未定（更新4/27）bgm 雨は夜半に


【口づけくらいさせてあげればよかったと後悔したよ】
手の中でくしゃりと音を出す封筒を抱きしめたまま次第に目を閉じていく。閉じた視界に映るのは永遠に続くかのような黒。そこに思い浮かべるべき人間は、いない。詰めていた息を吐き、閉じた視界を段々と開けていく。光が差し込むのに一瞬目を細めたが、完全に目を開けば真っ白な壁と俺を映す鏡があった。俺の顔には何の感情も浮かんでいない。愛する人が死を遂げ、愛の証を手にしても塩の水すら流れそうもなかった。
「…恋か」
何度目かの呟きと共に、俺はシミ一つない天井を仰ぎ見るのだった。

––愛は劇中––　


子供の頃から演技をしていると、不思議な感覚に浸るようになる。それはきっと誰でも一度は思うことだろう。自分は一体何者なのかと。あるときは、天涯孤独の子供、家族に愛された子供。成長すれば、不良になったり、頭のいい生徒会長になったり。刑事だったり、犯罪者だったり。そうするとだ、自分は一体どこにいるのか分からなくなる。今までこなしてきた役であって、役でない。俺という人間はなんなのだろうと。役を通して世間を知ってきた俺に今、立ちはだかる壁が、恋愛だ。与えられた役になりきり、自分の立場で考えた時にでてくる演技は想像でしかないが、想像でも十分様になっていた。しかし、恋愛というものをしたことのない俺は、彼の考えることが表現できない。ましや、男同士だ。今まで誰かを愛する役をしてこなかったつけが、こんな高いレベルで回ってくるなんて思わないだろう。そう思った時、俺と言う人間がとてもつまらないように思えた。役でしか生きていけない空っぽな俺が少しでも中身を保てるようにと、彼を、理解しようとしている。
「橘さん」
ぬっ、と視界を覆う毛むくじゃらに視線をやると、目が合ったことで人懐こい笑みを浮かべた男。
「千歳くん、ノックしような」
ため息混じりに苦言をぶつけたが、言われた本人はさらりと交わすように更に笑みを深めた。
「したけん、橘さん気づかんけんね。しょんなかです」
肩を竦めた彼、千歳千里の頭目掛けて仰ぎみていた顔を起こす。残念ながら反射神経のいい彼に頭突きは避けられてしまったが、その拍子にバランスを崩したのかたたらを踏んでいたので良しとしよう。
「何か用か？」
「橘さんお昼ば食い行くちて聞いたけん、ご一緒したかです」
座っている俺に対して器用に上目遣いをする彼を見つめる。そもそも昼を利用して外へ行こうとしたのは気分転換だ。撮影が続いていく中で、俺と同じ名前を与えられた作品の、橘桔平の気持ちを理解するために部屋で篭って弁当を食べるよりはいいだろうと判断した。そんな理由を知る由もないだろうが、この男は十数年いや、それ以上役者をやっている俺に対して随分馴れ馴れしい。まだ名を知られて一、二年の九州訛りも直そうとしない男が組織で言えば、大先輩にあたる俺に対して、ノックの返事もなく部屋に入り、その上こちらの予定に勝手に付き合おうとしているだなんて。どれだけ図々しいのだ。
「橘さん？」
作品の橘桔平であったならきっと、すぐさま頷いたのだろう。千歳は親友で、想い人だ。断る理由もなく、親友であれば気心も知れて勝手に入ってきた所で、深刻には取らないだろう。
「…いや、行くか。」
俺の言葉を聞くと千歳は嬉しそうに返事をし、後ろを小走りで着いてきた。千歳は作品のままだ。何を考えてるかわからず、特定の人物に対して人懐こい。心を開いているのか、開いていないのか。ただ、千歳の演技だけは認めている。橘桔平に対峙する千歳千里の目はいつも情熱的で、優しかった。千歳をそばに置くことで何かわかるかもしれない。そう思いなおして、俺は昼へと歩き出す。


一話了




「橘さん、何読んどうと？」
相も変わらず、ずけずけと俺のスペースに入り込んでくる千歳は、俺が手に持つ本に興味を示した。慣れないその距離に体を逸らし、千歳を遠ざけるように本を突き出す。