ココイヌ契約結婚2「今日は19時に『涼』にて夕食の予約が入っております。奥様は17時頃に外出のご用意を」
朝ココがいつも通りビシッとスーツを着込んで珈琲を飲んでる横で部屋着でいつも通りテレビを眺めて居たら、秘書の男が突然そう言ってきた。
奥様というのは俺の事らしいから、つまり俺の予定という事か。
よくわからずココの方を見てみると、綺麗な花の柄のコーヒーカップに口をつけていたココが頷いた。
「イヌピー、今日は外で飯にしよう。17時に迎えやるからそのままスーツ取りに行ってきて。もう出来上がってる筈だからさ」
決定事項を淡々と告げてくる所はなんというか下の者に命令を出し慣れている男と言う感じがした。
スーツって誰のだ、ココのを取って来いという事だろうか。よく解らないが俺は17時に着替えて待ってれば迎えが来るから夕食をココと外で食べるらしいという事は理解した。
「わかった」
短く返答するとココは読んでいた雑誌を閉じてジャケットを羽織った。
それから重たそうな革のバッグを秘書が持つと二人で玄関に向かっていく。
一応見送りに俺も玄関まで着いていって、これだけは仕事を見つけたと毎朝ココに靴べらを渡し履き終えたら受け取る。
「いってらしゃい」
「ああ、いってきます。じゃあ今夜な」
こちらをチラリと見た後、平坦な様子でココはそう言うと秘書と連れたって玄関を出て行った。
ドアが閉まると17時まで何をしようか。いつもはテレビ見て昼寝して軽く筋トレして用意されてる飯食ってまた筋トレしてシャワー浴びてテレビ見てそんで寝てる。
マジで俺の1日って何の生産性も無い無駄でしか無い。
この家の家主であるココは朝から晩までみっちり働いてるというのに何だかなぁと思わないでも無い。
自由にしてても良いと言われてるんだから出掛けたりすれば良いのかもしれないが、東京はとにかく人が多くて何処行くにも気疲れしてしまう。
俺は畦道を陽に照らされながらのんびり歩いたり、近所の婆さん家の犬の散歩代わりにしたりとかそういう感じの方が好きだ。
後は強いて言えばバイクには興味がある。田舎に居たときも町で唯一のバイク屋でピカピカのいつまでも売れないバイクとかおっちゃんが整備してるのを眺めてるのが好きだった。
田舎だから車は必須だしバイトで貯めた金で車の免許は取ったけど、バイクの免許も取りたいなと思ってた。
でも持ってた所であそこでは使い道も無かったし、車はじいちゃんやばあちゃんが買い物行く時や病院に行く時に出せるから取っておいて良かったなとは思うけど。
それもこの生活続けてたら出番は無さそうだ。
偽装結婚たってせいぜい2、3年くらいで終わるんだろうしそうしたらバイクの免許とか考えてみても良いかもなと思う。
東京来たら野垂れ死にするとか考えてたのにちょっとだけ前向きなれたのは時間が有り余っていて、生活も当分の間心配無さそうだからだろうな。
とりあえずやる事は無いが何かしとくかと、朝食を食べて日課の筋トレの腹筋や背筋やスクワットなんかを50回ずつ終えてシャワーを浴びた。
それから適当に買って貰ったボタンのシャツとシンプルな黒いパンツを履いておいた。
ファッションの事は疎いから何も解らないが白と黒着とけば大丈夫だろう。
昼も家政婦のおばちゃんが作ってくれたおにぎりを食べながらテレビを見た。
最初の数日はなんか洒落たサンドイッチだとかばかりで慣れなくて、家政婦のおばちゃんにおにぎりが良いと言ってみたらそれからはおにぎりを作ってくれるようになった。
ばあちゃんの作ったちょっとしょっぱくてデカイおにぎりの味が恋しくなって、これがホームシックなのかなと思った。
もう帰る家なんて何処にも無いのに笑える。
そんな事をしていたらココから渡されていた携帯電話が鳴って、出てみると相手はココの秘書でこれから迎えに行くとの事だった。
時計を見たらいつの間にか16時を過ぎていてまた今日も時間を無駄に過ごしてしまったな、と思ったが夜はココと外食に行けるらしいので少し楽しみだった。
ココの事は殆ど知らないけど、俺が今東京での知り合いと言ったらアイツしか居ないからな。
