【燃晩】乳白色と朝 目が覚めるといつも、なにもない朝が隣でねむっている。
空を切るばかりの指先が朝陽に溶けていくことを、斜陽が世界を閉じていくことと同じように恐ろしく思ったのは、いったい、いつのことだっただろう。
鎖骨の上に小さくてまるい錘がふたつ乗っていた。湿ったような「ふすふす」という音が聞こえ、やわらかなものが幾度となく頬をこする感触がする。濃藍の水底をたゆたっていた墨燃は、水面から差し出されたほのかな感触に手を伸ばす。水を吸って重たくなった瞼をうながされるままにこじあけると、朝のひかりのような白と薄紅が視界いっぱいにひろがった。
「……おはよう、晩寧」
薄紅の耳がぴくりと動く。まろい曲線をえがく額が墨燃の頬からぱっと離れた。晩寧と呼ばれた彼の愛猫は、ひらかれた黒紫を見とめると首をこてんと傾けてゆっくりとまばたきをする。
「今日も早いね……おなか空きました?」
つい今しがた頬に触れていた額を、墨燃はそっと指先でくすぐる。白い生きものは心地よさそうに目を細め、墨燃のてのひらに顔の側面をこすりつけた。とろり、と熱に溶かされた蝋のように心がほどけていく。寝ぼけまなこなこの一瞬、彼の愛猫はいつもより甘えたになる。普段はあまり触らせてもらえないふかふかの身体を存分に堪能できる唯一のひとときなのだ。じっとしてなされるがままになっていた晩寧は、満足したのかしていないのか気まぐれにベッドから飛び降りた。その影を追うように、横になったままの墨燃も視線を巡らせる。
カーテンの隙間から差しこんだ陽光が、暗い室内にひかりの道筋をつくっている。彼の白い猫はその道の上で行儀よく前足を揃え、すました顔をして佇んでいた。揃えられた前足はつきたての餅のように白くふっくらとしている。ひかりを受けた身体は淡くきらめき、まるで絹のベールを肩からかけているように見えた。
綺麗な生きものだ。
無意識のうちに、たわんだ糸のようになっていた墨燃の口元がさらにゆるむ。「くるる」と微かな音が鼓膜をゆらすと、墨燃は整った顔容に笑みを湛えながら身体を起こした。カーテンをあけ、朝の清潔なひかりを部屋いっぱいにとりこむ。白い彼が、すこしだけまぶしそうに顔を顰めた。
ミルク色の和毛をまとったうつくしい獣は、名前を楚晩寧という。
彼はしなやかな尻尾をぴんと立て、得意げな様子で墨燃をキッチンへと誘導した。これは彼なりの朝ごはんの催促だ。誘導といってもワンルームの室内では数メートルの距離でしかないのだが、晚寧は墨燃が後ろにいることを確認するように何度も振り返りながら、てくてくと小さな歩幅で歩いていく。小ぶりなおしりが機嫌よくゆれている様子を見ていると、墨燃の胸中にあたたかなものがひろがった。この子も随分と自分に慣れてくれたなあ、そんな感慨深さがこみあげる。
「晩寧、今のカリカリはお気にいりだね」
キッチンの戸棚から白い彼が最近よく食べているドライフードの袋を取り出した。綺麗に洗ったガラスボウルの表面が、魚のかたちをしたそれらを弾いては軽快な音を響かせている。晩寧は墨燃が用意したごはんであればきっちりと食べきる「えらい猫」なので、一回の食事の量には気をつかっていた。……もちろん、きっちりと食べてくれるようになるまで、墨燃は晩寧の食の好みを辛抱強く観察してきたのだけれど。
「このカリカリ、実は三駅先のスーパーにしか置いてないんですよ」
なにげなさを装った小さな呟きが墨燃の口元から滑り落ちた。ほめられ待ちの彼はそわそわと視線を下に向ける。するといつもの定位置で食事を待っていた晩寧が、視線に気がついたのかふっと彼を見上げた。その顔には「よくやった」なのか「とうぜんだ」なのかは人間の墨燃にはわからないが、どこか満足げな色が浮かんでいる。
「……ふふ」
ゆっくり食べてくださいね。笑みが混じった声でそう言って、フードと水をセットする。すこしして「かりかり」という上品な咀嚼音が聞こえてきた。墨燃は小さく頷いて立ちあがり、朝に飲むことが習慣となったインスタントコーヒーを淹れる準備をはじめる。本当は専用のミルを買って豆を挽くところから……という思いがあるのだが、ミルのおおきな音は晩寧をびっくりさせてしまう。晩寧をいちばんに据えることは、墨燃のなかではもはや日常となっている。だからコーヒーミル購入の夢が検討前に潰えても、すこしも問題はなかった。
