つがい 雪がつもり寒さにかじかむ指先を自分の吐息で温めながら少しでも暖を得ようと幼子が一人徘徊している。すると子供の目に白くふわふわとした毛皮が映り込みそれをぎゅっと握りしめた。
「君は…」
毛皮の衣だと思っていたものはどうやら目の前にいる人物の尻尾だったようで、するりと子供の手の中から消えていく。
「あっ」
思わず手をのばすもそのおの持ち主の耳に虎の耳が着いており、薄く開いた口からは牙が覗いていた。
「やだぁ助けて!お母さん、お父さん!」
大きな瞳に涙をいっぱいに浮かべ大声で泣き始めるも、この子供の両親が現れる様子はない。
「君は一人なのか?」
「ううっ、ぐすっ…羨羨のお父さんもお母さんもいなくなったの」
「そうか…私は藍忘機、藍湛と言う、白虎の神獣だ。怖がる必要はない」
「羨羨のこと食べない?」
「食べない。君の名前は? 羨羨?」
「うん。羨羨は阿羨」
幼すぎて愛称しか分からないのだろう。薄汚れてはいるものの、整った愛らしい顔立ちをした幼子だった。
「どうしてここにいる? 家は何処だ?」
「わからない」
うつむいてしまった幼子と視線を合わせようと抱き上げる。怯えて逃げようとするものの大人の白虎に子供が敵うはずもなく逃れることはできない。
「私とともに来るか?」
そういった途端子供は視線を合わせた。
「藍湛と一緒?」
「そうだ。いやか?」
「ううん、嫌じゃない。藍湛は阿羨とずっと一緒にいてくれる? いなくならない?」
「阿羨とずっと一緒にいる」
「本当! 阿羨、藍湛大好き!」
にこりと笑う顔は可愛らしく何故か藍忘機は己の鼓動が跳ねたのを感じた。この子を何があっても姑蘇へ連れて帰ろうと心のなかで固く誓う。
「私も阿羨が大好きだ」
「うん! 藍湛と一緒!」
上機嫌に藍忘機に抱きつく小さな身体をぎゅっと抱きしめる。連れて帰るにしてもこの薄着では風邪を引いてしまうと藍忘機は一度阿羨を下ろすと、上着を脱ごうと手をかけたその時だった。
「わああ〜ん! 犬!」
わずかに手を離したその時野犬が近くに来ていたようでそれを見た阿羨が子供とは思えない速さで駆け出していってしまったのだ。
「阿羨! 待ちなさい!」
藍忘機の声など耳に入っておらず走り去っていく。犬を追い払った時には既に幼子の姿は藍忘機の視界の中には捉えることが出来なくなっていた。
茫々を探してみるもその姿を見つけることができず数日夷陵に滞在したが痕跡すら分からなくなっていた。
「阿羨…」
兄の藍曦臣が迎えに来てむりやり連れて帰るまで探し続けた。
「まだ探しているのかい?」
「はい。どうしてもあの子を探さずにはいられないのです。見つけて姑蘇に連れ帰ります」
「あの子はお前の番なのかもしれないね」
「番…」
「そう。出会ってしまったら二度と離れたくなくなるのだと聞いているよ」
番…まさにあの子に対する執着の答えだった。唯一無二の存在。だからあの子に出会ったときから惹かれ、今も会いたくてたまらない。自分のそばに置いて、誰のめにも触れないように隠してしまいたい。そんな感情が湧き上がってくるのだ。あの時は不注意でこの手からこぼれ落ちてしまった。今度こそはと
あれから13年の月日が流れた。藍忘機は時間を見つけてはあの時であった子供を探し続けていた。周りからは孤児一人で生きて行けるはずがない。もう死んでいるのではないかなどと言われ、何度も諦めるように言われたがそれでも探し続けていた。