偽装とはいえ、一応夫婦にもなったんだしもう少し知りたい。
秘書の男は実は松川と言うのだが、その松川が迎えに来るのかと思ったら来たのは別の奴だった。
やっぱりガタイが良くて眼鏡を掛けていてキツネみたいな顔をした木村という男だ。
木村もココの秘書の一人らしい。秘書てのは何人も居るものなんだなと初めて知った。
木村は松川とは違いへらへらと愛想よく笑い良く喋った。
奥様お迎えに上がりました〜とへらへら笑いながら俺を高級そうな黒い車に乗せ、木村は助手席に乗った。
「これから松岡屋に行って奥様のオーダースーツをご試着いただいて、問題が無ければそのまま店の方に向かいます。何か必要な物があれば何でも買うようにと社長から申し付けられてますので気になる物があったらおしゃってください」
「え、スーツって俺の?ココのじゃなくて?」
「はい、奥様のオーダースーツでございます。社長がお選びになったのでとても素敵な物だと思いますよ」
スーツなんて着慣れて無いしそもそもいつの間に作ったんだろう、とか色々疑問に思うしちょっとだけ面倒だなと思ってるのが顔に出てしまっていたのか。
「窮屈かとは思いますが、社長が出入りする店はほぼドレスコードがあるのでスーツは何着かあった方が何かと便利かと思います」
なんて木村から言われてしまった。
ドレスコードなんて言われてもまるでピンと来ないし、今までスーツ着たのなんて…考えて見ても思い当たらない。
近所の爺さんの葬式の時もじいちゃんのスーツ借りて着たぐらいだったし。
まあココが必要だと思って作ったというのなら俺はそれに従うだけだ。
仮にもココと結婚したというからには俺もみすぼらしい格好をしていては駄目なんだろう事は流石に理解しているが、それが俺に似合うかどうかはまた別の話だからな。
そこは似合わなくても知らないぞ、ココ。とか思いながらデパートへと連れていかれた。
相変わらず人ばかりの東京の街中には幾つもの高いビルが立ち並び俺でも名前くらいは聞いたことのあるデパートもあった。
その一つの前に車が停まると秘書が先に降りてドアを開けてくれる。
俺が降りると車は直ぐに地下の駐車場へと向かっていった。
こちらへ、と木村に促されデパートのきらびやかな入り口へと向かうと品の良さそうな初老のスーツをきっちり着こなした男が出迎えてくる。
「この度はご結婚おめでとうございます。」
等と恭しく頭を下げられて戸惑いながらも、どうも…とだけ何とか返したが別にめでたい結婚という訳でも無いんだよなと思う。
てっきりスーツ売り場みたいな所に連れてかれるのかと思っていたら、エレベーターで上の階に連れてかれて応接室みたいな所に通された。
それから直ぐに何人かのデパートの人間がやって来てハンガーラックにかけられた数着のスーツをこちらですと見せてくるが俺にはよく解らない。
代わりに木村が右側から順番にお願いします、と言ってそのままセットアップのスーツを俺の体に宛てがうようにして見るというのを何度か繰り返しシャツや靴もその都度何足も用意されていてこんなにあるのかと驚いた。
木村は徐にスーツを宛てがわれた俺を失礼します、と携帯のカメラでパシャパシャと写真を撮りだすと何処かに送信した。
その間にテーブルの上にはココの家にあるような綺麗なティーセットが用意されていて待ってる間にどうぞ、と勧められたから適当に口にしたが味はよくわからなかった。紅茶なんてペットボトルのしか飲んだ事無いし。
それから木村は携帯で何かやり取りをしてから俺とデパートの人の方を見て、ではそちらのチャコールグレイのスーツを青いネクタイ、シャツはサックスブルーのそれを靴は2番目の物をとテキパキと指示を出しているが最早何かの呪文かと思った。
それから奥のフィッティングルームでシャツとパンツを渡されそれに着替えて出るとすかさずベストやらネクタイやらジャケットやらと着付けられてされるがまま突っ立ているだけで気付いたらスーツを着ていた。
「とてもお似合いですよ。」
木村とデパートの奴らがよくある社交辞令の言葉を言ってるのに、俺は愛想悪くどうも…と返すのが精一杯だった。
