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    BLacktriangler

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    BLacktriangler

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    MCUドラマ『ムーンナイト』二次創作。マークと気まずくなったスティーヴンが脳内に引きこもる話。ジェイクが諸事情でぬいぐるみ(うさぎ)になってます。そのうちエピローグが追加されます。

    #ムーンナイト
    moonlight

    Wonderland in the Alias*心身の具合が悪くなったら医療機関に相談してください。周りの人の具合が悪くなった時も同様に、専門家が書いた情報を参考にしてください。


     鏡越しにケンカをしたくないと言ったのは僕だった。
    「ヒートアップしちゃうからさ、お互い」
     マークは渋い顔で腕組みしていたが、『お互い』と僕が言った時、ほんのわずかに顔を歪めた。怖い顔。でも罪悪感の表れだと分かった。出会ったばかりの頃、マークは僕に激昂して鏡を割ったことが何度かあった。
    「距離が近すぎるんだよ。『今日は顔見たくない!』って思っても何かに反射すれば目に入っちゃうだろ?」
     その時の僕は、テーブルを挟んでマークと向かい合っていた。あのアパートの502号室にあるのと同じ丸椅子に座り、同じテーブルに組んだ両手を載せて。
    「それに、一人の時間も必要だと思う」
    「お互いに、か」
    「そうだよ」
     マークは頬杖をついた手で口元を覆っていて、ハンサムでクールな彼にその仕草はとてもよく似合っていた。内心では、不安を感じてためらっているだけだったんだけど。
    「マーク、大丈夫だよ。タウエレトにできて僕らにできないはずがない」
     僕ら二人が座っていた場所は幻覚の産物だった。いや、夢と言った方が正確かもしれない。僕らが二人ともここにいる間、共有している肉体は意識を失って眠っているはずだから。
     見た目は(椅子もテーブルも部屋全体も、僕ら二人ぶんの肉体も含めて)、僕らが実際に生活しているアパートの部屋と寸分違わない。お茶を飲んだり、何か食べたりすることもできるけど、その味も幻覚だ。自分(たち)の内側にある場所だけれど、マークも僕も自分の手で造った覚えはない。精神病棟の形をとった冥界から帰還した後、うとうとしている時にいつの間にか入り込んでいることがあった。それをラッキーだと思ったのが僕、怪しんで警戒したのがマークだった。
    「大丈夫」
     「自分の頭がますますぶっ飛んだ方向へズレていくんじゃないか」と不安がるマークを僕が説得した。いや、籠絡したのかもしれない。彼は僕に甘いから。
    「君のスーパーパワーを信じて」



     読書用の眼鏡を外して、一人掛けカウチから立ち上がる。キッチンテーブルの上に置いてあったスマホを手に取ると夕方の6時前だった。僕が脳みその中に籠城しはじめてから、もう一昼夜経ったことになる。マークが僕らの身体をコントロールしている間なら、この空間の時計は概ね正確だ(二人で実験して確かめた。ちなみに僕がコントロールしている間、時計は遅くなったり早くなったりしていたらしい。『スティーヴンタイム』とマークが言って、二人で笑った)。その間、マークと一切顔を合わせていない。
     キッチンから我が家を見渡してみる。元々モノが多かったけど、マークもここで暮らすようになってさらにごたついている。ハンガーラックを増やそうとか、そうしたらどこに置こうとか相談してたっけ。日が陰りはじめて、部屋の隅に濃い影が溜まっている。電気をつけなくちゃ。
     鏡越しにケンカしたくない、と僕が彼に言った。言ったけど、じゃあ、果たしてこれはケンカなんだろうか?
     手元のスイッチがパチンと音を立てると同時に、部屋全体が電灯のオレンジ色に包まれる。
    「でもさ、マークは悪くないんだよ」
     明るくなった部屋の中で、本棚に座っていたウサギのぬいぐるみと目が合って、思わず言い訳みたいなことを口にする。本棚は狭そうだったから(ブックエンドと棚の間に余ったスペースに、クレオパトラの顔をしたラバーダックと一緒に詰め込まれていた)棚から下ろしてやった。僕の両手からすこしはみ出るくらいのサイズで、たっぷりした耳を撫でると少しだけ埃が指先に溜まる。ハイ、ハンサム。僕の話を聞いてくれる?
