「ただいまー」
休憩から戻ってきたら院内の空気がなんだか変だった。
緊張から張り詰めたような、ピンとした……という例え、小説なんかで読んだことがある。あんな感じ。
ヤバい患畜でも来たのかと同僚に目線を向けると、わたしの意を察してくれたのか、小さく顎で待合室を指された。
どんだけヤバい人?それとも患畜なんだ?興味本位が勝ってそろりと顔を覗かせ、そして納得した。
いつもはいろんな動物の鳴き声や物音、飼い主さんの気持ちが落ち着かない空気、そういうのが漂ってある意味混沌としている待合室が、何の音もなく、しん、としている。
いや、なんの音もないは言いすぎた。多少は物音だってあるけど、それは居心地悪くて身動ぎする動物たちであったり飼い主さんたちであったり。いつもふんぞり返って偉そうに三人分のソファスペース使ってるあの飼い主さんも、今日はキャリーケースを膝のうえに抱き、足を閉じて小さく一人分のスペースに納まっていた。なんだ、やればできんじゃない。ちょっと面白くなって声をころして笑ってしまった。
で、だ。その空気を作り出してるのはあの人だな、という人物はすぐに分かった。有り体にいえばめちゃくちゃ目を惹くのだ。
待合室の端の場所。身長は……座っているからはっきり分からないけど、膝がソファの座面から結構上にあるので、足が長い、ということはきっと背も高い。白いロングのコートにインナーは黒の……Tシャツ?まさかタンクトップじゃ、ないよね?
靴ははっきり見えない。そして顔!渋みのある切れ長な目元に前髪が片方に流すように長い。なんというか雰囲気のありすぎる、自分で空気を作るタイプな人だと感じた。
そんな人がいったいどんなペットを連れてきたのか、気になって初診の問診票を見る。
成猫、病歴は不明。あ、保護した猫の検査に来たんだ。なんだかそれだけでいい人そう。見た目は厳つそうだけど、きっといい人に違いない。見た目は厳つそうだけど。
そんなことを思いながら、わたしは診療室へと移動した。
程なくしてさっきの雰囲気ある人がキャリーケースを伴って入ってきた。
「お名前は、真田、くろちゃん……ですね」
「ああ、昨日拾ったばかりでまだ決まっちゃいないんだが、仮の名前だな」
前言撤回!厳ついばかりじゃない。話し方はぶっきらぼうそうだけど柔らかで声が!いい!低音だけど聞き取りやすくて、何かを教えてる仕事なのかなと推測する。
診察台に乗せられた大きめのキャリーケースのふたを開けると、黒猫がゆったりと出てきた。
本当に昨日保護されたばかりなんだろうか。黒猫は暴れることもなく、先生にされるがまま、大人しくいうことを聞いている。こんなに手のかからない患畜は珍しくてびっくりした。
「すごく大人しいですね」
保定も必要ないまま触診されている様子を見ながら思わず口にすると
「そうでもないぜ。オレの寝床取ったり、餌に注文つけたり、手がかかるったらない」
文句かな?と思ったけど随分楽しそうな口調だ。
「くろちゃんの年齢にあわせたご飯をあげるといいかも知れないですね」
「なるほどな。急だったからとりあえず適当なやつを選んだんだが……」
「検査でだいたいの歳も体調もわかりますし、どんなごはんがいいとかご相談も伺います」
「そりゃ助かる」
人間の真田さんと話している間にくろちゃんの簡単な触診は終わり、体内外の虫の駆除と感染症、諸々の健康チェックのために三日間の入院の流れとなった。
「……三日もあればヤサも探せるか」
呟くように言った言葉の意味はよく分からなかったけれど、わたしは三日後また真田さんと会えることが勝手に楽しみになっていた。
三日後。
「健康そのものだねえ」
先生のお墨付きをもらった真田さんちのくろちゃんは、迎えにきた小太りのおじさんに引き取られ帰っていった。
結局人間の真田さんはあれっきり姿を見せず、くろちゃんもうちの病院に通院することはなくて、幻みたいな不思議な体験だった。
そして思い出したようにあの日のことが話題になったりする。話の最後は真田さんの職業の話になるのも面白い。やっぱりみんな想像しちゃうよね。役者かヤバめな職種のひとか……。どっちにしろカタギっぽくないというのがスタッフの総意だ。真田さん、ネタにしちゃってごめんなさい。
できればくろちゃんともども元気でいるといいな、などと思っています。
それにしてもあの小太りのおじさんは、真田さんの何なんだろう?