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    yowailobster

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    yowailobster

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    20210625 ひとつめ
    記憶を無くした子供が彼の恋人を名乗る愛抱夢と出会ってそれからずっと一緒に居るはなし たぶんメリバ
    これだけでも読めます 要らなければ続きは読まなくても問題ないと思います

    ##長編
    ##全年齢

    あなたが望む朝ならいいよ 波音が朝を連れてきた。
    「……」
     のろのろ起き上がり窓を閉める。波の音は小さくなっても部屋には潮の匂いが広がったまま。かなり長いこと寝てしまったらしい。海を見ながらそろそろ夕飯にしなきゃなあと思っていたのが最後の記憶だから、多分それからずっと。すっかり身体が固まってしまっている。椅子寝はよくない。
     お腹が空いた。部屋を出る。
     一人で暮らすには少し大きい家は今日も静かだ。壁一面に広がる窓から太陽の光が射し込み、二階はもちろん階段から一階までをあますことなくオレンジに染めて寝起きの目を眩ませる。どうして窓までこんなに大きくしたのだろう。今度尋ねてみようか。
     冷凍のパンをオーブンに放り込む。朝食はこれだけ。簡素だが、一人で包丁など使うと良い顔をしない男が居るので仕方ない。今日来るそうだからちゃんとした食事は二人の時にでもとろう。
     さて飲み物はと冷蔵庫を開き瓶ジュースの残りを数えるうちに、大変なことを思い出した。昨日の夕飯に飲もうと冷やしておいた一本がそのままだ。流されたら大変、いい具合に焼けたパンを口に突っ込んだまま家を出て――足を止めた。
    「――――」
     視界に飛び込んできたのはピンクと紫の混ざりあう夕空。顔の横を強い風が抜け、雲がぱらぱらと細く散る理由を示した。あてられたみたいにほんのりと染まる水面、遠く水平線の向こうから迫る紫紺のグラデーション。止まった足へ細かな砂粒が纏わりつくのも気にせず、ぼんやりと立ち尽くす。
     何度見ても目を奪われる光景。暗くなる前のほんの一時。
     これが俺の朝なのだと――そう教えた男が数メートル先に立っていた。風になびく白いシャツを背景に、海に浸かっていたはずの瓶を視界の高さで揺らしている。
    「落ちてたよ」
     落としたわけじゃない、置いておいたのを忘れただけ。情けない屁理屈は咥えたパンに阻まれて、もがもがと間抜けな音になった。
    「ん? なにかな」
     耳元にわざとらしく手を当てる。今日は来るのが早いからか人をからかう程度には元気があるらしい。
     早く飲み込んで訂正しなければ何を言ったことにされるかわからない、急いでいると頬にひんやりとした物が触れた。
    「………、――ッ!?」
     驚いて喉をつまらせる俺へ距離をさらりと縮めた男が、今さっきイタズラに使った瓶をこれ見よがしに振る。なんとか取って詮を開け、喉を落ちた液体は当たり前によく冷えていた。
     一息ついた頭へと男が手を乗せる。
    「お迎えありがとう」
    「……うん。いらっしゃい、愛抱夢」
     瓶は落ちていたわけではないことも、俺が迎えに来たわけではないことも、全て解ったうえでそう言ったのだろう。だって愛抱夢はなんでも知っている。このマジックアワーと共に訪れる俺の朝を。それに俺の名前、性格、過去。俺が忘れてしまった俺のすべて。
     
     
     肩を揺さぶる何かがとても熱くて、離してほしかった。
    「ランガくん……起きろ、ランガくん……!」
    「愛之介様、あまり揺すっては」
    「何をしてるんだ君は……! 目を開けてくれ、お願いだから」
     誰かの声がする。
    「僕を――――」
     声は強引だった。揺蕩っていた意識を探り当て、力ずくで引きずり出す。明るいほうへ。
    「…………ぅ……」
    「! ランガくん、僕だ」
     あらゆる物がぼやけてうまく捉えられない。唯一見えたのは、きらきらと光る赤い何か。消えて、点いて、不思議なそれを何だろうかと眺めているうちに答えに思い当たった。そうだ。
     これは人間の目だ。
     留まらないのはまばたきするから、光るのはその目に薄く溜まった涙が照らされているから。
    「……ランガくん?」
     不安そうに揺らぐ様はきれいだ。
     誰?
     尋ねた途端に対の赤は引き締まり、その境に溝が生まれた。
    『僕を知らない?』
     知らない。
    『ここが何処だかは?』
     わからない。
    『君は』
     声に問われる度世界に輪郭が生まれていく。見上げなくとも白い月が見えるから今は夜、ここは野外。きっと俺は仰向け。そしてこの赤い目の持ち主は、俺を心配している。
     どれひとつ確証はない、だって――。
    『自分が誰だか解るか』
     わからない。
    「……ッ」
     痛みを堪えるような声が耳に届き、上半身が勝手に起き上がった。
     …………?
     息が苦しい。抱きしめられている。熱っぽい背中の腕、ずっと触れていたのはこれだったのかと今さら気づいた。
     腕の持ち主が肩越しに語りかけてくる。
    『おそらく君は記憶を失っている。説明はできないが……その状態では誰とも会わないほうがいい。危険だから』
     危険?
    『ああ。けれど大丈夫、僕が保護しよう。君の記憶が戻るまで僕の全てで守ってみせる』
     真摯な言葉は朦朧とした脳によく届く。どうしてこの人はこんな顔でそんなことを俺に言うのだろう。
     あなたは誰?
    『……愛抱夢。君の恋人だよ』
     俺の……
     不思議な発音を真似て口に出す。
     アダム、教えて――俺は?
    『君は……君はランガ。僕の恋人の、ランガだ』
     ランガ。名前は確かにしっくりと馴染んだ。
     アダムが後方へ何か叫ぶ。慌ただしい足音がどこかへと去っていった。腰を支えていた片手が離れ、かわりに膝裏へと回される。
    『ランガくん。首に手を』
     拒否する理由も無かった。身体すべてが地面から離れさっきより強くなった浮遊感に思わず目の前の胸元へ顔を寄せれば、服越しにとくとくと心臓の音が鳴る。
    『それじゃあ行こうか』
     ――どこへ?
    『世界一安全な場所に』
     見上げれば恋人と名乗る男の微笑む顔がある。彼のことを俺は知らないしそれが本当か嘘かも解らない。
     記憶に頼れないのだから、何を信じるかは今の俺が見て聞いて冷静に選択しなければいけない、それなのに。
    『安心して』
     理由も根拠も言えないけれど――この声を俺は信じたい。
     心臓が一定の間隔で音を鳴らし、俺の意識をもう一度夜より暗い底へと連れていこうとする。
     眠っていてと男が囁いた。
    『次に目を開いた時、君はきっと楽園に居る』
     遠くの方で聞こえる風切り音。それに向かう男はきっと俺が重いのだろう、一歩一歩心底苦しそうに地面を踏みしめていく。わずかに揺れるたび暗さを増す視界のなか、小さな声が確かに聞こえた。
    『僕を許せ』
     眠るまでの数秒では、その意味までは辿り着けなかった。
     
     
     彼が来たときだけ、この家はコーヒーの香りになる。
     カップとグラスを持ってテーブルに戻れば何も言わなくとも椅子が引かれた。
    「慣れたものだね」
    「うん」
     この海辺での生活も、会話も。随分馴染んでいる。そう言えば愛抱夢が当たり前だと頷いた。
    「それは君。元々こういう暮らしだったから」
    「そうなの?」
    「ああ」
     改めてグラスに注いだ液体の中、もう一人の俺と目があった。何かを訴えるような表情にズキリと胸が痛む。
    「……ダメ。聞いても全然思い出せない」
    「出そうと思って出るものでもないさ。記憶なんて」
     この家で暮らしはじめてからそれなりに経った。まだ記憶は戻らない。
     とは言え、日常生活をおくるだけなら問題はなかった。意識すれば言語を使い分けることもできるし、こうしてコーヒーだって淹れられる。ただどうして使い分けられるのか、何で淹れられるのか、俺がどんな人間で何故あの場所に居たのか――そういった記憶だけがすっぽりと抜け落ちて、どこにも見当たらないだけで。
    「でも……」
    「焦らないで」
     鋭い声は俺の反論を潰してしまったけど、そう言われても身体にまとわりつく、この何もないままぽんと生まれてきてしまったような違和感は消えてくれないのだから焦るのだって止められそうにない。
    「君の不安は解る。解消するために記憶を求めていることも。けれど何度も話したように君のケースは本当に特殊で、そう簡単にはいかないんだ。何故なら」
     「いいかい」と前置きした愛抱夢が軽くカップを傾けてみせる。中身は一/三ほどまで減っていた。
    「これが今の君――消えなかった学習記憶に加え、再び構築されつつある記憶。それでも許容量に比べれば随分少ない。ではここに……そうだな」
     片手いっぱいにクリームを取り
    「前の記憶を戻してみるとしよう」
     次々に蓋を開け全てカップの中へ流していく。黒に近かった液体が茶色く、更にはみるみる薄まり最後にかき混ぜられてしまえばほとんど白い何かに変わった。
    「どうだろうランガくん――これは君だと言える?」
    「……わからない」
     彼は頷き「正解だ」カップの中身を回す。
    「今はたまたま僕の手だったが実際切欠なんていくらでも転がっているはずなんだ。問題は『戻った君』が対応できるかどうか。パニックくらいならいいけど……」
    「え、ちょ……」
     言葉を一度区切ると、止める間もなく液体を軽く飲み干して苦笑した。
    「うん。これはもうコーヒーじゃないね。かと言ってクリームとも呼べない、成りそこないだ」
    「……俺もそうなる?」
    「断言はしない。ただ……例え思い出せなくても記憶は魂と深く結び付いている物だ。一度塞がれたそれを無理矢理引き裂き中身を取り出したとして、君の魂は無事に混ざれるか――僕はそれを危惧している」
     テーブルについた肘に顎を乗せて、ずいと見つめてくる両目は力強い。彼の言葉は難しくていまいち解らないけれど、こんなに堂々と話すのだから自信があるということで、つまり正しいのだろう。
    「戻すなら自然に、だよ。強引に求めるなんて悪手この上ない、時を待ちなさい」
    「……」
    「ただ、それだけでもいけないとは僕も思う。いつ記憶の復活が始まっても対処できるようなるべく精神を安定させておかなくてはね。そのためにこの家を、君の宿り木を用意した。不満かい?」
    「……いや」
    「なら答えて。今の君にできるのは?」
    「ここで暮らしながら、記憶が戻るのを待つ……」
    「いい子だ」
     反論もできず言葉を無感情に唱えれば愛抱夢は満足そうに話を終えた。
    「ご褒美だ、楽しいことをしよう。サポーターを着けてきて」
    「もしかしてアレ?」
     首が縦に振られる。
    「楽しいかな……」
    「そのうち楽しくなるよ。それに」
     手を出された。彼は多分、俺が取ることを疑いもしていない。
    「僕が君としたいんだ。付き合ってくれるよね」
     どうしてか、彼の頼みを断れない度に深く安心する。
     記憶を失くす前の俺は彼の恋人だったそうだ。断れない理由がそれなら、今は見つからずとも確かに記憶は俺の中に残っているのだろうと実感できるから。
     
     両手をそっと離される。瞬間ぐらついた足元も重心をそれなりに整えればぴたりと治まった。何度乗っても不思議な板だと思う。
     右へ、左へ。手が鳴るのに合わせてせっせと身体を揺らす。
    「……タック、チック、タック、はいそこで右。旋回してこちらへ……うん、いいね」
     それなりに集中していたせいか少し上下する肩がぽんと叩かれた。
    「それじゃあ一昨日の続き、いこうか」
    「……」
     置かれた目印に合わせてしっかりと距離を開ける。万が一がありそうで恐いので、念入りに。
     軽く蹴ればボードが動き出す。腰を下げて深く息を吸い、
    「……っ!」
     吐く勢いに合わせて思い切り弾く。前側が持ち上がって反対に俺は、何故か後ろへ――。
    「うわ、あっ!?」
     地面に激突しかけた背中を彼の腕が、一人で進んだボードを彼の足が受け止めた。
    「……ありがとう」
    「どういたしまして」
     真っ直ぐ立たせた俺にボードを持たせて、一言。
    「全然駄目」
    「……はい」
    「いいかい。まず……」
     過剰に思うほど俺を気遣う愛抱夢は、どういうわけかこれに関してだけは絶対に妥協しない。笑みを絶やさずにじゃあもう一回ねと背中を押して、空が明るくなろうが練習を続ける。対応は親身だし付きっきりでそれこそ手取り足取り教えてくれるから、いい講師ではあるんだろうけど。
     「やってみない?」とピカピカのボードを渡されたとき断っておけばよかっただろうか。つい手を伸ばした原因であるあのとき感じた懐かしさは今は少しもない。
    「それらを踏まえてもう一度。はい」
     数度とんで助言を受ける。都度確実に成功が近づいている実感はあるけれど決め手にはなりそうになかった。
    「……後ろ足踵三ミリ……角度を五度、前は、ええとあと背中が……」
     言われたことを反復しながら指示通りあれやこれやを動かす。やらなければいけないことの多さに脳があたふた振り回されて、口から何か出そうだ。
    「ランガくん」
    「なに? 今は――」
    「考えるの止めてみようか」
    「はあ!?」
    「僕がはいって言ったら止めて。――はい」
     早い。
     手拍子に煽られて仕方なく思考を止める。派手に失敗しろってことなのかな――ああこれも考えか。やめる。
     挑戦してこけてを繰り返しているうちに、考えない分感覚が鋭敏になっていくことに気づいた。向かい風を強く感じれば、身体が勝手に動いてくれることも。
     何度目か数えるのをやめたころ。
    「……あれ」
     ほんの少しだけど、いつもより速いかも。そう思った瞬間、すっと感覚器官が何かを捉えた。
     即座に、目印近くで待つ彼から指示が飛ぶ。
    「今だ。跳んで」
     声に押されるかのように後ろ足が動いた。飛び上がる身体、その足に確かに付いてくる――。
    「……あ」
     叫ぶより早く両脇をさっと持ち抱えられる。
    「愛抱夢、俺、」
    「ああ。見ていたよ」
     宙に浮いた足をばたつかせる俺以上に愛抱夢は興奮した様子で、何度も腕を揺すった。
    「君ならできると信じてた」
    「……大げさだよ。簡単だって言ったの、愛抱夢だろ」
     だから挑戦することにしたし、退けなくなってしまったんだけど。
    「そう。君には簡単なことだと、僕は信じていたんだ。信じたかったと言うべきかな」
     どういう意味だろうか。
    「叶えてくれてありがとう」
    「いいよ。遅くなってごめん」
     それなりの期間練習していたけれど実際どれくらい経ってたんだろう。いちにと指を折る。
    「ええと、あなたが来る度練習してたから」
    「――日」
     計算するより早く彼が答えた。ほらやっぱり、そんなにかかっている。それなのに。
    「……何でそんなに嬉しそうなの?」
    「ふふ……」
     腕が下り足が地面へ戻る。背中を優しく叩く大きな手。
    「少し自信が湧いてね……僕でもいいのか、と……」
     沈みかけの月が彼の横顔を照らした。穏やかな目、うっとりと微笑む唇。
    「よくわかんないけど」
     きれいだ。
    「あなたが笑うのは嬉しいな……」
     もっと見たい。早足で回り込んで覗きこむ。あ、そうだ。
    「前の俺もこういうこと言った?」
    「……ゆっくり取り戻そうと話し合ったばかりだろう」
     残念なことに呆れ顔は遠くへ向いてしまった。
    「そうだね。どちらかと言えば逆だった」
    「逆」
    「ああ。君が嬉しそうだと僕も嬉しくて――だからよく尋ねたよ。嬉しいか、楽しいかと」
    「俺は?」
    「色々。頷いたり否定したり、怖がっているかと思えば笑ったり」
    「こわ……?」
    「いつの君も大抵最後には楽しいと言うから、僕は聞くのをやめられなかったんだ。……ああでも」
     かさついた声を海風が連れていく。伏せた目蓋の下、揺れる睫毛。
    「一度だけ君から尋ねられたことがある――愛抱夢、楽しい? そんな風に――頷けば、自分のことのように喜んでくれた」
     彼が俺の話をしてくれるなんて滅多にないのに、どうしてだろう。聞かなければよかったかも、なんて。
    「そうなんだ」
     打った相槌は奇妙なほど空っぽだった。
    「他には」
    「こら」
     額にこつんと衝撃。退いていく拳の先、彼の顔を見る。
    「欲張り……まあ、君らしいか」
     少し引っ掛かった。俺らしいって何だろう。
     悩む俺なんか少しも気にしないで彼はぱっと表情を変えた。何か思い付いたときの悪い笑顔だ。
    「そうそう、思い出したよ。君はこれでも喜んでいた」
     愛抱夢が左手をあげる。「とって」言われるまま掴めば、予備動作もなく片足を払われた。くらりと左にずれた身体、だが倒れない。右手一本で俺の全体重を支えた男は、そのまま次々指示を出す。
    「腕を持って。もっと上……そう。それじゃ――いこうか。君は右足からね」
    「……なに?」
    「心配ない。僕に身を任せて」
    「や、だから――」
     彼が前進する。一歩の力強さに身体を簡単に持っていかれた。ぐるん、ぐるんと視界が回る。これって。
    「へー……」
     俺踊ったりするの好きなんだ。一切覚えがない。
     当然足だっておぼつかない。小走りで着いていけば、横からたしなめるような声。
    「もっと動きを大きく」
    「えぇ」
     無茶振りだ。でも。
    「ほんとに喜んでた?」
    「ああ、笑っていたよ」
    「……っ、なら」
     跳び跳ねるような一切優雅でないステップも、彼は気に入ったらしい。静かな夜に鼻歌が反響する。
     散々動いた身体が体力の無さに嘆くけど、もう少しだけ許してと願った。本当の俺にこれで近づけるかもしれないから。
     ――そう、だから頑張って。
     だから、ものすごくビックリした。
    「……つまり、実際には踊ってない?」
    「そう決めつける無粋な輩も居るだろうね。だが僕にとってはあれこそがダンス、魂の交歓だ」
    「…………」
     立つのもやっとの身体が無言で抗議する。もう言い訳もなかった。ごめん。
     
