出会いの物語裏山には決して近づいてはならない場所がある。幼い頃から何かに付けて叔父、兄に言われてきた。今まで藍忘機は叔父や兄に言われたことをただ大人しく聞いてきたし、そこに近づきたいと思ったことは無かった。
家規で亥の刻に就寝することが決められており、宵禁の規則もある。その日もいつもと同じように寝支度をし横になろうとした時微かに音が聞こえてきた。風の音と聞き間違えるほどにか細く、だが音律を得意とする姑蘇藍氏の生まれである藍忘機の耳には確かに届いていた。普段なら気にもとめ無かったかもしれない。しかしその音が誰かの泣き声のように思えて灯りに火をともし音のする方へと向かっていった。
その音はどうやら裏山から聞こえてくるようで、どんどん進んでいくと禁足地まで来てしまった。一瞬これ以上進むことをためらったが大きく確かになっていく音に惹かれ歩みを再開すると、小さな洞窟入り口にたどり着いた。人一人がようやく通れるくらいだろうか、まだ子供の藍忘機は難なく通り抜けて行った。奥へ奥へと進んでいくと音は誰かの歌声になっていき、遂には最奥へと辿り着いた。
そこには洞窟のろう格子がついた牢があり中に人がいるのが見える。よく見ようと灯りを掲げると歌が中断されこちらに気付いた人影が声を発した。
「誰だ?」
「あなたの方こそ誰だ?」
「ん? 何だ子供か…どうした坊っちゃん、迷ったのか」
その声は若い男性のものだが、藍忘機には聞き覚えのない声だ。姿をよく見ようと更に近づき灯りでその人物を灯した。光の先にはやはり若い成人した男性が一人牢の中に座っている。やはり見たことの無い人物だった。
「あなたは何故こんな所に?」
「見てわからないか? 閉じ込められてるんだよ」
その人の体には至るところに呪符が貼りつけられており、閉じ込められているというよりも封じられていると言ったほうがいいのかもしれない。黒い羽織を纏い、その両手は白い紐のようなもので縛られている。
「なあ、お前姑蘇藍氏の子供だよな? ここには近づくなって言われなかったか? いい子ちゃんばかりのお前らが禁を破るなんて珍しいこともあるもんだ。まぁいいか…ちょうど退屈してたんだ。もっとこっちに来いよ」
封じられているというのに明るいその声に導かれるように手が届きそうな距離まで近づいていく。
「お前名前は?」
「藍忘機、藍湛」
「…藍…忘機? 藍湛?」
泣きそうな顔と声音で名を呼ばれる。
「お前本当に藍湛っていうのか? なぁもっとよく顔を見せてくれ」
本来なら不審な人物になど近づきもしないのに格子より手を伸ばしてくるその人のそばに行きたいと思ってしまった。二人を隔てるものが格子のみという距離まで近づくと、灯りが藍忘機の容貌を彩る。その顔を見た彼は息を呑み、その瞳から一滴の涙が零れ落ちていく。
「あぁ藍湛、藍湛だ。藍湛…」
自由にならない両手を格子の隙間から伸ばし藍忘機の両頬に触れる。その手に触れられることにうれしさがこみ上げてきた。
「あなたは…何なんだ?」
「俺か…俺は魏無羨、名を魏嬰っていうんだ。藍湛」
初対面の人物に名を呼ばれているのに忌避感を感じることなく、胸が締め付けられるほどの切なさがこみ上げ、藍忘機の瞳が湿っていく。そんな自分の変化に戸惑い、藍忘機は魏無羨の手を振り払って走り去り、洞窟を後にした。
静室に戻ってきても彼の…魏無羨の姿が目に焼き付いて離れない。伸ばされた手を握りしめ、その流れる涙を拭ってやりたい、ふるえる身体を抱きしめてやりたい、そんな衝動に駆られる。
「こんな感情は知らない」
振り払う様に顔を振り寝台に横になるもなかなか眠りは訪れてはくれなかった。
卯の刻、どんなに眠れずとも慣れ親しんだ習慣は藍忘機を起床へと促す。寝不足の為か重い身体を起こし身支度を整えると兄の元へと向かっていった。
「兄上おはようございます」
「おはよう忘機。どうしたんだい? 顔色があまり良くないようだが」
「少し眠れなかっただけですので大丈夫です」
「ならいいのだけれど、無理はしないように」
「はい。あの兄上…」
「何だい?」
兄にあの裏山にいる人物の事を聞こうとした。だがあの場所は禁足地であるため彼の事を訪ねればおのずと自分がそこへ向かったことを告げなければならない。後ろめたさもあり、そして何故か彼の事を他の人物に聞きたくなくて口をつぐんだ。
「何か聞きたいことでもあったんじゃないのか?」
「いえ、なんでもありません」
初めて兄に嘘をついた。しかし魏無羨の事が知りたいという思いにとらわれた藍忘機はそのまま寒室を辞し蔵書閣へと足を向けた。
彼は名を魏無羨と名乗った。その名に一つだけ心当たりがある。血の不夜天…その惨劇を引き起こした大罪人の名だ。蔵書閣で血の不夜天について書かれた書物を取り出し目を走らせていく。夷陵老祖という号を与えられた、かつては雲夢江氏の大師兄を務めていたほどの六芸に秀でた人物だった。彼ら生きていた当時は朱雀の末裔である温氏の横暴が横行しており、悲惨な時代だったと言える。逆らうものには容赦なく、力あるものは無理やり従えるか惨殺されていった。その弾圧に異を唱えたこの姑蘇藍氏も一度雲深不知処を焼かれるという憂き目にさらされている。そんな時温氏の残虐非道ぶりに団結した姑蘇藍氏、雲夢江氏、蘭陵金氏、清河聶氏の四大世家が集結し温氏を打ち破った。その時に目まぐるしい活躍をしたのが夷陵老祖魏無羨だ。魏無羨は神狐の末裔でその尾は金色に輝くほどだったと言われている。しかし夷陵老祖の号が与えられた時には彼は九尾の黒狐へと変貌を遂げていた。その力はすさまじく、屍すら操り不死の軍団をもって温氏を退けていったという。