彼が生きていれば16か17歳ぐらいになっているだろうか。幼いながらも整った顔立ちをした子供だった。蓮灰色の大きな瞳を思い出すだけで藍忘機の心は大きく掻き乱される。早く自分の傍に…焦燥は年が経つにつれて大きくなっていった。
藍忘機がかの幼子の行方を知ったのは温氏が江氏に攻め入ろうとしていたその時だった。何かが燃える音と血の匂い。不快な匂いが鋭い嗅覚を刺激するが構うことなく蓮花塢を目指した。江氏に襲いかかる温氏を鋭い爪で切り裂き蹴散らしていく。神獣である藍忘機にはただの人間など相手にはならない。殺される寸前だった宗主一族を助け出すことに成功した藍忘機は彼の行方を訪ねた。
「江宗主、貴方に聞きたいことがある」
「助けていただいたのです。私達に分かることなら何でもお応えします」
「13年前に幼い子どもを拾わなかったか? 阿羨という名の子だ」
「藍公子、何故阿羨の事を?」
「あの子はここにいるのか! 今どこに」
「あの子は確かに私が13年前に拾いました。あの子は当家の家僕で私の友人の忘れ形見なのです」
「あの子は無事だったのだな」
「はい。雲夢江氏の大師兄になるほどの才覚を秘めた子です」
「今どこに…」
これだけ会話をしていても当の本人が名乗り出る様子がない。まさか間に合わなかったのではと血の気が引いていく。
「あの子はたまたま娘の婚家である金氏のところに行っていて不在だったのです」
「そうか…彼は私が探す。今はここを離れたほうがいい。一旦雲深不知処へお越しを」
「しかし…」
「奴らはあれで全てではないはず。深手を追った今の貴方方にどうこうできるとは思えない」
「わかりました。お言葉に甘えさせていただきます」
そうして藍忘機は一旦彼らを連れて雲深不知処へ戻り兄に託すと蘭陵へと急いだ。
魏無羨が雲夢への襲撃を聞いたのは蘭陵からの帰り道で、藍忘機が駆けつけた後だった。急ぎ戻ってみると雲夢の者達は宗主夫妻を含め皆忽然と蓮花塢から姿を消していた。残されていたのはおびただしい血の跡のみだった。
(間に合わなかった…皆消えてしまった。皆いなくなる…俺をおいて…父さん、母さん、江叔父さん、江澄それに…)
呆然と立ち尽くしていた魏無羨は気づかなかった。襲撃後音沙汰のない事を不審に思った温氏の者達の存在に。背後から突然押し倒され押さえつけられる。
「お前雲夢の魏無羨だな! これはどういうことだ! お前がやったのか!」
「なんの事だ。俺は今ここに帰ってきたばかりだ」
「嘘を付くな。皆消えている。お前が殺したんだろう」
(どういうことなんだ。消えたのは雲夢の人達だけじゃないのか…一体どういう…)
魏無羨は何とか拘束から逃れようと暴れるが、暴れるほど拘束する人数が増え、その圧迫感に全身の骨が軋みだす。
「離せっ! お前らこそ雲夢の人達を何処にやった!」
「無理矢理吐かせろ!」
「やめろ!」
両脇から無理矢理立たされると試剣堂まで引きづられると、柱に拘束された。
「魏無羨、さっさと吐いたほうが身のためだ」
「だから知らないって言ってるだろ!」
「無駄口を叩かず白状しろ!」
そう言うと温氏の仙師は剣で服ごと胸部を引き裂く。真っ直ぐと切られた服の下から覗く肌には赤い筋が走った。
「っ!」
「切り刻まれかつなければさっさと…ぐぁっ」
剣を振りかぶり再び魏無羨を斬ろうとした男を睨みつけていたがその剣は振り下ろされることなく男ごと床に倒れ込んだ。
「えっ?」
何が起きたのかわからず呆然とした魏無羨の瞳が白で覆い尽くされる。
(白い…虎?)