     
     
     玄関の開く音に恐る恐る階下を覗くと、見知った人影が荷物を運びこむところだった。床板がぎしりと鳴き、人影が振り返る。暗くなりつつある室内では翻る金髪がよく目立った。
    「……おはようございます」
     薄い色付きレンズ越しの目は相変わらず冷えきっている。これが彼の当たり前なのだと、解っていてもまだ慣れない。
    「お、おはようございます。愛抱夢は……」
    「後程来られるかと」
    「時々ありますよね、たとえば」
     あなたと初めて会った時。そう言おうとして、甦った当時の記憶に口をふさぐ。しまった、これは俺から出す話題じゃなかった。
    「……あの時は」
     すみませんと頭を下げる。対して彼の反応は薄い。
    「いえ。説明もなく入ったこちらが軽率でした」
     初めて会った時も彼はこんな風に荷物を持って、無表情で立っていた。いつの間にか家に居た知らない人。それはもう謝ったものだ。お金はありませんと繰り返す俺を、後から来た愛抱夢は散々からかったし、彼は「怖がらせるな」と理不尽に怒られていたっけ。早とちりした俺が悪いのに。
    「手伝います」
    「結構です。それより体調はいかがでしょうか。問題ないようであれば済ませてしまいたい用件が」
    「大丈夫です、たぶん」
    「では朝食後にでも。何か作りましょうか、空腹の度合いは?」
    「あ、えっと……」
     戦いの予兆に胃がくるるるとやる気をみせる。
    「かしこまりました」
     ――出来立てのそれは、口に含めばふんわり、歯を立てればさくっと、それでいてしっとりしていて。
    「……これ、間違いなく俺の夢だったと思う……覚えてないけど、絶対」
    「ありがとうございます」
     おかわりもありますよと差し出された皿の上、同サイズのパンケーキにいつになく心が踊る。胃もまだまだ行けるとばかりに小さく鳴いた。
    「食べます!」
    「どうぞ」
     瓶から多めにかけてもらえるシロップがまた美味しい。パッケージが無いからもしかして手作りなのだろうか。今もシロップが次々ケーキへとろとろ。それはもうとろとろと、止まることなく。
    「……申し訳ありません」
    「ううん。大丈夫……」
     最早シロップ漬けみたいになってるけどこれはこれで食べられる。
    「でもどうしたの?」
    「……少々思い出に耽ってしまいました」
    「わかった。愛抱夢のことだ」
    「はい」
     深くうなずいた彼は変わらず無表情。けれどよくよく見れば、レンズで隠れた目が多少輝いている、気がする。
    「昔の話ですが……絵本を指差して『これが食べたい』『これ以外食べない』と。家中の人間があちこち走り回りましたが、子供の体躯の数倍あるフライパンなんて簡単には見つからず。迎えた翌朝、仕方なく今くらいの大きさの物をお出しするとあの方が」
     ふむふむと身を乗り出した途端、彼の口がぱたんと閉じる。
    「……話しすぎました。忘れて下さい」
    「……」
    「部屋の掃除をしてきます。ごゆっくり。ですがあまり食べすぎないように、最悪じっと座っていられる程度でお願いします」
     言い残してあっさり階段を上がっていってしまった。二階に部屋は二つ、俺の部屋と俺のではない部屋。彼が来るたび掃除するのはではない方の部屋で、ごくごくたまに愛抱夢が泊まっていく。
     染み染みになったパンケーキは口内に運べばじゅんわりとほどけた。強い甘味がきいたのか、思いの外少量で胃は満足したらしい。ごちそうさまでしたと手を合わせれば「お粗末様でした」と降りてくる声。
     戻ってきた彼は両腕いっぱいに大きな布やシート、そして小さなハサミを持っていた。
    「申し訳ありません、今手が塞がっているのでシンクにでも」
     いや流石に。
     蛇口を捻る。何か言いたげな視線から目を逸らして、皿を取った。
     彼はここに留まる間徹底して俺に何かをさせようとしない。すごく快適ではあるけれど、慣れたらまずいのもすごく感じるから困る。
     自分から愛抱夢に言うから叱られないよと言えば、
    「叱られるからするのではなく、私があの方のためになる事をしたいので。つまり趣味ですね」
     おそらく彼に「命令」を下した相手と別方向に、同じくらい厄介だった。
    「ランガ様」
    「様って付けるのやめてほしいです。呼び捨てでいいのに」
    「あなたを気軽に呼べる方はただ一人、愛之介様しかあり得ません」
    「あいのすけさま……」
     誰だっけ。
    「あ、愛抱夢か」
    「まだ間がありますか」
    「……ごめんなさい」
    「いえ。いつかはどちらでも呼べるようにして頂きたいとは思いますが。両方ともあの方の大切な名前なので」
     愛抱夢にはもう一つ名前があるらしい。たまたま俺の目の前で彼が愛抱夢をその名で呼んだ日、初めて俺はそれを説明された。
    「バレた以上仕方ない、君の好きに呼ぶと良い」
     そうは言いつつ不本意だったのか、愛抱夢はものすごく機嫌が悪くなって原因に向けて何度も悪態を付いた。「この犬」「馬鹿犬」。
     だからそこで知った呼び名は二つ。愛抱夢は愛之介。彼は。
    「犬さんは、犬さんが本名?」
    「当然違います」
     そんな顔するくらいなら他の名前を教えてほしい。
    「……ですが名前がその人間自身を表すのなら。ええ。私の真の名は犬であると言えますね」
     拭き終わった皿を戻す俺を犬さんが手招きする。いつの間にか敷いたシートの上、椅子を引いて。
    「犬らしく命令をこなすとしましょう。どうぞ」
     言われたまま座って布を被せられたりとなすがままぼんやり受け入れるうちに
    「動かないで下さい」
     背後でショキ、と音がした。
     音は続く。合わせて軽く引かれる髪。なるほど、用件とはこれだったのか。そんなに伸びているとは思っていなかったが、目を閉じひたすらに待つことにした。
     しかし。
    「……長くないですか?」
     もう大分じっとしてる気がする。
    「すみません。素人なもので」
     我慢できず横に伸びてきた手へ視線だけ向ければ、確かに若干震えている。まさかのハサミごと。危ない。
     次に下を見ると、
    「あれ」
     こんなに長い時間切っているのに、散らばる髪はごくごくわずかだ。何でと尋ねる前に答えが降ってきた。
    「毛先だけ、荒れている分を整えているだけです。それ以上は絶対に切りません」
    「それは、愛抱夢が?」
     言ってから当たり前かと気付く。この人が愛抱夢、じゃなくて愛之介の指示以外で動くわけない。
    「愛之介様はあなたの髪を気に入られています。減らす分量は少なければ少ないほどいいと」
    「そうですか……」
     鏡に、視界に映る髪を俺は普通だと思っているので、そう言われても不思議な気持ちになってしまう。
    「どこがいいんだろう」
    「色などよく褒めていますよ。汚れのない美しさが理想的なのだとか」
    「犬さんのだってきれいな金色なのに」
    「いやこれは……いえ、はい。どうも」
     会話が終わり時間は緩やかに流れ出す。しんとした部屋に一定のリズムで鳴る鋏の音。これは、少し良くない。
    「犬さん」
    「はい」
    「寝ます」
    「……駄目です」
     また嫌な顔をしているのかもしれないが、このままだと眠りは避けられなそうだった。
    「気をまぎらわせましょう。面白い話はできませんが……」
    「愛抱夢の話は?」
    「……そういえば」
     言ってみるものだ。
    「幼い頃、前髪が目に入るのが気に入らないからとご自分で切ってしまったことがありました。あの時も大変な騒ぎでしたね、お世話係なんか卒倒して」
     いつ会っても一切感情の入らない声は、愛抱夢のことを話すときだけわずかに波打つ。ついせがんでしまうくらいには心地良い。
    「……けれど本人は、うまくできたと誇らしげでした。わざわざ使用人全員に見せに来て下さって」
    「へえ……写真とかありますか」
    「はい。次の日の誕生会で撮影したものが」
    「……誰の?」
    「……御家族のとだけ」
     ふっと彼が小さく、小さく笑った。
    「とてもいい写真ですよ。短い前髪が、あの方の笑顔を隠さないでくれたので」
    「ちなみに短いって」
    「これくらい」
    「ふふふっ」
     本当に短い。けどあの人なら子供の時でもそれくらいしそう。「短いのがいい」と思えば限界まで短くする人っぽい。
    「かわいい」
    「はい。可愛らしいことです」
    「――――何が?」
    「わあッ!?」
    「……っ!」
    「……二人して何だその反応は」
     玄関扉が開いている。覗く顔は。
    「お早うございます愛之介様……ランガ様、動かないで下さい」
    「ごめんなさい! 愛抱夢おはよう」
    「はい、おはよう」
     入ってきた愛抱夢は即視界から消えた。その分背後に人の気配が増える。
    「ふうん」
     後頭部にチクチク刺さる視線が少し落ち着かない。
    「お前ここ切りすぎてないか」
    「ああ確かに……」
    「えっ」
    「問題ありませんランガ様。極一部、先程かすった部分だけです」
    「本当?」
    「でなきゃ僕が叱ってる、だろ?」
     何かが髪をすくう。
    「それ以外は悪くない。不純物が取り除かれてより一層輝いているよ」
     髪を越え、あたたかい空気のようなものが首にかかった。ちらりと見れば髪をぱらぱらと落とす指先。随分近い。
    「君と僕に相応しい月の色だ」
     彼から褒められるとそわそわする。言葉選びがある意味で何やらすごいからだろうか。それとも彼と俺の関係のせいだろうか。いつもこんな気持ちになってたなら大変だと思うけど。
    「終わりました」
    「ありがとうございます……」
     例の後ろ髪が気になる。何度もさすって確認してもよくわからない。悩んでいると、
    「確かに切りすぎましたが、短いと言うほどでも」
     小声で伝えた犬さんは合図のように自身の前髪を叩く。先ほどの可愛い会話、可愛いあの人を思い出して少しだけ笑い合って、しかしどうも本人にとってそれはいけなかったらしい。頬に突然指先が伸び、
    「……いひゃ」
     みよんと強く摘ままれた。
    「あぁむ、いひゃぃ」
    「僕に解らない会話をしないで」
     指の主は不満も露骨に頬をぐにぐに翻弄する。見ればもう片方の手は反対側へ、もう一人の頬を恐ろしいほど歪ませていた。
    「犬と何があった? 正直に話してごらん」
     近づく細められた目の上では眉がきゅっと寄っている。これが吊り上がるかどうかは俺の返答次第。必死に考えて、なるべく笑顔で答えた。
    「パンケーキ作ってもらった」
     嘘は付いていない。
    「パンケーキ?」
     愛抱夢の目がくんと丸くなる。
    「お前それは……危ないだろう」
    「あ……申し訳ありません。ですが表記等は全て外してありますし」
     ちらりと目線が。何かフォローできるだろうか。ええと。
    「美味しかったよ。愛抱夢も食べよう」
    「この調子なので」
     何で愛抱夢までこっちを向くのか、どうして半目なのかわからない。
    「怯えるのが馬鹿馬鹿しくなってくるな。……僕の分は?」
    「用意済みの生地が冷蔵庫に」
    「すぐに焼け」
    「はい――」
     キッチンへ向かおうとした襟元を愛抱夢の手が容赦なく引っ張った。
    「待て、そこの空腹くんにもだ。理解できたら行ってよし」
     解放された犬さんが小さくうめきながらも走り出す。どことなく後ろ姿が嬉しそうだ。今度は表面カリカリだといいな。
    「何でわかったの?」
    「わかるよ。君のことなら」
     愛抱夢が短くウィンクして「ウソ」と刻むように笑った。指先がつんと頬をつつく。
    「お腹空いたなあって顔が言ってる」
    「か、鏡見てくる、うぐ」
    「いやだ。行かないで。まだ見足りない」
     頬をつまむ指が離してくれない。首をギュッと引っ張られないだけマシだろうか。
    「こっちを向いて…………ん?」
     指どころか掌まで使って好き放題していた彼が何かに気づく。まずい。
    「肌も気になるな。君、海に入ったらすぐシャワーを浴びるようにって約束守ってる?」
    「…………」
    「ケアは怠らない。はい復唱」
     おこたらないと回らない口で続ければ、熱心な指導をふいにされたショックか、がくりと肩を落とした。
    「それで髪があんなに荒れてたのか……まったく……」
    「ごぇん」
    「……次はないからね」
    「でも、俺の身体なんだから気にしなくていいと思う。俺も文句とか言うつもりないし」
     手が離れたのをいいことに反論してみれば、馬鹿らしいとばかりに唇を曲げる。
    「君が何を言おうが言うまいが関係ない。僕が君の美しさを保ちたいだけ」
    「……趣味?」
    「ああ。そうだね。僕の趣味はランガくん、君なんだ」
     愛抱夢が数度首を振った。
    「悪くない発想だが僕は教えていない……どこからかな」
    「犬さんが前に同じようなこと言ってたなあって」
    「は?」
     表情がぴきりと崩れる。
    「君に、アイツが?」
     頷いて――しまった、この言い方だと致命的な誤解が発生する。というか、した。既に目の前には人間らしくない顔が。
    「いや愛抱夢」
    「ワンとクーン以外言えなくしてやる……! おい――」
    「はい、もう少々お待ち下さい。これで完成です」
     横を向いた愛抱夢が動作を止める。何だとキッチンを見ると。
    「おぉ……」
    「…………馬鹿」
    「……? どうかなさいましたか」
     ろくな言葉を出せない俺達へ犬さんは不思議そうに瞬きして、手元の十段はあるだろうカラフルなパンケーキタワーのてっぺんにプレートを乗せた。
     