はじめはその強大な力に頼り称えていた者たちは温氏討伐を機に畏怖へと変わっていく。平和な世にその強すぎる力は恐怖の対象でしかなかったのだ。さらに魏無羨はその力を増幅することが出来る陰虎符を発明し使用していた。その力の前では誰も立ちはだかることはできず、次第に世家と距離をあけることになった。
完全に決別したのは窮奇道での惨殺だと言われている。無垢の者達の命を温氏の残党と共に奪っていき、そのことに危機感を抱いた世家に不夜天で討伐されたとされたのが今から三百年前の出来事だ。
書を見ても自分が知りえた以上の事はやはりなく、三百年前の事なら当時不夜天に参加していた兄に聞くのが一番だとは思うが、それにはなぜそのことを聞くのかを言わなければならない。しかし、尋ねたところで返答が返ってくる保証もない。この血の不夜天について誰もが口を噤むのだ。ため息をつき藍忘機はそっと蔵書閣を後にした。
夕餉を終え、名の通り静かな室内に戻る。いつもならこんな静寂など気にも留めないというのに、その脳裏に光のささないくらい洞窟でただ独り封じられた魏無羨の姿が映る。無意識にその手には灯りが握られており、足は裏山へと向かっていった。
「藍湛! 来てくれたのか! もう来ないかと思っていた」
「それは…私にもなぜ来たのか分からない」
「まぁ細かいことはいいから、こっち来て、俺と話そう」
灯りをもち再び魏無羨へと近づく。その顔には涙の痕はなくそのことにほっと胸を撫でおろした。
「藍湛? どうした?」
「いや何でもない。貴方は誰だ?」
「ん? 昨日言っただろ。俺は…」
「名は覚えている。貴方は夷陵老祖か?」
「そうだよ。俺が夷陵老祖魏無羨だ。驚いたか?」
「あなたは不夜天で討伐されたと…」
「俺も絶対に死んだと思ってたんだけどな…気づいたらこんなとこに閉じ込められてたんだ」
「生きていたと」
「そうだよもうどれくらいになるかな? 此処にいると時間の感覚が分かんないんだよね」
「三百年だ」
「さんびゃく…そんなに経ってたのか。通りでよく寝たと思ったはずだ」
「どうしてここに?」
「さっきから質問してばっかりだな。そんなに俺の事が気になるのか? あっもしかして俺のこと…」
「くだらない」
「っ! あはははははは。久しぶりにその言葉を聞いたよ藍湛」
彼の瞳には懐かしさに細められる。しかしその視線は藍忘機を見ているようでどこか違う人物を見ているようであった。
その後毎日のように魏無羨の元へと通った。子供の藍忘機よりも子供のような冗談を言っては藍忘機を怒らせる魏無羨だが、その様子は喜びにあふれていた。
「なぁ藍湛。もうずいぶんお前がここに来てから立つけどいつになったら俺の名前を呼んでくれるんだ? もしかして忘れちゃった? 俺は魏嬰、魏嬰だよ藍湛」
「魏無羨」
「意地悪だなぁ藍湛は」
くつくつと楽し気に、しかし寂しげに笑う魏無羨はまた藍忘機を見ているようで見ていない。そのことがどうしても気に入らない。目の前にいるのは自分なのに、魏無羨の目線には、心には別の誰かがいる。そのことが嫌で意地で魏無羨と呼び続けてきた。
「藍湛は頑固だなぁ本当に」
「魏無羨。貴方は誰を見ている?」
「えっ誰って俺の目の前にいるのは藍湛だろ?」
「違う! 君は私を見ていない!」
ハッと息を飲む魏無羨を背にまたしても藍忘機は洞窟から去っていった。
あんなことを言ってしまって気まずくなった藍忘機はしばらく魏無羨お元へ行くことをやめた。何度か行こうとしたがその瞳に自分が映っていないことにどうしようもなく腹が立つのだ。制御できない感情に戸惑いでも誰かに相談することもできずただ日々が過ぎていった。
「藍湛…来なくなったな。やっぱり俺の事怒ってるのかな…会いたいよ藍湛」
夜目に慣れた自分の瞳でもうっすらとしか捉えることのできない自分の手を眺める。正確にはその手にまかれている封印を。白く汚れ一つない細い紐は彼の額にまかれていたものだ。最後に目にした時にもその額に巻かれ、流れ出る血で染まっていったもの。今はもう血の汚れ一つ残ってはいないが彼の温もりが残されているようで自分の手ごと胸に抱きしめ目を閉じた。
「なぁ藍二公子俺と友達になってよ」
雲高く存在する龍族の仙府では毎年世家の若者に座学を教示している。雲夢江氏の大師兄である魏無羨は江晩吟と共に座学へと参加をしに雲深不知処に滞在していた。藍忘機と出会ったのもこの雲深不知処だった。真っ白い公服に身を包み額には姑蘇藍氏の証である抹額が巻かれている。立ち姿ですら美しく見る者を魅了する美貌を誇っていたが、その顔には表情というものが欠如していた。しかし魏無羨はそんな事気にも留めず藍忘機にかまい続けた。基本的には怒られ、嫌がられ、避けられ続けたが、表情の変わらない藍忘機が自分といる時だけ怒りとは言え感情を表出することに喜びを感じていた。魏無羨の座学での態度は決していい物ではなく講師を務める藍啓仁に度々怒鳴られては罰を言い渡されていた。あれは蔵書閣で藍氏の家規の書き取りを命じられた時だっただろうか。一月の間藍忘機と同じ時間を過ごした。こちらには見向きもせず黙々と書に目を通す藍忘機に何かにつけてちょっかいを出し続けた。何度も名を呼び、花を添えた姿絵まで渡した。いつも「くだらない」とすげなく扱われてきたが、藍忘機と過ごす時間は楽しくてあっという間に一月経ってしまった。最後に何かしかけてやろうと書を春宮図にすり替えたときには傑作だった。あの藍忘機が耳を赤く染め、龍族の証である角と尾を出してまで怒りを露わにしたのだ。嵐のように叩きつけられる霊力を笑いながら回避し魏無羨も狐の証である耳と尾を出し応酬する。