    「彼が嫌いになったとか、口もききたくないとかそういうんじゃない。でも今は会いたくないんだ。どう言えばいいんだろう……気を使いたくないし、気を使われたくもないだけ。そうだね、要するに気まずいのかも」
     マークの顔を見れば、たいてい何を考えているか分かってしまう。彼もきっと同じ。これは、僕らが共有している脳から伝わってくるとかじゃない。少なくとも僕はそう思う。時間や空間、思い出を共有した人たち特有のコミュニケーションだ。僕が正式にマークを知ってから1ヶ月くらいしか経っていないけれど、一緒に死にそうな目に遭ったり実際に死んだり……色々あった。剣呑なことが落ち着いてからも、ほとんど片時も離れずに傍にいた。絆が濃くならないわけがない。
     絆という言葉にうながされたように、僕はちらりとベッドの方を見る。今は誰も使っておらず、きちんと畳まれた寝具が足下の方にまとまっている。眠るときに使っていた足枷は、もうない。立ち話もなんだし、僕は寝具の山を避けてベッドシーツの上に腰掛けた。
    「足枷は片付けたんだ。結局僕は睡眠障害じゃなかったから、もう必要ない。これで急に人が来ても大丈夫!……君が知っているか分からないけど、前回ここに人が来た時はめちゃくちゃ大変だったからね」
     いつの間にか、手の中でウサギの中綿を揉んでいた。柔らかい。それに生地がすべすべだ。心地よくて、ずっと触っていたくなる。黒いフワフワの中に埋もれた両目は潤んでいるみたいにツヤツヤで、瞳孔を模した黒い円をぐるりと深紅の虹彩が囲んでいる。間近で見て初めて気がついた。
    「ニセ警官だったんだ。すごく手慣れてて、当然みたいな感じで入ってくるから、つい気圧されちゃって……マークのパスポートを見つけて『写真はあなただけど名前が違う』って言うから『ハイ』って返すしかなかった。その後『偽造ですね。逮捕します』って言われても『ハイ』って……従うしかなかった」
     ウサギは何も言わずに、つぶらな赤い瞳でこっちを見ている。ぬいぐるみだから当然だ(マズルも縫ってあるし)。僕は気にせずしゃべり続ける。
    「あいつらはニセだったけど、本物の警官だったらヤバかったよ。……うん、ニセ警官も十分ヤバかったけど、そうじゃなくて、起訴されるとかさ。だから、マークは……彼は悪くないんだ」
     最後に会ったのは昨日の午後遅くで、その時僕らは財布の中身を整理していた。マークが身体をコントロールして、家中で一番広いデスクの上に財布の中身を次々と置きながら鏡越しに話し合った。現金がいくらあるとか、クレジットカードの暗証番号とか、クリーニングの預かり証とか、そういうことを教え合っていた。言うなれば生活知識の棚卸しだ(イラついている元上司の顔を思い出すからこの言葉は使いたくないけど)。
     作業の終盤、パンパンに膨らんでいた財布はすっかり平べったくなっていた。もうすっかり空だと僕は思っていたのに、そのスカスカの財布の中からマークが1枚のプラスチック製カードを出してきた。僕はその財布をずっと使っていたけど、そんなところにポケットがあるなんて全然気づいていなかった。
     マークが最後に取り出したのは、IDカードだった。印字された名前は〈マーク・スペクター〉。
    『IDを見せろと誰かに言われたら、こっちを見せてほしい。特に、警察に見せる時は必ずそうしてくれ。買い物で必要な時は……ほぼ心配ないと思うが、念のためにこっちにしておいた方がいい。そもそも、お前はアルコールもタバコも買わないか』
     その通り。僕はタバコの臭いが嫌いだし、お酒を自分で買うこともめったにない。だからそのままうなずいておけばよかったのに、僕は理由を聞いてしまった。僕のIDもデスクの上にあったから。
    『店はともかく、警察や銀行には偽造が見破られるリスクがある。だから、極力見せない方がいい』
    『僕のIDのこと?』
     あんなこと言わなきゃよかった。でも口を突いて出てきてしまったのだ。声に出して、確認せずにはいられなかった。それでも後悔している。僕は、マークにあんな顔をさせたくはなかった。僕の存在を証明できる真正な公的書類がこの世に存在しないとか、そういうことより、マークの顔を見ていられなくて、僕はその場から逃げ出した。たとえば、熱した鍋のフチに触れた手を引っ込めるみたいに。何か考えるよりも先に脳みその中に転がり込んでいた。ここ、意識の中の紛い物の我が家に。
