終演 人間から人間への愛、
これはおそらく私たちに課せられた
もっとも困難なこと、究極のことであり、
最高の試練、最後の試験です
『リルケの手紙』より
梅雨のない函館でも、六月は長雨の季節だ。季節がひとつ戻ったような冷たい雨が、しとしとと降る。尾形の務める大東洋海産にその連絡があったのも、六月半場を過ぎた雨の日だった。
ひと月前から社が出しているマス漁船の船長が、海に落ちて死んだという知らせを、尾形は大東洋海産の社中で聞いた。突然の訃報に社内は少しだけ騒がしくなった。しかし、すぐに静まった。船長が死のうと漁を続けて貰わねば、高い燃料費をかけた元が取れぬという上層部の判断を、尾形はまあ妥当な所だと思いながら聞いた。それは周囲も同じだったようで、異を唱えるものはいなかった。尾形はしばらく隣の席の同僚と、なぜ船長が海に落ちたのかを話し、飽きると仕事に戻った。
尾形は大東洋海産の事務員だ。名前こそ大東洋などと仰々しいが、実際は社長までいれても二十名ほどの小さな会社である。日露戦争後、ポーツマス条約が結ばれると、沿海州やカムチャッカ半島など、ロシア沿岸部での漁が可能となった。それによって北洋漁業は一気に盛り上がりを見せる。
その頃に、大東洋海産は、社長が友人二人と立ち上げた。日露戦争で廃船になった病院船を買い上げ、中に缶詰の加工場を作り、川崎船をいくつも積んで、海を走る工場へと仕立て上げた。船に乗せるのは、人夫出しに依頼して集めた日雇い労働者たちだ。
沿岸部でのニシン漁で不漁が続き職にあぶれたヤン衆や、炭坑労働のきつさから逃げ出した炭鉱夫、北海道開拓の夢破れて農地を捨てた開拓者など、働き手はいくらでもあった。人手を集めた船は、ひと月から長い時は数か月の航海に出る。函館の港を発ち、ロシア沿岸部でマス、ニシン、サケ、カニなどを獲る。獲れたものは船内の工場で、缶詰へと加工される。ロシア領に工場を置き、そこで水揚げ品の加工を行う会社が多い中、缶詰工場を船に乗せているのが、大東洋水産の売りだった。
尾形はその会社で、缶詰の販売と在庫管理に関わる事務を担当している。ロシア語ができることを買われて入社した。さして面白い仕事ではないが、一隻の船が稼ぎ出す莫大な金額を眺めるのは、それなりに楽しかった。
終業を告げるベルが鳴った。机の上に広げていた書類を片付け、飲みに行くかという同僚の誘いを断り、尾形は会社を出た。函館の港のすぐ傍に立つ、小さな木造の社屋は雨の中でさらに小さく見えた。薄手のコートを羽織ってきたが、それでも寒さを感じるほど、ひんやりとしている。左腕のあった場所がずきりと痛んだ。
尾形は片腕だ。左手がない。
金塊争奪戦の最中、気が付いたら、片腕になって函館の病院のベッドの上にいたのだ。函館へ向かう列車の上で、杉元と対峙したところまでは記憶があるのだが、その先はなにも覚えていない。ただ左腕に刺さっていたという銃剣が、杉元のものだというのはわかった。その傷がもとで腕が腐り、切断したのだと医者に言われた。
腕のない肩を撫で、尾形は馬車鉄道の停留所へと歩いた。
馬車鉄道でみっつ、停留所を函館駅へ戻ったところに、尾形の家はある。二年半前に病院を退院してから、ここに住んでいる。停留所で馬車を降り、尾形は定食屋にはいった。定食屋の女将が、おかえりだねと声をかけてくる。尾形は愛想笑いを浮かべた。
尾形の住む地区は、函館港が出来た頃からの新しい住宅街だ。食事のできる場所は限られている。必然的に、夕食は毎回同じ定食屋で取ることになり、いつの間にか常連客の仲間入りをした。
「今日はなんだ」
女将に向かって、尾形は訊いた。今日の定食はなんだという意味だ。今日は煮付けだよ、と返事がある。それを頼むといい、燗酒を追加する。雨で体が冷えていた。すぐに運ばれてきた熱い酒を舐める。じわりと胃が温まった。
しばらくして運ばれてきた煮付けは、少し塩辛すぎた。やたらと米が進む。おかわりをして満腹すぎるまで食い、店を出た。酒のぬくみを胃に感じながら、尾形は雨の中を歩く。定食屋からすぐの場所に、尾形の家はある。四畳半がみっつ連なった形の細長い作りで、ひとりで暮らすには少し広すぎる。日当たりの悪い一番奥の部屋は、物置になってしまっている。
家の中に入ってもひんやりとしていた。火を起こすか迷い、しかし面倒で厚物を羽織る。外はまだ僅かに日が残っていたが、家の中は暗い。マッチを擦ってランプに火をいれる。家に帰ってきてしまえば、あとは寝るだけだった。何一つとして考えるべきことはなく、ただぼんやりとした時間だけがある。
尾形は今の生活を、昆虫のようだと思っている。なんら感じることはなく、ただ泥の底で静かに餌を食い、息をして眠る。そこには、なんの高揚も思考もない。時折、これが絶望というものなのだろうかと思う。だが、絶望は平穏でもあった。
尾形は茶をいれて二杯飲み、少しだけ本を読んでから、眠りについた。なにもない日だった。船長が死んだことは、もう忘れていた。
船が戻ってくる日になって、尾形はようやく船長が死んだことを思い出した。それも同僚から、なんで死んだんだろうなと話しかけられて、やっとそういえばそんなことがあったと思った。
船を迎えに行こうという同僚たちに連れられて、尾形は港へと赴いた。
七月の終わりのよく晴れた日だった。北海道は短い夏に燃え、じりじりとした日が肌を刺した。海はぎらぎらと光っていた。尾形は船を待った。汗がじとりと、シャツを濡らした。しばらくして、船が港に入ってきた。内部に工場を持つ、大東洋水産の船舶は大きい。巨体がゆっくりと接岸する。碇が下ろされるとすぐに、船からたくさんの男が溢れだした。無精ひげを伸ばし放題にした男達は、誰もが疲れ切った顔をしている。数か月にわたる船上での過酷な労働を終えた、人夫たちだ。痩せて、目ばかりがぎらぎらとしている。
労働者を吐き出し終えた船から、数人の男がまとまって出てきた。一人の男を囲むようにして、体格のいい男達が円を描いている。見ると、そのうちのひとりは、この船の副船長だった。おい、と同僚のひとりが言った。行ってみようぜと誘われて、尾形は円になった男達のもとへ歩いた。
「コイツです。コイツが船長を殺したんです!」
ふいに副船長が大きな声をあげた。円の中央にいる男を指さし、コイツがと繰り返している。その副船長の前には、大東洋水産の社長が立っていた。殺したという言葉が気になり、尾形は急激に興味を持った。船長殺しだという男の顔を見ようと、尾形は人ごみの中から首を伸ばす。しかし、顔を伏せている男の顔は見えない。騒ぎを聞きつけた人夫たちが、人垣を作りはじめている。
「俺が殺した」
男が顔をあげた。日に焼けた肌の中で、鋭い目だけが白く光る。尾形は息を飲んだ。しかし、男の鋭さに驚いたわけではない。男が杉元だったから、心臓が跳ねた。
見間違えるはずがない。
杉元だ、と尾形は思った。
背筋をぞわぞわするものが駆け抜ける。それは歓喜に近かった。尾形は目の前の人垣を押しのけた。
「杉元佐一ィ……」
一番前まで歩み出て、尾形は呼んだ。杉元がこちらを見る。尾形と呼ぶ声を、弾け出す殺意を、尾形は期待した。だが、それは裏切られた。尾形をみた瞬間、杉元の目に浮かんだのは縋る色だった。
「アンタ、俺を知ってるのか!」
囲んでいた男を振り払い、杉元が尾形に掴みかかってくる。腕の無い肩を強く握られ、鈍い痛みが走った。尾形は目を瞬させた。
「なあ、教えてくれ。俺は誰なんだ」
杉元の顔が泣きだしそうに歪む。尾形は拍子抜けし、それから小さく首を傾げた。しばらく考えてから、記憶がないのかと思い至る。その間も杉元は、俺は誰なんだと叫んでいる。尾形はゆっくりと右手で髪をかき上げた。
「杉元、佐一だ」
「やっぱり俺を知ってんのか」
「ああ、それなりにな。人殺し」
杉元の目を覗き込み、尾形はニヤニヤと笑った。杉元の顔に明らかな動揺が走った。尾形は愉快な気分になった。この杉元には記憶がない。だが、スギモトサイチは人を殺したのだという。やはりこの男はいいと思う。美しい暴力装置だ。
「人、殺し」
「そうだ」
尾形は頷いてやった。杉元の目が暗くなる。尾形は笑いたくなるのを堪え、お前らしいと言った。杉元の頬が強張っていく。その時、間に割って入るものがあった。社長だった。
「ちょっと待ってくれ。状況をひとつひとつ説明しろ」
社長の声には僅かな苛立ちがあった。尾形はすみませんと詫びた。蚊帳の外に置かれていた副船長が、はっとした顔をして、こいつが殺したんですと訴えた。社長が杉元の顔を見る。途端に杉元は鋭さを取り戻した。
「ああ、俺が殺した。海に叩きこんでな」
「なんでだね」
「あの男は権力をかさに着て、俺たちを好き勝手にこき使っていた。メシもろくに食わさず、なにかあればすぐに殴りつけて、それで死んだ奴もいる」
杉元がふんと鼻を鳴らし、今度は社長を睨みつける。尾形はひとりぞくぞくとした。ああ杉元だと思った。自らの正しさのためならば、なんら躊躇いなく暴力をふるう、暴力に祝福された男。尾形はうっとりとした。
「アンタも騒ぎになっちゃ困るんじゃないのかい」
杉元が挑発するように言う。社長の顔が苦々しく歪んだ。
長期の航海に出る北洋漁業の船内は、長い期間、密室になる。その為、船長をはじめとする権力者による専横は、様々な場面で問題になっていた。生産性をあげるために、を言い訳にして、暴力暴言、虐待がはびこっている。それは公然の秘密のようなものだ。だが、もしこの殺人事件が新聞などに取り上げられ、船内での人夫の扱いが人々の話題に上れば、大きな問題になるのは明らかだった。
「お前、アカか」
共産主義者か、と社長が訊いた。
「アカいところはねえな。ただ許せなかっただけだ」
杉元がフンと鼻を鳴らす。その不遜そのものの態度が、更に尾形を興奮させた。ニタニタとしながら成り行きを見守っていると、ふいに社長から声をかけられた。