「君という人は…」
「何だ藍湛そんな顔もできるじゃないか」
「失せろ」
「ん? なんだって?」
「失せろ!」
あの藍忘機が大声を出したことが楽しくてうれしくて蔵書閣から逃げ出した後も笑いが止まらなかった。
「懐かしい夢を見たな。あの頃に戻りたい。藍湛お前に会いたいよ」
夢の中の二人の思い出は光り輝いていたが、目を開けるとそこは相変わらず暗闇が支配していた。会いたいその言葉しかもう出てこないのではないかというくらい何度もつぶやいた。やっと会えたと思ったがその子供は魏無羨の事を知らなかった。ただ名が同じだけの他人なのか…しかしその容貌はまさにかつての藍忘機のもので、表情が変わらないところも、怒り方も同じ。ただ魏無羨の事を知らない藍忘機だった。そのことに寂しさを覚えるとともに安堵もした。自分と関わったがために凄惨な死に方をさせてしまったことを覚えていてほしくなどない。忘れてほしい、思い出してほしい、溢れ出す想いが涙と共に地面に落ちていった。
「魏無羨」
「っ! 藍湛!」
一月後ようやく姿を見せた藍忘機はゆっくりと魏無羨へと近づいていく。
「藍湛、もう来てくれないかと思ったよ。なにか気に障ったんならごめん。だから俺に会いに来て」
「…」
「藍湛? どうしたんだ? どこか具合でも悪いのか?」
黙したままの藍忘機へと手を伸ばしまだ幼く丸い頬に触れると、確かの指の先から温もりが伝わってきた。生きてる…自分の腕の中で冷たくなっていたが目の前にいる藍忘機は生きた温もりが伝わってきた。
藍忘機の頬に触れながら涙を流し始めた魏無羨の頬に藍忘機も手を伸ばす。温かな雫が指を濡らしていくのも構わずその涙を拭い続けた。
「ごめん藍湛、俺泣いてばかりだな」
「構わない。でも泣かないでほしい。貴方に泣かれるとここが痛い」
そういって藍忘機は自分の胸に手を当てた。
「やっぱり藍湛は優しいな」
「やっぱり? 私は貴方に会ったのは初めてのはずだ。どうしていつもそんな風に見つめる?」
「ごめん。でも懐かしくて…ごめん」
俯いてしまった魏無羨に再び手を伸ばそうとしたが、その手を握りしめ止めて踵を返した。
「藍湛また会いに来て」
背中にかけられた声に返事をすることなく静室へと戻っていった。
(やっぱり藍湛だよ…藍湛だ。だって俺にあんな風にしてくれるのは藍湛だけだ)
座学の光り輝く日々は自分が招いたことにより長くは続かなかった。魏無羨は両親を亡くして以来雲夢江氏の宗主である江楓眠に拾われ実子同然に育てられた。江氏には厭離、江澄という子供がおり、喧嘩をしながらも兄弟同然に育ってきた。取り分け江厭離を姉のように慕い、その婚約者である雷鳥の末裔である藍陵金氏の金子軒に侮辱されたのだ。そのことに腹を立てた魏無羨は彼を殴りつけ大喧嘩に発展した。藍忘機が間に入り何とか事を修めることはできたが、そのせいで魏無羨のみ蓮花塢へと先に戻る事になった。
「藍湛俺がいなくなって寂しいだろうから遊びに来いよ。お前に案内したいところが沢山あるんだ」
「いかない」
「そんな風に言わずに、待ってるからな!」
藍忘機に手を振り江楓眠と共に雲深不知処を後にした。ずっと藍忘機が来てくれるかもしれないと待ち続けていた。しかしやはり藍忘機が蓮花塢へと姿を現すことはなく、次に出会ったのは岐山での弓術大会だった。
「藍湛、久しぶりだな。俺に会えてうれしいだろう? それよりなんで蓮花塢へと来なかったんだよ。ずっと待ってたのに」
「行かないと言った」
「そうだけど俺とお前は友達だろう? 遊びに来てくれたっていいじゃないか」
「友…達?」
「そうだ違うのか?」
「私は君を友と思ったことはない」
「なんでだよ。俺は…」
「魏無羨! お前また藍忘機に絡んでるのか。嫌われてるんだからいい加減にしろ」
「嫌われてなんかいないって。藍湛は照れてるだけだよ」
「どこがだ、怒ってたじゃないか」
「違うってなぁ藍…」
魏無羨が振り向いた時にはすでに藍忘機の姿は姑蘇藍氏の中へと戻っていた。
弓術大会は温氏の横やりがありながらもこの調子でいけば上位に食い込むことは間違いないだろう。その途中で出会った藍忘機に声をかけるも今度は変事すらしてはくれず背を向けられた。しかし魏無羨はめげることなく藍忘機へと向かっていく。
「藍湛。お前の大事な抹額が曲がってるぞ」
「くだらない」
「違うって。本当に…」
ひらりと舞う抹額の端を魏無羨が手のしたその時、本当にずれていた抹額がするりと解け魏無羨の手に絡まり落ちる。
「あっごめん。わざとじゃないんだ」
「っ! 返せ!」
「そんなに怒る事無いだろう? たかだか抹額じゃないか」
怒りを露わにした藍忘機に手から抹額を奪い去られ呆然と見送る。男だから…気にするなそういった声が藍忘機へとかけられるのをじっと見つめていた。本当に抹額を取るつもりなどなかったのだ。端に手が触れた瞬間まるで抹額の方から魏無羨の手に落ちてきたのだ。抹額の意味を知らない魏無羨はなぜそんなに藍忘機が怒りを露わにするのか理解できない。ただ悪いことをしたという重い空気だけが残り、一位で終えたことに意識も向かなかった。