     
     
     彼がいない家で過ごす時間は、正直暇だ。
     やらなければいけないことなんて精々彼から言われていることくらい。トレーニング、ストレッチ、あとアレの練習。それらと少ない家事を終わらせれば全部自由時間になる。
     「君が安らげるように」――それが本心であることを証明するように、愛抱夢は言葉を様々な形に変えて家に増やした。例えばひたすらそれを見ながら明るくなるのを待つような映像作品。普段は聴かない、彼が手ずから準備してくれるレコード。それから家より更に海に近い小屋や、クレーターみたいなアレの練習場所も。これに関しては俺より彼の希望だと思うけど。
     何をしたっていいけれど特にしたいこともない。そういう時は階段を上るか、部屋から出て階段に向かう。階段の前、窓とは別の壁一面を覆う本棚に。
     ずらりと並ぶ本はここに来て数日で運び込まれたもので、好きにしていいと言われたからその日から何日もかけて殆ど全てに目を通した。まあ、読んだと言うにはほど遠いけど。
     一冊適当に選ぶ。取るときは慎重に、読むなら膝に乗せて。それくらいには重い。古そうな表紙の先ではどうすればここまで美しいものをと思うほどの絵が待ちかまえていた。数ページめくり、ひとつ息を吐く。よく解らなくても圧倒されるほどすごい絵。読んだ人みんな、絵しかなくても満足だと言うだろう。
     そう。並ぶ彼らは写真に絵に楽譜とあれこれあるが全員に共通して言えることがあった。
     文字がない。
     急いで目を通したのもこれに驚いたからだ。どれを開いても何語も存在しない。思わず躍起になって文字を探して、けれどいくつかの本の最終ページが不自然に無くなっているのを見てああそういうものかとやっと諦めがついた。
     だから何も疑問には思わなかった。言葉のない映像も、演奏だけの音楽も。
    「何を読んでるのかな」
     表紙を見せると階下の男が「それか」と頷く。
    「ねえ、これ最後が無いんだ」
    「それは前半が見所だから無くても大丈夫」
     それより、と彼が手招きする。やわらかい紫の覆う世界へ強制的に連れ出された。
    「日中は外に出ないとね」
     冗談なのか本気なのか今の俺には判断がつかない。こういう時、早く記憶が戻ってきたら良いのになと思う。けれどそう思ってどうにかなるものでも無いので、仕方なしに頭を働かせた、使える物は全部使う。と言っても少ないものだ。直感と、残っている常識その他。それに加えてここに来てからの少しの記憶。それと。
    「おや、不満気」
     この男の言葉。
    「日中って」
    「合っているよ。この薄暗がりが君の昼間だ」
     こんなにハッキリ言いきられてしまうと、疑うのが間違いみたいだ。
    「君の太陽もすぐ昇る。たっぷり浴びるといい」
    「……もし昼間なら、太陽はもう出てる」
    「細かいことはいいんだよ、それとも」
     つんと上を向いた顔から鋭利な眼差しが向けられる。少しだけ怖かった。
    「僕の言葉を信じられない?」
     あまりに優しくない、なけなしの反論だと解っていて何でそこまで言えるんだ。
    「そんなことない」
    「ならいいだろう――はい」
     目の前に愛抱夢の手。意図を考える間に彼は顔をみるみる沈ませていく。
    「な、何」
    「……繋がないの」
     そういう時は誘ってほしい。慌てて掴む。表情は戻らない。
    「繋ぐよ」
    「遅かった」
    「それはだって、あなた今までは好きに繋いできただろう」
    「僕からでないと嫌ってこと」
    「そうじゃない、ええと……待って」
    「ああ」
     随分と刺々しい言い方をしてくるけど、実際のところこういう時の彼は決して機嫌が悪くないどころか良いまであった。
     これは言ってしまうとただの遊びだ。言わせる遊び。
     愛抱夢という男は、今の俺の使える物が俺自身を除けば彼だけなのだと――つまり俺には彼が必要だとそれはもう、よく知っている。それでわざとこんな言い方をするのだ。どうしたって揺らがない答えを、俺の口から示させたいらしい。
    「だから、好きに繋いでいいよってこと」
    「どうして」
    「……嫌じゃないし、あなたには色々お世話になってるし。……恋人だったんだし」
     それに負い目もあるし――当然言えない続きは心の中で呟いた。
     愛抱夢は返事を返さない。ただ俺の、彼の手を掴む指を、もう片方の手でするするとほぐしていく。開いた手は、今度は彼から繋がれた。ぺとりと張り付く掌、肌と肌とはそうなるものだと何度も触れあい知ってなお焦る。
     そのまま歩き出した。満足したのだろう。
     答えは全部本当だ。
     嫌じゃない。何もかも助けられている。以前の自分達は恋人だった。
     恋人――だったのだ。それはつまり、俺が彼を好きだったということだ。けれど、今――例えば繋がれた手を離さないで黙って着いていくこと。汗をかいていませんようにと願う感情。
     こういうのって、好きだからなのかな。
     俺は愛抱夢をどう愛していたんだろう。そしてそれは、今の俺にどれくらい理解できるだろうか。
     後ろ姿が言う。
    「僕らは恋人だよ。いつだって」
     信じられる物は少ない。見たもの。聞いたもの。彼に見せられた物。彼に聞かせられた言葉。
     ――そういえばこれもそうだ。彼が教えた物。身に付いたこれは信じられる気がすると、空に身を滑らせながら思った。
     地面に戻ったボードが揺れる。意識より速く足が押さえた。
    「……ふ、」
     安心と僅かな達成感で吐いた息が、風に絡め取られて去っていく。未だ緊張の絶えない彼の言うところの遊びも、この時だけは少し楽に感じられた。
     勢いのまま端に上がると、待っていたとばかりに男が手を叩いてくる。
    「いいね」
    「そう? さっき言われたタイミング、直せなかった気がする」
    「気付けるのは成長の証だよ。それに僕がいいと言ったのは、こっち」
     顎を軽く持つ手。上げられた目線。愛抱夢がくしゃりと顔を歪ませた。
     知らない笑顔だった。いつも浮かべている整いきったそれと比べるとずっと歪で、たまたま出ただけ、という感じの笑み。なのにどうしてだろう。
     ずっときれいだ。
    「……残念。もう消えてしまった」
    「――――どんな」
     心臓が脈打つ。吸った息がやけに熱い。
    「俺、どんな顔してたの、ねえ」
    「……ランガくん?」
    「教えて」
     彼の手に沿うように顔を傾けて目を合わせた。彼の目に映る俺は、なんて情けない。
    「どういう顔すればいい、教えてくれれば、俺」
     それでも言葉を止められなかった。愛抱夢のせいだ。彼の、あの笑顔が俺の心を離してくれないから。だから、それが見れるなら何だって。
    「あなたにもう一度、見せてあげたいのに」
    「……健気なことを言う。可愛いね」
     解りやすい褒め言葉は、はぐらかしにしか聞こえなくて頬が熱くなる。
    「今はそういうのいいから」
    「そういうのって? まさか、本心だ」
     顎の手が動き指先が頬をさすった。あやすような冷たさがじわりと染みて嫌だ、落ち着かされてしまう。
    「大丈夫」
     そんな言葉が欲しいわけじゃない。
    「君は優しい子だと知っていた。すまない」
     けれど謝られても困る。
     納得のいかない頭でも、これ以上せがむことはできないと解った。ここで押して、もし彼を困らせでもしたら、ますます俺は困ってしまうだろうから。
     だから代わりにひとつだけ。
    「あのさ、愛抱夢は――」
    「気分を変えよう」
     問いはあっさりと遮られた。
     強く腕を引かれる。二三歩よろけた先にはさっきまで滑ってた半円の谷。
    「ぁ――――」
     落ちる。
     覚悟した身体は――次の瞬間勢いよく振り回された。半回転ほどして、確実に宙を越えた足が地面に着く。ほぼ反射で男の袖を握りしめた。
    「あ、あぶなぁ……!?」
     恐ろしい。冷たい指先なんか比べ物にならないくらい身体が冷えた。
     さっきと正反対の理由でバクつく心臓が、跳ねる。愛抱夢が再び腕を引いたのだ。躊躇することもできずに足が進みだした。
     愛抱夢の狙いはあからさまだった。淵に沿い、踊る。浮いたかと思えば地面、そしてまた宙へ。円は大きく、俺の身体全てを振り回す動きに変わっていく。同時に足が浮く時間も増して、それこそ一歩間違えれば。
    「おちる、おちるって」
    「なに、落ちたって平気さ。うまくいけば打ち身くらいで済む」
     どうして知ってるんだ。
    「うまくいかなかったら?」
    「一、二本ってところかな」
    「…………」
    「はは、そんなに怯えなくていいのに。よっぽど強く押した時の話だよ――例えば」
     片側の手が離れた。どうしてと思う間もなく、ひときわ強い遠心力が身体を襲う。俺の足と彼の手一本ずつが保つ危ういバランス。そこに不穏な影が迫っていた。
     戻ってくる片手の目標はぶらりと下がった手ではなく
     どう見ても手から繋がる肩口。押されれば簡単に、足だって。
    「――――ひ」
     手がギリギリまで近づいて――止まった。上下する胸元を掴みグイと引き上げる、男の顔は笑っている。
    「こんな感じでね。どうかな」
     くるりと方向が変わった。逆向き。また回る。彼の気まぐれに心臓を握られる。
     密着して不規則に揺れるかと思えば離された。代わりのように取られる足。のけぞる背中。縋るように勝手に身体が伸ばした手を、掴むのもやっぱり彼だけしかいなかった。
    「こわい?」
    「こわいよ……当たり前だろ……!」
    「それじゃあまだ駄目だ」
    「駄目って」
    「君には早い。何もかも」
     何を。こんなの誰だって怖いはずだ。
     いや――まさか。
    「――こわくなかったの?」
    「……まずは身体を慣らすといい。手伝ってあげる」
     宙を舞う、舞う――。
    「怯えずに恐怖の内をよく覗いて。そこにはもっと素敵なものがあるはずだから。……大丈夫、存分に浸りなさい。僕は君を落とさない」
     どうしてそう言えるの。
    「落とせやしないんだよ。君が君である限り」
     ――なら落とせるじゃないか。
     幾度も足が重力と切り離される。その度俺はどうしても怖いと思った。
     