「尾形、コイツの面倒を見ろ。しばらく様子を見てアカでないなら、放免する」
社長はもみ消すことに決めたようだった。人夫たちに口止め料を払っておけ、という追加の指示もあった。
「俺が、ですか」
「知り合いなのだろう」
はあ、と尾形は声を漏らした。知り合いというには、あまりにも血生臭い関係だった。しかし、それを説明するには長い時間が必要になる。わかりました、と尾形は答えた。社長の命だから引き受けたというよりは、単に記憶を失った杉元という存在に、強い興味があった。
「あの男は悪だから死んでもいいのかい」
杉元が挑発するかのように、社長へ向けて言い放つ。しかし社長は返事をしなかった。興味を失った顔をして、帰ってきたばかりの船へと歩き出した。杉元が少しつまらなそうに、なんだよと呟いた。
「杉元」
呼びかけると、杉元はしばらくの間反応しなかった。もう一度呼んでようやく、ああ俺かと言った。
「今までは適当に山田とか佐藤って名乗ってたんだ。俺は杉元って名前なんだな」
「ああ、杉元佐一だ」
「へえ、なかなか立派な名前じゃねえか」
ほっとした顔をする杉元を連れて、尾形は社に戻った。給金を支給する列に並ばせ、数か月に渡る拘束の対価を支払う。北洋漁業を行う会社の中には、労働者へろくな給与を支払わない会社もある。だが、大東洋水産ではそれなりの額を払っていた。その方が、次に船に乗ったときよく働くという、社長の考えだった。
今回はとくに額が多い。杉元の殺人を隠避するための、口止め料が含まれているからだ。尾形は楽しい気分で、人夫たちに金を渡した。なにも喋るなよというたびに、頬が緩んだ。人夫を虐待していた船長にも、怒りのままに殺人を犯した杉元にも、それを隠蔽する会社にも、僅かな金で殺人の事実を消してしまう人夫たちにも、どこにも正義がない。あるのはただ利己だけだ。やはり人間に罪悪感などないのだ、と尾は思う。それは自己の正しさの証明だ。
多額の金を手にした杉元が、へらりと笑った。ようやく人間らしい生活が出来ると言った。その顔には、安堵があった。
「随分苦労をしたようだな」
尾形は親しさを滲ませて、話しかけた。まったく困ったもんだぜ、と杉元が笑った。
「気が付いたらなんにも覚えてねえ状態で、小樽の街にいた。自分が誰なのかさっぱりわからねえ。身元がはっきりしねえから、真っ当な仕事にもつけず、港で荷運びの日雇い仕事だ。寝る場所にねえから、しばらくは野宿だ」
「どうして函館にきた」
「函館にいって流行りのオホーツク海での漁に出れば、デカイ金を稼げるって誘われてな。このまま小樽で日雇いをやってても、食い詰めるだけだと思って函館にきた」
いつから記憶がないんだ、と尾形は訊いた。杉元達と金塊を奪い合っていたのは、もう三年も前の話だ。杉元があの戦いの中で記憶を失ったのか、あるいはその後のなのか、興味があった。
「ちょうど一年になるか。気が付いたのは夏の盛りだった」
一年前、まだ金塊が見つかっていなかったとは思えない。となると、杉元は金塊を手にしたのだろうか。あるいは敗北したのか。しかしもし、鶴見が勝利したのであれば、北海道は平穏ではいられないだろう。そもそも金塊そのものがなかった可能性もある。興味は尽きないが、それを知る術は失われていた。片腕の尾形は既に狙撃手ではなく、杉元はすべてを忘れてしまった。まあいい、と尾形は思った。今は金塊よりも、この杉元に興味があった。
「本当はなんで殺した」
「なんでもねえよ。言った通りだ。あの船長は俺たちを酷い扱いで、こき使っていた。食事を与えられず飢え死にしたり、無理に漁に出されて海に落ちて死んだ奴もいた。ちょっと手抜きをしたからって、ボイラー室に閉じ込められて、そのままくたばったのもいた。だから、殺したんだ」
杉元の理論には飛躍があった。だが、本人はその違和感に気が付いていない。やはりこれは暴力装置だと尾形は思う。
「ははあ、いいな。杉元」
「アンタ、怖がらねえんだ。俺は人殺しなのに」
杉元が不思議そうな顔をする。その表情はどこか幼い。
「俺たちは戦争帰りだ。道理があれば人を殺すことに慣れている」
尾形は言った。
「道理か」
杉元が遠くを見る目をする。道理だ、と繰り返し尾形は肯定の言葉を待った。杉元に、杉元だった男にそれを肯定されたいという欲求が、尾形の中にあった。だが、杉元はそれ以上なにも言ってくれなかった。
「杉元、港の端にある飲み屋で酒でも飲んでいろ。仕事が終わったら迎えに行ってやる」
顎で指示し、尾形は仕事に戻った。船が帰ってきたので、やることは山のようにあった。漁の間に作られた缶詰の数を確認し、出荷の手筈を整える。今回の航海で壊れた備品を確認し、損失額を出す。杉元の殺人の口止め料を支払った分、減った現金の補充にもいかなければいけない。慌ただしく働くうちに、終業時刻になった。同僚たちは残業をすると言っているが、尾形は会社を出た。何軒か港の飲み屋を覗き、杉元の姿を探す。杉元は裏通りに入ったところにある、小さな店に腰を落ち着けていた。
「待たせたな」
「いや、待ってねえよ。でも、眠くなっちまった」
酒の入った杉元は、赤い顔をしていた。すっかり緊張が解けたらしく、あくびを噛み殺している。杉元を連れて馬車鉄道に乗り、家へと帰る。奥の部屋を使え、と言いながら、尾形はふと杉元の匂いに気が付いた。
「くせえな。お前」
指摘すると、杉元の顔が赤らんだ。
「仕方ねえだろ。船の中じゃ風呂なんざろくに浴びれねえんだ」
「うちに入る前に風呂だ」
手ぬぐいを持たせて、銭湯の場所を説明し、杉元を追い出す。それから尾形は、物置になっている奥の部屋の片づけをはじめた。社長からは杉元の様子を見ろと、命じられている。しばらくの間、奥の部屋に住まわせるつもりだった。
元々、物を持たない性質なので、片付けはすぐに終わった。埃っぽくなっていた畳に、箒をかけて木戸を開け放つ。ふと、部屋の端に置かれたままだった、杉元の銃剣が目に入った。尾形の左腕を奪った、あの銃剣だ。捨てるには惜しく、なんとなく持ち続けていた。
「はは……」
尾形は銃剣を抜いてみた。人の脂を吸った金属は、錆びることなく、艶めかしい銀色に輝いていた。あの男にこれを与えようと思った。今の杉元は、あの杉元ではない。日露戦争の記憶はなく、金塊争奪戦のなかでの殺人の記憶もない。だが、人を殺した。
杉元を杉元たらしめるものはなんだろうかと思う。少なくとも、自分にとっては、人を殺したあの男は杉元だ。
そして殺人者が忘れてしまった殺人の罪は、どこにいくのだろうかと思う。記憶を失い、完全にその殺人を忘れることは、完璧なる罪悪感の消去だ。以前の杉元が犯した莫大な罪を、あの杉元は背負う必要性があるのだろうか。
考えるほどに愉快になり、尾形はははあと声をあげた。
「道理だ」
尾形はひとり呟く。ぬらぬらと銃剣が光っていた。
杉元を家に置くようになって、三か月が過ぎた。北海道の短い夏はすっかり行き過ぎ、近頃では朝などしんと冷えている。尾形の思惑を離れて、杉元は無邪気に暮らしている。朝から漁港の手伝いに出て、それなりの日銭を稼ぎ、あとはのんびりと飯の支度などして、尾形の帰りを待っている。
生活を共にするようになって初めて知ったが、杉元案外まめな男だった。世話になってるからな、などと口にしては、こまこまと家の掃除をしたり、洗濯をしてくれたりしている。掃除は片手の尾形でもできるので、まあやらせておくかぐらい気持ちだが、洗濯は助かっていた。片手では上手く洗濯板に力を伝えられず、綺麗に洗うことができない。今まで洗濯物はすべて洗濯屋に頼んでいたのだ。
それ以外にも、杉元はよく立ち働いた。尾形が会社から戻ると、夕飯の支度がしてある。雑な男料理ばかりだが、悪くはない。お陰ですっかり行きつけの定食屋から、足が遠のいてしまった。そして、杉元は一緒に夕飯を食べたがった。尾形が仕事で遅くなる日も、食べずに待っている。一緒に食ったほうがうまいだろ、などど言い、二人で食卓を囲みたがる。そして、よく喋った。今日の漁で獲れたものの話、漁師のおやじの酒豪っぷり、尾形の会社について、など様々なことを口にする。尾形はいつも適当に相槌を打つだけだ。それでも気にならないようで、よく口を開く。
しかし、うるさくはない加減は心得ていた。他人に疎ましがられない距離を、よく弁えている。
尾形はつまらないな、と思っていた。今、この家にいる杉元は、ただの人のいい男だ。尾形の知っている殺意の塊ではない。しかし、元から平時はただの陽気な男だった。金塊を奪いあっていた頃、よく白石とじゃれ合っていた姿を思い出す。
それでも、退屈だった。
まだ誰か殺さないだろうか、と思うこともある。だが、それは違うのだ。ただの殺人鬼を杉元に求めているのではない。道理があれば人は人を殺せる。それを証明する人間としての杉元を求めている。ただ殺すだけでは駄目なのだ。そんなつまらない殺人鬼ならば、いくらでも見てきた。
そんなことを思っているうちに、また季節は進み、北海道の短い秋が来た。尾形の会社ににわかに忙しくなった。これからくる冬に向けて、船の支度をしなければならない。
北方漁業の漁は長い航海となる。そのため、船に詰みこむ食料も、相当な量だ。それでも足りず、途中でロシアに寄港して食料を買い足す。ロシア語のできる船乗りはいないので、尾形があらかじめ先方と話を付けておかねばならない。当然、日本で積み込む食料の手配もある。
船の整備の依頼も大事な仕事だった。尾形の会社「大東洋海産」の船は、工場を積載した最新式のものだ。船そのものの整備はもちろん、缶詰を作る工場の整備も必要になる。獲ったカニなどを詰める缶の手配もあった。
バタバタと過ごすうちに、函館に初雪が舞った。今年はコートを新調するかと思いながら、尾形は暗くなった帰路を急ぐ。早く家に帰って火に当たり、熱燗でも傾けたかった。