藍忘機が会いに来てくれてからすぐに眠りに付いていたようでゆっくりと意識が浮上する。封印の影響なのか意識を保っている時間は短くずっと夢を見続けていた。穏やかな懐かしい夢を。魏無羨は静かに歌を口ずさむ。この曲は藍忘機がかつて魏無羨に教えてくれた曲だった。いつも藍忘機の事を想いこの曲を歌う。そうしたら小さな藍忘機が姿を現せたのだ。
「やっぱりお前は藍湛だよ」
平穏な日々は急激に終わりを迎えた。かねてより自分たちは太陽の化身なのだといっては傍若無人なふるまいを続けてきた温氏がとうとう他を淘汰し始めたのだ。火属性をもつ彼らはいたる仙府を焼き払っていき、とうとう雲深不知処まで焼き討ちされたと耳にした。
「藍湛は? 藍湛は無事なのか?」
雲深不知処の焼き討ちを知らせに来た江晩吟へと詰め寄る。
「ああ藍忘機は生きていが、兄の藍曦臣は姿を晦ましている。しかも彼らの父親が死んだそうだ」
「そうか…藍湛は無事なんだな。それにしても温氏の奴やりたいほうだいじゃないか」
「分かってはいるが奴らの勢力は絶大だ。易々とどうこうできる相手ではない」
「やりたい放題ではないの!」
怒りを露わにした声が届いたのは夕餉の席だった。しつけのなっていない若者を指導するという名目で世家の跡継ぎたちを岐山によこせと連絡を受けたのだ。
「分かってはいるが…」
「指導するのではなく人質に寄越せ取っているのよ」
「今ことを構えることはできない。雲深不知処の事もあってどこも行動に移すことはできない」
「俺は行くよ」
岐山に赴けばどういったことが待ち受けているかは想像に易い。しかし行かずに蓮花塢に災いを及ぼすことを避けることが出来るならと江晩吟と共に参加を決めた。
岐山にたどり着くといくつもの世家の若者が集められており、そこには焼き討ちに会ったばかりの藍忘機の姿もあった。
「藍湛お前大丈夫なのか?」
「問題ない」
顔色の悪い藍忘機の事が気がかりでずっと視線で追った。暮渓山で妖退治へと無理やり行かされ、と屠戮玄武の前に二人取り残された時だった。お互い手負いで魏無羨は先ほど少女を庇って付いた焼き印が、藍忘機は足に重傷を負っていた。素直に治療させない藍忘機に抹額を取り上げたりしながら治療を終える。水に濡れた身体は凍えるようで魏無羨は尾を出して藍忘機の目前で揺らした。
「藍湛こっちに来いよ。寒いだろ」
「否」
「いいからこっちに来いよ。温かいだろう? 俺の自慢のしっぽだ」
そういって魏無羨はふさふさの尾で藍忘機と魏無羨を包む。あきらめたように目を閉じた藍忘機から静かな寝息が届いたのを確認した魏無羨もゆっくりと眠りについた。
弦殺術と屠戮玄武の体内で見つけた怨念を纏った剣で何とか二人で屠戮玄武を討伐した後、無理のたたった魏無羨が高熱を出した。体じゅうが寒く、熱く呼吸が苦しい。歌を歌ってほしい、そう要求した魏無羨に藍忘機が歌ってくれたのだ。
「あの曲結局何て言う曲名だったか教えてくれなかったな…」
薄れゆく意識の中で藍忘機の歌声がずっと耳の中で奏で続けていた。
「魏無羨…魏嬰」
子供特有の高めの声が魏無羨の名を呼ぶ。
「んん? あれ藍湛。俺また寝てたのか。あっそれよりお前今俺の名前呼んでくれた?」
「……魏無羨」
「何だよつれないなぁ。俺達友達だろ?」
「あなたは何故ここにいるんだ?」
「俺の事知らないのか?」
「知っている。でもここにいる理由は知らない」
「ふふ、そうだな俺が愚かだったからだよ」
「愚か…」
「そうだ。馬鹿で粋がっていて自滅したんだ。何もかも俺が悪いんだよ。だから自業自得なんだ」
「血の不夜天…」
「そうだ。全部俺が招いたことだ…」
温氏は逆らった魏無羨を許しはしなかった。見せしめとして蓮花塢は滅ぼされ、宗主夫妻をはじめ、魏無羨と江晩吟、江厭離を残し皆滅ぼされてしまった。温氏の傍系であった温情、温寧の力を借りて何とか逃げることはできたが、追手の手は緩むことはなく魏無羨は自分を囮にして二人を逃がすことに成功したが、魏無羨自身は囚われ乱葬崗へと落とされた。
「かつての俺のしっぽは綺麗な金色の毛並みだったんだぞ。ちょうどお前の瞳の色みたいに」
「色が変わったと…」
「そうだ。怨念を取り込んだからな。あの時に毛並みの色も尾の数も変わってしまった」
乱葬崗へと突き落とされた魏無羨が目にしたのは怨念に支配された不毛の地だった。霊力を封じられた魏無羨は怨念相手にどうすることも出来ずに囚われていく。
(藍湛…)
気が狂いそうになる苦しみに喘ぎながら恨みとそして白いその姿を糧に生き延びることに成功した。しかしその代償が大きく霊力で満たされていた身体は妖気に変わり、それと共に黒い妖狐へと変貌してしまったのだ。
蓮花塢が滅ぼされたことにより奮起した世家の者達は藍曦臣、聶明玦を筆頭に射日の征戦を始めた。
行方知れずとなっていた魏無羨が姿を現したのは、温氏が変死を遂げ始めた時だった。監察府へと現れた魏無羨の姿はかつて黄金色の尾をなびかせた魏無羨ではなくその毛並みは全て陰気の黒に染まっていた。
「魏嬰その姿は…」
「ん? ああ死にかけたからな。色何てどうでもいいだろう?」
「今使った力は妖気だ。そんな力を使ってはお前の身に影響が…」
「だったらなんだ? 俺がどんな力を使おうと俺の勝手だろう? こいつらを殺せさえすればそれでいい」
「しかしっ」
「くどい!」
「魏嬰…私と共に姑蘇へ帰ろう」