「無事か?」
口を開けたまま固まっていた魏無羨に低い声音が降り注ぐ。
「えっ…あっ…えっと」
「怪我を?」
温氏の代わりに現れたのは真っ白い毛に覆われた白虎だった。魏無羨など簡単に食べてしまうだろう大きさだが、その瞳は金色で野生の獣とは違い知性を宿していた。言葉を喋る虎…それは神獣に他ならない。
「君…大丈夫か?」
口を開けたまま一言も発しない少年に近づいていく。
「びゃっ…こ?」
「そうだ。私は白虎の一族の姑蘇藍氏の藍忘機と言う。君は? 何故ここにいて、彼らに拘束されていた?」
「俺は…魏無羨。この雲夢江氏の…」
「魏無羨…阿羨?」
「ん? 俺の名前知ってるのか? それより皆は?」
「ここの人達なら皆姑蘇で保護している」
「本当か!? それならって、なぁこの縄解いてくれない」
「怪我を?」
縄を外してもらおうと身じろぐ魏無羨の胸元には赤い血がながれている。
「このぐらい平気だ。いいから解いてくれ! 立派な牙があるんだから噛んだらちぎれるだろ?」
「そのようなはしたない真似はしない」
そう言うと藍忘機の姿が毛に覆われた白虎から人型へと変化する。
人型をとった藍忘機は魏無羨より背が高く、頭部には白虎の時の名残で獣耳がある。全身を白い衣で見を包み、瞳は獣の時と同じ金色で魏無羨が知る誰よりも美しい人だった。
(美人だなぁ。でもどこかで…)
既視感を感じるがどこであったのかは思い出すことができない。今はそれよりも皆の無事を確認するほうが先だと意識から追い出し、縄を解いてくれるように要求した。その求にやっとほどいてくれる気になったのか藍忘機が更にちかづいてきて魏無羨の肩に手を当てた。
「縄はもう少し下…ちょっ、何するんだ! やめっ、んっ!」
あろうことが藍忘機は血の線が走る魏無羨の胸元に顔を近づけると、その跡を舌でなぞっていく。
「血なんか舐めるな!」
「君の血はとても甘い」
「いい加減にしてくれ! お前は誰だよ」
「私のことを覚えていないのか!」
「だから知らないって! いつ会ったんだ?」
藍忘機の怒りと共に縄が引きちぎられ自由の身となるが、今度は藍忘機の腕の中に閉じ込められ逃げ出せなかった。
「君がまだ幼い時に、君は私とともに来ると、帰ると言った!」
「俺はただでさえ記憶力が悪いって言われてるのに子供の頃のことなんて覚えてるわけ無いだろ? 人違いじゃないのか?」
「阿羨」
「と、突然なんだよ愛称なんかで」
「君が私にそう名乗った」
「えっ?」
「君が一人夷陵の街を彷徨っていたとき私の尾に引き寄せられて君から私のもとに来た」
「あっ…らん…じゃん?」
魏無羨は江氏に引き取られるまで両親を突然亡くしずっと孤児として彷徨っていた。その日は冬の寒さが特に厳しくぼろしか身にまとっていなかった魏無羨はふわふわと暖かそうな白い物に惹き寄せられ思わず掴んでしまったことがある。毛皮と思っていたそれは人の尻尾で不躾に掴んで怒られると身をすくめたがその人物は優しく抱き上げてくれた。孤独で寂しい思いをしていた魏無羨に共にいてくれると約束してくれた人。犬が現れた恐怖で逃げてしまって、その後すぐに江氏に引き取られそこで生きていくので精一杯で探しに行く事も出来なかった。でも、どんなに辛いことがあってもその約束が魏無羨の心を支えてくれた。ただ幼すぎてその人の姿形が思い出せず「らんじゃん」と言う名前だけ覚えていた。
「そうだ! あの時あったのは私だ。共にいるといったのにそばにいてやれなくてすまなかった」
「本当にらんじゃん?」
「そうだ、阿羨。君の名前を教えて欲しい」
「俺…俺は魏無羨! 魏嬰って呼んで藍湛!」
「うん。私は藍忘機、藍湛だ」
「うん藍湛。藍湛藍湛藍湛」
「魏嬰」
先程までの敵愾心が嘘のように消えて魏無羨の心の中は喜びに溢れ、その勢いのまま抱きつく。やっと再会することができた。ただ一人ずっと傍にいると言ってくれた人と。
「魏嬰。待たせてすまなかった。私と共に姑蘇へ帰ろう」
「いいのか?」