「おかえり」
玄関の木戸を開くと、杉元が水場のある土間に立っていた。そろそろ帰るかと思ったぜ、と言って笑いかけてくる。その手には、お銚子を乗せた盆があった。
「熱燗か」
「付けておいたぜ」
「ははあ、よくやった」
いい気分で尾形はコートを脱いだ。軍服姿が長かったので、今も服は洋装を着ている。しかし、家に帰ってからは、浴衣と半纏を着るようにしている。やはり、和装は肌に馴染んだ。服を着替え、尾形はいろりの前に座った。杉元が起こしておいてくれた火が、ぱちぱちと爆ぜている。じわりと熱が伝わり、肌が緩んだ。
「ほら、あったまるぜ」
杉元があぐらを掻いた尾形の足先に、お銚子とおちょこを並べる。尾形はすぐに口へと運んだ。酒は少し温まりすぎていた。香りが飛んでいる。だが、熱い酒気が胃を焼くと、どうでもよくなった。ふーっと、尾形は息をついた。
「メシ、食うか」
「いや、会社で握り飯を食ってな。あまり腹が減っていない」
「じゃあ、つまみだけ食えよ。俺はメシにするから」
囲炉裏の周りに、いくつかの料理が並んだ。杉元は茶碗を手にして、旺盛に食べだしている。尾形はゆっくりと酒を舐めた。イカの塩辛に手を付け、また酒を舐める。ぽーっ、と熱が体を回り出した。
「お前、すぐ赤くなるな」
杉元が笑う。うるせえ、といいながらも、尾形は頬が赤くなっているのを感じる。皮膚の色が薄いので、酒が回るとすぐ色づくのだ。軍にいた頃から、よく揶揄われていた。
「忙しいのか」
「ああ、そろそろ船を出す時期だ」
そう答えると、なぜか杉元が黙り込んだ。尾形はゆっくりと杉元を見た。茶碗を手にしたまま、杉元は囲炉裏の火を見つめている。燃える火に照らされた目が、金色に光っている。獣の色、と尾形は思った。
「なあ、俺も船に乗れるように口を利いてくれねえか」
杉元が顔をあげて言った。尾形は少しだけその理由を考え、結局、なぜだと問いかけた。杉元の生活は安定している。地元の漁師たちに可愛がられ、それなりの収入を得ている。わざわざ命がけの北洋漁業になど、繰り出す必要性を感じなかった。それ以前に、杉元は以前の航海で船長を殺している。なぜまた船に乗りたいのか、わからなかった。
「なんで、って言われると困るんだけどよ……」
杉元がガリガリと後頭部を掻く。ここは静かすぎて、と杉元が言った。
「俺はたぶん、ろくでもねえ人生を歩いてきた人間なんだろう。ここでお前の世話になって、ぼんやり暮らしていると、どうにも落ち着かねえ」
へえ、と答えながら、尾形は内心にんまりとした。やはり杉元は安穏などを好む男ではなかった。それが嬉しい。
「会社に聞いてやろう」
「そうか、助かるぜ!」
「一応確認するが、共産主義とはなんの関係もねえな」
わかり切ったことを、尾形は訊いた。
「ああ、もちろんだ。ただ腹が立ったからぶっ殺した。それだけだ」
ハッと杉元が笑う。尾形は唇をにやりと歪めた。この言葉を聞きたくて、質問したのだ。杉元の回答は百点だった。
翌日、尾形は社長室を訪ねた。杉元が船に乗りたがっていることを、社長に説明する。社長は少し渋い顔をした。従順な犬が欲しいんだがな、と言った。
「はは、あれは狂犬ですね」
「そうだよなあ」
「まあ、よくいい聞かせます。稼ぎたいようで」
社長の眉間に皺が刻まれる。しばらく考え込んだのち、許可が下りた。どの会社も北洋漁業に繰り出す冬の時期、若い男手はどこでも喉から手が出るほど欲しかった。それは大東洋水産でも変わりない。若く体力のある杉元は、従順でさえあれば、最高の人材だった。
その日も忙しく働き、尾形は日が暮れてから家に帰った。いつも通り、杉元が夕飯を仕度している。今日は刺身だぜ、と杉元が言った。
「この寒いのに刺身か」
「あったかい酒にゃ合うだろ」
「ああ、許可を取ってやったぞ」
尾形は敢えてさらりと言った。杉元の顔がすっと鋭くなった。そうか、と冷たい声が答える。予測していたような喜びの反応はなかった。
「なんだ。嬉しくないのか」
「ああ、嬉しいぜ。助かる」
取ってつけたように、杉元が笑う。ただその目は、真っ黒く沈んだままだ。この男はまた誰かを殺して帰ってくるのだろうか、と尾形は思った。じわりと期待が湧いた。
「さっ、食おうぜ。腹が減った」
いつもの顔に戻り。杉元が言う。囲炉裏のまわりに食事を並べはじめる。尾形は黙ったまま顎鬚を撫でた。
慌ただしく支度をするうちに、船出の日はすぐにやってきた。今回の漁は二か月の航海になる。カムチャッカ半島の沿岸まで行き、カニを獲ってくる。季節は十月の終わりになっていた。船が帰ってくるのは、年末も差し迫った時期になる。
ろくに言葉を交わす暇もなく、杉元は慌ただしく家を出ていった。昼前に出航する船を見送りに行ったが、ごった返す人で杉元の姿は見えなかった。だが、別に尾形は気にしなかった。確かに杉元という男に興味を持っている。しかしそれは、あの男が犯す殺人の罪についてだ。
盛大に見送られて、船は北の海へと旅立っていった。何人死ぬかねえ、と隣に立っていた同僚が言う。凍える海での漁に、死者はつきものだった。海に落ちて死ぬもののいれば、甲板で足を滑らせてずぶ濡れになり、凍死するものもいる。それを知りながらも、北洋漁業の船には、同じ男達が何度も乗る。一度の航海で、一年、上手くいけば二年分の収入を得られるにもかかわらず、男たちはその金をあっという間に溶かしてしまうのだ。あるものはバクチで、あるものは酒と女で……
船の姿が遠くなったところで、尾形は社に戻った。慌ただしかった準備も終わり、ようやくひと段落である。仕事終わりにみんなで飲みに行くか、と社長が誘ってくれたが、面倒だったので断った。久々に一人きりで過ごしたかった。
会社は一時間早く解散になった。尾形は定食屋で夕飯を食い、久しぶりだねえと笑い女将に愛想笑いを返し、家へ戻った。杉元のいない家は、ひんやりとしていた。
「寒いのだけは不便だな」
独り言ちて、囲炉裏の埋火を起こす。火が入ると、ようやく家の中が少し明るくなった。部屋が暖まったところでコートを脱ぎ、浴衣と半纏に着替える。酒でも飲むかと思ったが、温めるのが面倒だった。今までは杉元がやってくれていた。そのせいか、片手でやる雑事が億劫になっていた。
しばらくの間火に当たり、結局冷酒を舐めて、床に就いた。杉元のいない家は静かで、不思議な感じがした。僅か数か月置いただけなのに、おかしな話だと尾形は思った。
船は数日かけてカムチャッカ半島の沿岸部までたどり着いたようだった。会社にいくと、漁を開始したと電報が入っていた。冬の海は酷く荒れており、あまり状態がよくないと報告にある。
翌日の報告では、既に一名が海に転落し、死亡したとあった。誰が死んだかまでの記載はない。船に詰みこむ人夫の個人名など、どうでもいいのだ。カニを缶詰に加工する機械と同じ、道具にすぎない。いや高額な缶詰加工機よりも、いくらでも替えのきく人夫のほうが、よっぽどどうでもいいものだった。
その後は、順調に漁を進めているようだった。生産された缶詰の数は毎日報告にあがってくる。かなり好調のようで、去年よりも数字がいい。
尾形は取り立てて喜びも感じず、淡々と日々の仕事をこなした。会社の成長に、大した興味はなかった。ただ生きるために、働いている。成功も、昇進もどうでもいい。尾形がしたかったことは、もう終わってしまっていた。
第七師団長になり、すべてが下らないものだと証明する。それが尾形が命をかけた理由だった。それが叶わなかった今、すべては余生にしか思えなかった。
仕事が終わり、尾形はひとり家に帰る。杉元のいない家は、やはりがらんとしていて、冷え切っている。火を起こして、酒を舐める。食事をとるのは面倒になってしまい、肴に塩辛を食べて終わりにした。
また昆虫の暮らしが戻ってきた、と尾形は思った。ただ生きるためだけに、食べて動く。そこに思考はない。思いもない。ある意味昆虫という生き物は、清潔だと感じる。執着と執念を燃やす人間は、粘り付いている。
俺は清潔なものになったのか、と考える。ただの敗残の塵が乾いているだけのように思う。俺は敗北した、と尾形は思う。
ひと月半が経った頃、会社へいくと俄かに騒がしくなっていた。どうした、と尾形は同僚に訊いた。船が転覆したかもしれない、と答えがあった。尾形は一瞬、ぼんやりとした。ぽかりとした空洞を感じた。
杉元が死んだかもしれない。そう思った途端、酷く不思議に思えた。杉元は死なないものだと、勝手に思っていた。一昨日から随分天気が悪かったみたいだが、と同僚の男が言う。ははあ会社も転覆かもな、と尾形は軽口を返した。
その日は、ずっと社内がバタバタとしていた。とはいえ、陸地のそれも日本にいて出来ることは限られている。尾形は何度もロシアに電話をかけさせられ、転覆した船がいなかったか確認させられた。
家に帰ると、いつもにも増して、がらんどうな感じがした。十二月も始まり、外は雪になっていた。刺すように冷え切った空気が、室内を満たしている。尾形は囲炉裏の埋火を掘り起こした。
今朝、灰の中に埋めておいた炭は、まだほのかに燃えている。ちり紙を乗せ、息を吹きかける。チチチと音を立てて、ちり紙が燃えだした。その上に炭を重ねて、火が起きるまでうちわで扇ぐ。
尾形はぼんやりと思考する。杉元が死んだかもしれない。喉奥がぐっと締まる感じがした。あの男は俺の埋火だったのだろうか、と尾形は思う。敗残の塵に埋もれた、最後の熱。尾形の照明したかったことを、唯一示してくれるかもしれない存在。しかし、死んだ。カムチャツカの凍てつく海に落ちて死んだ。
「ははあ……」
尾形は燃えだした火を見つめた。それから、ようやくコートを脱ぎ忘れていることに気が付いた。