「お前はそんなに俺の事を罰したいのか? 姑蘇藍氏なら何をしても許されるなどと思うな」
「違う! 私は」
「どけっこれは雲夢江氏の問題だ。お前には関係ない」
魏無羨は黒い笛を奏で再び屍たちを操りはじめる。次々と温氏たちは屍に食われていき温晃をはじめとした者たちにかたき討ちを果たすことが出来た。金光瑤の功績もあり射日の征戦は勝利を迎えることが出来た。平和が訪れた世の中に妖気を纏い陳情、陰虎符を使い絶大な力を持つ魏無羨の存在は畏怖の対象となった。かねてより黒狐は不吉の象徴として忌避されている。しかも九尾の妖狐として変貌した魏無羨のその姿、そしてかつては明るい笑顔を浮かべる青年だったはずが、常に影を纏うその姿に恐怖と、絶大な力を奪おうとする者達のけがれた欲望の的となった。
何度も藍忘機は姑蘇へ帰ろうと魏無羨に告げた。しかしその同じ数だけ断ってきた。藍忘機の手を振り払い、かつて恩を受けた温氏を助けるために世家に歯向かい孤立した時も藍忘機だけは魏無羨に向き合い続けてくれていた。怨念が常に付きまとい蝕まれていく身体と心の中でただ藍忘機と過ごす時間だけが安らげる時間だった。他愛のない話をして笑う、雲深不知処で過ごした日々が思い出され、同時にもう二度とあの頃へと戻ることが出来ないのだいう事実に落胆する。本当は姑蘇へ帰ろうという藍忘機の手を取りたかった。何もかも振り切ってただの魏無羨として藍忘機の傍に居たかった。だが自分で選び取った道がそれを許しはしなかった。温氏を見捨てることも、妖気を捨てることも出来ない。守るためには力がいる…陳情も陰虎符も抑止力になるため渡すことなどできなかった。
しかし今になって思う。何もかも捨てていればどうなっていただろうかと。
「魏無羨?」
黙り込んでしまった自分を心配する声音が届き顔を上げる。そこには失ってしまったっはずの面影をもつ子供が立っていた。
「藍湛…ごめんな、ごめん」
「なぜ謝る? あなたは出会ってから謝ってばかりだ」
「俺が悪いんだ…だからごめん藍湛」
ごめん、ごめんと謝り続ける魏無羨をどうにかしたいとは思っても隔たれたこの場所からできることはない。ただじっとその姿を目に焼き付けていった。
「忘機」
再び魏無羨の元へと通い始めた藍忘機に兄の藍曦臣が声をかけた。
「最近毎晩どこに行っているんだい」
「罰は受けます」
「そういうことじゃないよ。どこに行っているのか教えてほしい」
「……裏山に」
「彼に会ったんだね」
「兄上は魏無羨の事を知っているんですか? 彼は何故あそこに封じられているのですか?」
「あれは彼のためだよ」
「彼のため…?」
「そうだ。ああしなければ彼は自分で自分の命を絶っていただろう」
「どうして…彼は自分が悪いのだとずっと私に謝るのです」
「忘機…私には忘機という弟がいる」
「私ですか…」
「どうだろうね」
「どう言う…
「それはお前自身が答えにたどり着かなければならない事だ。そうしなければ彼も、忘機も救われない」
同じ名前の人物…魏無羨がいつも見ていたのはその人物なのだろうか。答えの出ない問いを考え続ける。魏無羨に聞けば何か答えてくれるだろうか。だが、なぜかそれを尋ねるのができなかった。お前ではないのだと彼に突き付けられるのが怖い。
「私をみて魏嬰」
夢を見た。普段は他人と接触することを嫌うのにその人物の頭を膝に乗せ霊力を注いでいる。熱でうなされる身体に清廉な気を送り続けた。すると少し楽になってきたのだろうか彼は寝返りをうち藍忘機へと顔を向ける。そして抹額の端を握りしめてきたのだ。以前彼に抹額をほどかれた時には怒りを露わにしたというのに、今は好きにさせるどころか、自ら解き手に握らせてやった。
「傍に居て…一人にしないで」
「傍に居る。ずっと君の傍にいる魏嬰」
(傍に居ると言ったのに私は…)
卯の刻いつも通り目を覚ました藍忘機は何かの夢を見ていたように感じた。大事な夢だったはずなのに、その夢が何であったのかが分からない。でも堪らなく魏無羨に会いたくなった。
「こんな時間に来るなんて初めてだな」
洞窟の隅から微かに届く陽の光でまだいつも藍忘機が訪れる時刻ではないことが分かる。
「この時間は勉強の時間じゃないのか?」
「さぼった」
「さぼった⁉ 真面目なお前が? ははっ、どうしたんだ藍湛」
「あなたに会いたくなった」
「――っ」
会いたいとそう告げたとたん魏無羨の顔は泣きそうにゆがむ。
「夢を見たんだ」
「夢? どんな?」
「分からない。でもなぜかあなたに会いたいと思ってしまった。魏無羨教えてほしい。私は誰だ?」
「藍湛は藍湛だ。でも藍湛はそのままでいいよ。何も知らなくていい」
「私は知りたい。どうしてこんな風に思うのか」
「駄目だっ!」
「魏無羨?」
「駄目だ藍湛。頼むから何も知らないままでいてくれ」
「私は…」
「藍湛もうここには来るな」
「魏無羨!」
「いいから失せろ!」
いつも笑顔か泣き顔しか見たことはなかく、魏無羨が起こった姿を見たことはなく、また、このように大声で怒鳴られたこともなかった藍忘機は身をすくめた。呼びかけても膝に顔を埋めたまま動かなくなった魏無羨に「また来る」と言い残して去っていった。
「もう来るな。もう俺にかかわるな。そうじゃなきゃお前はまた…」