「もちろん。君は私の番だ。もう二度と離さない」
「つがい?」
「そう。私の唯一無二のつがい、伴侶だ」
「お、俺が!?」
「そう。君だけ。嫌か?」
「わからないけど…藍湛と一緒にいられるのは嬉しい」
成長はしたが幼い頃と同じ笑顔を浮かべる魏無羨が愛おしい。
「早く君を連れて帰って私だけのものにしたい」
あまりにも直球な告白に顔に熱が集まっていく。
「そんな…こと…」
「私はずっと君が欲しかった。余り待てないが私を受け入れて欲しい」
熱の籠もる瞳で見つめられれば心臓が飛び出るほどの鼓動を打つ。
「帰ろう」
「うん」
魏無羨が了承すると藍忘機は再び白虎の姿を取り魏無羨を乗せて風のように姑蘇へと帰還した。
姑蘇で療養していた江家も蓮花塢へと帰還し復興に努めている。しかし、魏無羨だけが雲深不知処に残っていた。藍忘機が魏無羨を己の番として連れて帰り居所である静室でともに住むことを望んだからだ。
魏無羨も初めは一緒に生活するのが恥ずかしく拒否したぎ藍忘機が頑として許さず、魏無羨も甘やかしてくれる藍忘機との生活が楽しく、安心できて今では望んでともに生活していた。その間藍忘機は魏無羨を傷つけた者を決して許さず圧倒的な力を持って温氏をねじ伏せた。
人同士の争いに基本的に神獣である姑蘇藍氏は介入しない。そのはずなのに突如として傍若の限りを尽くす温氏に牙を向いた。理由が何だったのかは市井の者たちには分からない。しかし彼らが白虎たる藍氏の怒りに触れたのだということだけが伝わっていた。詳しい事など日にちが過ぎれば人々の口からは登らなくなり、温氏の脅威に脅かされることのなくなった人々には平穏が訪れていた。
雲夢へと戻った江氏とは文で連絡を取りつつも魏無羨は藍忘機との生活を続けていた。雲深不知処内を散策していた魏無羨は自分の名前が聞こえてきたため、声のする方へとゆっくりと近づいていった。
「あの人間いつまでこの神聖な場所に居続けるつもりなんだ?」
「さあな。含光君が囲い込んでいるから誰も文句は言えないのだろう」
「含光君もどういうつもりなのか。純粋な白虎の一族であるのにただの人間を側に置くなど」
魏無羨はたしかにただの人間だ。人間と白虎では明らかに種族としての違いが存在する。力にしても寿命にしても。人間である義務線とは大きく差がある。藍忘機がどんなに想いを告げても魏無羨が了承しないのはそこにある。自分と番ってもいずれは藍忘機に負担をかけるだけでなく一人置いていくことになってしまうのだ。
(俺も虎だったら良かったのに…)
消沈した気持ちのままとぼとぼと静室へと戻っていった。
「藍湛! 見てくれ! お前とお揃いだろう?」
そういって姿を表した魏無羨は茶色のふわふわの尻尾をつけ、手には布で作られた虎の手がはめられ、更には顔にまで鬚が炭で描かれていた。
「魏嬰? どうしたのだ」
「気に入らない? お前とお揃いだぞ! こうすると番みたいじゃないか?」
「このような格好をしなくても私の番は君だけだ」
「そうだけど…似合ってないか?」
「似合っている。可愛い」
「そうだろう、頑張って作ったんだからな! お前の尻尾ほどふわふわじゃないけど上手く出来てるだろう?」
「うん。だが魏嬰、何故この格好を?」
「え? 似合ってなかった?」
「可愛かった。だが…」
「…」
「誰かに何かを言われたのか?」
「…だって俺は人間だから…藍湛と同じになりたくて」
「魏嬰。私は君の事を種族で番に選んだわけではない。君が人間だろうが虎だろうが私は君だから番になった。君が君であればそれでいい。誰に何を言われても私の想いだけを信じて」
「藍湛…」
「君だけを愛している。私の唯一の番」
「うん! 藍湛の番は俺だけ?」
「勿論」
「それじゃあ俺を貰ってくれる?」
「構わないのか?」
「うん。藍湛だけのものにして欲しい。そうしたら藍湛も俺のだろ?」
「当たり前だ」
藍忘機を魅了してやまない愛しい番は己の腕の中で艷やかな鳴き声をあげ始めた。この愛らしい生き物を生涯腕の中に隠していこうと誓った。