湯気をたてるコーヒーを片手に窓際のベッドへと腰かけた。苦いそれを口に含み、キッチンでごはんを食べている晩寧の姿をぼんやりと眺める。そんな静かで穏やかなひとときが、墨燃はいっとう好きだった。レースのカーテンを通過して、朝陽はそのかたちをやわらかく変えていく。やさしいひかりの粒で満たされた部屋のなか、墨燃は今日もまた、彼の白猫が連れてきた朝を大切に過ごしている。
朝の六時ちょうど。晩寧は朝ごはん、墨燃は朝のコーヒーでそれぞれの胃をみたす。それは一緒に暮らしはじめてからの二年間で、すっかり定着した彼らのモーニングルーティンだった。
彼らの出会いは、海棠の木が見事な花を咲かせたある春のことだ。
ひとり暮らしのアパート近くの公園で、墨燃は傷だらけになった一匹の白猫をみつけた。その白猫は衰弱してもなお清らかさを失わず、まるで春を招きいれる雪解け水のように凛とした佇まいの野良猫だった。もともとどこかで飼われていたのだろう、ぼろぼろになった首輪には「楚晩寧」とだけ記載されたプレートが辛うじてひっかかっている。痩せこけた身体は彼がひとりぼっちで放浪した月日を克明にものがたり、穢れのない琥珀色の瞳だけが鮮やかにきらめいて、墨燃の心臓をまっすぐに射抜いた。
目覚めたばかりの太陽のような、産声を上げる満月のような一対の瞳が、必要だと強く思った。なにもない朝に怯え、途方もない夜に立ち尽くす自分には、絶対に。
ふと現れた白い獣は、墨燃にその場で「猫とのふたり暮らし」をはじめる決心をさせてしまった。学費の一部と生活費をアルバイトで賄っている大学生の彼にとって、別の生きものを迎えいれることは簡単な話ではない。しかしそれでも、高潔で、さみしそうで、人知れず春をはぐくむ清水のような白猫のことを放っておくことが出来なかったのだ。それはきっと、掬い上げることで救われたかったのかもしれない。
「んっ」に濁点がついたような短い声が聞こえて、墨燃は我に返った。
慌てて首を振り向けると、ごはんを食べ終えた晩寧がのそのそとベッドにのぼってくる姿が目にはいる。白い彼はベッドに腰かけた墨燃の背後を迷うことなく進んでいき、墨燃の後頭部のかたちにへこんだ枕に身体をぼすんと預けた。
「枕、好きだね。晩寧」
晩寧の顎下に人差し指を伸ばす。そして、容赦なくがぶりとかじられた。どうやら朝の甘えた彼はもう営業を終了してしまったらしい。墨燃は噛まれた指先を引くこともせず、そのまま「痛いよ」と微笑んだ。小さな口から気まずげに離された指の腹をざらりとした感触が撫でていく。晩寧は彼を呆れたようにじっと見つめたあと、墨燃の枕に身体をすりつけてくるりとまるくなった。
からっぽになったマグカップをベッドサイドのテーブルに置き、墨燃は晩寧の邪魔にならないよう気をつけながらベッドに転がった。ベッドからはみ出てしまった長い脚が足元に設置されていたキャットタワーを軽く蹴り、そういえば、と思い出す。
「こっちでは寝なくなったなあ……」
キャットタワーを見上げると、いちばん上のステップから墨燃をじとりと見下ろす晩寧の姿が目に浮かぶようだった。一緒に暮らしはじめた当初、晩寧は一日の大半をあの場所でねむって過ごしていたのだ。朝起きておなかが空いていても今のように墨燃を起こしに来ることはなく、ただ鋭い眼光を閃かせ「起きろ」という圧を上からかけてくる猫だった。
共に過ごす時間が長くなるにつれて、晩寧はすこしずつ寝床を引っ越しさせていった。最初はキャットタワーの上、次に墨燃のベッドの足元、墨燃のおなかのあたり。そして今となっては毎日、墨燃の枕元ですやすやとねむっている。
「……晩寧」
シーツに頭を預けたまま上を向くと、細くひらかれた琥珀色と視線が絡んだ。朝のひかりを受けてきらきらと澄んでいる瞳のなかに、角が削れて随分とやわらかくなった自分の顔が映りこんでいた。透明な水晶のなかに閉じ込められた蜂蜜をじっと見つめる。懲りずに指先を伸ばすと、それはすっかりふわふわに生え揃った白い毛並みに吸い込まれる。触れた場所からぬくい体温が墨燃に移ってきて、血脈に乗って心臓をじわりとあたためた。
「晩寧、おはよう」
どうしてかもう一度言いたくなって、墨燃は小さく呟いた。ぴくりと動いた薄紅の耳が、その呟きを零すことなく拾い上げる。まんまるにひらかれたふたつの太陽が、墨燃の姿を鮮やかに照らしだした。
目が覚めるといつも、ミルク色の生きものが墨燃を見つめている。
手を伸ばせば確かなぬくもりが指先に触れ、斜陽が閉じていく世界には白くてまるい灯火がゆらめいた。彼の白い猫はいつだって彼のねむりに付き添って、いつだって彼に朝を連れてくる。
乳白色の朝は、にゃあ、と小さく声を上げた。
了