なにも捨てられなかった。だから背負い込み続けた。でもとっくに自分が背負える限界を超えてしまっていたのだ。力を望む者たちにとってただ独り弱者を守り続ける魏無羨など格好の的でしかない。身内の情を利用され赴いた窮奇道では多くの仙師達が陰虎符を奪おうと待ち構えていた。自分の命令に従うはずの陰虎符が言うことを聞かず暴走を始めたのだ。陰虎符が命を吸いつくしていくのをただ茫然と見つめることしかできず、築いた時には世家全てを敵に回してしまった。匿っていた温氏は皆殺しにされ何もかも失った魏無羨はただ独り決起大会をしている不夜城へと赴いた。
怨念により既に正気を失いつつある魏無羨は思いのままに妖気を使い襲い来る者達を退けていく。命を奪えば奪うほど陰虎符の力は増していく。そんな時魏無羨の前に藍忘機が立ちはだかった。
「魏嬰もうやめるんだ。陰虎符をとめろ」
「なぜだ? これを使うのをやめて嬲り殺されろっていうのか?」
「違う。魏嬰姑蘇へ帰ろう。陰虎符も君のその姿もどうにかする方法があるはずだ」
「そんなことを言ってお前も俺から奪うつもりか!」
「魏嬰」
「夷陵老祖を殺せ!」
誰かの叫ぶ声に呼応した者たちが弓を取り魏無羨へ向ける。妖気を使って弾き飛ばそうする前に藍忘機が前に立ちはだかった。
「藍湛…何を」
「君に手出しはさせない」
そう言うと藍忘機は霊力を解放しその頭部には水晶のような角が、衣の下からは藍色の輝く鱗に覆われた尾が現れる。藍忘機は水を操り仙師達と自分たちの間に結界を張った。
「魏嬰今のうちに逃げよ」
「でも…そんなことをしたらお前が…」
「私の事は構わない。君が無事であればそれでいい」
「なんで…なんでなんだ。なんでそんなに俺の事を…」
魏無羨が手を伸ばした時藍忘機の身体が揺れた。
「藍湛?」
「っ、問題ない」
藍忘機の背には矢が何本も突き刺さっており、そこから血が流れ落ち、白い衣を汚していく。
「藍湛! 止めてくれ! もういいお前だけでも」
「駄目だ。君を一人にはしない」
止めどない血が藍忘機の美しかった鱗を汚していく。こんなに沢山の血を流せばいくら龍族と言っても無事ではすまないだろう。
「ごめん藍湛俺のせいだ。俺が…」
「君は何も悪くない。これは私が望んだことだ。これ以上誰にも君を傷つけさせない」
「だからってお前が傷つくのは…藍湛!」
藍忘機の力はもはや限界に近づきつつあった。大量の血と共に藍忘機の霊力も流れ落ちていく。それでも魏無羨を守ろうとその身体をもって盾となり続けた。
「もういい、もういいから。逃げてくれ。これ以上やったら藍湛が死んでしまう」
「大丈夫だ。私は死なない」
「何でなんだ、何で俺のためにこんな…俺の事嫌いじゃなかったのか」
「嫌いではない。私はずっと君を…」
何かを伝えようとした藍忘機の声が途切れる。顔をあげた魏無羨が目にしたのは崩れ落ちる藍忘機と、その背後で剣を持つ人の姿だった。
「ら、らんじゃん?」
藍忘機の霊力の乗った血が剣から滴り落ちていく。
「龍族が妖狐など庇うとは落ちたものだな」
藍忘機の背中からは止めどない血が流れ落ちる白い衣は真紅に染まっていく。男の事など目に入らず魏無羨はその赤に釘付けになった。震える手で藍忘機の肩を揺らすが反応が無い。
「藍湛、藍湛、藍湛…」
うつ伏せのままの藍忘機を仰向けにして膝に抱え込む。何度も名を呼びながら頬を叩くもその金色の瞳が開かれることはなかった。
「藍湛…嘘だ、なぁ何かの冗談だろ? 俺が悪かったから止めてくれ。なあ藍湛!」
流れ落ちる涙が藍忘機の頬に落ちていくがいつも伸ばされた手は涙を拭ってくれることはなかった。
「嫌だ、藍湛。大丈夫だって言ったじゃないか。龍族は強いから大丈夫だって…なぁ起きてよ。起きてまた俺を叱って。こんなの嘘だ、なぁ藍湛藍湛藍…湛」
胸の中に藍忘機の頭を抱え込む。妖狐の気では藍忘機の力にならないことはわかっているがそれでも何度も藍忘機に気を送った。九つの尾が力を失いまた一つまた一つと消えていく。それでも藍忘機は目を覚ますことはなくどんどんその温もりが消え去っていった。
「藍湛、いやだ、いなくならないで…一人にしないで」
「自業自得だ。妖狐等と共にいるから罰が下ったのだ」
罰? 藍忘機が一体どんな罰を犯したというのか。誰よりも規律に厳しく清廉潔白であり続けたのに。
「自業自得?」
「そうだ。妖ごときが分不相応な物を持つからこうなる。夷陵老祖、陰虎符を渡せ」
「陰虎符? ははははははははっ」
涙を流しながら笑い続ける魏無羨の周りを仙師達が囲っていく。
「欲にまみれた者共が、そんなにこれが欲しいならくれてやる」
懐より陰虎符を取り出し掲げる。そこからおびただしい陰気が噴出し周囲の者たちの命を奪っていった。
「魏無羨!」
遠くから義弟の声が耳をかすめたが藍忘機の亡骸を抱きながら血の涙を流す魏無羨には届かなかった。
「魏無羨やめろ!」
「魏公子…もう我を忘れている。このままでは…」
「沢蕪君…どうすれば」
「命を奪うかあるいは…封じるしかない」
「あいつが抱いてるの、あれは」
「忘機だろう」
江晩吟は藍忘機の兄である藍曦臣を見つめた。あの様子では生きてはいまい。藍忘機が死んだから魏無羨はああなってしまったのだろう。
「沢蕪君封じの儀を」
「そうだね。命を奪うことはできない。忘機がその命をとして守ったのだから」
狂ったように笑い続ける魏無羨を何とか封じることに成功すると二人を密やかに雲深不知処に連れて行った。
雲深不知処に連れていかれた魏無羨は洞窟の奥へと封じられた。しかし目が覚めた魏無羨はただひたすら歩き回り、外へ出ようとした。