     二人家に戻ってしばらく。居なくなる様子の無い愛抱夢に帰らないのかと聞いたところ、長身がよろりと崩れ落ちた。しまったなと後悔しつつ近づけば、しっかりと背けられた顔から「ひどい」とわざとらしく震えた声を投げつけられた。雑だ。
    「君が望むなら今すぐ帰ろう……」
    「望んでないよ」
     三度目ともなると納得がいく、たぶん今日の彼はこういう気分なんだ。ぽんぽん背中を優しく叩き続ければ、無い尻尾が揺れたように見えた。
    「珍しいね。いつもはすぐ帰る」
    「ああ。明日は仮眠の時間が確保できそうだから今日は心行くまで君と過ごそうかなと」
    「……仮眠?」
     手を止める。何でと言いたげな目がこちらを向いた。違っていたらすぐ再開するから、一言聞かせてほしい。
    「あなたってもしかして"普通"に生活してる?」
    「それは、もちろん」
    「……寝よう。愛抱夢」
     こんなことしてる場合じゃない。
    「ベッド行かなきゃ。犬さんがキレイにしてたからすぐ寝られるよ」
     脇に腕を回して立ち上がらせようとした。できない。
    「……愛抱夢」
    「眠くない」
    「横になったら眠くなる……!」
     肩を掴んでも持ち上がらない。座ってやってみたら勢いでこっちが転がった。どういう仕組みだろう。ものすごく重いわけでもないのに、本当にびくともしない。
    「……わからないな」
     石のような男が溜め息を吐く。
    「折角僕と居られるんだよ? 嬉しがるならともかく、寝かそうとするか」
    「……」
     何だか気が抜けてしまった。力を抜いて、広い背中にもたれる。
    「寝たほうがいいと思う」
    「僕はそうは思わない」
    「どうして?」
    「明日仮眠はとるし、今は眠くないし、君と居たくてここに来てる。放って眠るなんて考えられない」
    「それなら」
     こうすれば良いんじゃないか。
    「俺も一緒に寝る」
     長い沈黙のあと、「君の時間がずれる」と返ってきた。
    「眠るわけじゃない。あなたも今は眠れないんだろ」
    「なのにベッドには入れって?」
    「眠くなるかも。場所って大事だし」
    「……椅子で寝る子に言われても説得力が無いな」
     背中がずるりと後ろに倒れた。視界には天井と、階段へ向かう彼。慌てて起き上がる。
    「行く?」
    「意地を張るのも馬鹿らしいしね」
     棚の前を通った男の腕には数冊の本が収められていた。
    「椅子のこと、何で知ってたの」
    「見てたから」
    「ああ窓か…………あれ」
     悠々と歩く背中が入って行ったのは何故か俺の部屋。扉からひらりと手だけ覗き、招く。
    「……絶対狭いよ」
     案の定狭かった。
    「もっとこちらに来て構わないのに」
     かなりキツいけど半分は貰っているから我慢。
     彼だって条件は同じはずなのに、どうしてそんなにくつろげるんだろう。うつ伏せで本を開くスペースの余裕の作り方、教えてほしい。
     ページをめくる指先をぼんやり眺める。丁寧に捲ったかと思えば数十ページ跳ばしたりする不規則な動きは、好きなところだけ見ているからだと思う。つまりそういうことができる程度には彼は手元の本を読み込んでいるのだ。
    「それもだけど、並んでる本って全部愛抱夢の?」
    「ああ」
    「絵だけのが好き?」
     本当は、文字がない方が好きかと聞きたかった。
    「まあ好みかな。余計な情報が無い」
     情報って。
    「何か言いたそうだね」
     顔を本に向けたまま愛抱夢が続ける。
    「けれど君はそれを口に出さないだろう。言葉を無作為に放つ危険性を無意識に感じ取っているから。僕のこれも似たような物。君は意識外でアウトプットを、僕は意識的にインプットを避けている」
    「はあ」
     よくわからない。
    「愛抱夢って色々考えてるんだね……」
    「侮っていないだけ」
    「言葉を?」
    「そう。人間と、人間の生み出す物を」
     俺の心中を見透かすように「大袈裟ではないさ」と愛抱夢が言った。
    「人間の持ち得る知性の中でも想像力と言語化は飛び抜けて厄介だよ。実証してみせようか」
     愛抱夢が横寝に切り替えた。真向かいの顔が楽しそうに緩んでいる。
    「君を抱きしめながら本の続きを読みたい。ではどうしたらいいか、どんな言葉なら君を誘い出せるか。想像して――言葉にする」
     彼の手が数度傍らを叩いた。
    「おいで」
    「……」
     素直に身体を近づけると「もっと」と抱き込まれる。耳のすぐ上をくすくすと笑い声が通っていった。
    「ほら、厄介だろ? 君なんて容易く動かせてしまう」
     そう言って、彼は再びページを捲り出す。
     勝利の笑みにも、自分の思い通り行くのは当たり前だと言わんばかりの声にも文句はないけど、勘違いはどうすればいいだろう。別に普通に言われたって同じ事をしたと思う。彼が望んだならそうしたはずだ。そう思うのに、伝え方が解らなかった。
    「まあ、確かに」
     おざなりな返しに気づいたのかどうか。声は機嫌良く話し続ける。
    「行動だけじゃない、感情だって。気づかせないまま誘導したり……痛いところを突くなんてこともできる。あれは本当に効くんだ」
    「されたことあるのか」
    「すごかったよ。涙が出るほど恥ずかしくて、死ぬほど腹が立って、情けないほど相手を憎んで――けれど、ね」
     深いため息。ちらりと様子を確認して密かに息を飲んだ。夢見るような愛抱夢の表情。声に相応しい軽く赤らんだ頬は、眠気だけのせいではない、きっと。
    「そのあと、たまらなくなってしまった」
     相槌すら打てなかった。
     ずるい。
     この男にこんな顔させるなんて。一体どこの誰なのだろうか。
     悶々とする俺なんか見えないように愛抱夢が肩を寄せる。
     いつの間にか本が変わっていた。写実的に描かれた海辺は驚くほど窓越しの現実と似ている。きっと外もこうなるのだろうと想像できる明るく照らされた景色はページを捲る度暗く馴染み深い色に染まっていき、やがて人影も現れた。人影は手に持った棒状の何かを海に投げ込んでいく。
    「この人何してるんだろう」
    「メッセージ入りの瓶を流してる。そういう連絡方法があるんだ」
    「へえ。届くのかな」
    「非常時の手段だったらしいけど、まあ暢気な時代の話だしね……未だに使ってる奴らだって最初から届くなんて思ってないさ」
    「ならどうしてするの?」
    「目的が違うから」
     仰向けになる彼と一緒になって回転する。勢いのあまり乗りかけた身体を慌てて左右の手で突っ張れば、丁度覆い被さる形になってしまった。
     重力に下がる髪を彼の指先が遊ぶ。
    「初めから誰にも届いてほしくないんだよ。でも誰かには知ってほしい。だから海に流す――」
    「……よくわかんない」
    「君にも秘密ができれば解る」
    「秘密」
     記憶もないのに。
    「できたら流すといい。僕にバレないよう、こっそりとね」
    「……あなたに隠すようなことなんてなにもないよ」
     真下の彼がうっすら笑った。
    「嬉しいけど……どうだろう、君はそのうち――」
     何か言いかけた口が、くぁと開く。
    「……ぁ、ふ……」
    「!」
     欠伸。顔に出てしまったらしい、俺の方を見た愛抱夢が気恥ずかしそうに眉を歪ませた。
    「……電気を消しても?」
     こくこくと首を振りスイッチを押す。
    「まさか本当に眠くなるとは……」
    「目もとじて」
    「……ん」
     暗い部屋でも彼の目はよく見えた。それが隠されるところも。
    「眠気が来たから寝るなんて、久しぶりだな……」
    「いつもどうしてるの?」
    「別に……普通だよ。移動時間なんかを当てて……」
     詳しいわけではないけど中々酷い話に聞こえる。
    「……たまに犬さんだけ先に来てるのって」
    「僕自身が気にくわない顔で君に会うのはおかしいだろう……」
     疲れて、隠してたのか。
    「知らなかった」
    「知らなくて良いんだよ」
    「そんな、」
     そんなはずはない。どんなことだって、知らなくていいわけはないだろう、絶対に――そう言おうとして、言えなかった。疑問が生まれたから。
     ならどうして俺は今までこんなことすら知らなかったのか。
     答えは当然、聞かなかったからだ。俺の方から彼に関わろうとしないで、ただ与えられた物だけを貰って満足していたから。他の事だってそうかもしれない。自分から動いて手にした知識が、記憶が、今の俺にひとつでもあるだろうか。
     ――俺は何も知らなくて、知ろうともしていなかった。今日一日ずっと思い知らされている事実が脳の中で激しく揺れて、呼吸がしづらい。
    「苦しそうだ……」
     眠りに落ちかけた瞳がゆらゆら揺れて、俺を苦しそうだと言う彼の方が、よほど何かを堪えているように見える。
    「僕にできることはあるかな……?」
     問いかけてくる響きは何もかも許してくれそうだ。そのままで良いと願っても彼はきっと叶えてくれるだろう。
     俺が彼の恋人だったから。
     けれど今の俺は、彼にとっても大切だったはずの記憶が無く、それどころか自分が何も知らないこともたった今気づいたばかり。優しくされても助けてもらっても当たり前みたいに思うだけだった。恋人だったんだからいいのか、なんて。記憶もないのに。
     彼のことを信じると決めた。けれど信じるってこんな、一人にだけ都合のいい形で良いんだろうか。
     俺は嫌だ。
    「記憶を取り戻す。協力して欲しい」
     息を詰める音がした。
    「わかってる。無理はしない。少しずつにする」
     背中の腕が固くなっている。けれど緊張は俺も同じだ。
    「でもこのままじゃ、駄目だから」
     何を話せば良いのか解らないし、うまい表現も出てこない。それでも、記憶がないから仕方ない、そんな言葉だけは使いたくなくて、必死で道を探した。
    「……知りたいんだ、あなたと、俺を」
     拙くても、あやふやな思いでも言葉にする。届かせるために。
    「あなたを知るたび俺の中に何かが生まれる。それを追っていけば、俺は俺に近づける気がする……んだけど……?」
     返事を待つ。間がやけに長く、そういえば反応も無い。向かいの顔を見ればはっきりと理由が書いてあった。
    「……」
     形の良い額に前髪が落ちている。先ほどの彼の力加減を真似して丁寧に払えば、気持ち良さそうな寝顔が見れた。起こさないようにそっと呟く。
    「沢山教えて。あなたのことも、あなたの俺のことも――」
     名前を呼ぼうとして、ふと好奇心がうずいた。そういえばまだこれは試したことがない。やってみよう。
    「愛抱夢、愛之介……えっ? 」
     呼ぶなり愛抱夢の目がパチッと開き。
     驚く俺から隠すように、わずかに赤くなった頬を枕へ押し付けた彼は、何とも言えない声で訴えた。
    「すぐ寝るよ。続きは起きてからにして――目が冴えてしまう」
     
     それから彼はすぐに眠り、俺はといえば、彼の力の抜けた目元を見ているか枕元の本をこそこそと読んでいた。紙に広がる海を手紙入りの瓶はゆらゆらと何処までも進んでいく。やがて誰かに届くだろう、そう予感させるきれいな終わりかただった。
     珍しく残っていたラストページ。晴れ渡る空、明るい海。
     いいな。
     いつか彼と見たい。記憶が戻ったらお願いしてみよう。ああでも、俺はずっとこの生活をしてるんだから結局徹夜でもしなければ見れないことに変わりはないのか。
    「……」
     隠すようなことは何もない。知らないから。
     むしろ、隠しているのは――
     考えが嫌な方向に行きかけた。深呼吸で止める。
     言葉を放つ危険性。確かにその通りだ。探るように昼間の定義に逆らってみたところで、本当に知りたいことは何一つ問えなかった。どうしてそんな生活を俺がしていたのか。いや、そもそも。
     ――そんな生活を、本当にしていたのか。
     おかしな寒気に腕をさする。大丈夫、これから知り、記憶さえ取り戻せば理由も自然に思い出すはずだ。今はまだそれができないから不安になるだけ。そうに決まってる。
     急がなくては。彼から多くの話を聞いて、彼を知り、自分を知る。すぐに俺達は混ざり合えるに違いない。そうして全部杞憂だったことに安心しよう。こんな馬鹿なこと考えてたんだよと彼の隣で本当の俺は笑うのだ。
    「……あなたも」
     それを喜んでくれるに違いない。
     
     
     