     出来事のあらましを手の中のぬいぐるみに打ち明け終わって、僕は背中からベッドに思い切り倒れ込む。
    「だってさあ、気まずいよ……」
     マークがいくら死にそうな顔をしても、僕のIDが本物になることは決してない。同じ身体に、マークが先に生まれて僕が後に生まれた事実が変わることもない。僕の名前で偽造したIDが見つかれば警察沙汰になりかねないのも、事実。マークは悪くない。誠実なだけだ。
     それでもマークは僕に負い目を感じてしまう。「君は悪くない」と僕が言っても、心は軽くならない。僕も無駄だと分かっているなぐさめを口にしたくない。千日手、堂々巡り。それが嫌だから、僕は彼から逃げ出して、夢の中に引きこもり、彼の情報を極力締め出している。マークがこの部屋に僕を訪れないのも、理由はきっと同じ。顔を見れば何を考えているか分かってしまうなんて、地獄だ。
     マークが、僕と立場を代われるものなら代わりたいと思っていることを知っている。以前、そう言われたことがある。でも、今だけは絶対にそれを聞きたくない。
     ベッドに預けた上半身を、ごろんと転がす。視界の真ん前には赤い目のウサギがいて、その奥に水槽が見えた。エアポンプから気泡が次々吐き出されいくのをぼんやりと見つめる。キラキラ光る泡の一つひとつが水槽の中を上昇し、水面と出会って消えていく。2匹の金魚が泳いで、泡の列を時折かき乱す。泡は途切れなく水面を目指して昇る。水槽の中の生命を生かし続けるために。
     鏡の中から見上げた、マークの青ざめた顔。あの死にそうな顔を見て「逃げなきゃ」と、とっさに思った。でも、これ以上逃げる場所はない。
    「行き止まりだ……」
     話しかけたつもりはなかった。まして返事なんて全く期待していなかった。
    「出口ならある」
     ぼんやりとする僕に、ウサギはもう一度繰り返した。僕の手の中に収まったまま、つやつやの赤い瞳で僕にアイコンタクトしてくる。
    「出口ならあるって。知りたいか?」
     知りたい、と試しに答えてみた。よく訳がわからなかったけど、とりあえず相手の出方を見てみようと思ったから。1ヶ月前の僕なら混乱して声も出なかったかもしれない。頭が骨とか頭がカバとか、そういう存在と遭遇した経験が役立つ日が来るとは思わなかった。
     僕の返事に、ウサギは満足そうに頷いた。眉毛もないし口も開かない割に表情が豊かだった。
    「よーし。そのまま、いい子でそこにいろ。いま電気を消してやる」
    「待ってまってまって」
     冗談じゃない。僕はベッドから身体を起こした。その拍子に手の中からウサギが転がり出し、小さな身体がシーツに横倒しになる。
    「寝ないよ!」
    「どうして。寝れば大抵の悩みは解決するだろ」
     あんまり雑な物言いに、僕はしばらく言葉を失った。その間に、ウサギはシーツの上で短い手足をじたばたさせ(頭が重たいらしい)どうにか自力で立ち上がっていた。ベッドに腰掛けた僕を見上げ、もう一度目を合わせる。
    「ここは意識の中の空間だから、お前が意識を失えば存在しないも同然、そうなんだろ?」
    「……そうだよ。だから、眠るのは嫌だ」
     眠ってしまったら、次に目が覚める時意識がどこに浮上するか分からない。眠ってしまったら、僕はかろうじて保持している意識のコントロールをも手放して、身体だか脳だかの采配に委ねることになる。その結果、もし現実の身体、現実のアパートで目が覚めたら、鏡の中のマークと鉢合わせするかもしれない。それは、できれば避けたい。
     そのために僕は、昨日の夕方からずっと読書やらパズルやら語学やらを交互にやって、無理矢理覚醒し続けていた。意識さえあればここに踏ん張って、外界を遮断し続けることができる。
     ウサギは手で(というか前肢で)長い耳をわさわさと揺らした。苛立った人が自分の髪をぐしゃぐしゃ掻き回すような仕草だった。
    「救いようのない頑固野郎」
    「どういたしまして」