「藍湛、藍湛どこにいる? 俺を一人にしないでくれ。なぁ藍湛はどこに行ったんだ? 何で俺の傍に居ないんだ? 江澄、藍湛を返してくれ…藍湛藍湛藍湛」
藍忘機を探しに行こうと何度も封印を解こうとする魏無羨の姿に顔をゆがめる。
「藍忘機はもういない!」
「うそだ! 言ったんだ。大丈夫だって…龍族だから大丈夫だって言ったんだ…藍湛俺はここだ…ここに来て…俺の傍に居てよ…」
藍湛と何度も名を呼びながら逃げ出そうと妖気を放出していく。そのたびに封印からの反発でその体は傷ついていった。傷だらけになり、妖力が底をついてもなお出ようとする魏無羨の様子に皆が目線を逸らせる。人々を恐怖に陥れた夷陵老祖の姿はそこにはなく藍忘機を失い絶望し涙を流し続ける魏無羨がそこにいた。
「封印の強化を」
「藍先生…」
「これ以上続けさせればあれは死ぬだろう。だが忘機が命を懸けて守った命だ。失わせるわけにはいかん。曦臣」
裂氷を取り出し奏で始める。すると魏無羨の力がだんだんと勢いを無くし地面に崩れ落ちていった。
「沢蕪君何を…」
「眠りにつかせる。彼の身体が、心が癒えるまで」
「癒えるわけないだろう…藍忘機がいないのに」
深い眠りにつかされたかつての義兄の姿を見ながらぽつりとつぶやく。夷陵老祖として誰の言葉も、姉のことですら受け付けなかった魏無羨が唯一耳を傾けていたのが藍忘機だ。その藍忘機は死してもうこの世には存在しない。癒えることのない苦しみが長引くだけのその封印をじっと眺めていた。
あれから何度も藍忘機は魏無羨の元を訪れたが彼は何の反応も示すこともなくなった。始めのうちは「去れ」と何度も言われたがそれでもあきらめることなく来続ける藍忘機を視界にとらえることすらしなくなった。
「魏無羨また来る」
毎日そう言って洞窟を後にする。言い知れない感情が二人の心をうめつくしていった。
「魏公子目が覚めていたんだね」
「沢蕪君か…」
「私の事を覚えているんだね」
「忘れるわけないだろ。三百年たったそうだが、ずっと眠らされてた俺にはついこの間の出来事だ」
「最近目が覚めたのかい?」
「ああ。そうしたらあいつが…小さな藍湛がいた。あいつは…」
「誰だと思う?」
「あいつなはずない…だってあいつは、藍湛は俺のせいで、俺の手の中で死んだんだ」
「魏公子…」
「あんたも俺を恨んでるだろう? 大事な弟を死なせたんだ」
「恨んでなどいない」
「うそだ」
「噓ではないよ。恨んでいたら君をここに封じ込めたりはしていない」
「はっ! 恨んでるから閉じ込めてるんだろう?」
「魏公子、君を死なせないためだ。実際できないだろう? それが君の手にある限り」
そういわれて魏無羨は自分の両手を戒める紐を見つめた。
「封印を解くにはそれを引きちぎるしかない。できるかい?」
できるわけがない。これは藍忘機の抹額なのだ。何も残らなかった魏無羨が唯一手に残すことが出来た形見なのだ。
「忘機は命を懸けて君を守った。私は…私たちはその思いを叶えているだけだ」
「でも…ここにいて何になる? 藍湛はいないのに俺独りこんなところにいてどうすればいいんだ。藍湛がいないんだ。藍湛が…。藍湛に会いたい」
「なら会いに行けばいいのではないか? あの世へ」
二人だけしかいないと思っていた空間に第三者の声が届く。
「阿瑤…なぜここに?」
「二兄君。何故って当然夷陵老祖を討伐するためですよ」
「ここへの立ち入りを許可した覚えはないのだけどね」
「この三百年うまく隠していましたね。まったく気配感じることが出来なかった。ですが最近になって微かにここから妖力が漏れ出ているという話を聞きまして。失礼ながら後をつけさせてもらいました」
「相変わらず金氏のすることは品がないな」
「これは夷陵老祖。ご挨拶をせずに申し訳ありません。私は…」
「覚えてるさ金光瑤。お前もよくばかりが強かった父親と同じだな」
「何とでも…それよりも覚悟をされた方がいいのでは?」
「覚悟ねぇ、死ぬことなんて怖くはない。あんたの言った通り藍湛がいるかもしれないからな。だがあんたに殺されるつもりはない。なぁ金光瑤何であんたから陰虎符の気配がするんだ? あれは壊したはずだ」
「ええ壊されましたよ。でも半分になったものでも十分な威力を発揮します」
「そんなになるまで一体何人犠牲にした?」
「さぁ覚えていませんね」
陰虎符は命を吸えば吸うほど力は増幅する。あれほど禍々しい気配をもつには数百の犠牲では済まないはずだ。
「阿瑤なんてことを…」
「兄君には申し訳ありませんがそこをどいてもらえますか? あなたまで殺させないでほしい」
「魏無羨!」
陰虎符を掲げた金光瑤に子供の声が割って入った。
「藍湛! 来るんじゃない!」
「忘機」
「これは一体どういうことですか? 夷陵老祖に続き含光君までとは…」
「金光瑤なぜここに? 此処は姑蘇藍氏の禁足地のはず。今すぐ他の者達も連れて退去せよ」
「どういう理屈かは後で追及しましょう。邪魔はしないでいただきたい含光君。もう一度死にたくはないでしょう?」
「死ぬ…どういうことだ私は…」
「藍湛聞かなくていい…俺を置いてさっさと行け。沢蕪君何をしてるんだ。早く藍湛を連れて行ってくれ」
必死に藍忘機を逃がそうとする魏無羨の意志に反し藍忘機は近づいてきて金光瑤に小さな体で立ちはだかった。
「どうされますか?」
「構わない。どうせ目撃者は消さなければならないのだから皆始末すればいい」
「やめろ! やめてくれ! 殺すなら俺独りでいいだろう。藍湛は関係ないんだ。藍湛逃げろ、逃げてくれ頼むから」