     日々はゆっくり過ぎるのに一日一日はあまりに速かった。恥ずかしいことを言ってしまうと、彼と会わない日はあっという間に終わるのだ。沈む白にも昇るオレンジにも動かない心と身体で、今日も何もしなかったなあと目を閉じる。何と言うか、起きているのに半分眠っているような心地だった。
     反対に彼が来る日になると身体は大いに張り切った。今日こそ何か手がかりを掴むぞと、あらゆる事にそれはもうやりすぎなくらい全力で立ち向かったから、当然。
    「から回っているね」
    「…………」
     ハッキリ言われるとキツい。
     「いいから一度落ち着こうか」と渡されたグラスの中身はとうに空だ。それなのに全身はぽかぽかと熱いまま、こうなると流石に彼の指摘が全面的に正しいと解る。
    「僕と会う度キャンキャン足元を走り転げて、まるで生まれたての子犬だ。そこの犬より余程犬らしい」
    「……!?」
     愛抱夢の言葉に遠くの犬さんが硬直して、俺はといえば返す言葉も無くて項垂れるばかりだ。
     記憶を取り戻す。最近立てた目標は、未だに達成の目処も経たない。
    「君のご所望通りあれこれ教えているわけだけど」
    「……ごめん」
    「や、謝る必要はないよ。全く」
     あっさり許した男はグラスを傾ける。上品で落ち着いた仕草。そこはかとなく余裕を感じるが、いいのだろうか。
    「あい、あだ、……あー……」
     二つの名前もうまく使いこなせない。悩んで結局選ぶのは、毎回同じだ。何故かしっくりくる方。
    「愛抱夢は焦らない?」
    「僕が? 何で」
     何でと来たか。
    「……前から聞きたかったんだけど」
     遮られたり急に踊り出したりで駄目だったから丁度いい。今聞こう。
    「あなたって、俺の記憶要らないの?」
    「……」
     グラスを置く手が勢いよく叩きつけられ、テーブルからガチャンとひどい音がした。飛び散った中身はテーブル、床、彼の上半身に被弾していく。もろに溢れた中身で手首その他をびしょびしょにしているにも関わらず、ひたすら慌てる俺やタオルを取りに走った犬さんと違い愛抱夢は一切自分の状況が目に入っていないらしい。じっと顔を伏せたままだ。
    「ランガ様」
    「へっ? あ、はい!」
     投げられたタオルを一枚自分用に取り、それ以外を男とその周辺にばらばら撒く。やはり反応はなかった。タオルまみれに加えてシャツがみるみる変色していってもそうなのだから、目に入ってないと言うより入れる気が無いのだろう。
    「拭くよ」
     仕方なく一声かけ手を出した。ぽんぽんと押すたびタオルにつく色とちっとも変わらないシャツの無惨さは、絶望的な気分になる。これは染み抜き間に合わないかもな。思ったとき、ぼそりと声が聞こえた。
    「……何か言った?」
    「……いや……要らなくは、ないと」
    「ああ」
     どうしたのかと思えば考えてくれていたらしい。
    「なんか曖昧だね」
    「……うん」
     随分歯切れが悪い。そこまで悩む質問でも無いだろうか。
    「俺が焦り過ぎかもしれないけど、あなたも焦らな過ぎだと思う。早く会いたくない?」
    「会いたいって……」
    「俺に」
     会いたいだろと続ければ、変なことを言っただろうか。愛抱夢がぽかんと口を開き
    「――君は」
     すぐ閉じて、何故か頭を振った。
    「何でもない。それより先程の君の発言だ。僕にもっと焦れと?」
     その方がありがたい。というか、そうでないと少し困る。俺一人だけやる気を出して良いのかどうか。
    「一刻も早く、みたいにならないの」
     そうやって急かされたら必ず結果を出せるとまでは保証できないけれど、事態は少し良くない方向に行っていると思う。多少の焦りは必要だ。
    「もうかなり経ってる。寂しいだろ」
    「……僕は良いんだよ」
    「そう?」
     今日は彼の不思議な表情をよく見る日だ。
    「お腹減ったときの俺みたいな顔してる」
    「ひもじそうって? そんなことはない。本当に」
     軽口を笑い飛ばした愛抱夢が急に立ち上がった。俺とタオルを退けてシャツを脱ぎ、更には気にする素振りもなく下に手を掛ける。
    「受け取ります。すぐに替えを」
    「濡れていい物を二人分」
     すぐさま彼に着替えが渡される。放られたのはそのうちの片方と、端的な誘い。
    「着替えて。行こう」
     抵抗は諦めた。
     日はとっくに去りもう殆ど暗い浜辺。良い真昼だねえなんて言葉に突っ込む気にもならず、砂をかきわけ歩く。
     波打ち際、先に腰を下ろした男が手をくいと引っ張った。
    「ほらほら、君も座る」
    「……」
    「そう。肩を寄せて、美しい景色を背後に愛を語らおうじゃないか」
    「愛って……」
     戸惑いつつ腕が回りやすいように身体を縮めてしまう。流されてるなと心の中で溜め息をついた。
    「告白してもいいよ」
    「しない」
    「残念。僕はいつだって大歓迎なのに」
    「二度目でも?」
    「……まあね。でも何度されても良いものだから」
    「告白したのは俺? あなた?」
    「悪いけど教えられない」
    「……秘密だ」
    「ああ」
     彼と――俺の知らない俺の。
     何だか無性にもやもやする。顔を傾けた。目が合う。
    「教えてくれたら思い出すかもしれない」
    「駄目」
     素っ気ない返事の後「そうだな」愛抱夢は顎に手を添え。
    「君の予想を聞いてみたい。どっちからだと思う? 想像して――」
    「俺」
     被るほどの勢いで答えてしまった。赤い目がきらりと光る。
    「理由を聞いても?」
    「……勘」
     愛抱夢が笑う。俺の考えなんて筒抜けだと言われているようで居たたまれなかった。
     そうだ。勘じゃない。言われた通り想像して、俺が彼に告白している絵がそれはもうパッと脳裏に浮かんだから、そのまま口に出した。あまりに自然だったのだ。
    「そういうことにしておいてあげよう。それじゃあ次だ」
     顔が近づく。
    「言って。告白の台詞は?」
    「それは」
     脳が再び仮定の世界に近づいていく。こんな風に向き合って。浅い呼吸しかできない緊張しきった身体で、それでも口を開いた。彼に見てほしかった。
    「お、」
     おれだって、あなたを――
    「…………ん?」
     何かおかしくないか。俺、何でこんなこと。
    「……」
    「!」
     勝手に開いた口がひくつく。視界を占める目の前の顔は、それはもうにやにやと、楽しげに。
    「あ、ああぁ、愛抱夢」
    「何かなランガくん」
    「あなた、あなた――!」
     思わず飛び退いた。ばしゃりと下半身に嫌な感覚。染みてくる海水はその暗さに相応しく冷たい。反して、意味もなく擦った頬は熱かった。全身も。さっきよりずっと。
    「させようとした! 今!」
     珍しく風が止んだ海は静かで、だからだろうか愛抱夢の含み笑いはよく響く。耳に悪い。
    「惜しい」
    「……」
    「ふふ。すまない、悪戯が過ぎた、反省するよ。だから戻ってきて」
     ここで大人しく戻るのは流石に少し言いなりすぎる。ちゃんと解ってる。
    「おかえり」
    「……ただいま」
     解ってるから大丈夫、のはず。
     笑い声が消えても彼の雰囲気は明るいまま、楽しそうなまま。それだけで許せるのが癪だ。
    「焦らないのは何故か聞いたね。君のせいでもある」
    「俺の?」
    「そう。君が僕に思わせる」
     すいと横顔が空に向く。
     このままでいいかな。
     気の抜けた声だった。耳にしても、彼の声だとすぐ気づけないほど。小さなそれが飛んでいき水平線に届かず消えるまでその一部始終を見ていたというのに、信じられない。そんな声を出せるのか。
    「……ってね。今それなりに幸せなんだ。君が僕を見て、関心を持ってくれるから」
    「……変なの」
     本当に変なことを言う。そんなの俺とあなたの関係なら見るのは当たり前だし関心も持つだろう。そう言えば、愛抱夢は「そうだった」と目尻を下げた。
    「少し慣れてしまっただけなのかな」
    「そうだと思う」
     可哀想だ。早く記憶を取り戻さなくてはいけない。
    「今がそれなりなら、また会えたらもっと幸せだよ」
    「だといいが」
     ぼんやりとした返答を補強するため強く頷いてみせた。そうだ。彼にこんな顔はさせたくない。俺が見たいのはあの夜の笑顔。俺が見たことのない、いつか本当の俺が見ただろう全ては、きっとあれより美しいだろう。
     だから、もやもやは見ないふりだ。
    「愛抱夢。俺頑張る。あなたを、もっと幸せにできるように」
    「……それって告白?」
     言葉に詰まった。彼が大袈裟に肩を上げる。
    「冗談のつもりだったんだけど、本当に?」
    「ちがう……」
    「だろうね。そんな寂しそうな顔で言われては、喜ぶどころか心配になる」
     寂しそうと言われた顔にそう言った男の手が触れた。
    「どうしたの」
     温かく心地良い。寒気がする。
    「君の憂いを晴らしてあげたい」
     それも告白かと聞ければ良かった。けれど失敗したとき彼の真似をしただけだと誤魔化す器用さは、俺にはない。
    「じゃあちょっと、聞きたいことがあるんだけど」
    「ほう」
     卑怯だと思いながらも話題を逸らす。離れていった手に、安心とほんの少しの名残惜しさを感じた。
    「愛抱夢は色々俺に教えてくれるだろ。例えば、あなたから見た俺のこととか」
    「ああ」
    「そのなかに、嘘。混ぜてない?」
    「気づかれたか」
    「やっぱり……」
    「正確には嘘じゃないよ。願望というか」
    「同じだ」
    「謝罪しよう。混乱させたいわけじゃなかった。ただどうもね」
    「……わかった。あなたは、やる気が、ない」
    「……ひどいな」
     苦笑する男は嘘がバレたせいか恥ずかしそうではあるが、少しも反省の色を見せようとしない。
     そんな風にされたら困る。俺が勘違いしてしまったらどうするのか。責任なんて取ってくれないだろうに――取ってくれと、言う気もないけれど。
     風が出てきて甘い空気も散った。助かる。
    「でも聞いて良かった。色々気になってたから」
     一つ一つ確認していく。「あれは?」「うそ」「これは?」「うそ」「こっちは」「ほんとう」予想以上に嘘の割合が多かった。どうりで違和感だらけなわけだ。この人何考えてるんだろうと思わせるほどさらさら流暢に答えていた愛抱夢だったが、
    「アレがこわいのは?」
     そう尋ねた瞬間明らかに様子が変わった。
    「……まだこわいの?」
    「うん」
     悔しかったからと彼が来る度付き合ってもらうアレは、何度やろうとこわい。
    「楽しくない?」
    「あんまり……楽しまなきゃって思うんだけど」
    「……それは良くないな」
     立ち上がる。遠ざかった彼の小さな呟きが、微かに聞こえたような気がした。空耳だったかもしれない。
     仕方ないか。
     何のことだろう。
    「冷える前に帰ろう」
     あからさまな建前に素直に納得して腰をあげる。俺の嘘も見逃してもらったから、これで二人とも嘘つきだ。
    「次は三日後来る。準備しておいて」
    「準備?」
     道具の手入れとかの話だとこの時点では思っていた。
     けれど今こうして見て――なるほど。
    「心の準備か…………」
    「何か言った?」
    「いや……」
     彼に言ったわけじゃない。というより今の彼に言えることとか何も思い付かない。そもそも本当に彼だろうか。
    「…………愛抱夢?」
    「疑問形にしなくとも君の愛抱夢だよ」
     俺のだそうな愛抱夢は三日見ない内に印象が大幅に変わっていた。そんな髪多かったんだ。
     前に説明された通りだとすれば、俺の記憶はあくまで「俺」の思い出や感情が消えてしまっただけで一般常識なんかはちゃんと残っている。だから多分これは普通の反応だと思うんだけど。
    「いやあ、気分が良いね!」
     その格好は何。
     愛抱夢がくるんと回るのに合わせてマントが広がる。
    「これを纏わない僕はやはり僕ではないな……可能性を考慮して君に見せずにいたのを後悔するばかりだ、何故って? 君の前に立つなら僕は僕でなくちゃあいけない事を今改めて確信したからさ……!」
     何度も目の前を通る布。目眩がしてきた。布のせいに違いない。
    「見惚れているのかいランガくん! 良いよ……存分に見てほしい! そして褒めておくれ!」
    「すごい服と仮面だね」
    「そうだろうそうだろう!」
     奇抜というか不思議な格好だけど、実際彼にはよく似合っている気がした。顔が見えないのなんて明らか不安になりそうなものなのに。
    「何だろう。しっくりくる」
    「……ふふん、当然。僕はこれを着て何度も君の目の前で滑ってるからね」
    「へえ……って、滑るの? その格好で?」
    「そうだよ。プレーヤーは皆思い思いの衣装で戦うものだ」
    「ええ……?」
     アレって仮装ありきのスポーツだっけ。それとも俺の記憶がまだ足りないだけなのか。
    「ねえ愛抱夢……俺、記憶がなくなって、俺については解らないままで、でもあなたのことは少し知れた気がしてたよ」
    「おや、過去形?」
    「うん……」
     開いた扉の向こう、暗い空の影響を一切受けない強烈な色が俺の手を握った。後押しするように、光と音――ライトとプロペラ。
    「なら今夜。また知るといい――行こうか!」
     先に上った彼がくいと引くのを、思わず足を固めて堪えた。
     一歩踏み出せばヘリコプターの中。それって何処までも行けるってことだ。
     俺をここから出していいと、愛抱夢が決めたということだ。
    「……いいの?」
    「ああ」
     嬉しいはずなのに足を上げるのが怖い。ワクワクしてる――同じくらい、後ろの家の中へ帰りたくなってる。
     脈が早い。理由はどっちだろう。思わず深く息を吸って
    「――」
     吐き出す前に身体が強引に引き寄せられた。バランスを崩したまま、彼の胸の中に転がり込む。
    「あんまり遅いから手伝ってしまった」
    「……ありがとう」
    「任せて。いつだって手を引こう」
     背中を一度手がさすった。口元は笑っている。けれど目が見えないから、どうにも表情が読みきれなかった。
    「僕が導いてあげる。君の望み通りに」
     寂しそうに見えたのは、きっと気のせいだ。
     