翌日出社しても、船からの連絡はなかった。その翌日も、そのまた翌日もなかった。社内は絶望的な空気に包まれた。こりゃ駄目かもなあ、と誰がが言う。大東洋水産の工場船は、数年前に社運をかけて建造したものだった。積んでいる川崎船の数も多く、会社の財産そのものだった。それを失ったとなれば、会社は立ち行かなくなる。誰もが顔に不安を貼り付かせていた。
結局、船の詳細がわかったのは、連絡を絶ってから七日後のことだった。ロシアから電報が入ったのだ。それによると、船は横波に当てられて破損、通信機器を失ってしまった。また人夫も多く、海に流されたとあった。船は日本への帰還を求めていた。
すぐに戻れと返信を入れる。社内にはほっとした空気が流れた。船そのものが沈没したのでければ、あとはどうとでも修理がきいた。人夫など元々使い捨てだった。
よかったな、と同僚のひとりが言う。函館で生まれ育ったこの男は、会社が設立した当時からの社員だった。今まで積み上げてきたものもあるのだろう。そうですね、と尾形は無難な返事を返した。
そこからは、忙しくなった。船がカムチャッカ半島から戻ってくる。その日が早まるとなると、仕度せねばならないことは山のようにあった。缶詰の売り先に、納品日を調整して貰わねばならない。生き残った人夫たちには、少し多めの手当を出さねばならないだろう。その金の調達も必要になる。船の破損具合はまだわからないが、その修理も必要だ。一番稼ぎをあけるカニ漁の時期である。早く船を修理して、次の航海にださねば、大損をしてしまうのだ。
電報から五日後に、船は函館へと帰ってきた。随分と波に痛めつけられたようで、あちらこちらが破損していた。最初に副船長が降りてきた。社長に詫びの言葉を述べ、なにがあったかを説明している。その脇を生き残った人夫たちが、ぞろぞろと降りてきた。仲間の死の影響か、どの顔も憔悴しきっている。
尾形は声を張り、給金を支給するので列を作るように指示をした。痩せて髭もじゃの顔になった人夫たちが、ぞろぞろと歩く。亡者の群れを思わせた。順番で揉める人夫たちを整理する。その時、杉元の横顔が見えた。
「お、尾形!」
場違いなほど明るい声で、杉元が呼びかけてくる。尾形はゆっくりと一度瞬きをした。生きていたか、と思う。なぜか力が抜けてしまい、尾形はその場に座り込みかけた。なせそんな反応をする、と尾形は自分を叱咤した。杉元がしぶとくも生きていた。それだけのことだ。なのに、力が抜けて動けない。
おい、早くしやがれとどこかから怒声が飛んだ。ようやく陸に戻れた人夫たちは、興奮でいきり立っている。尾形はすっと背を伸ばし、給料の支払い窓口へと向かった。
同僚たちと並び、人夫に金を支払っていく。金の入った分厚い封筒を手にした人夫たちは、痩せた青白い顔に、ニタニタにとした笑みを浮かべた。酒だ、酒だ、女だ、博打だと金を掴んだものたちは、騒ぎ立てている。命を天秤にかけて得た金を、この男達は簡単に溶かしてしまうのだろう。
すべての支給を終えてから、減った人夫の数を数えると、四十五人も死んでいた。毎回、数名の死者は出るが、これは流石に多い。恐らくは流れ者として生きて、僅かばかりの金のために命を賭け、冷たい異国の海に沈む。生とはなんだろうか、と尾形は思う。やはり神はまやかしなのだろか、と考える。この世はあまりに祝福されていない。
金の支払いを終え、出来上がっていた缶詰を下ろし、船の破損箇所を確認する。その他様々な雑事も含めて、すべてが片付いたのは夜の八時だった。流石に疲れ切り、尾形はぐったりとして帰路についた。軍にいた頃は、この程度なんでもなかったのだが、片腕になって以来体力が落ちている。
函館は今日も雪だ。あまり降らない地区だというのに、今年は雪が続いている。冷え切って家の戸をあけると、温かな湯気が室内を満たしていた。
「おかえり、遅かったな」
土間にいた杉元が嬉しそうに微笑んだ。飯は、と訊いてくる。
「まだ食ってねえ。それどころじゃなかった」
「大変だったのか」
「ああ、後始末ってのが一番大変なもんだ」
部屋のぬくもりが、尾形の肌を緩ませた。また力が抜けていく。腹が減ったな、と尾形は思った。空腹を覚えるのは、杉元が船に乗って以来のことだった。
「お前、なんか痩せたか?」
「そうでもない」
実際、痩せていた。体重を測ったわけではないが、目に見えて骨が目立つようになってしまった。しかし、杉元に指摘されると、説明するには面倒さが勝った。
「いいからメシだ」
「おう、ちょっと待ってろ」
杉元が鍋を囲炉裏の上に吊るす。中にはおでんが入っていた。いいだろ、と杉元が言う。湯気を立てる茶色い練り物たちは、いかにも美味そうだった。
「帰り道でおでん売ってるの見かけてさ。さみいし、丁度いいなって」
「ああ、美味そうだ」
尾形ははーっと息を吐いた。油断すると、力が抜けてその場にへたり込みそうだった。ぐっと腹に力を入れて、何食わぬ顔を繕う。尾形は囲炉裏の前に座った。その様子を見ていた杉元が、くくっと笑った。
「どれだけ腹減ってんだよ。コートくらい脱げ」
「あ…、ああ」
「ほら、手伝ってやろうか」
「いい。それぐらい出来る」
尾形はかすかに羞恥を感じた。なにか気が抜けてしまっている。それが杉元に起因しているのは、明らかだった。だが、それを杉元に悟られるのは、本意でない。尾形はさっと立ち上がり、コートを脱ぐと浴衣と半纏に着替えた。
「さあ、食おうぜ」
杉元が促す。酒もあるぜ、とおちょこが置かれた。尾形は腰を下ろした。途端に、ぐたりとするほどの疲れが来た。大丈夫かよ、と杉元が言う。なんでもねえ、と返して、尾形は燗酒を煽った。熱い酒が胃を焼く。くらりとした。
「ほら、おでんも食え」
杉元が皿におでんを盛ってくれる。尾形は受け取った。出汁と練り物の香りが、胃を刺激する。久々に感じる空腹は、痛いほどだった。ふっふっと息を吹きかけて冷まし、さつまあげに齧り付く。むちむちとした弾力が心地よい。少し甘めの汁が美味かった。
「あつい」
「落ち着いて食えよ」
「ああ」
尾形は頭がぼんやりしてくるのを感じる。なにかふわふわとしている。疲れすぎたのだろうか、と思う。杉元は目を細めてこちらを見ている。尾形は照れくさくなり、眉を寄せた。杉元の視線に含まれる労わりが、ひどく落ち着かなかった。
「疲れ切ってんな、お前」
杉元が微笑む。抱擁的な笑みだ。尾形は目を反らす。大変だったのはお前だろう、と返した。ははっ、と杉元が笑い声を立てた。
「流石に死ぬかと思ったぜ」
「事故の状況を教えろ」
「ああ、いいぜ。その日は横波がえらく強くてな。風も酷かった。普通なら漁を休むような天候なんだろうが、カニ獲り船に休みなんざねえ。いつも通り、漁に出された」
杉元が顔をしかめる。
「そのうちにもっと海が荒れてきた。俺はその時、甲板にいて川崎船からの荷揚げをしてたんだが、物凄い横波がきてな。船に寄せていた川崎船がみんな、船に叩きつけられた」
川崎船というのは、工場船にいくつも付属させる小型船のことである。この船を海に下ろして、カニを獲り、それを本体の工場船にあげて、缶詰へと加工する。その船が皆、工場船に叩きつけられて、粉々になったと杉元は言った。
「川崎船に乗ってたのは全滅だ。甲板にいたのも、落ちて死んだのが何人かいた」
「通信機はなんで壊れた」
「ああ、横波にやられた時、かなり傾いだからな。それで電波塔が折れたんだろ」
その辺りは、杉元も詳しくないようだ。興味のなさそうな顔をしている。
「なかなかの光景だったぜ。海に落ちてもすぐには死なねえからな。助けてくれ、助けてくれって叫んでんのが、荒波の中でも聞こえてくるんだ。でも、みんな、だんだん動かなくなって沈んでいった」
杉元がふうと息をつく。尾形は無言のまま、おでんを口に運んだ。大根に染み込んだ出汁が、口の中に広がる。
「ちょっと仲良くしてた奴がいてな、元々は博打うちでどうしようもねえ人間だったんだけど、奥さんに子供ができたからって、初めて船に乗ったんだ。博打の借金を返して、真っ当に生きようと思ってな」
「はは、死んだのか」
「ああ、川崎船に乗ってて一緒に粉々だ。船に潰されて、破片になっちまったのも多かったからな」
杉元は静かに言う。その声に同情はあれど、深い悲しみはない。極めて、淡々としていた。以前の俺は、人の死に慣れていたんだろうな、と杉元が言った。
「戦争帰りだからだろう」
「人間が粉々になるのを見ても、こんなもんだとしか思わなかった」
「ははあ、冷酷だな」
尾形は笑った。少し酒が回っていい気分だった。そしてなにより、人殺しとしての片鱗を見せる杉元が、心地よさを生んでいた。まあ酒でも飲め、と言って尾形は杉元に酌をしてやった。おちょこ一杯を一息で干し、杉元がはあーっと息を吐く。
「まあそれはいい。俺は記憶を失ってからも、人殺しだ。それよりお前だ。尾形」
「なんだ。俺は誰も殺してねえぞ」
最近はな、と心の中で付け加える。ぶんぶんと杉元が首を横に振る。
「なんだ、痩せ果てて。家はぐちゃぐちゃだし」
「船が沈みかけたせいで忙しかったんだ」
「家ん中はどうでもいいが、飯はちゃんと食え」
お前がいないと食べる気がしなかったんだ、と尾形は思った。思ってから、その思考の異様さに驚いた。杉元と食欲が繋がっている意味が、まったくわからなかった。
「心配するだろ」
死の漁に出ていた男が、人並みなことを口にする。それが面白くて、尾形はくっくっと笑った。ベーリング海で氷漬けになりかけていた男に心配されてもな、と言う。
「それとこれとは別だ。俺のは仕事だ」
「俺も仕事をしていた」
「メシは食えただろ」
杉元の優しさは少し疎ましかった。尾形は落ち着かず、尻をもじもじとさせた。なぜか、あんこう鍋が頭に浮かんだ。やっては来ない父のためにだけに、母が作り続けていたあんこう鍋。尾形のためではないあんこう鍋……
「失敗したぜ」
「なにがだ」
「年が明けたらまた船に乗る約束をしてきちまった」