「否! 私は君を置いていきはしない」
「駄目だ、そんなことをすればまた俺はお前を失ってしまう」
「随分想いあっているようですので二人まとめてあの世へと送ってあげましょう」
「阿瑤!」
藍曦臣も剣を抜き応戦しようとするも多勢に無勢で二人に近づくことが出来ない。
藍忘機は矢面に多々され、そのまま射られる覚悟をした。魏無羨を傷つけさせはしない、その思いだけで。しかし一向に痛みは訪れることはなく代わりに視界が赤く染まる。
「魏無羨!」
格子の隙間から藍忘機を抱き寄せた魏無羨はその腕に矢が突き刺さっていたのだ。
「なぜだ」
「言っただろう? お前を失いたくないって。前はお前が俺を庇ってくれた。だから今度は俺の番だ。お前は何もしなくていい」
「魏無羨」
「俺の事なんか忘れたままでいい。ただ生きていてくれたら俺はそれで満足だよ。最後にお前に会うことが出来てよかったよ藍湛。生きてくれ」
魏無羨を戒めていた抹額がぼろぼろと塵のように崩れ落ち魏無羨から妖力が溢れ出す。それと共に九つの黒い尾がゆらりと揺らぎ妖気が立ちはだかる者達を薙ぎ払っていった。
「ちっ封じられていてなおこれ程の力があるとは…」
「藍湛今だ! 早くいけ。そんなに長くはもたない」
「あなたも共に」
「お別れだ藍湛。お前に出会うことが出来てよかった。もしもう一度会うことが出来たらお前に聞きたいことが沢山あるんだ。さようなら、藍湛。ありがとう」
魏無羨は藍忘機を包むように術を編んでいく。
「駄目だ!」
魏無羨が行おうとしているのは藍忘機を別の場所へと飛ばす術だ。このまま彼と別れてしまえばもう二度と会えなくなる。せっかくもう一度会うことが出来たのに、この想いを伝えることが出来るのに。そうだ…私は彼をずっと…。
魏無羨の術と打ち消すほどの眩い光が藍忘機から溢れ出す。目をつぶさんばかりの輝きに洞窟内が包まれ、誰もが目を瞑った。
「藍…湛?」
目を開けた魏無羨の前にはかつて死に別れた時と同じ大人の姿をした藍忘機が立っていた。
「魏嬰」
「らんじゃん? 本当に藍湛なのか?」
「そうだ。私だ魏嬰」
「ああ藍湛だ。俺の名前やっと俺の名前呼んでくれた」
あふれる涙に目の前の藍忘機の姿がゆがむ。もっと近くで感じたく格子の中から精いっぱい手を伸ばした。藍忘機はその手をぎゅっと握り占めたかと思うと格子に手をあて邪魔だと言わんばかりに粉砕する。
「魏嬰」
「藍湛藍湛藍湛」
抱き着いた藍忘機からは懐かしい匂いに包まれる。藍忘機も抱き着いてきた魏無羨を隙間なく抱きしめた。
「やっと君を抱きしめられた」
「藍湛…お前何で俺を置いて死んだんだよ。大丈夫だって言ったじゃないか。死なないってなのに…」
「すまない魏嬰」
「もういい。もういいから藍湛傍に居てくれ。俺を独りにしないで」
「傍に居る。君の傍にずっと。私は君を愛している」
「愛…」
「そうだあの時君に伝えたかった言葉だ。私は君を嫌ってなどいない。ずっと君だけを愛している」
「藍湛…俺も」
「そろそろいいですかね?」
「金光瑤か…全てお前のたくらみか…」
「だったらどうします含光君? 陰虎符は私の手にある。龍族といえどもあなたに何ができると? 一度死んだだけでは懲りないらしい」
「藍湛今度こそ陰虎符を壊す。藍湛も力を貸してくれ。二人ならどうにかできる」
「わかった」
魏無羨が陰虎符の陰気を妖気で操り打ち消していく。もともとは魏無羨の物なのだ。もとの主に呼応するように陰虎符は陰気が減退していく。
「何故だ…あれほど」
「命を吸わせたのにか? 所詮それは欠片に過ぎない。もとのようにはいかないさ」
「そんなことはない! 私はこれで私を馬鹿にする者どもに制裁を」
「くだらぬ」
「何を…」
藍忘機が避塵で陰虎符を突くと粉々に砕け散っていった。
「陰虎符が…」
砕け散った陰虎符は陰気を放出し傍にいた者の命を吸い取り塵のように消えていった。
「共にいったか」
当然持っていた金光瑤の命は陰虎符と共に崩れ去り、この世から消えていく。主を無くした者達は沢蕪君の指示のもと姑蘇藍氏の者達に捉えられていった。
「藍湛。夢じゃないんだな。目が覚めたらまたお前がいないなんてことはないよな」
「夢ではない。私はここにいる」
「ずっと一緒にいてくれるか?」
「君の傍を離れない。君を愛している。魏嬰君は?」
「俺も愛してるよ藍湛。もう俺を離さないでくれ。独りにはなりたくない。藍湛がいないと俺生きていけない」
「なら私と共に生きよう」
「うん」
藍忘機は魏無羨の唇を捕え噛みつくように口づけをする。
「んんっ、あっ藍湛…」
「魏嬰、愛してる」
「うん」
何度も深く想いを交わすように口づけを交わした。
「それにしても何で…」
「おそらく龍玉の力だ」
「奇跡を起こすだったか?」
「そうだ。私は父の形見として龍玉を持っていた」
「そっか。藍湛のお父さんが助けてくれたんだな。おかげで俺はまたお前に出会うことが出来た。今度一緒に線香を上げに行こう。貴方のおかげで愛する人と出会えたって伝えたい」
「うん。雲夢にも行こう」
「そうだな。江澄怒ってるだろうな」
「江晩吟などに君を怒らせたりはしない」
「あははは頼もしいな藍湛。でもいいよ。一緒に怒られに行こう」
「どこまでも」
「うんずっと一緒に」
暗闇の中で逢瀬を繰り返してきた二人はやっと日の光の下で再び出会うことができた。優しく穏やかな風が二人を祝福する様に通り抜けていった。