先生にはたましいのはんりょがいるらしい 先生はとてもえらい先生なのだそうだ。お父さんが言っていた。
年が近いし話も合うだろうと引き合わされた時は正直げんなりという感じだった。確かに還暦目前のお父さんと比べたら遥かに近いけど、それでも全然大人だ。年を聞けばほぼ二倍。話が合うわけないよと初めから諦めていたぼくに反して、先生は本気でこちらと仲良くなるつもりだったらしい。自己紹介からはじまり親しげな態度を崩さないまま手を変え品を変え、気付けばぼく達は先月発売した新刊の感想を語り合える程度の仲にはなっていたのである。
「……先生、大丈夫?」
大丈夫だよと先生は返すけど、水を受けとる手が明らかに震えている。お迎えもうすぐ来るって。言えば項垂れた顔がゆっくりと動いた。こういう時急いで頷くと事故率が上がる、咄嗟の判断ができる先生はこんな時でも賢い。
お父さんの悪い癖だ。客に自分が選りすぐったあらゆる酒を飲ませなきゃ気が済まない。そのくせ酔いつぶれれば興味を無くし、お前なら多少粗相しようが客も怒れんからなんてうそぶいて、こうしてぼくに介抱させる。困った人なのだ。
「珍しいね。何かあった?」
先生はお父さんの誘いを何だかんだ理由を付けて断ることが多い。まあ始まったら絶対にこうなると分かっていてわざわざグラスを手に取るのはよっぽど余裕のない顔をしたオジサンばかりだけど、それでも二人で飲みたがるお父さんを闘牛士みたいにひらりひらりとかわしてきた先生が、また一体どうして。
「酔いたい気分だったんだ」
「家で飲めば良かったのに。お父さん相手だと、こうなるって知っていたでしょう」
「本当にね……多少浮かれていたのかも」
「浮かれて?」
どうして、と尋ねれば先生は言った。
「見つけたんだ――」
氾濫。万里。反立。
「はんりょ」
伴侶。連れ立つもの。配偶者――はいぐうしゃ、と唱えて辞書を更にめくる。
「えーと、夫婦の片方が……夫婦!?」
驚いていれば何だ何だとお父さんが近づいてきた。丁度良い。
「お父さん。先生って、は、はいぐうしゃ?居る?」
どうだかなあ、だがもし居るならこんなに飲みに誘わんよ。それだけ答えると笑ってお父さんは去っていった。つまり居ないらしい。
だが確かに先生は見つけたと言っていた筈だ。これはどういう事だろう。
考えて考えて、閃いた。きっと出会ったのだ。この人と結婚したい、この先夫婦になりたい、そんなふうに思わせる素敵な相手に。
先生は見た目はたぶん良いし話していて面白い、足もとても速くラジコン操作もうまいから間違いなくモテる。その相手だって絶対に先生を好きになる筈だ。そしたら結婚だってすぐかも。
こうしてはいられない。今すぐ本屋さんに連れていってもらわなきゃ。それでマナーについて書いてある本をたくさん買うんだ、いつ結婚式の案内はがきがぼく宛に届いてもいいように。
帰ったぞう、と上機嫌なお父さんの声が玄関から聞こえた。走って出迎えに来たぼくを叱ることもなく真っ赤な顔をニコニコさせているお父さんは殆どその体重を隣に立つ先生へ預けている。
「お帰りお父さん。それと先生、いらっしゃい」
お手伝いさんの用意した二人分の酒を持っていくと応接間には座る先生と寝転がるお父さんが待っていた。話を聞くところによると先生が会った時には既に数件回った後だったらしい。
「ごめんなさい。こうなったら起きないんだ。悪いけど今日は帰って」
連絡するねと扉を開いた時、ふと思い出す。あれから数ヶ月経つがまだぼく宛のはがきは来ない。
「ねえ先生。先生っていつ結婚するの?」
「そうだね、いつかはと思っているがまだ遠い話かな」
「えっ?」
その返しは知っている、一切そんな気がない時にお父さんがよく選ぶものだ。今の先生が使うのはおかしい。
「変なの。配偶者さんは?」
「……配偶者。僕に?」
「先生が言ったんじゃん。たましいのはんりょをみつけた、って。あの日だよ、お父さんに潰されてた日」
ばつが悪そうに頬杖をつく先生は、どうやら全く覚えていないらしかった。一度連絡は諦め扉を閉じ隣の椅子にお邪魔する。
「ねえねえどうなったの? 何で結婚しないの?」
「……教えたら、内緒にしてくれるかい?」
「うん」
誰にも、お父さんにだって話さない。小指で約束まですれば先生は教えてくれる気になったようだ。呼ばれるままに貸した耳にボソボソ声が吹き込まれる。
「見つけたと思ったんだけどね、居なかったんだ」
「どっか行っちゃったってこと? それならお父さんも何度かされていたよ」
「いいや。初めから居なかった」
何を言われているか良く分からない。先生の話はごくまれにこんなふうにまどろっこしくなるのだ。聞く側に理解を促すようなまさに先生らしい話し方を正直ぼくは苦手としている。
居たと思ったら居なかった。夏に出向いたお寺で聞いた話のようだ、もしくはその夜皆でした怪談。けれど先生の言う伴侶が妄想でも幽霊でもないことくらいは、隣の横顔が悲しげなことから明白だった。
考え考え、再び閃く。
アレだ。お父さんが一度引っ掛かりかけて警察と何度も話し合いに行った例の。結婚するのにお金が要るからと持っていったあの人は、後から知ったのだけど偽名を使ってたし、もう一度会った時には見目も全く異なっていた。あれはまさしく居たと思ったのに居ない、見つけたのに消えた、だ。
ただ疑問なのがお父さんと違って先生はただの先生という点だ。どこの学校勤めだかは何度聞いても教えてくれないけれど、いくら偉くとも給料はそんなに高くないはず。それでも狙われてしまうものだろうか。いや、ぼくが知らないだけで案外高いのかもしれない。
ともかく可哀想だ。先生もアレにあってしまっていたのか。あんなに嬉しそうに話していたのに。
「先生……元気だして、先生はすごく良い人だよ。お父さんのお酒に三回以上付き合ってくれた人をぼく先生以外に知らないもの。きっといつかまた好きな人が見つかるよ。一緒に探してあげても良いよ」
「ありがとう。でも大丈夫、間に合っている」
それって、と身を乗り出すぼくに向けて先生がいつもの爽やかな笑みを見せる。つまりそれは、そういう事だ!
「もう見つけてるんだね!?」
「ああ。あの子はつややかな髪、透ける肌に輝く目――」
並べていく項目はまるでおとぎ話だけど、一輪車の立ちこぎも逆はやぶさも余裕の先生なら本当に出会えたとしても何もおかしくない。
「さすが先生!結婚は!?する!?」
「秘密に?」
「できる!」
ジェスチャーに合わせ慌てて声を下げ、先生の声に耳を傾ける。
「今はまだ。けれどいつか、必ず」
小さなそれには信じられない量の自信と確信がそれはもう詰まっていた。そのときは呼んでよね。再び小指で約束しながら、ぼくはきっと近いだろうその日に向けて本棚の奥の奥にしまいこんだマナー本達を取り出さなければいけないぞとそればかり考えていたのだった。