お前を置いて行って大丈夫か不安だ、と杉元が言う。尾形は少しだけ身構えた。そこには、ただの同居人を越えた好意が、存在しているように思えた。
「別にひとりで問題ない」
「片手じゃ不便だろ」
「生活できている。舐めるな」
杉元の言葉からは、必要とされたいという願望を感じた。尾形は目を伏せた。落ち着かなかった。理由がわからなかった。俺は「尾形百之助」だぞと言いたい。
しかし、なにもかもを忘れてしまった杉元の目は、優しく尾形を見つめている。
年が明けた。正月は静かに過ぎていった。おせちというほどのものは用意せず、雑煮と汁粉だけを食べた。あとはいつも通りだ。唯一の贅沢といえば、会社から貰ってきた、商品のカニの缶詰を食べたくらいだ。太い足が何本もはいった缶詰は美味しかった。人の血を吸った分だけ、美味しくなっているかのように、いい味をしていた。
三が日が明ければ、出航日まではすぐだった。尾形は慌ただしく支度に追われた。前回事故を起こしているせいで、人夫の集まりは悪かった。人夫たちは、流動的な生き物だ。あちらの船のほうが扱いがいい、稼げる、と情報が流れれば、すぐにそちらへ移ってしまう。恩義など感じない。今回はそれだけでなく、船内での人夫の扱いについて嗅ぎまわる、共産党系の新聞の相手も面倒だった。
それでもなんとか船を出せるだけの人を集め、物資を詰め込んだ。今回の航海はまた二か月間だ。北洋漁業の船には、もっと長い期間、カムチャッカ半島沖に停留するものもいる。だが、大東洋水産短い期間で、船を行き来させていた。船に工場を詰め込んでいるせいで、あまり在庫を置けないのだ。それに、期間を短く設定したほうが、人夫たちの集まりもよかった。
バタバタと動き回るうちに、出航は明日に迫った。明日から死の海へ漕ぎ出す杉元を、尾形は定食屋に誘った。たまには美味いものを食わせても、ばちは当たらないだろうと思ったからだ。杉元は大喜びで着いてきた。
海岸沿いの店に入ると、今日はあんこうがあるよと声がかかった。尾形の脳裏に、母の後ろ姿が浮かんだ。父のためにだけ、あんこう鍋を作り続ける母の姿。健気な、愚かな女の姿……
「あんこう鍋を頼む。あと燗を」
尾形は注文した。あんこう鍋なんて初めてだ、と杉元が言う。
「そうか。珍しいな」
「そっか? いや食べたことあるのかもしれねえけど、記憶がねえからな。わからねえ」
「なかなか美味い」
「へえ、楽しみだな」
熱燗はすぐに運ばれてきた。いい酒を出しているようで、米の甘い香りがふわりと漂った。尾形は目を細めた。一口舐めながら、俺は本当にあんこう鍋を美味しいと思っているのだろうか、と思った。しかし、それは考えてはいけないことだった。尾形はもはや、己の正体など知りたくなかった。昆虫でありたかった。
しばらくして、鍋が運ばれてきた。うまそう、と杉元が歓声をあげる。
「あんこうは捨てるところがねえんだ。七つ道具といって、皮から内臓までなんでも食える。特に美味いのは肝だ」
この店のあんこう鍋は、澄まし汁仕立てだった。尾形の故郷で食べられているような、ドブ汁ではない。ドブ汁とは、肝を炒って水分を出し、野菜と肝の水気だけで、鍋を煮るやり方だ。汁はどろりと濃く、脂肪質の味がする。母があんこうの肝を炒る匂いが、どこかから漂ってきた。
「このべろべろしてんのとか、ぶよぶよしてんのも食えるのか」
「好きな人間はそこが美味いという。苦手だったら身だけ食ってろ」
「いやせっかくだから食うぜ」
杉元が鍋を取り分け、すぐに手を付けた。美味いな、と声があがった。あんこう鍋は口に合ったらしい。はは、と尾形は笑った。
「ぶよぶよのところも、むっちりとしていて美味だ」
「気に入ったならいい。好きなだけ食え」
尾形はあまり食べる気になれず、酒だけを舐めた。お前も食えよ、と杉元が言う。尾形は無言のまま、あんこうの身に手を付けた。使われているあんこうは新鮮だった。だが、その芯の部分に独特の臭みがある。粘りつくような、悪臭が隠されている。料理の仕方が悪い訳でも、素材が悪い訳でもない。あんこうはそういう食べものなのだ。
「うまいな」
尾形はただ話を合わせるためだけに、そう言った。ゆっくりとあんこうを、食べた。あらかた具が片付いたところで、米と卵が来た。鍋にだし汁を足し、米を入れて卵でとじる。雑炊だ。こちらは素直に美味いと思って食べることができた。
「あー、満腹したぜ」
「ははあ、明日からろくに食えねえからな」
「まったく。もうちょっとマシな食い物はだせねえのか」
「俺如き、下っ端が進言しても社長は聞かん」
あーあ、と杉元がため息を吐く。それから、ぐっと酒を煽った。
「ベーリング海ってのは、青白いんだ。深い海なのに、なんでか白い」
「へえ、不思議だな」
ああ、と杉元がいい、また酒を煽った。燗酒は既に冷めていた。
「地獄ってやつは赤くて黒いと思っていたが、白いのかもしれねえ」
ふーっと、杉元が息を吐く。なんでだがあの海を見ていると安心する、と杉元が続けた。尾形はしばらくの間返答を考え、それからふっと短く笑った。
「地獄行きになりてえのか」
「どうだろうな。地獄に落ちるほど悪いことをしてきたかさえ覚えてねえ」
お前は数多の人間を殺した、と尾形は胸の中でだけ言った。しかし、顔にはうっすらとした笑みを貼り付けていた。
「俺は、誰だ」
杉元が根本的な疑問を口にする。尾形は何も答えなかった。
「そろそろ帰るぞ。明日から地獄行きだろう」
「あー、そうだな。酔っぱらっちまった」
「雪道で滑るなよ。今から欠員が出られては大変だ」
店を出ると、今日も雪が舞っていた。雪の少ない函館には珍しい、本降りの雪だった。尾形は左の肩を撫でた。気温が下がると、失った腕の当たりが痛む。さみいか、と杉元が訊いた。
「冷えるな」
そう答え途端、尾形は杉元に抱き寄せられた。なんだ、と尾形は言う。殺し合い以外で、こんなに近づくのは初めてだなとどこかで考えた。
「帰ってきたら、話がある」
「なんだ。今、言え」
「今は、酔っぱらってるから駄目だ」
「いいだろう。いつも酔っ払いみてぇなもんだ」
ははは、と杉元が陽気な声を立てる。吐き出された息が白くたなびいていく。
「真面目な、話なんだ」
尾形は杉元の顔を見る。至近距離で眺める杉元の顔は、恐ろしいほどに整っている。傷がなければ、俳優でもやって食っていけただろう。だが、杉元の顔には、人殺しの証のように、いくつもの傷がある。
「なんだよ。じっと見んな」
「お前が引き寄せたのだろう」
「まあな。寒いからな」
「酔っ払いめが。帰るぞ」
こくりと頷いた杉元の腕を解き、尾形は歩き出した。夜道は雪で白く光っている。この横で海が真っ黒く、ざぶりざぶりと波を打ち寄せている。尾形は黙って歩く。杉元もなにも言わない。
翌朝早くに、杉元は出ていった。尾形はまだ眠っていた。玄関戸の開く気配だけを感じた。午前十時に杉元を乗せた大東洋水産の船は、函館を出航した。
また昆虫の暮らしがはじまった。尾形はただ朝起きて会社へ行き、それなりに業務をこなし、飯を食い、夜になれば眠った。船はそれなりに順調なようだった。社には毎日、今日の生産量を伝える電報が入る。既に二人、人夫が海に落ちて死んだが、それもいつもの事だった。特別、気に止めることではなかった。
尾形は時折、杉元がした海の話を思い出した。話というよりは、海の色を、だ。青白いという北の果ての海。杉元はそこに地獄を見ているという。
なぜあの男は地獄へ行きたいのだろうか、と尾形は考えた。杉元には記憶がない。日露戦争で人を殺したことも、金塊争奪戦という私闘で、たくさんの人を殺したことも、なにも覚えていない。だが、杉元は地獄を求めている。青白いという、冷たい地獄。
罪悪感、という単語が尾形の頭に浮かんだ。記憶の無い杉元に残された罪悪感が、杉元を地獄へと向かわせているのだろうか。しかし、尾形はそれを否定したかった。杉元の殺人には道理があった。殺さねばならないから殺した。なぜ、罪を記録するのかわからない。道理、こそが殺人を許容しうる唯一の存在ではないのか。
尾形は悪について思考する。殺人は「悪」だという。だが、国家は戦争をし、殺人を国家のための善行とする。しかし、殺したものは罪を負ったような顔をする。尾形は理解が上手くできない。
だとしたら、快楽のためだけに、人を痛めつけ、のうのうと生きている人間たちはなんだ? 犯し、奪い、痛めつけ、嘲笑い、差別し、平然と生きる人間とはなんだ? 軍隊には、そんな人間がいくらでもいた。第七師団長の捨てた子である尾形は、恰好の標的だった。玩具にされた経験は、一度や二度ではない。しかし、彼らには罪悪感がなかった。退屈な兵舎での暇つぶし、上官にいびられたうっ憤晴らし。その程度だった。
だが、そんな人間達ですら、戦場で人を殺すことを恐れた。尾形にはやはり理解できない。国家による殺人の指示には、道理がある。だとしたら、悪とはなんであるのか。
「尾形くん」
呼ばれて、尾形は我に返った。会社の机に座ったまま、思考の渦に飲まれていたらしい。
「そろそろ退勤時刻だ」
隣の席の同僚が言う。ああ、と尾形は答えた。人夫たちを地獄の海に投げ出し、安穏とした室内で、その上前を撥ねている我々は悪だろうかと思う。地獄を求める杉元は、清潔なものに思えた。
三月も半ばになり、ようやく雪の日が減った。函館ては思えぬほど振った雪は、道の端に積み上げられて、薄灰色に汚れている。カムチャッカ半島へ出た船が、戻る日が近づいていた。
尾形はただ昆虫のように暮らし続けている。片腕を失って以来、あるいはあの金塊争奪戦から脱落して以来、自分はすり減ってしまった気がする。あれほど強くあった「証明」への衝動が失われた。なにかを思って立つには、疲労感が強い。