鏡を見せられてちゃんとした格好をさせられているな、ぐらいの感想しか無かった。
後は自宅の方へ送ってください、と木村が言ってまさかあれ全部俺のじゃないよな?と少しばかり不安になったがそんな事聞く間も無くまたエレベーターに乗せられ車に乗せられ今度は美容室に連れて来られた。
俺は床屋しか行ったこと無いから美容室の事はよくわからないが個室で担当が二人付きっきりというのは普通では無いのは何となく解る。
伸ばし放題だった髪を整えるように手際よく毛先を切りシャンプーされてドライヤーで乾かされるとこれは本当に俺の髪かと言うくらい艶々でサラサラになっていた。
「九井様は地毛が柔らかく色合いも綺麗なのでトリートメントだけで十分ですね」
美容師の男が営業トーク用の笑みを浮かべてそう言うが、やはり俺はそこでもどうも…しか言えなかった。
しかも髪切られながらもう一人がなんかしてんなと思ってたら俺の爪が見たことないくらいピカピカにされててちょっと嫌だなと思ったが何も言わなかった。
髪伸ばしてたのだって高校卒業したら校則で髪切らなくても良くなって床屋代節約出来るからだったしな。
そんな事をしてる内にココとの約束の時間が近付いていて美容室を出ると車で食事する所へと連れてかれた。
流石にその辺の居酒屋って事は無いだろうと思っていたが、連れて来られたのは所謂料亭というやつで大きい和風の建物と広い庭園があって着物の女の人が俺達を出迎えていた。
こんなん、テレビのドラマで政治家が悪い話する時に使う所みたいなイメージしか無かったからちょっとそのスケールに引いている俺が居た。
だが木村は社長がお待ちですよ、と俺を促すから仕方なく着物の女性に着いて板張りの廊下を歩いた。木村とは入り口で別れた。
随分奥までやってくるとこちらです、と案内された部屋の襖が開けられて玄関みたいに段になってる所を跨いで室内にやっと入る。
そうするともう一枚襖があってそこを店の人が膝をついて開けてくれて、その向こうにはやっと目的の男の姿が見えた。
「イヌピー、お疲れさま」
手を上げてこちらを見たココは今朝見た濃紺のスーツ姿で着物の綺麗な女の人がその横でお猪口に酒を注いでいた。
コイツ本当に同じ歳なのかと思うぐらい堂々と慣れたその仕草にやっぱり住む世界が違う人間だなと思った。
「女将、この人が俺の妻になってくれた人だ」
ココがそう言って向かい側に座った俺を紹介すると、着物の女の人がこちらに向き直って女将のさよこです、と丁寧に挨拶をしてきた。
勿論俺はそれにどうも…と返した。こういう時って妻の青宗です、とか言うべきなのだろうか。
何か違和感しか無いしどうするべきか解らないから後でココに聞くか。
「まあ、やっぱり九井社長は面食いじゃないですか。こんな綺麗な奥様をお選びになって」
「嫌だな、偶々結婚した人が綺麗だっただけなのに。でも本当にうちの妻は綺麗でしょ?」
「あら、惚気ですか。新婚さんですものね、でもこれだけお綺麗だとさぞかしご自慢でしょう」
こういう世界ってのは社交辞令が飛び交うものなんだろう。
歯の浮くようなセリフでココと女将が一頻り談笑すると、女将は食事をお持ちしますと部屋を出て行った。
やっとココと二人だけになった部屋で溜息と共に脚を崩した。
見知らぬ人間の前でボロが出たら困るからと無意識に緊張していたらしく肩が凝っている。
「イヌピー、やっぱそのスーツ似合ってるな」
「そうか、よくわかんねぇけど。ココに恥かかせない程度に何とか誤魔化せてんなら良かったよ」
「作法とかそういうのはその内で良いよ。今日はプライベートな食事の席だから畏まらなくても良い」
「こんな店来たことも無いし、どうしたら良いのかわかんねぇし緊張する」
「悪い、本当はもうちょいカジュアルな店にしようかと思ったんだけど一応結婚したからには挨拶しとかないとなんないからさ。この店は仕事でもよく使うし、女将に顔見せしときゃ後は繋がりが薄い相手にも話は行く筈だから手間も省けるなと思って」
今度はイヌピーの行きたい所にしよう、と言われたがこんな世界を見せられたらもうココを気軽にその辺の赤提灯の煙臭い焼き鳥屋とかに誘えるわけがない。