     わりとよく言われる。僕の皮肉を無視してウサギは同じ調子で続けた。
    「思考回路が丸っきり片割れとおんなじだよ。二人してドツボにハマりやがって」
     ああ、この感覚には覚えがある。鏡の向こう側から、初めて彼が話しかけてきた時と同じだ。
     なんて苛立たしいんだろう。
    「あのさ、僕はルームメイトと気まずいことがあって、ちょっと家出しただけだよ。一人の時間が欲しくて。それってそんなに呆れられるようなこと?」
     苛立ちをそのまま吐き出して、そのままの勢いでもう一歩踏み込むことにした。様子見はもう終わりだ。
    「そもそも君に何の関係があるの?」
     ウサギは何も答えなかった。さっきまで、あんなに生き生きと喋っていたのが嘘みたいに静かで、シーツの上に自立していることを除けばまるきり生命を感じさせない。笑顔と真顔に落差があるタイプ、らしい。少しだけ過ぎった不安を振り払うべく、僕はそう考えた。
     この質問にきちんと答えてくれることなんてハナから僕は期待してない。だから、大丈夫。
    「言えないんだろ。無理に聞かないよ。だから君も、僕に無理強いしないで」
     そこまで言ってようやくウサギから反応が返ってきた。僕は少しだけほっとする。
    「そうだ。言えないことはすごく多い。名前、どこから来たか、ディズニー映画でもないのにぬいぐるみがお喋りする理由、お前やマークとどういう関係か……そういうことは教えられない。悪いな」
    「ミステリアスなんだ」
    「その埋め合わせ……にはならないんだが、お前に伝えることが2つある」
     そう言いながら、ウサギは指を2本立てたりはしなかった。ウサギらしく丸い前肢の先端に指はないから。代わりに僕に近づき、僕の右の手首を両手両足で捕らえた。要するに、黒いモフモフがいきなり僕の手にギュッと抱きついてきた。
     脈絡が読めない。意味が全然わからない。わからないけど可愛い。フカフカの毛並みが肌に強く押し当てられて、みっしり詰まった綿の感触が伝わってくる。
    「クイズ形式にしよう。第1問、スティーヴン、今は何時だ?」
    「え、え?」
     ぬいぐるみの突飛な行動に混乱して、僕はクイズにとっさに反応できなかった。ウサギは容赦なくカウントダウンを開始する。僕の右手に全身で抱きついている都合上、声がくぐもっていた(発声の原理は謎だけど、一応身体の正面のどこかから声が出ているらしい)。
    「10、9、8……」
     しかも猶予を10秒しかくれない。僕は目覚まし時計を探して、ベッドの上に慌てて乗り上げた。
    「ええっと……午後の6時26分!」
     サイドテーブルの上でやっと見つけた目覚まし時計を、握りしめて叫ぶ。
    「曜日は?」
    「火曜!」
     不正解、と右手に巻き付いたままのぬいぐるみが言った。
    「今は水曜の午前2時だ」
    「え……?」
    「お前がここに立てこもってから、ざっと32時間経過してる。連続覚醒時間で言うなら43時間。つまり、もうすぐ時間切れだ」
     そんなことあるはずない、と言いかけて、飲み込んだ。この空間の時間はもともと曖昧だ。僕が身体をコントロールしていれば気まぐれ、マークがコントロールしていれば正確。僕は今、マークからの情報も、身体からの情報も極力締め出している。言われてみれば、まともに時間が流れるはずがない。
     目覚まし時計の針が、3本とも手の中でぐるぐると回転を始める。時針も分針も秒針も、一斉に走り出す。自分が間違った場所に居ることにたった今気がついたみたいに。ぞっとして時計をベッドの上に放り出した。ゴツゴツと、心臓が硬く大きい音を立てている。そのせいで胸郭と頭蓋がグラグラする。すごく嫌なことが起こりそうな気がする。
     いや、もう起きてしまったのかも。
    「時間切れって何のこと」
     声が震えそうになるのを押さえて、端的に問う。
    「2問目に進みたいのか?スティーヴン、降りてもいいぞ。本当に知りたいか?」
