落ちいる。
「何を条件にしても開示するつもりはない、と?」
「あなたが雑談をするに気安い友人だったらまた違うかも知れませんね」
冗談めかした言い方をした宮瀬は、それから首を傾げる。
「それとも、許可証を対価にするつもりですか?」
「いいえ。そもそも許可証を発行する条件はあなたに会うことでした。それを反故にするつもりはありません」
「良かった。そう言われたらお断りするつもりでした」
にこりと笑った宮瀬の表情はカーヴェから見ても完璧な営業スマイルだった。
カーヴェには一度も向けられたことのない愛想の感じ取れない笑顔に、これはこれで、と顔を眺めたカーヴェは、そうじゃないと思考を引き戻す。
焦燥感。これは問題だ。
宮瀬とアルハイゼンを繋ぎ合わせたのは、宮瀬へのお礼と同時に、宮瀬に喜んでもらいたいと思ったからだ。
なのに、焦燥感を抱くということはカーヴェがアルハイゼンに嫉妬とはいかずとも、類似する感情を抱いたと言うことになる。
僕って、宮瀬とどうなりたいんだ?
この好きな顔と友人として話せるような関係が欲しい。そう思っていたはずだ。
いくら一晩拾ってもらって親切にしてもらったとはいえ、初対面の相手に対してこれは少々入れ込み過ぎている気がする。
「カーヴェ」
ちょっと落ち着こうと思ったところで声をかけられて顔を上げる。
すると、目の前にはもう宮瀬の姿しかない。
「あれ?アルハイゼンは?」
「帰った。ただ事実確認しに来た天領奉行みたいだったな」
あっさり踵を返して帰っていった姿を思い浮かべて、アルハイゼンらしいとカーヴェは愛想のかけらもない態度に呆れる。
腕を組んでおかしそうに笑みを浮かべている宮瀬は、面白がっているようだった。カーヴェは不意に浮かんだちょっとの好奇心で聞いてみる。
「その……さっき言ってた暗号だけど」
「ん?」
「もし僕が教えてくれって言ったら……」
おずおずと問いかけたカーヴェは、それからはっと息を飲む。宮瀬はそれはそれは好ましい微笑を浮かべた。
「教えてあげようか?」
まるで突然触れることすら許されたような返事だった。
心情を暴きたくなるような心の秘されたその表情は、カーヴェが思いもがけなかった完璧さがある。
彼は僅かに悪意がある方が美しい。
固まったカーヴェが赤くなるのを気にした様子はなく、宮瀬はあっさりと片付けた書籍を机の上に戻し始める。執筆の続きをするのだろう。
「君はどうする?もう少しゆっくりしていくか?コーヒーのお代わりならまだある」
「あ、いや。僕も帰るよ」
それから少しだけ躊躇って、ゆっくりと宮瀬と視線を合わせる。まっすぐに見つめた宮瀬は、やはり好みの造形をしていた。
「その、……また来てもいいか……?」
「もちろん。いつでもどうぞ」
あまりにもさらりと許可を出されて、カーヴェはそれが宮瀬の「社交辞令」じゃないことをよくよく確認しようと宮瀬の表情を注意深く見た。
分からない。分からないが、嫌なことは嫌だとはっきり言ってくれそうな気もする。
すでに客観視出来てないのは自覚しているが、カーヴェはなんとかありがとう、と言い、宮瀬の家をあとにした。
玄関のドアを閉め、数歩歩いてから頭を抱えて座り込む。
「魔性だ……」
まるでカーヴェの心を分かっていると言わんばかりのタイミングと台詞だった。
距離を考え直そうとした瞬間の引き摺り込み方。そもそもカーヴェは宮瀬がどんな人間かなんて全く検討がついていないのだ。
何を考えているかもちっとも分からない。本心かどうかも。ただ、顔が好み、それだけの筈だった。
最悪なのは、カーヴェがひどく熱中してしまう性分ということだ。
ひとつのアイデアを思いついたらそれに夢中になってしまう。完成させたい造形があれば、そのことばかり考えてしまう。
そしてそれは人間に対してもそうだ。
一目惚れ。それはカーヴェにとって実はそれほどロマンのあるきっかけではない。カーヴェが望むのは、外見だけではなく、内面も知った上での恋愛だ。相互理解と、不理解にたいしての思いやりや努力。そんな理想的な関係性からは、この始まりは程遠い。
別に外見だけが好きだという関係性を否定するつもりはないが、宮瀬(好みの外見)に勝手に期待して失望するような人間になりたくない。
「ううう……」
すでに勝手に魔性だ、なんて呟いたことも後悔している。何も知らないのにそんな形容するのはただのカーヴェの恨み言だ。
こんなぐだぐだと考えているのは、すでにカーヴェは取り返しのつかないところにいることを自覚があるせいだ。
あの最高に好きな形をした男に恋をしてしまった。
さっき動揺の最中にまた会いに来ていいと許しをもらったことだけは褒めたいが、目的達成への工程が見えなさすぎて、途方に暮れた。
夢中になったものの前で足を止めるなんて、随分と前に経験してそれきりだ。
ああ、でも歩み出してしまうのだろうな、とカーヴェは半ば諦めに似た気持ちで、自分の恋を肯定した。