船の帰りに合わせて、また仕事は忙しくなった。気が付けば船の戻る日の、前夜になっていた。尾形はひとりの家にへ帰り、埋火を起こした。パチパチと爆ぜる火の金色は、杉元の瞳に似ていた。そう考えてから、尾形ははっとした。戻ったら話があると杉元は言っていた。なんだろうか、と思う。しかし、思い浮かぶことはなかった。
尾形はタンスに仕舞ってある、あの銃剣を取り出した。尾形の左腕に刺さっていた、杉元の銃剣だ。銃剣は以前と変わらず、美しい銀色に光っている。そこに濁りはない。純粋の色をしている。
「ははあ」
尾形のいい気分になった。この銀色を眺めていると、杉元の透明な殺意を思い出す。ただ殺すためだけに、純化された存在と化した杉元の、獣の清潔を思い出す。それは美しいものに感じられた。
夜が明けた。朝飯を食べる気になれず、尾形はお茶だけを飲んで家を出た。三月も終わりに近づき、道には雪が無くなった。早足で馬車鉄道の駅への道を歩きながら、尾形は杉元のことを考える。このところ、ずっと杉元のことを考えている気がする。
社に着くと、船が付くのは十時頃だと教えられた。バタバタと受け入れの支度をし、港へと向かう。なんとか仕度を終えたところで、巨大な船体が遠くに見えた。帰還だ。
船は汽笛をあげて、函館港に着岸した。人夫たちが吐き出されてくる。尾形は給金を支給する、窓口に座った。一人ひとりにねぎらいの言葉をかけて、札の入った封筒を渡していく。列が半分まで来たあたりで、杉元が前に立った。
「よお、帰ったぜ」
「ああ」
「おかえりって言えよ」
杉元が笑う。尾形は封筒を手渡し、仕事中だと手を振った。しかし、杉元は立ち去らない。あとで温泉いこうぜと言って、笑いかけてくる。
「だから、仕事中だ。今日は忙しい」
「帰ってきたら、な」
杉元は譲らない。おい早くしろ、と後ろの列から怒号が飛んだ。わかった、といい尾形は杉元を追い払う。それから次々と手を差し出す男達に金を渡し、下ろした荷物の点検をして、慌ただしく時間は過ぎていった。ひと段落ついて家に帰ったのは、夜の七時だった。
「遅かったじゃねえか」
「言っただろう。船が帰った日は忙しい」
「温泉行こうぜ」
杉元が言う。まだ開いているのか、と尾形は訊いた。
「ああ、昼間に一回行って確認してきた」
「まあ、いいが」
尾形の住む地区から、温泉のある湯の川まではさほど遠くない。歩いても十五分ほどの距離だ。少し面倒だったが、尾形は付き合ってやることにした。連れ立って、家を出る。
「お前、また痩せたんじゃねえか」
「そうか」
「メシ、食ってたか」
杉元が渋い顔をする。尾形は面倒だと思いながらも、なぜか悪い気がせず、少しだけ戸惑った。なんだろうか、と思った。
「明日にでも、なに美味いものを食わせてくれ。大金が入ったのだろう」
感情の中になにかがある。それを感じないためだけに、尾形は冗談めかして言った。更に搾取する気かよ、と杉元が笑う。
「いいぜ。カニでも食うか」
「毎日、カニを見ていたんだろう」
「見てただけだからな。食って復讐してやる」
下らないやり取りをしているうちに、湯の川の温泉地に着いた。この辺りは、函館が誇る一大歓楽街になっている。三十年ほど前までは、湧出する湯量が少なく、さほど栄えていなかったのだが、新しい源泉を掘り当てて以来、捨てるほどの湯が湧き出る温泉地となった。温泉目当ての客に向けた旅館が、いくつも立ち並んでいる。そのうちの一軒に、杉元が入っていった。
「お湯だけ貰えるかい」
出てきた中居に声をかけると、すぐに浴場へと案内された。中に入ると、石造りの湯船のある、小ぢんまりとした湯があった。湯船の脇に設えられた脱衣棚に服を脱ぎ、かけ湯をしてんら湯船に浸かる。湯は熱かった。
「あつい」
尾形は呻いた。杉元が笑う。
「体が冷えたたんだろ。まだ寒いしな」
「お前は平気そうだな」
「もっと寒いところから帰ってきたからな。函館はあたたかい」
杉元が大きく伸びをする。筋肉質な体は、数多の傷に覆われている。更に引き締まった体が、船上での過酷な生活を思わせた。
「お前も痩せたな」
「あんな粗末なもんしか食わなきゃそうなる。前にもうちょっとマシなもんをだせって言っただろ」
杉元がフンと鼻を鳴らす。尾形はくっと喉を鳴らした。
「カニでも食えばよかっただろ」
「ああ、そういえば、カニを盗み食いしたやつが、飯を三日も抜かれていたな」
「はは、高くついたな」
そんなことより、と杉元が言った。
「なんだ」
「お前だ、お前」
「だからなんだ」
痩せちまってなにやってんだ、と杉元が言った。尾形は改めて、自分の体を見た。小さなランプで照らされている浴室は暗い。だが、それでもわかるほど、骨が浮いていた。軍にいた頃の筋肉質さからは、考えられないほどに細くなっている。
「確かに痩せたな」
「確かにじゃねえよ。食えと言っただろう」
「ああ、面倒でな」
尾形はよくわからない気持ちになった。昔はなにがあっても食べていた。目玉を抉られて半裸で逃げたときも、戦場でたくさんの人を殺したときも、構わずに食べていた。だというのに、このところ面倒でならない。
「ほっとけねえんだよ」
いつも以上に荒っぽい口調で、杉元が言う。尾形は杉元の横顔を見た。その顔は不機嫌そうに顰められていた。
「そんなに嫌か」
「そうじゃねえ」
「だったらなんだ」
「だから」
あーもう、と杉元がため息を吐く。そして俯いて黙り込んでしまった。尾形は次の言葉を待った。しかし、お湯が熱い。だんだんと逆上せてきた。おい早く言え、と尾形は促した。杉元がまたため息をついた。
「お前、いくつだ」
「なんだ急に。三十は越えた」
「どうやって生きてきたんだ」
「ははあ、色々だ」
「お前を放っておけない。お前が大切だって言ってんだ。理解しろ」
杉元の物言いは傲慢だった。しかし、その目は不安げに伏せられていた。理解しろと言われたが、尾形はあまり理解できなかった。
「どういう意味だ」
「好きだ」
杉元が今度はきっぱりと言った。尾形は頭がくらくらするのを感じた。俺たちは殺し合う存在だった筈だ、と思った。のんびりと温泉に入って、好きだの放っておけないだのと、そんな話をするのは、おかしい気がした。しかし、杉元はなにも覚えていないのだ。尾形は一抹の寂しさを感じた。
「どうすればいい。抱かせてやればいいか」
「そうじゃなくて」
「わからん」
「嫌じゃねえのかよ」
「それすらわからん」
「どうやって生きてきたんだ」
杉元がぽかんと口を開けた。わからん、と尾形は繰り返した。完全に逆上せてしまったようで、頭がくらくらとして仕方ない。混乱している、と尾形は自己分析した。しかし、分析したところでどうにもならない。
「と、とにかくお前は風呂から出ろ。真っ赤だぞ」
杉元が苦笑いを浮かべる。尾形は素直に従った。
酒を一杯ひっかけたいところだったが、既に開いている店はなかった。仕方なく、家で冷酒を舐めている。温泉での一件以来、杉元は奇妙なほど無口だ。そのくせ、妙に決意の硬い目をしている。尾形は回りはじめた酒気を感じながら、ぼんやりと囲炉裏の火を見つめた。ここのところ寒かった家の中が、今日はあたたかい。軽い眠気を覚え、尾形はひとつあくびをした。
「眠そうだな」
「ああ、お前が家にいるとあたたかい」
「寒かったのか」
「お前が騒々しいからか……」
尾形は囲炉裏を挟んで正面に座る杉元を見た。杉元の顔に柔らかな笑みが浮かんでいた。尾形はぼんやりとしたまま、ぶっ殺してやると叫んでいた頃の、杉元の顔を思い出した。あの時のほうが鮮烈だった、と思う。尾形は立ち上がった。タンスのところへ行き、中から銃剣を取り出す。
「これをやろう」
尾形は銃剣を差し出した。へっ、と杉元が声をあげる。尾形はにんまりと笑った。杉元が銃剣を受け取り、抜き放つ。純粋な銀色がぎらりと光った。
「ははあ、似合うな」
「なんだよ。物騒だな。誰かぶっ殺せばいいのか」
はっと杉元が短く笑う。その返答は尾形を満足させた。
「俺を殺すか」
「なんでそうなる」
「冗談だ。俺を抱きたいか」
尾形は直接的な言葉で訊いた。杉元の顔がさっと赤くなった。それから、眉間に深い皺が刻まれた。
「変な事いうな」
「そういう意味じゃねえのか」
「お前は本当によくわからねえ男だな」
呆れるぜ、と杉元が言う。それから酷く優しい顔で微笑んだ。
「ああ抱きたい。でも今じゃねえ」
「なんでだ。善は急げというだろう」
「そんな意味だったか」
杉元ががりがりと後頭部を掻く。それからひとつ、舌打ちをした。
「大切にしてえ。だから、まだ抱きたくない」
杉元の言葉は、息苦しいほどに直接的だった。尾形はじわりと混乱した。そんな言葉は知らなかった。自分の人生になかった。
「でもお前の好きでいい。お前が望むようにしたい」
杉元がまっすぐに見つめてくる。尾形は見つめかえすことが出来ず、視線を囲炉裏の火へと落とした。ぼうぼうと火が燃えている。大切にするとはなんだろう、と尾形は考える。お前の好きでいい、とはなんだろうと考える。俺の意思で、俺の望むことをしていい。それは尾形にとって、初めて与えられたものだった。
「俺は……」
尾形は答えようとした。しかし、なにも言葉が出なかった。ただ、ただ混乱だけがあった。しばらくして、杉元がくっと笑った。
「いい。ゆっくり一緒に考えてくれ」
尾形は火を見つめ続けた。燃える火はゆらゆらと揺れて、光っていた。
五月に入り、ようやく函館に春が来た。まだ気温は低いが、あちらこちらで桜が咲きはじめている。ようやく重いコートを脱げ、尾形はほっとした。片腕がないせいで、服を着こむほどに体を捌きにくくなる。薄着になるこれから季節は楽だった。
会社も冬場のカニ漁の時期を終え、ひと段落ついた状態だ。のんびりとした空気が流れている。今日も早上がりの許可が出た。
いつもは馬車鉄道でいく道を、尾形はゆっくりと歩いた。歩いても、二十分もかからない距離だ。柔らかくなった風を浴びながら、尾形は悪くない気分だった。