    「準備はいい?」
    「うん」
     風が顔を絶えず打つ。痛い――がそう感じられるだけ、ほんの十数分前よりかはずっと良い。
     「ほらランガくん。山だよ」「山だね」「高いね、それに急斜も多い、危険だ! じゃあ下ろうか」「え」「その前に降りなくちゃ。はい着けて」「ちょ……わー…………」
     思い出すとゾッとする。今ある記憶すら吹っ飛ぶかと思った。
     既に目の前は緩やかな坂。上空から見た感じだと、この先はずっと下り坂なようだ。平面と練習場でしか滑ったことのない自分にはその一切が掴めない。そのはずだ。何だろう、この当たり前みたいな感じ。
    「本当に問題ない? もう少し待って、くらいなら聞いてあげられるよ」
    「いい」
    「それで?」
     指を指された先、空の中浮かぶ箱から安全とはいえ落下した身体は未だに少し震えている。
    「滑り出したら治る、多分」
     なんとなくそんな気がする。変だな。怖いのに。
    「……そう。それじゃあ」
     愛抱夢が腕を上げた。同時にバチンと大きな音がして、頭上から白い光が落とされる。ねじ曲がった照明はガタガタと揺れているが、壊れてはいないらしい。
    「確認しました、問題ありませ――? ……はい。お預かりします」
     忙しそうに液晶と向き合う背中が無慈悲に投げられたマントに一度潰れた。除けて何とか復活した彼の髪は黒く、服だってきちんとしている。不自然な見た目の変化は愛抱夢曰く必要なくなったからだそうで、「僕を見て何も反応がないんだ。あれでどうこうなるとも思えない」とのことだった。そうか。
     大変だなと他人事で見ていた俺に、無慈悲にマントを投げた男は振り返りずんずん近づくと。
    「ぅ……!? な、なに」
     背中に重量感。
    「屈めて」
     言われなくても、彼の体重で沈みかけている。
    「走って」
    「え」
    「早く」
     走り出す。並走する手が「もっと速く」と足を叩いた。
     でもすぐそこは坂なのに。
    「――乗って」
     ああそうか、だからいいのか。勢いが欲しいもんな。
     ボードを軽く投げて跳ぶ。多少ガシャガシャと暴れられたが何も考えなくても簡単に制せた。
     後ろで同じ音。
     報告したくて振り向こうとして、直前で止めた。足裏へ均等に力がかかるよう重心を慎重に調節、姿勢を整えてからようやく首だけ動かす。こめかみにあたる風は強い。体幹をぶれさすのはもう少し慣れてからだ。
    「乗れたよ……何?」
     横に並んだ愛抱夢は背を数度叩き「歓迎しているんだ」とさらりとお辞儀の真似をした。
    「感想は?」
    「速い」
     そのまま過ぎる感想は彼は笑わない。むしろそれこそ正解だとばかりに頷いて、もう一度とんと背を押した。勢いの付いたボードが坂を滑り降りて行く。
     とにかく速い。前から吹く風は強烈。背後でシャツを引く手は一体何人居るのか。全ての空気がチリチリと騒ぐ。油断すれば持っていかれる速度。この緊張感を知らないわけではない。ボウルの中をうまいこと滑り回れば時折達せていた程度の速度だ。だがその時々と今では決定的な違いがある。あくまでボウルは擬似的に作られた短いコースを何度も滑るもので、遅いと速いを連続で繰り返す練習だ。だから一番高いのも、速いのも一瞬。
     ――けれど「これ」は違う。終わりがない。ずっと速いまま、どころか速度が上昇している。
    「夢中のところ、失礼」
     横の彼が近づいてくる。ぶつかる。
    「――!」
     下から衝撃。揺れた腕を彼の手が押さえ、彼の衣装を纏う足がボードを地面から逃がさない。二人分のバランスを一人で。愛抱夢そんなこと出来たのか。
     腕をするすると這った手が手のひらを固め両指に絡む。向かい合う顔。唇が開いた。
    「少し手伝ってあげる」
    「何を――うわ……!」
     愛抱夢が腕をぐっと上げたのに合わせて両腕が持ち上がる。つま先立ちになりかけた足を必死で堪えた代償に、顔がぼふりと彼の胸に飛び込んだ。
    「大胆」
    「違う!」
    「照れなくていいのに。君だって男の子なんだから……」
     腰に手が回った。「目線を前に向けて」言われるまま顔を起こして目の前を見る。
     道幅は細い。しっかりと舗装されているわけではないから、勿論ガードも無い。生い茂る草が埋めているものの、更に先は解りやすく真っ暗。
     風圧で転がった小石がぱらぱらと崖を落ちていく。
    「――」
    「初めてのコーナーなんだし、特別な思い出を作りたいだろう? 任せてくれ……!」
     言うなり愛抱夢は飛び込んだ。俺を連れて。
    「わ、あ、あ、ぁぁ……!」
     謎の理屈はともかくとして、落ちることはなく。ただ真っ直ぐとは全然違う波に翻弄され続ける。全身があらゆる方向に潰されて引き伸ばされた。身体が揺れ、いや揺れない。押さえられてるから。それが逆に気持ち悪い。
    「う」
     曲がりきった瞬間一気に脱力したのが自分でも解った。真っ直ぐはともかく、これがコーナーか。予想外だった。実地だとこんなにキツイとは。
    「油断しない、次が来るよ」
    「――!」
     逃げることも止まることも許されないまま正面から圧を浴びる。
    「辛いかい?」
    「――! ――!」
     必死に首を振る。けれどいくら待っても許しは来ず
    「どうしてだか解るか」
     見つめられれば、心臓を掴まれたように。
    「立ち向かわないからだ」
      息が自然と浅くなった。駄目だ、止まる――。
    「……ああ、驚かせたかな。もっと優しいほうが今の君は好みだったね」
     とん、とん、と身体を次々叩かれた。全て教わった箇所。ああそうかと一つずつ覚えている通りに直していけば、ほんの少し呼吸が戻ってきた。
    「そう」
     逃げるから苦しい。彼が言うなら。
    「そうだ」
     俺はやらなきゃいけない。この声に、目に。またあんな風にされるのは嫌だ。
    「良いよランガくん――そうこなくては」
     こんな歪みの中でどうしてそれだけの声が出せるのか、愛抱夢は高らかに叫ぶ。
    「腰を引かない。前を見据えるんだ。怯えたプレーヤーに神は何も与えちゃくれない!」
    「か、神?」
    「そうさ。スケートを愛せば神に愛される。君の記憶だって与えられるかも」
    「……それは」
     それだけは絶対に無い。
     俺の一番大切だったはずの物。俺の中で失くなったあれを持ってるのは俺だ。他の誰かじゃない。だからこんなに苦しいのに――。
    「まだ怖い?」
    「こわい」
    「落ちないよ」
     違う。落ちるなんてもう考えもしていなかった。
    「こわいんだ。愛抱夢」
    「大丈夫、落ちない……ね?」
     証明のように手を握る力が強まる。
    「僕が居る。君を落とさない」
     怖いのは一つだけだ。俺を怖がらせるのは。
    「言ったろ? 僕は」
    「聞いた」
     直線に戻る。この間に立て直しておいた方がいい。解っていた。
    「俺が俺だから落とせないって。でもそれなら、おかしくないか」
     次のコーナーに集中してればいいのに。このタイミングで言うことではない。
    「俺は――?」
     馬鹿だな。
    「あなたの俺と違う、俺なら」
     できるんじゃないか。振り回すように。踊るように。
     何も言われない。それが答えだと思ったら、ますます言葉を止められなくなった。
    「できない理由無いだろ。解るよ。それくらい解る」
    「……できないよ」
     彼らしくないかぼそい否定が風に呑まれた。良かった。耳まで届いてしまえば、俺はそれで嬉しくなって、満足してしまって。そうしていつまでも核心に触れられないだろうから。
     コーナー。今までのと比べれば小さい。でもその分多い。カーブの連続みたいな。
     重心が左右にぐらつく。開きっぱなしの口に鋭い空気が飛び込んできて苦しい。閉めればいい。解ってる。
     彼を見据えるために、俺はただ持ちうる力全てで頭だけ支えれば良かった。身体のコントロールは彼が殆ど預かってくれている。言葉通り、俺を落とさないように力を注いで。きっと楽ではないはずだ。
    「――どうして」
     暗闇の仮面は表情を隠す。例えば彼が今俺の言葉で傷ついていたとして、苦しんでいたとして、それも見せずに献身的に支えてくれるなら、それはなんて――かわいそうなんだろう。
    「愛抱夢」
     あの日目が覚めて二番目に見たものは月だった。一番最初は、あなた。
    「どうして俺の側にいてくれるの」
     聞くまでもない。恋人同士だったからだ。彼と、記憶がなくなる前の俺が。
     それなのに。
    「教えて。でなきゃ俺、勘違いしそうなんだ」
     解らなくなる。愛されてるのは誰なのか、――同士だったのは誰と誰か。記憶は本当に無くてはいけないのか。俺と彼では――になれないのか。
     全部否定してほしい。戻れなくなる前に。
    「ちゃんとあなたの口から聞かないと、俺は、……ッ!」
     甲を潰されるような痛みに手が悲鳴をあげる。
     怒ってる。
     なんて、当たり前だ。酷いことを言ってしまった。彼の優しさだろうそれを、俺に向けていただろう愛情を、踏みにじるような真似だった。
     本当に落とされるかもしれない。ああ、でもそれでいいや。もう一度落ちれば、もしかして。
     ――もう一度?
     ずくりと、心臓に何かが突き刺さるような感覚。刹那の間走ったそれは次の瞬間にはどこにもいなくて、追おうとした脳も別の異常事態に気を逸らされた。
     あれほど強く握られていた手が痛くない。
     いつものようにやわらかく、けれど離れないように握った男が唇を動かしては止める。初めて見た。言葉に悩む彼を。
     二人の呼吸で空気が揺れる。ひたすら見つめる頬はぴりぴりと痺れて痛い。
     愛抱夢の口が、ようやく開く。
     これを待っていた。同じ痺れるなら彼の言葉でが良い。それがどれだけ酷な本音だって――――。
    「……ランガくん。辛い?」
    「え――」
    「君が辛いなら今すぐ何もかも止めよう。僕が嫌なら、そうだな。押せばいい」
    「押せばって」
     下は崖だ。
    「好きにすればいいじゃないか。不安を消すには元凶ごとがお勧めだよ。僕だってそうするさ」
    「……あなたは、何を言ってるんだ」
    「それはこちらの台詞だ。君がさっきから何を言ってるのか、僕には少しも解らない」
     俺だって彼が突然おかしなことを言い出した理由が解らない。
    「勘違いだと? 何が?」
    「あ、あなたが俺を、好き、だとか」
    「馬鹿なことを。それのどこが勘違いなんだ」
    「だからそれは俺が俺でなくて」
    「うるさいなあ……」
     視界が回る。
    「は!?」
     違う、俺が回されたんだと遅れて気づいた。ボードの上、完全な不意打ちによろける身体を相も変わらず愛抱夢は支えて、文句も言えない俺へわざとらしくため息をかける。
    「君は君だろ」
    「……ちがう」
    「違わないよ。何があっても君は君、僕のランガくんだ。そうでなければこの僕がこんなことするものか」
    「だからちが、あ」
     言うなりまた回された。一度目と違い不思議なことにすんなりと体勢が戻る。安堵する背中を倒したのは何故か、他ならない彼の手だった。ほぼ無理やりに引き寄せられ胸の内に抱き込まれる。
     一度目より遥かに楽だった回転の理由を耳は既に捉えていた。地面が削られる音に混じる短く甲高い、叫びのような嫌な音。
    「――」
     目を向けその正体を知り、顔からすっと体温が引いた。
    「愛抱夢、やめて」
    「僕が見つけたのは君だ、あの日僕を変えた君だけ。だから僕は君の全てを」
    「だめだ愛抱夢、お願い、足を」
     速度が上がりかけ、愛抱夢が再び片足を上げる。躊躇無く地面を踏み岩壁を蹴り付ける靴はギリギリとまた嫌な音をたて、そうして無理矢理に二人を押し止めてた。八つ当たりのような力任せの動き。確実に危ないだろう。一刻も早く止めさせたくて叫ぶ俺を無視して一人喋り続ける。
    「記憶? 欲しいに決まってる僕の君にそれが必要なら。けれど無くたって君は君だった、それを知った時の僕の喜びが解るか。解らないだろ」
    「解んないよ!」
     答えを間違えた。ますます足が乱暴になってる。彼にこんなことさせたら駄目なのに。
    「それなのに君ときたら、またそんな下らない事で悩んで。あまつさえ僕の愛を疑うのか」
    「ごめんもう言わない、だから」
    「ふざけるな。言えよ。あとは何を叶えればいい」
     声は棘まみれで、それなのに何故か恐怖は感じない。どうしてだか俺が傷つけている気さえする。
    「君が戻りたいなら戻す。記憶が欲しいなら協力する。僕が要らないなら消える。何だってしてあげる。君が望めば――」
    「そんなのいい、いいから……!」
    「……はあ」
     顔が近づき、額に彼のそれが合わさった。押し付けたままぐりぐりと動かされ互いの前髪がくしゃくしゃに混じっていく。
    「僕こそ聞きたい――どうしたら伝わる?」
     白と青の交差する先にある仮面、その奥を見た。
    「望みを叶えたいんだ。本当にそれだけなんだよ」
     隠された目元はただひたすら悲しげだった。自分がどれ程酷いことをしかけたか。泣き出す前の子供に似た歪められた目頭を見たとき、多分俺はようやく知ったんだと思う。
    「ごめんなさい」
     思わず溢れた謝罪は拙くて、小石に紛れて落ちてしまった。
    「俺は――あなたの本当が知りたかった」
    「――何だ。そんなことか」
     彼を知ろうとして、わからなくて、自分のことだって。手にしたと思えばこぼれ落ちるなかで信じられるものは少ない。でも。
    「ランガくん。どうかこれだけ聞いてほしい」
     聞こえる。静かでなくとも、木々がどれだけ揺れて礫がひっきりなしに騒いでも。俺はきっと、愛抱夢の声だけ
     は逃さない。それを信じたいと思ったのが俺のはじまりだから。
    「……君が好きだ。ずっと好きだった。その心に僕が居なくても」
    「それって」
     告白? ――なんて返すのは意地が悪すぎるか。
    「――俺でもいいってこと?」
     頷く前のわずかな逡巡から目を逸らして、小さな疑念はそっと手の内ですりつぶした。粉々に、消えてなくなるまで。
     ごめんね。
     誰に謝ったのかは俺自身でも解らない。ただ俺に彼を信じてほしかった。
     嘘はお互い様だ。知らない振りは沢山、俺だってずっと正面から見るのを避けていた。
     こんな目で見られてたのか。良いなあ。
     彼に全て打ち明けて苦しめてしまうのは嫌だから、言わないけれど。
     ――辛かった。怖かった。でも止めたくない。できるなら彼とずっとこうしていたい。それに。
     何だろう。さっきからおかしい。
     疼いた心臓が治まらない。彼とのことを考えたいのに――どうしてか。ちっとも集中できない。
     ちらちらと見てしまう。道の先を。
    「……手、外して」
    「……ああ」
     愛抱夢は素直に手を離した。俺がそうしやすいようわざわざ両腕を背に回す。自分の未来を予感した笑顔はあまりにきれいで、俺達って勘違いしてばかりだねと心の中で笑った。
     押すのは彼じゃない。
    「なにを――」
     俺だ。
     とはいえ軽く力が入ってしまったのは許してほしい。勢いが必要だったのだ。
    「待て、ランガくん――!」
     制止をかけつつ、悔しいことに男はあっさり追い付いてきた。次から次に伸ばされる手足をどうにかかわす。ボードのスピードがあるからだろうか、不思議なくらい身体が軽く動いた。
     白熱灯が照らす夜道。遠くでは真っ暗闇が大きな口を開けて待ち構えている。今からそこへ飛び込む。上がり続けるスピードに身を任せて。ずっと速いまま在りたいと願うなら。
     そこへ行きたい。早く。早く。
    「は」
     風が拭い去っていく。恐怖を。不安を。余計な感情が一掃された胸の内、残ってくれたそれは火だ。小さく、けれど消えない俺の火。いつかの俺も見ただろう熱に手を伸ばすことを、躊躇いはしなかった。
     ああ焼ける。焦げる。燃え尽きる前に早く風を浴びなきゃ。沢山浴びたい。どうしよう、そうだ、さっき愛抱夢にされたことをそのまま真似してみよう。今度は俺だけじゃなくてボードも、今ならできる気がする。
     丁度良いところにコーナーだ。一、二の。
    「……あ、は」
     やった。成功。
     ぞくぞくするけど怖さからではない。むしろどうしてこれが怖かったんだろう。もう少しだって解らなかった。
     強いて言うなら熱いのが少し気になる。火はどんどん大きくなって絶え間なく俺を焼くものだから、今は吐く息すらくらくらする。いっそ吹けそうだ、火。
     横の彼も吹くのかな。何だか顔が赤いし、あーでも多分俺の方が赤い。
     頭と同じくらいうまく回らない唇で彼を呼んだ。
    「曲がれたよ」
     解っているだろう、見てたんだから。でも言いたかったから言った。内側だけで燃やすには、これは熱すぎる。
    「俺、えっと、」
     胸のうずうずが止まらない。もう一度全部、彼から教わったことをやり直したい。今ならもっとできる。そう言いたいけど、駄目だ。うまく言葉が出ない。
     目で助けを求めれば愛抱夢には何もかも伝わったらしい、ただ繰り返せば良いだけの最高の質問をしてくれた。
    「楽しい?」
    「楽しい!」
     彼の両腕が空に広がる。
    「こちら側へようこそ――君をずっと待っていた!」
     今気付いた。俺もずっとここに来たかったみたいだ。だってこんなに――。
    「感動してる、愛が溢れそうだ。平地なら間違いなく君をハグしてた」
    「今はできない?」
    「できるさ」
    「ほんと!? じゃあ」
    「僕を捕まえられたらね。そら」
     言うなり愛抱夢が離れていく。
    「待って」
     近づいて腕を伸ばせばするりと避けられて、離れすぎると今度は彼の方から近づいてくる。遊ばれているのに嫌じゃない。それどころか益々やる気がわいてきた。
     一度彼の前に行けたら絶対捕まえられるはずだ。じっとチャンスを待つ。
    「諦めた?」
     全力で首を横に振る。
    「だよね。余所見は駄目だ、僕だけ見ていて!」
     手招く背中を追って、同じコースを通ろうとして――間違えた。
     やっぱり愛抱夢ってすごいんだな。俺もと思ったけど、これは少し危なすぎる。転びたくない。どちらにしよう。
     今すぐ止まるか、それとも――。
    「跳べ――!」
     わかった。
     火を吹いて空に飛び出す。何より気持ち良かった。無事地面に足が着いた安心感に顔を手で扇ぐ。襟元で汗をぐいと拭って、彼の姿を確認する。
     遠い。でも随分遅い気がする。俺を待ってる。
     何で待ってくれるんだろう。変だ。
     そうするべきだと思ったから身体を思い切り回した。進路は大きく曲がって岩壁。削られて機嫌が悪いのか、大量の石屑をぶつけてくる中を気合いで上がっていく。
     ここ。そう思った時、痺れを切らした岩壁に突き飛ばされた。逆さになった身体。重力との接続が切られる。それが何より正解だと確かに知っていた。
    「――――」
     彼が見ている。
     余所見は駄目だって言ってたのに、俺しか見えないみたいに目が追い続けてる。
     ああでもそれが解るってことは、俺も彼しか見えてないのか。
     そうだといいな。
     地面が近づく。足元に群がる空気を無理矢理払うとずっと遠くに進めた。先に居たはずの男を超えた場所へ。
     振り返る。
    「愛抱夢――!」
     言ってしまおうか。
    「おれ、あなたが――」
    「前!」
    「え?」
     どういうことだろう。瞬時に距離を縮められたどころか激突された。大きくルートを変更した俺のボードはするりと曲がり、さっきまで居た位置は遥か遠くに。
    「あ」
     見て気づく。あのままだったら落ちてたな。
     彼は大分珍しい状態に見える。上下する肩。口呼吸。焦ってくれたのか、ありがとう。
    「余所見は」
    「駄目!」
     食いぎみに被せると言葉が止まった。ぽかんと口を開けている感じ、うっかり不意打ちになってしまったらしくて申し訳ない、それはそうと可愛いね。
     嬉しい、楽しい。耐えきれなくて笑う。
    「あはは、ごめん!」
    「……そうだった。君はいつだって危なっかしくて、怖いもの知らずで――面白い子だったね」
    「――」
     あの時と同じ笑顔は、やっぱり俺が見た物の中で一番きれいだった。多分これから見る何よりも。
     一瞬見惚れた隙に、すいと愛抱夢の姿が消えた。いや居る。先だ。
    「ついておいで」
     言われなくても。
     必死で滑らないと彼の背中すらすぐ見えなくなってしまう。どうやら愛抱夢はもう、俺に付きっきりでは居てくれないらしい。構わない。怖くも辛くも無くなった。彼が見てなくても平気だ。
     今度は俺から、彼の隣に行こう。
     置いていかれたくない。傍に居たい。今までずっと、愛抱夢がそうしてくれたように。
     風が気持ちいい。しばらく真っ直ぐが続くのを確認して目を閉じた。少しだけ、少しだけ。大丈夫。怖いものはもう何もないから。
     耳をかすめる沢山の音。雑多に合わさるそれが嫌いじゃない。彼に言ってみようかな。笑ってくれればそれで――。
    「……」
     身体に力を入れて呼吸をほんのちょっと整える。気付いたことに気付かれたくなかった。
     目を開いても聞こえたままだ――当たり前か。この声だけはいつだって届くんだ。望まなくたって。
     愛抱夢の声は彼自身と同じくらいきれいだ。どこまでも伝わりそうなほど軽やかなのに深みがあって、かと思えばしたたるみたいに甘くて、だけど底無しに優しい。それは乾いた喉だろうと変わらないと思う。
    「君が楽しめないなんて――有り得ない」
     だからこの、掠れきって弱々しく、聞くだけで胸が苦しくなる切ない声は風のせいではない。おそらくは滲み出る気持ちの。
    「全部有り得ないんだ」
     怖いものはもう何もない。
     そのはずだ。
    「知ってるよ。それくらい――」
     
     
     