もしかして、今後もこういう作法とかが必要な店に連れてかれたりすんのかなと思うと気が重い。
軽い気持ちで契約結婚なんて了承しなきゃ良かったな、と少し後悔した。
「やっぱりイヌピー素材が良いから、そうしてると本当に美人だよな。初めて見た時、ぶっちゃけ見た目で選んだんだよ」
「そうなのか?適当な暇そうな若い男探してたのかと思った」
「そんなんなら部下の中から適当に見繕ってるよ。イヌピーのその髪地毛だろ?顔立ちもちょっと日本人離れしてるし田舎じゃ相当モテただろ」
「あー、いや。どっちかていうと俺みたいなのは田舎だと他所者扱いで気味悪がられてたよ。顔もこれだしな」
火傷痕を指差すとココはそんなもんか、見る目ねぇなと一応気遣うような事を言ってくれる。
親も普通の日本人の見た目してたと思うけど、何故か俺と姉は子供の頃から髪も目も色素が薄かった。
何でも母方の方で外国の血が入ってる人が居て隔世遺伝とかじゃないか、なんて話も聞いた事はあるが本当の事は知らない。
「ココの方こそ、爽やかなイケメンだし金持ちだしモテるんだろ」
「まあモテ無いとは言わないけど、近付いてくんのなんてほぼ金とか打算的な下心のある奴ばっかりだよ。そういうのいちいち相手してると弱み握られたりしかねないからな。」
そう言えば男と契約結婚しようと思ったのもそういうのが煩わしいからだって言ってたもんな。
金持ちは金持ちでそれなりに悩みや苦労があんだろうな。俺にはさっぱりだけど。
そうやって話してると食事が運ばれて来て、上品に並んだ小鉢の説明とやらをされても全く頭には入って来なかったがとりあえず高そうなだけあってどれも美味しかった。
「契約結婚だから必要ないかもしんないけど、もうちょっとココの事が知りたいなと思うんだ」
箸を置いて向かい側に居るココにそう切り出すと、ココは少し意外そうな顔をした。
俺みたいな何も考えて無さそうな奴からお前の事を知りたいなどと言われるとは思って無かったんだろう。
「ココが忙しそうなのは解るけど、出来たら少し話す時間とかあれば良いなと思う。余計な詮索とかするつもりは無いけど、でもあまりにお互いの事知らな過ぎると何か聞かれた時困るかも知れないし」
考えていた事をそう言うと、ココは暫し考える素振りを見せてから解ったと頷いた。
携帯を取り出すと何やら確認するように見てそれからこの辺なら…とぶつぶつ何かを言っている。
俺は目の前の煮物に添えてある高野豆腐を口に放り込んだ。味が染みてて美味い。
「それじゃ来週末辺りで二泊くらい旅行に行こう」
「旅行?」
「泊まりの方が色々時間作れるし、イヌピーも家に篭ってばっかじゃ退屈だろうからな」
マジでそれはもう退屈で仕方無かったから有り難い提案ではあった。
ひとつ屋根の下で生活してるとはいえ、一緒に居る時間は少ないから一向にココがどんな奴なのかも解らないしココだって俺の事何も解らないだろうから旅行で少しでもお互いの事が解れば良いなと思う。
「あ、でもこれって新婚旅行になるのか?」
ふと思ってみたから聞いてみると、一瞬目を丸くしたココに変な事を言ってしまったかも知れないと思った。
だがココはふふ、とおかしそうに笑った。
「行きたいんならもっとちゃんとした所連れてくよ。契約結婚でもハネムーンが二泊で近場じゃ格好もつかないし外聞も悪いからな」
金持ちの世界には金持ちの世界なりの何かそういうものがあるのだろうか。
よくわからないが、ココが言うならそうなのだろう。
何せよ、予定が出来た事は有り難かった。
「毎日暇だったしやる事無かったから、ココと旅行に行くの楽しみにしてる」
本音でそう言ったつもりだったが、楽しみにしてるなんて言ったせいか少し意外そうな顔をされた。
実は旅行なんて、小さい頃と小学生の頃に家族で行って以来行ってなかったからちょっと嬉しかった。
修学旅行は金掛かるし友達も居ないしつまんなそうだったから行きたくないって行かなかったし、高校も同じく不参加だった。
あの頃は他人と旅行なんて何が楽しいんだと思っていたから。
少なくともココは俺に意味なく暴言は吐かないだろうし、大人だから下らないいじめもしないだろうしな。