     動揺は当然見透かされていた。僕は息をゆっくり吐いて、吐ききってから思い切り吸った。嫌なことが起きたなら、起きようとしてるなら、まずは状況を把握しなければいけない。落ち着いて、この得体の知れない相手から情報を集めないと。
    「進むよ」
    「よし。第2問だ。スティーヴン、水槽の脇にハシゴがあるよな?」
    「うん」
     ベッドの上から背後を振り返ると、廊下へ出るドアまで見渡せる。ウサギの言う通り、水槽の脇には可動式のハシゴがあった。本棚の高い場所に用がある時に使っている。
    「そのハシゴ、段はいくつある?」
     簡単すぎてクイズになっていない。ハシゴは目の前にあるんだから、段の数なんて数えれば分かる。
     けれど、僕は答えられなかった。確かに目の前にあるはずなのに、見えているはずなのに、どうしても分からない。意地になって、ベッドの上からハシゴ段の数を指をさして数えようとした。その途端、ハシゴの姿は曖昧になり、靄のように空気に溶けて見えなくなった。
    「嘘だろ……?」
     そんなはずない。衝動的にハシゴのあった場所に駆け寄ろうとする。立ち上がろうとマットレスをぐっと押して、その時、恐慌に塗りつぶされた思考の片隅で、何かが腹に落ちた。
     シーツの上に押しつけた右手のひら、そのすぐ上に、相変わらずウサギがしがみついている。もうカウントダウンもせずに、黙って僕の様子を窺っている。こいつは「クイズ」で僕が取り乱すことを予測していた。だから、始める前に僕の身体にしがみついてきたのだ。クイズによって僕が混乱して、部屋中駆けずり回ったり、ドアを開けて外へ出て行っても、小さなぬいぐるみである自分が置いて行かれないように。僕がどんなに荒れても、そばに居られるように。僕が一人でどこかへ行かないように。
     僕は立ち上がるのをやめ、右手に嵌まった柔らかな枷をそっと撫でた。
     ベッドの上に座り込んだまま見渡すと、部屋の細部がどんどん曖昧になっていくのがよく見えた。廊下やキッチン、バスルームへ繋がる動線はしっかりしているけれど、それ以外の空間を埋めている雑多なモノや山積みになった本一冊一冊の姿が次々分からなくなっていく。ぼんやりとしているところをじっと見つめると、そのうちに消え失せ、後にはぽっかりと闇が残るのだ。
    「時間切れってこういうこと?」
    「まあな。正確に言うと、エネルギー切れと睡眠不足の両方。そのせいで、このゴージャスなマインドパレスを維持することができなくなってるって感じ」
    「屋根裏部屋だよ。宮殿っていうほどのものじゃ……」
     そこで突然、言葉が喉に詰まった。嘔吐するように呼吸器がうねり、震え、意味のない音になる。目の奥が熱い。痛いぐらいだ。誰かが蛇口をひねったみたいに大量に涙が流れる。頬を濡らし、顎からぼたぼたと落ちていく。とにかく何かに縋りたくて、僕はシーツを強く握りしめた。
    「そんなものじゃ……そんなものじゃないんだ……」
     宮殿なんかじゃない。ただの屋根裏部屋だ。散らかってるし埃っぽいし、うっかりしてると天井に頭がぶつかる。しかも現実ですらない。それなのに、この部屋が崩壊していくのがたまらなく悲しい。マーク、ごめん。一人きりにしてごめん。君や君の身体を傷つけたかったわけじゃない。君は何も悪くない。
     ただ、この空間が壊れていくのが耐えがたかった。君の声が聞こえない、僕が僕一人きりで存在しているような幻覚。自分のIDが偽造だなんて夢にも思わずに持ち歩いていた日々。僕がマーク・スペクターを知る前の懐かしい世界が、矛盾にむしばまれ、自分の重さに耐えきれずに崩壊していく。僕にはとどめられない。なすすべがない。
    「僕はニセモノじゃない……」
    「おう」
     その声はもうくぐもっていなかった。ウサギは僕の右手から離れて、シーツを掴んでうつぶせに丸まった僕を見下ろしていた。生きた手錠であることをやめたのは、もはや逃亡の恐れがないからだろう。僕らのいる場所からはっきり視認できるものは、今いるベッドと金魚が泳ぐ水槽だけになっていた。あとは、大まかな空間の広がりがぼんやり分かる程度の真っ暗闇だ。
     その暗闇を溶かしたような色のぬいぐるみが、僕にささやく。
    「もう一度言えよ」
    「……僕はニセモノじゃない」