     夢みたいな体験から数日。まだ身体がぽわぽわと落ち着かない。目を閉じればあの時間に戻れそうで、試しにそのまま歩いたら落ちかけた。
    「…………ひえ」
     そういえば階段だった。手すりに掴まれたからいいものの何かあったら怒られそうだ。大事をとって、今日はなるべく一階で過ごすことにする。
     ふと思い立ちキッチンへ向かった。
     彼が来た時用の小さな箱からコーヒーをひとつ。お湯を注ぐだけで砂糖とクリームは無し。いつもと同じそのままの真っ黒いそれを、いつもの席に置いて真向かいに座る。ふわりと広がった湯気が鼻先へ触れた。
    「ん」
     満足感に一人頷く。
     良い香りだ。すっきりしていて少し癖がある。きっと飲んだらひたすら苦い、大人っぽい香り。彼の好み。
    「……愛抱夢」
     彼のことばかり考えている。
     楽しかった。ドキドキした。何度思い出しても心が跳ねる。あの日身体を駆け巡った熱さはほんのわずかに残っていて、急かすように胸の内を暖める。もう一度あそこに行きたい。彼と一緒にまた滑れるのが待ち遠しくて仕方ない。今日来るらしいからまた予定を決めよう。二人で。
     頭がぼんやりする。これが恋ってやつだろうか。
     支えるのが億劫になってテーブルに頭を預けた。冷たい、気持ちいい。
     目を閉じる。開けたら居ると良いのに。
    「愛抱夢」
     開いた。
    「――――え」
     居た。
     お帰りと声をかけるか迷う。いつの間に入ってきたんだろう。扉の音はしなかったはずだ。
     愛抱夢はただ立っている。そんなに辛いなら座ればいいと彼の分の椅子を引いた。それでも珍しく丸まった背中は伸びないし、表情だって、何か強い感情を圧し殺したまま固まっている。こんな彼は、俺は知らない。
     知らない顔を見れたというのに心は喜ばなかった。それどころか不満ばかり言う。ひたすら残念だ。こんな顔が見たいんじゃない。俺が見たいのは。
     恐る恐る手を伸ばした。
    「我慢しないで」
     もっと感情を剥き出しにしてほしい。その方が似合うと思った、なんとなく。
     笑ってほしい。いつもみたいに。
    「……くん、ランガくん」
    「……」
    「おはよう」
    「……ん。おはよ」
     愛抱夢の顔がすぐ側にある。にこにこと浮かべた満面の笑みは、即残念そうな不満顔へ切り替わった。
    「驚かないのか」
    「いや」
     すごく驚いている。夢の続きかと思ったくらい、もしくは今までのことが全て夢だったのかと一瞬勘違いしたくらいには。ただリアクションをとれなかった。
    「動けなくて」
     変な姿勢で寝たらいけないと何度も身体で学んだのに、やってしまうのは何故だろう。
    「痺れてる。少し待って――」
    「ふうん」
     唇が吊り上がる。いけない。
    「腕? それとも足? 右と左なら言える?」
    「……全部言わない」
    「わかった」
    「いたいいたいいたい」
     手当たり次第に指先でつつかれて、口から悲鳴が飛び出した。
    「ここかな」
    「そこ、そこだから」
     散々遊ばれた身体をぐったりとテーブルに伏せる。ようやく痺れが取れたのに、今度は全く別の理由で動けなくなってしまった。
    「お疲れ様」
     背中を撫でる手は優しい。納得いかない。これと、あれほど人をつついたそれが同じなんて。
    「楽しかった。僕が来るとき毎回そうしていてくれないか」
    「……疲れた。今日はもう何もできない」
     そっちがそんな事言うならと口に出したわがままは「いいよ」あっさり受け入れられた。
    「ゆっくりしようか。こんな天気だしね」
    「天気?」
     そういえば何だか物音がする。窓を見て、力が抜けた。
    「うわー……すごい」
     次々叩きつけられるしぶき。酷いだろと頬杖を突く彼の、服に付いた点の理由が真っ暗な窓一面を濡らし尽くしている。
    「この土砂降りだけど明日まで続くらしい。だから今日のアレは無し」
    「……雨だとできないの?」
    「できないことはない。ただ」
    「ただ」
    「僕が嫌だ」
    「そっか」
     それなら仕方ない。彼が嫌がることは駄目だ。
     ばたりと彼も伏せる。外と同じくらいどんよりした顔がぼそぼそ呟いた。
    「心の底から憎たらしい。頭は痛いし身体は重いし良い思い出はないし」
     剣幕に思わず頭をさすればほんの少し表情が和らいだ気がした。目を伏せて愛抱夢は「それに」と続ける。
    「雨は不吉の前触れだ」
    「って、どういうこと」
    「んん……」
     近づいた指先はもう遊ぶつもりは無いようだった。顎をついと上げ、目を合わせる。変わらずきれいな瞳は天気のせいかわずかに暗い。
    「君にも解るよう簡潔に言おう――これから良くないことが起きる」
     犬歯の覗く大きな口から放たれる言葉は、大抵本当になることを俺はよく知っている。けれどあまりに不思議だったので、つい首をかしげた。
    「……あなたが居るのに?」
    「……ふふ、は、」
     何がそんなにおかしいのか、愛抱夢は身を震わせてくくくと笑う。
    「ああ。僕が居るから大丈夫。……ね、ランガくん」
    「なに」
    「抱きしめても?」
     言葉のかわりに手を広げた。疲れてるから優しめでお願いしたい。
     
     モニター内の映像はどうやら彼のお気に入りらしく何度か見せられたことがある、そのうえでよく解らなかった。誰かしらが動いて、何かしら良い感じになって、それなのに最後は一人で終わり。
     人形を抱きしめる主演に降り注ぐ拍手と、落とされる天幕。
    「良い終わりだ。特別な一夜のきらめきは幼い少女の運命を変える」
     普通のライトだと妨げになると何処からか持ち出して来たランタン風のそれが、愛抱夢の横顔を照らしている。ライトの影響でいつもよりオレンジに寄った赤は、主演と同じ夢見る子供の目。
    「勇敢で可愛らしいあの子がこの先どうなるか観客は知らない。壁があるからね。けれど、それが絶望に満ちたものでないことは解るから彼女の旅路に万雷の拍手を送る」
     とりあえず頷いておく。これ旅の話だったのか。
    「彼女は手に入れた。これから何があろうと揺らがない永遠を」
     永遠。
    「あの一瞬を思い出せば生きていける――そんな時間のことを人は永遠と呼び、道連れにして歩んでいく。たった一人で。それが幸福だから」
     そうかな。そんなのって、寂しくないか。
    「そんな風には思えない?」
    「――え」
     映像がぷつりと途絶えてモニターはただの黒い板になった。電源を押す指先もそのままに彼がこちらを向く。
    「怒る気はない。僕もそうだ」
    「……"このままでいいかな"……」
     正解だったらしい。愛抱夢は笑い、両手でそこに無い本を開くふりをした。
    「実はこれ、夢で終わらないパターンもあってね。ラスト寸前で妖精が出て来ておめでとう、二人は幸せに暮らしましたとさ……なんて、夢物語にも程がある終わりだろう?」
     ぱたん。本が閉じられる。
    「けれど僕は、その方が好きだった」
     話の意図は解らないけれど頷くのは止めない、そうすれば彼が微笑むのを知っているから。どうも愛抱夢は同じ気持ちだと示されるのが好きらしかった。意外と寂しがりなのかもしれない。
     こういうことも、これから沢山知れるだろう。
    「さて、終わってしまった。どうする? 僕達も踊る?」
     何でそうなる。とはいえ少し思っていたことがあったので「じゃあ」と彼の袖を引いた。
    「最後の方で男の人が踊るだろ。愛抱夢あれできそうだよね」
    「……やってみよう」
     本当にできた。
    「似てる」
    「ありがとう」
     丁寧に頭を下げる仕草が様になっている。
    「君はしてくれないの」
    「できない」
    「そんなこと言わずに。そうだ、演奏を付けてあげよう。貴重な生歌だよ」
     有無を言わせず演奏は始まった。生って言うか鼻歌だし、愛抱夢の踊ってたのとは違うし、はちゃめちゃだ。
    「はいつま先立ち」
    「……こう?」
    「もっと」
    「えー……」
     これ以上無理なんだけど。
    「いけるいける」
    「いけない、いけな、あ、」
     倒れる。いつもみたいに手を出して。
    「愛抱夢――って、え、えっ……だぁっ!」
     頭だけ咄嗟に守れて良かった。強かに打った背中はものすごく痛いけど、これは油断した俺が悪い。助けてもらえるのをすっかり当たり前に思ってた。部屋が暗くて良かった、多分今顔が赤い。
     それと、気になるのが。
    「……大丈夫?」
    「……ああ」
     俺の上に被さる彼だ。俺と違って普通に立っていたと思う。つま先立ちだって楽々できていたし、ましてや俺を支えられなくて共倒れなんてはずもない。今まで何度この腕に支えられてきたか。
    「少し考えてしまって」
    「何を」
    「助けるか、一緒に倒れるか」
     その二つで考えることあるんだ。
    「……それで、一緒に倒れる方にしたの?」
    「いいや。考えが纏まらなくて流れで倒れた」
    「……」
     この人こんな人だっけ。もっと人間ぽくなくて、何も見せてくれなかった気がするんだけど。
    「君とならどちらでも楽しいだろうと思ったら選べなかったんだ」
    「そう」
     楽しかったかなんて聞く必要も無い。やっぱり彼には笑顔が似合う。いつもの快活な笑いも良いけど、今見ているこれはそれ以上だ。
     俺も楽しい。きっと彼とだからそう思う。
     ずっとこのままが良い。
     先に起き上がった愛抱夢の腕に、彼らしい力強さで起こされた。
    「……いい?」
     頷くだけじゃ駄目だったかな。俺もしたいとか言った方が良かったかもしれない。まあいいか。また次がある、それまでに教えてもらえば。
     暗がりに浮かぶ赤色は期待にきらきらと輝きながら近づいてくる。緊張に目を逸らした先は彼の背後、大きな窓。
     ――あれ。
     いつの間にか雨が止んでいた。そういえば音がしていない。明日まで続くんじゃなかったっけ。でも雲はそこそこあるままだ。じゃあもう一度降るのかな。
     それにしても明るい。何でだろう。
     目をこらして探す。現実逃避かそれ以外の何かか、時間はひどくゆったりと流れていた。先延ばしにするみたいに。
     そんなもの長く続くはずもなかった。
    「――――」
     見つけたのは雲の切れ間。白い月。赤い目は光り、俺は。
     ――俺は?
    「――――!」
     心臓が痛くて胸を押さえる。割れる。千切れる。俺がばらばらになって――違う。
    「ランガくん? ……まさか――!」
     離れるんじゃない。近づいているんだ。
     混ざりあっていく。何が。俺が。何と――俺と。
    「落ち着いて呼吸を――ああ駄目か、しっかりしろランガくん、ランガくん――」
     愛抱夢――。
     ――そして意識は浮上した。
    「……愛抱夢?」
     どうしてあなたがここに居る――いや。
     俺はどうして、こんな場所に居るんだろう。
     それはここが俺が暮らしてる家だからで、でも俺はここを知らなくて、暮らし、どうして、記憶がないから、記憶――記憶?
     なんだそれ。
    「あ――」
     何もかも理解できない脳は逃走を選んだ。
    「待って」
     背を追う声を弾くように扉を閉める。走り出そうとして見えた景色に――足が止まった。
    「――」
     月が出ているのに星のみえない空。冷たい風が頬を撫でるだけで背筋が凍る。何処までも暗い漆黒の海の上で荒れ狂う白い波。あるのはそれだけ。それ以外何も無い。
    「……なんだよ、ここ」
    「――何処へ」
     ぞわりと一瞬で肌に汗が浮いた。触れられてもないのに全身まとわりつかれているようだ。この男の声はこんなにも。
    「何処へ行くの」
    「……愛抱夢」
     ふらふらと近づいてくる愛抱夢は乱れた髪の隙間で「解るよ」と呟いた。
    「逃げる気なんだろ」
     そんな事は――無いとは言えない。けれど男を刺激してはいけない気がして、良くないと知りながら嘘をつく。
    「……逃げないからまず説明して――」
    「嘘だ」
     声は鋭く、身をすくませる。
     砂浜を踏みつける足取りはひどく遅い。走れば逃げられるかもしれない。解っていながら身体は後ろへ、それもゆっくりとしか進まなかった。
     ついに砂浜を抜けてしまい、夜の海が冷たく足を覆う。足どころか腰にも跳ねる波。飲み込まれる恐怖に怯えつつも進むことはできなかった。何故なら目の前の男の方が、俺は。
     近づく腕を避けようとして
    「――ひ」
     足を踏み外し、けれど
    「――っ、うあ……!」
     身体は倒れず、ぎりぎりと締め付けられる腕に声をあげる。
    「許さない」
    「痛、痛い……!」
     どうして。
     さっきまであんなに優しかったのに。何の話だ。彼はいつの間に現れて。そんなこと無い。ずっと居た。ここは俺の、俺達の家だから。違う。俺の家は。
     頭まで痛くなってきた。何なんだ。
     愛抱夢――俺の腕を締め続ける男は、ぽつりと。
    「行かないで」
     こんな顔は知らない。見たことがない。そうだろうか。本当は知っているのかもしれない。でもどっちが本当かなんて俺はもう解らなかった。
    「愛抱夢」
     あなた俺の――何だっけ。
     見えない聞こえない知らない解らない。消える意識に誰かが叫ぶ。
     ――そっか。
     
     
     
     気がつけば既に次の日だった。眠りすぎたのか頭が割れるほど痛くてひたすらベッドでうずくまっていた。次の日。食事だけとった。こんな味だったかな。次の日。ずっと海を見ていた。浜辺に誰かが来るのを眩しくなって暗くなって、また眩しくなるまで待ち続けた。それにも飽きて、後はひたすら寝ていた。といっても眠る時間は少なかった。絶えず頭が締め付けられていたから。ボードに触れると少し楽になると気付いてからはベッドサイドに置いた。暇さえあれば足を乗せた。何故かそれだけは止めたくなかった。
     それと、時々彼の名を呼んだ。ただ呼びたくなった。ちゃんと確認していないから断言はできないけど頭痛は良くも悪くもならなかった。そういうことにした。
     
     いくつも日が過ぎ、沢山の夢を見た。どれ一つ思い出せない。
     
     
     