杉元との関係は、あれ以来なにも変わっていない。好きだと言われたが、それだけだ。尾形は当初混乱したが、すぐに冷めた。記憶を失い不安なところで、世話を焼いてくれた人間に、一時的に懐いただけ。そう判断した。なので、なにも回答はしていない。そのうち飽きるだろうと思っていた。
家まで帰りつくと、玄関先で杉元が数人の男と揉めていた。なんだ、と思いながら、間に割って入る。
「なんの用だ。ここは俺の家だ」
尾形は言い、男達の顔を見回した。どこかで見たことのある顔ばかりだった。金をちょっと借りたくてね、と男の一人が言った。貸さねえって言ってるだろ、と杉元が怒鳴り返した。困ってんだから、と男が食い下がる。尾形はため息をついた。
大東洋水産の社屋にも、こういった人間はよく来る。次の船に乗るから先払いで金が欲しい、前回の支払いが足りてなかったからもっと出せ、必ず返すから金を貸してほしい。明らかに博打か女で稼ぎを溶かした男達が、へらへらと媚びへつらいながらやってくる。その度に、一番の強面が出て、追い払う。
「だから、貸さねえって言ってんだろ!」
杉元が怒声をあげた。困ってんだよ、助けてくれよと言いながら、男の一人が杉元の襟元を掴んだ。あっ、と尾形は思った。その瞬間、男が宙を舞っていた。もう一人の男が杉元に躍りかかる。簡単に殴り返され、地面に伸びた。
「わかったか、貸さねえよ」
チッと杉元が舌打ちをする。尾形は拍手をしてやりたい気分になった。だが、残念なことに片手がなかった。やはりこの男はいいな、と思う。暴力の力を知っている。そして、躊躇いがない。男達が逃げていく。尾形はははあと笑った。
「見事だな」
「ケンカは強いからな。失敗をした。家の場所を知られちまった」
杉元が渋い顔をする。なにがあったんだ、と尾形は訊いた。
「朝から漁師の船に乗せてもらってたんだが、その帰りにさっきの男達のひとりに会っちまった。北の海に出てる間から、ろくでもない奴だったからな。関わりたくなかったんだが、金を貸せ、金を貸せとうるさくされた」
杉元がはーっとため息をつく。その時に殴っちまえばよかったじゃねえか、と尾形は言った。お前なあ、と杉元が笑う。
「巻いたつもりだったんだが、後を付けられていたらしい。今度はクズの仲間を連れてきて、金貸してくれの大合唱だ」
「はは、たかるにも相手を考えた方がいいな」
こんな暴力装置のような男に、圧力をかけて金を借りようなど、あまりにも愚かすぎると尾形は思った。殴られるだけだ。
「しばらく気を付けてくれ。お前があの会社の人間だってことは、あいつらも知ってるだろうから」
「気にするな。会社にもああいうのはよく来る。慣れている」
「そうか。あっ、そうだ! そんなことより花見に行かねえか」
杉元がぱっと笑う。その手はまだ殴った男の血で汚れていた。もう暴力を振るったことなど忘れてしまっている。ああ本当にこいつはいい、と尾形は思った。
「花見か」
「そうだ。そこの公園の桜がもうすぐ満開なんだ。次の休みに酒持っていこう」
悪くねえな、と尾形は返した。花などそれほど好きではないが、春の陽気のなか酒を飲むのは魅力的だった。俺が弁当作ってやるよ、と杉元が言う。楽しくて仕方ないという顔だ。しかし、その手は先程の男の血で汚れている。
わかったから手を洗え、と尾形は言った。楽しい気分だった。
週末が来て、尾形の仕事は休みになった。杉元は朝から握り飯などを拵えている。貰ってきた干物を焼き、大根を煮つけ、上機嫌だ。外は雲一つない晴天だ。絶好の花見日和と言えるだろう。
日が高くなるのを待ってから、尾形と杉元は家を出た。日本酒の一升瓶と、茶碗も忘れずに持った。
訪れた公園は、混雑していた。子供達が歓声をあげて走り回っている。何本も植えられている桜の木の下では、男達が酒盛りをしていた。空いている場所を探し、腰を下ろす。杉元が弁当を広げる。尾形は懐から、昨日会社で貰ったウニの塩漬けを取り出した。
「あー、すげえ、ウニだ」
「貰った」
「うわ、うまそ。握り飯にのせて食うか」
桜は満開だった。ちらちらと花びらが舞う。青く澄んだ空に、淡い桃色がなんとも映えた。きれいだな、と杉元が言う。元々、桜の花は北海道になかった。北前船で交流していた本土の人間が、こちらにも植えたのがはじまりと言われている。江戸の昔から交流の多かった函館には、多くの桜が植えられている。移住者が多いこともあり、花見の文化はすっかり根付いていた。
「乾杯しようぜ」
杉元が酒を満たした茶碗を掲げる。なんの乾杯だと言いながら、尾形は茶碗に茶碗をぶつける。酒を干すと、杉元と目があった。杉元の目は愛し気に細められていた。そこには、確かな恋情があった。そういったものを知らない尾形でもわかるほど、はっきりとした恋があった。
尾形は途端に落ち着かなくなった。どうしてこんな顔をされるのか、わからなくなった。それとも、人間はそういうものなのだろうかと思う。父も母を一度は愛しく思い、自分を作ったのだろうか。しかし、すぐに捨てた。
尾形は自分の中に冷たいものが生まれるのを感じた。杉元から恋情など向けられたくなかった。殺意のほうが、よほど純粋でわかりやすかった。恋は裏切るが、殺意は裏切らない。透明で透き通っている。
「どしたんだよ、ぼーっとして」
「いや」
尾形は曖昧に笑んだ。ウニ食おうぜ、と杉元が言う。嬉しそうに目を細める。尾形は桜を見上げる。儚い花は既に散りはじめている。ちらちらと舞う淡い花びらが、一枚尾形の手の甲に落ちた。
五月も終わりに近づくと、すっかりあたたかくなった。桜はすっかり散り終え、鮮やかな若葉を茂らせている。函館の漁場は、甘エビ漁が盛りだ。この時期のエビは子を持っており、それがプチプチとして美味い。昨日、杉元が貰ってきたのを食べたが、甘くとろける身と、卵の食感が合わさって、なんともいい味だった。
会社の方は、夏の漁期に向けての準備で、再び忙しくなりはじめている。北洋漁業の船の出る、ベーリング海は夏場でも、十度を下回るような海だ。それでも、旬というものはある。冬場はカニ、夏場はサケがよく獲れた。船に詰んだ缶詰加工の設備を、カニ用からサケ用に積み替え、人の手配をはじめる。
人夫達の流れに、変化があるのを尾形は感じていた。沿岸部でのニシンの不漁が続き、ヤン衆たちが北洋漁業に流れてきているのである。効率的な漁の方法が考案され、ニシンの乱獲が続いたせいだと言われているが、尾形も詳しいことは知らない。ただ、人を集めやすくなったのは、助かっていた。
俄かに忙しくなった業務を終え、会社を出たのは夜の八時だった。遅くなったな、と尾形は思った。しかし、今日は気楽である。遅いと心配する杉元がいないのだ。近所の漁師連中に誘われて、飲みに出ている。明日は休漁日なので、帰ってくるのは、もっと遅い時間になってからだろう。
俺もなにか食ってから帰るか、と尾形は思った。久々に以前通っていた定食屋の煮付けが食べたい。だが、杉元が夕飯を用意しておくと言っていたのを思い出した。しかたねえ、と独り言ち、尾形は帰路についた。
家の近くまで来ると、木窓から光が漏れているのに気が付いた。杉元がもう帰ってきているらしい。帰ったぞ、と言って尾形は玄関戸をあけた。そして、一気に緊張した。
家の中にいたのは、杉元ではなかった。複数の男だった。
「人様の家になんの用だ」
尾形は静かな声を出した。しかし、内心には小さな焦りがあった。健常な体の頃であれば、素人など複数いても問題なかった。だが、今は片手の片目である。真っ当に殴り合いのケンカなど出来ない。手を出されれば、負けるのは分かっていた。
アンタに用があってねえ、と男の一人が言った。男の手には、杉元が握っておいてくれたであろう、握り飯がある。尾形はざわりとした。汚された気がした。
この間、アンタの男に殴られた治療費を貰いに来た、と男が続けた。尾形は寸でのところで、ため息を堪えた。なんて安いセリフだと思った。
「別に俺の男じゃねえ」
金が欲しいならアイツに言ってくれ、と尾形は返した。またまたぁ、と男達が笑う。あんたのその色気で、引きずり込んでんでしょう、と男のひとりが言う。尾形は少し懐かしい気分になった。軍にいた頃も、よくこういうことがあった。
尾形はあの上官の色をやっている。だから上等兵になれた。いや、あの上官だ。二人で執務室に消えていくのを見た。芸者の子だっていうからな、山猫の子はやはり山猫だ。第七師団長殿も悲しんでおられるだろうな、自分の血をひいた息子が色で地位を買ったのでは。汚い山猫ではなあ。俺たちも相手をして貰おうか。
嘲笑う声が遠くから聞こえる。今更、怒りなど湧かなかった。そう揶揄した兵隊達にあったのは、ただの嫉妬と性欲だ。山猫を嘲り、ひとり出世した尾形を貶め、山猫なのだから犯していいのだと決めて、尾形を玩具として使った。
尾形はこれから起きることを予測した。自分はこの男達に犯されるだろう。男達の目には、性的な欲望があった。面倒くせえな、と尾形は思った。左腕があればねシロウトなど簡単に殴り飛ばせるのに。
しかし、それは悔しいという感情まではいなかった。そう感じるには、尾形は乾きすぎていた。
「金払えないなら、わかるよなあ」
ニタニタと男のひとりが笑う。まっ黄色く汚れた歯が、ぬめりと光っている。その歯の隙間に挟まった歯垢まで見えた気がして、尾形は軽い吐き気を覚えた。
「杉元が悪いんだ。諦めろ」
杉元の名前を聞いた途端、尾形はどくりと心臓が打つのを感じた。お前が好きだという目をして、自分を見つめる杉元の顔が浮かんだ。途端に、男達への嫌悪が、爆発するように全身を駆け抜けた。そんなことは初めてだった。軍ではじめて上官の玩具にされたときも、気に食わないというだけの理由で私刑を受け、好き勝手に犯されたときも、山猫だからいいだろうと適当な処理道具にされたときも、尾形の中にこんな爆発は起きなかった。