    「そうだ。もう一度」
    「僕は、ニセモノじゃない」
    「そうそう」
     「お前は本物だよ」と言う声は、手で触れて撫でた感触と同じく、とろけるように優しかった。
    「……僕のIDは本物じゃないんだよ」
    「そりゃそうだ。その事実は変えられない」
     あんまり軽く言いやがるから、また嗚咽と涙がせぐり上げてきて鼻と喉をふさいだ。そのタイミングを見計らったように、ウサギが言葉を継ぐ。
    「そのことでお前が傷ついてるのも、事実だ」
    「……」
     文字通りぐうの音も出なかった。しゃくりあげてしまって話せないし、そのこと自体がウサギの言うことを裏書きしてしまってるし。僕は無性に腹立たしくてシーツの表面に爪を立てた。
    「気が済むまで泣けよ。ここなら誰も見てない」
    「君が、みてるだろ、……」
     自分の声があまりにもふにゃふにゃでびっくりした。まるで寝言だ。後頭部がじんわりと痺れるような感覚がある。手足の先も。なるほど、エネルギー切れだった。眠い。もう立ち上がれそうにない。
     僕のふにゃふにゃの言葉を、ウサギは聞き返さなかった。ただ小さな前肢で僕の背をポンポンと叩いている。
    「…………」
     ひどく巧妙なやり方で丸め込まれた気がする。魔術みたいな手際の良さで誤魔化されてるけど、マッチポンプの気配すらある。いや、もうこいつと争う理由も無いんだけど……無いんだっけ?
     僕が回らない頭でぐるぐると考えているのをよそに、ウサギは「ハグしてやろうか?」などと言っている。さっきは問答無用で腕をホールドしてきたくせに、何を今さら。そもそもハグというには、体格というか、大きさが違いすぎる気がするし。「要らないよ」と言うのは億劫だったので、僕はごろんと転がって仰向けになり、首を振った。
    「遠慮すんな。いいんだよ。ぬいぐるみは抱きしめて眠るためにあるんだから」
     何か言わなくちゃ。とっさにそう思った。何を言いたいのかは分からない。でもこのまま流しちゃダメだと、どうしてだか強く感じた。でも眠気に抗えなくて、獣じみたうなり声を上げただけになった。身体じゅうが重い。
     薄まっていく意識の中で、腕の中にぬいぐるみのフワフワの表面と弾力のある中綿の感触を感じた。そして、それがゆっくり大きくなっていくのも。抱き心地がいい大きさになろうとしているらしかったけれど、不気味だった。サービス精神が旺盛なのは、ぬいぐるみとして仕事が守備よく運んで機嫌が良いせいなのかもしれなかった。


    (エピローグに続く)
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    INFO秀緒@BLacktriangler の詳しい自己紹介です。
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    自己紹介BLと漫画と映画、演劇、ラジオが好きです。クィア女性。ツイキャスやradiotalkで喋ったりもします。

    ●二次創作見たり書いたりする作品  
    ロックバンドのスピッツ
    ドラマ『ムーンナイト』
    映画『モータルコンバット』(2021)
    『月に吠えらんねえ』(清家雪子)
    『ダブル』(野田彩子)
    薔薇戦争サイクル・ヘンリアド(シェイクスピア)
    映画『ロケットマン』
    ドラマ『グッドオーメンズ』
    ドラマ『エレメンタリー』

    ●ファンとしての立場
    NL・腐タグの使用は同性愛差別、女性差別を助長するため反対です。
    同様の理由で「腐女子」と呼ばれることも拒否します。
    「ホモ」「レズ」「オカマ」などの差別用語やいわゆる「淫夢ネタ」をファン活動の場で用いることにも反対です。トランスジェンダー差別、在日朝鮮人差別をはじめあらゆる差別に反対します。もし、わたしやわたしの作品が差別的であったり、偏見を助長していたりした場合、ご指摘いただけると大変ありがたいです。
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