     部屋の扉が開いても何だか起き上がるのが億劫で、もういいかと寝たまま迎えることにした。
    「……いらっしゃい」
     ただいまの方が良かっただろうか。解らない。
     近づく足音はいつもより随分遅く、彼の警戒が痛いほど伝わってきた。天井だけを見て待つ。顔を向けて、目が合いでもしたらその場で止まってしまいそうだから。
     最初に飛び込んできたのは彼の顔でも声でもなく、香りだった。
    「これを君に」
    「……」
     花だ。
    「どうも」
     受けとろうとした手をすり抜け、花束は胸元へ。花もリボンも包装も、何もかも真っ白のそれは本数があるからかずしりと重い。
    「手を」
     言われるまま両手を添える。
    「……うん。良いよ。そのまま僕を見ていて」
     布の擦れる音に下を見れば、何故か彼の指先がリボンにかけられていた。躊躇いなく、あっさり引かれたリボンとそれを追うように開く包装紙。彼らに置いていかれた花がただばらばらと俺の身体に散っていく。
     片すの大変だろうなとぼんやり思った。現実味が無さすぎて他人事みたいだ。もっともそんな物、最初から無かったかもしれないけど。
     ともかくしたい事はできたようで、男は一人深く頷いている。
    「君は白も似合う」
     そう言う彼には。
    「……何だい」
    「べつに」
     散乱する花を一輪取った。見るふりでかざし、探るような目を隠す。それだけで随分気が楽になった。
    「あなたらしくはない、気がして」
    「僕らしさなんて」
     苦々しく歪む唇。直接言われなくても何を言おうとしたかくらいは解る。
     ――僕らしさなんて君は知らないだろう
     目線を送らずに片手を上げた。探るように動かして、時には花をかきわける。
    「そうだね」
     ふいに居なくなった花があった。多分押されて床に落ちたのだろう。わざとでなくても罪悪感がつのる、汚れてしまえばもう戻れないのに。
    「まだ知らない。だから教えて、愛抱夢」
     少しして。
    「また今度ね」
     優しく、けれど素っ気ない返答。それでも触れた指先を離されないことが泣きたいほど嬉しかった。
     転がってきた花は顔のすぐ近くへ。良い香りがする。やわらかく主張のない色に相応しい潔癖さ。やはり彼には似合わない。
     
     不思議な行動はあくまで始まりに過ぎなかったらしい。
     儀式なのだと――そう言われた。意味は解らないけどとりあえず従っている。今のところ痛くも辛くもなく、むしろかなり甘やかされているというか。不安になるほど快適だ。
     すみずみまで綺麗にされた身体から、吹き付けられた何かの匂いがする。落ち着かないけどさっきの花束より好きかもしれない、彼らしくて。
    「座って」
     テーブルの上にはついこの間見たばかりの道具一式、もう何をされるか解ってしまった。自分で触れてみる。やっぱりそんなに伸びてないと思うんだけどな。
     愛抱夢の手に迷いはない。さくさくと切り進め、二、三〇分もすればすっかり髪は整っていた。
    「おお」
     予想通り大した量は切ってないのに、こんなにさっぱり。
    「……髪を切る人?」
    「違う」
     俺の言葉をすぱっと切り捨てて愛抱夢はハサミをしまう。
    「練習したからね。君のために」
     それでこれか。
    「すごい」
    「そうかな」
    「うん。あなたって何でもできるんだ」
    「……いや」
     ぴくりと肩が動いた。
    「僕のこれは所詮紛い物だ。本物には敵わない」
     また間違えた。
     もう黙っておくことにした俺を愛抱夢も無言で次々整えていく。触れる手にどきりと跳ねた心臓は、けれど離れればすんと落ち着いた。触れて離れて、その度何かを失う。まるで彼が持っていっているかのように。
     渡された、明らかに新品のシャツに腕を通す。さわり心地は良いけど飾りが多いのは何でだろう。
     愛抱夢が左手をあげた。
    「覚えている?」
    「忘れない」
     ここに来てからのことは全て。
     足を引っかけられなくても自然に身体をずらせる。腕は上、一歩目は右。
    「……音楽が必要かな」
    「また歌って」
    「……」
    「もう、大丈夫だから」
     彼の声はきれいだ。
     
     疲れたと言えば寝ようと促されて、こんな時間じゃ寝れないと首を振ればいつかの俺の言葉がそのまま返ってきた。どちらから誘うこともなく、同じ部屋に入って同じベッドに横たわる。相変わらず半分だと狭い。そのうえ今日は片付けきれなかった花まで居るからほとんど隙間も作れなくて、抱きしめあうような形になってしまった。
    「ごめん」
     自分でも呆れるばかりだ。謝るくらいならこんなことしなければいいのに。
    「いいよ。頭痛は?」
    「まだある」
    「そう。可哀想だがもう少し耐えてくれ」
    「……愛抱夢」
    「なに」
    「次いつ来る?」
    「……そうだな」
     確かにあった間に心がみしりときしむ。目の前の胸元を握りしめた。これはまだ言葉にするべきじゃない。
    「来てほしい」
    「……なら、また二日後に」
     なるほど。あと二日か。
    「来てね」
    「来るよ」
    「あなたひとりで来て」
     一瞬開かれた目も多分無意識に舐めた唇もどうでも良かった。大切なのはその後だ。この口が次になんて言うか俺は知っているつもりだけど、やっぱり不安だから。
    「――」
     耳にして、目を閉じた。ああ良かった。
     
     
     
     コーヒーを淹れた。と言ってもお湯を注ぐだけだけど、どうせ美味いも不味いもないのでいい。
     まず真っ黒のそれを飲んでみて、少しむせた。
    「けほ」
     まだ俺には早い味。けれどいつかは普通に飲めるし、美味しさも解るようになるはずだ。
     げほげほとむせながら飲み続ける。努力の甲斐あってついにカップの中身は目標値に達した。そこに箱から取り出した容器を開けて入れる。開けて入れる。開けて、入れる。ひたすら。真っ白になるまで。
     できた。気合いを入れて、いざ。
    「…………」
     飲んで、置いて、腕を組んだ。
    「…………あれ?」
     意外と飲める。普通に、むしろ真っ黒より飲みやすい。苦酸っぱい香りが残っているだけの、薄味のぬるい液体って感じだ。あっさり飲みきった。
    「なんだ」
     飲めるじゃん。
     良く考えれば当たり前だったかもしれない、彼だってあんなに軽々と飲んでいたのだから。俺が勝手に勘違いしていただけだ。我慢してるんじゃないか、なんて。
     コーヒーでもクリームでもないそれは最初から飲めた。もっと早く気づいてあげられれば良かった。
     急いでカップを洗って棚にしまう。こういうのはすぐにやってしまった方がいい、今日はこれから何が起きるか解らないし。
     もう何度もしたけれどもう一回部屋の掃除でもと思ったとき、扉の方でかさりと足音が聞こえた。続けてかちゃり。
    「こんにちは、愛抱夢」
     開いた体勢のまま、彼は数度瞬きをした。髪や肌がまだ高い太陽の日差しに照らされてきらめいている。初めて見た。多分。
    「……やあ。ランガくん」
     驚いている。それはそうだろう。
    「早いね、いや――」
     近づいてきた彼が眉をひそめた。解る。俺も鏡を見たときは衝撃だった、俺ってクマとか出る方なんだ、って。けれどそれから嬉しくなった。これを見れば愛抱夢だってきっと衝撃を受けて気をとられるに違いないと思ったから。
     そういうのが苦手な俺としてはずっと悩んでいたのだ。どうすれば話の主導権が握れるかを。
    「眠れない。何とかしてほしい」
    「……いいよ。ホットミルクでも」
    「そういうのじゃなくて」
     否定は素早く、彼の真似だ。
    「あなただけが出来ることをして」
     反応される前に精一杯近づいて「はい」顔を上に向けた。これも彼のやり方。正解をほとんど教えられて、選ぶしかない状況に押し通される。すごく大変で――けど嫌いではなかった。
    「早く」
    「……」
     渋々と、嫌なことも隠さないで彼は腕を動かし。
     そして背中がぎゅっと包まれた。
    「……どう」
     解ってるからそんな顔をするんだろう。
    「もういい」
     手ごと抱きしめられないで良かった。両手を添えて。何をされるか解ったらしい顔が引く前に俺から行く。
     教えてあげよう。
    「恋人はこういうことするんだよ」
     何もかも一瞬だった。
     初めてにしてはちょっと雑だったかもしれない。でも丁寧にやろうとした結果ああなったわけだし、大事なのは成功することだから。
     ほら。愛抱夢だって嫌そうではない。放心はしてるけど、腕が離れていかないのが証拠だ。
    「でもちょっと驚いたな。あなたって何でも知ってるのに、これは知らなかったんだ」
    「君は自分が何をしたか――」
    「子供だね、愛抱夢」
    「――」
     なにか、彼の心に深く刺さるようなことを言ってしまったらしい。あれだけ上手に喋る口が歪んで、悶えて。
    「ねえ。今度はあなたからして」
     俺も抱きしめるからと手を彼に回す。
    「そういうことしていいんだよ。俺達は」
    「……僕と君は」
    「恋人だろ。だってあなたがそう言った。あなたが言ったんだ」
    「だからそれは――」
    「違う――!」
     両腕に力を入れる。強くすればするほど何故か苦しくなるのは俺の方で、それでも止められなかった。
     聞こえる心臓の音は誰の物かもう解らない。解らなくていい。何も解らない、信じられないくらいで。
    「望めば何でも叶えてくれるって言ってたよね」
     信じたいのは一つだけ。俺にはもうそれだけで良かった。
    「叶えて」
    「……何を望む?」
    「忘れたくない」
     真っ赤な目の内側に俺が見える。これがいい。
    「今から全部本当にしてほしい。そしたらきっと忘れない」
     唇が動く。
    「――いいよ」
     近づいて、少し傾けて。合わさった。するたび身体から何かが抜けていく。今度は嫌ではなくて、もっと奪ってほしくて何度もねだった。そうするうちに舐められて、ぼうっとしていたら愛抱夢が言った。
    「開いて」
     そういうものか。
    「……っは、……ふ、ぁ」
     他人の舌ってこんな感じなんだ。
     全部って言ったけどこういうのはちょっと予想してなかった。これ以上のことされるのかな。不安だけど、彼ならいいか。
    「あ……ん、んぁ、あだむ」
    「……なに」
    「ちょっとまって、ぇ、待って、おねがい、大事なことだから……!」
     暴れるまでして何とか止めた。なかなか息が整わない。今かなり抵抗できるか怪しかった気がする。増した不安から目を逸らした先、愛抱夢はそれはもう良い笑顔だった。
    「ここでやっぱり止めるとか言い出すのは酷いことをしてくれと同義だから気を付けてね」
    「……言わないよ」
     むしろ逆だ。
    「愛抱夢」
    「ああ」
    「あなたが好きだ――――んぐ……っ、ぅ、ん……む……」
     背骨が折れるかと思うほど強い痛みと全身が溶けてしまったみたいなどろどろの快感。同時に与えられた脳は静かに力尽きた。
    「ふ、……ぁ、あだむ、おねがい。もっと」
    「……ん、いいよ、」
    「おねがい」
     お願いだから。
    「嘘にしないで」
     背中に回る腕がとても、とても熱くて。
     離さないでほしかった。
     
     
     
     白い世界。
     すぐに夢だと理解できたのは、目の前にもう一人俺が居たからだ。
    「…………」
     折角だし何か話せばいいのに。そう思うだけで言えない俺も俺だ。あの人が特別沢山話すんだと思ってたけど、もしかして俺が話さないだけなのか。少し気を付けよう。
    「…………」
     俺から話すにしても、何が良いだろう。思い付くのはこれくらい。
    「……ごめん」
     俺の表情が変わる。じっと見てくる――これは多分、睨んでるんだと思う。俺睨むの下手だな。とはいえ睨まれて当然のことをしてしまったから、俺なりのキツい眼差しを受けつつ話すしかない。
    「お前の言いたいこと、なんとなく解るよ。こんなの絶対駄目だよね。俺にとっても、あの人にとっても」
     選んだ瞬間、感じたことの無いほどの不安が離れてくれなくなった。きっといつかは破綻する。そういうことだろう。
    「でも俺、聞いちゃったんだ」
     あの夜。どこか暗いところへ落ち続けていたとき。全部どうでもよくて望みなんて無かった。あるのは、呼び掛け続ける声だけ。
     
     ――目を開けてくれ。お願いだから、僕を
     ――僕を置いていくな
     
     それがあまりに悲痛で一生懸命だったから、少しくらいこの声の言うとおりにしようかなと思って――信じてみた。結果はこの通りだ。
     必死に叫んで、無理矢理掴んで、助けてくれたその全てを、俺はずっと忘れられない。
    「覚えてるだろ。お前も俺なんだから」
     俺の願いは叶った。なら今度は彼の番だ。
     置いていくなと、そう言われた。
    「置いてかないよ」
     俺はやっぱり何も言わなかった。ただ今にも泣き出しそうな顔がそれでもこちらを見たままなのが悲しくて、可笑しかった。
    「ごめんね」
     きっとそっちは楽しかっただろう。幸せだっただろう。俺だって本当は解ってる。けれどもう。
    「じゃあ、さよなら」
     世界が消えた。落ちていく。
     
     
     
     目を開けたら夕方だった。変に時間がずれてしまった、明日からちゃんと眠れるかな。
    「……」
     彼はまだ眠っているようなので、静かにこっそりベッドから抜け出した。明かりもつけられないから、階段も慎重に。ぼんやり射し込む白い光を頼りに降りる。
     暗いキッチンにぴかぴかのお目当てを見つけた。手にして外に出る。
     明るくて良かった。早速海に近づいて――。
    「……あー、そっか」
     何か入れるのか。考えてなかった。今から手紙を書くのもなんだし特に書きたいことも無い。とりあえず砂からきれいな石をいくつか拾った。まあこれで良し。
     海水は相変わらず冷たいけれど、火照った身体には適温かもしれない。
     海につけて、放す。
     波に負けて戻ってきた。
    「…………」
     何度やっても戻ってくる。これ流れるように出来てないだろ。それともコツとか必要なのか、呼んで、いやでも。
    「――ランガくん?」
    「……」
     見つかってしまった。
    「何して――ああ」
    「流れない」
    「投げるくらいでいいんだよ。やろうか?」
    「いや、大丈夫」
     もう立ち上がるのも面倒でそのまま投げた。そこそこ遠くに着水。あれならなんとかなりそうだ。
    「できた。ありがとう」
     お礼を言うと彼の表情がひどく複雑になってしまった。
     そっちが気にすることじゃないのに。
    「いいの」
    「うん」
     これでいい。
     立とうして
    「あれ?」
     何故か力をうまく出せずにずるりと腰が落ちた。下半身全体をじんわり侵す嫌な感覚。
     立ちたくない。
    「連れていこう」
    「いや――ううん」
     必要はない、でも。
     悩む俺の横に彼が座る。濡れるのも気にせず、手を広げて。
    「望んでみる?」
    「……うん」
    「寒いからって言ってごらん」
    「寒いから……」
     続けかけてはっと口を結んだ。いや違うだろ。慌てて自分からも手を出す。
     言いたいのはこれじゃない。もっと正しく望むなら。
    「ここは寒いんだ。連れていって――俺はあなたが良い」
     笑い声がして、身体が浮いた。
    「……」
     連れていくってこういう感じか。
    「そんなに驚かなくても。初めてじゃあないだろう」
    「まあ……」
     あの時と比べると随分身軽に、彼は砂浜をひょいひょい歩いていく。向かうのは世界一安全な場所。
     何もかも振り出しに戻ったみたいだ。
     俺の知ってること。名前と性格。水平線の向こうにうっすら光が出てきたから、もうすぐ俺の夜が来るってこと。他にも色々あったけど今はこれだけ。彼が教えてくれたことを俺のすべてにして。
     あとは全部――あの中に入れた。
     彼と反対側を向き、暗い海を見る。無数の波に運ばれていく瓶はゆらゆらと揺れながら少しずつ、何処までも行くのだろう。もしかしたらいつかは誰かが。そうして俺を――。
    「……?」
     それは急に現れた。
     誰かに似た力強い波は瓶に近寄り、誰にも止められない速さで。
    「――あ」
     ひとつ瞬きをする間に波も瓶も消えていた。
     連れて行かれてしまったらしい。あれではもう、誰にも届くことはない。
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