「なんでテメェらの汚ぇチンポしゃぶらなきゃいけねえんだ」
尾形は、手近にした男の顔に唾を吐いた。
「見ててやるから、テメエで扱いとけ」
罵り言葉、簡単に口から出た。はっと尾形は笑った。次の瞬間、男のひとりに殴り飛ばされていた。
「カタワもんが生意気に!」
男が馬乗りになってくる。顔は殴るなよ、と他の男が言った。代わりとばかりに腹を殴りつけられ、尾形は呻いた。尾形は戦いの場から離れて久しい。鮮明な痛みを感じるのは、久々だった。しかし、この程度である。殴られる痛みなど、慣れ過ぎている。尾形は腰を反らし、圧し掛かる男の体勢を崩させた。腹筋を使って上体を起こし、男の顔面を殴る。男が転がった。
なにやってんだよ、と他の男が笑う。そして、今度は尾形の腹を蹴った。床を転がりながら、尾形は自分がわからなかった。どうして杉元の顔が浮かんだ途端、抵抗しようと思ったのかわからなかった。
肉体など、とうに擦り切れている。今更、守るものなどない。それなのに、どうしても嫌だった。しかし、尾形は押さえつけられた。男達の手が伸びて、着ていたシャツを破く。下履きが引きずり降ろされる。尾形は露出した自分の性器を見た。それは怯えて縮こまることなく、戦う意思をもつた姿をしていた。
「食い千切ってやろうか」
ははあ、と尾形は笑う。男の平手が頬に飛んだ。口の中に溢れてきた鉄錆の味を、尾形は男の顔に吐きかけた。殺されてぇのか、と男が怒鳴る。
「それはお前だ」
しんとした声がした。そして次の瞬間、尾形に圧し掛かっていた男の首がぽきりと折れた。顎が斜め上を向いている。死んでいた。あまりあっけなかった。男の体がどさりと尾形の上に倒れこんでくる。その後ろに、杉元が立っていた。
そこからは、あまりに簡単に物事が進んだ。杉元は平然と、淡々と、すべての男を殴り殺した。呵責ない力だった。暴力そのものだった。完璧に完成された殺人だった。尾形はうっとりとその様を見つめた。喜悦があった。
俺は杉元にとって殺人の道理足りえる。
そう考えた途端、溢れかえるような喜びがあった。すべての男を転がした杉元が、着ていた羽織りを脱ぎ、尾形の体の上にかけた。助かったぜ、と尾形は笑った。
「バカ、笑うな」
杉元が泣きだしそうな顔をする。痛かっただろ、と杉元が言う。だが、尾形はもう痛みを感じていなかった。喜びが強すぎて、それ以外なにもなくなっていた。その時、男のうちのひとりが蠢いた。まだ生きているようだ。尾形はゆっくりと立ち上がった。タンスのところへ行き、あの銃剣を取り出す。抜き放つと、いつも通りの清潔な銀色が輝いた。
尾形はまだ生きている男の首に銃剣を当てた。おい、と杉元が声をあげる。構わずに、突き刺した。血しぶきが舞った。俺が殺したのに、と杉元が言う。
「殺したかった」
「バカ、お前まで罪を背負うな」
「道理があれば、人は人を殺せる。違うか? お前ならわかるだろう」
尾形はまっすぐに杉元を見た。道理、と杉元が繰り返した。
「まあいい。俺は今、とても気分がいいんだ」
「なに言ってる」
「お前は、俺のために人を殺した」
尾形はうっとりと言った。少女のような恋心が、生まれてはじめて尾形の中にあった。杉元に抱かれたかった。自分の中に杉元の男を受け入れて、包み込みたいと思った。腹の中が疼いていた。杉元、と言って尾形は手を伸ばした。
杉元が尾形の背に手を回す。尾形は杉元の体をきつく抱き締めた。胸の中から、ぐっと苦しくなるような喜びが溢れた。
抱いてくれ、と尾形は言った。
せめて俺の部屋でしよう、と杉元が言った。居間には、いくつもの死体があった。血の匂いが漂っていた。尾形は瓶に貯めておいた水で、体を拭いた。思考はぼんやりとぼやけ、しかし鮮明だった。足元はふわふわとしていた。転がった男の死体を跨ぎ、尾形は奥の部屋に行った。杉元の暮らす部屋は雑然としている。敷きっぱなしの布団が、真ん中にあった。掛布団がぐしゃぐしゃになっているのを、尾形は笑った。
「ちゃんと布団を畳め」
「お前、ズレてんなあ」
のんびりとした口調で、杉元が言った。笑いが含まれていた。お前もズレている、と尾形は思った。あれほど殺したのに、もう忘れたような顔をしている。戦争の記憶などない筈なのに、殺人に慣れ過ぎている。尾形はまた愉快な気分になった。早く、と杉元に強請った。欲しかった。
「と、言われても、男を抱いたことがねえ」
記憶がないだけかもしれねえが、と杉元が言う。俺が教えてやる、と尾形は笑った。仰向けに横になれ、と尾形は促した。杉元が言葉に従う。
「よかったか」
布団に腹這いになり、尾形はにやにやと杉元の顔を覗き込んだ。少し前まで熱狂の中にいた男の顔は、まだぼんやりとしている。ああすげえ、とため息のような声が言った。仰向けに横たわった杉元の腕が伸びて、尾形を引き寄せた。尾形の杉元の胸の上に乗りあげ、また顔を見つめてにやりと笑った。
「俺は具合がいいだろう」
「遊んでたのか」
杉元が少し不機嫌そうな声で言う。嫉妬の気配を感じ取り、尾形は更に満足した。実にいい気分だった。
「いや、軍で言われた」
「軍で?」
「お前は記憶がないから知らんだろうが、あそこはそういう場所だ。食い物にされる側の人間がいる。まあ、食われる側がいるのはどこも同じか」
ははっ、と尾形は笑った。船の中もそうだぜ、と杉元が言った。だろうな、と尾形は返した。北洋漁業の船は、男ばかりの世界で長期間の航海をする。そうなれば当然、弱いものは食い物にされる。犯され、玩具にされる。
「お前は気が強いのにな」
「俺は父が第七師団長だったからな。面白がってやられた」
言いながら、俺はどうしてこんな告白をしているのだろうかと尾形は思った。誰にも自分から話すことはなかった。親しくしていた宇佐美にすら、自分からは言ったことがなかった。だというのに今、言葉はぽろりと口から出た。
「第七師団長の息子がどうしてこんなところにいる」
杉元が当然の疑問を口にした。ああ、と尾形は返した。
「俺は妾の子だ。いや妾ですらないな。父上に入れあげた芸者の母が、おそらくは勝手に産んだのだろう、俺にあったのは、芸者が産んだ第七師団長の子という名札だけだ」
そうか、と杉元が言った。それ以上はなにも口にしなかった。尾形は杉元を好ましく思った。安い同情などいらなかった。事実事実にすぎず、すべては過ぎ去ったことだった。母も、父も、この手で殺した。もはや尾形百之助は、尾形百之助でしかなかった。なんら他の名札を付けられることのない、ただ個体だった。
「俺はどんな生まれだったんだろうな」
杉元がぼんやりと口にする。それほどの切実は持っていない音だった。さあな、と尾形は答えた。
「部隊で一緒だっただけの仲だ。そこまでは知らん」
言った言葉は嘘だったが、知らないのは事実だった。尾形にとって、杉元はただの純粋たる殺意だった。育ちなど気にしたことがなかった。
「まあいい。どう生まれたかじゃねえ、どう生きるかだ」
杉元がぎゅっと尾形を抱きしめる。どう生きるか、か、と尾形は繰り返した。なにかを考えたい気がしたが、それには男の体温が心地よかった。尾形は杉元の胸板に頬ずりをした。傷だらけの胸は、筋肉に鎧われて硬かった。
「眠くなってきた」
尾形はあくびをひとつした。杉元がくっと笑った。
「寝てもいいが、あの死体をどうにかしねえとな」
「捨てておけばいい」
「このままじゃ二人仲良くお縄だ」
仕方ねえ逃げるか、と杉元が言った。いいな、と尾形は返した。
「そうしよう」
函館での暮らしはそれなりに気に入っていた。学んだロシア語を使える環境もよかった。北海道の仲では温暖な環境も暮らしやすい。だが、もうどうでもよかった。杉元とどこかへ逃げる。楽しそうだと思った。
「まあ流れもんばかりだ。数人死んだところで、大した捜査はしねえだろ」
「ああ。そうだな」
尾形はとろりとしだした。杉元の腕の中にいると、酷く眠くなる。巨大なけだものに包まれている安心感がある。尾形は目を閉じた。明るくなる前に家を出るぞ、と杉元が言った。尾形は小さく頷いた。
纏めてしまえば、荷物など些細な量だった。何枚かの服と、貯めておいた二人分の現金、あとは銃剣だけを持った。他のものはみんな捨てていくことにした。二人で暮らした居間では、既に死体たちが悪臭を放ちはじめている。尾形はさしたる興味もなく、男達の死体を跨いだ。
「こいつらにも、こうやって落ちぶれなきゃならねえ理由があったのかもな」
杉元が口にする。尾形はそうだなと言った。
「すべての物事には理由がある。だが、こいつらは殺される理由もあった」
「同情する気はねえよ。ただ生きるってのは不思議なもんだ」
「何が言いたい」
「なんの苦労もなく育ち、教育を与えられて、しっかりとした職を得て家庭を築く。それが当たり前の人間と、なにもなく生まれ、教育もなく、死の海に漕ぎ出しては日銭を稼ぐ人間。その差はなんだ?」
杉元の目は真剣だった。男達の死体をじっと見つめていた。だが、その目に同情の色はなかった。ただ観察者の冷たさだけがあった。尾形はそれを好ましく思った。同情をするような男だったら、がっかりしてしまうところだった。同情ほど不潔なものはない、と尾形は思っている。同情は上から与えるものだ。共感ではない。優位のものが、下のものを憐れんで与える。それが同情だ。
「少し前に吉原で火事があって、遊女が随分と死んだ。なんら教育を与えられることなく、親に売られ、男に消費されて、最後は火に撒かれた」
尾形は少し前に本屋で見かけた、西洋の哲学書を思い出した。向こうで随分売れたというその本は、神は死んだと書いたらしい。キリスト教の思想が強い、ヨーロッパにおいてである。
「わからねえな、わからねえ」
杉元がはっと笑った。そして、さあ行くか、と言った。尾形は頷いた。家を出ると、まだ空には星が瞬いていた。月はなかった。星だけが、空を埋めるように光っていた。