【燃晩】忠犬、ことはじめ ――墨燃が住まうアパートの近辺には「玉衡長老」と地域住民に呼ばれている、有名な猫がいる。その猫は真っ白でしなやかな体躯に美しい琥珀色の瞳を持ち、綺麗な見目にそぐわない凶暴な性格をしているらしい。しかしながら、親猫とはぐれた子猫を見つけてきては保護猫団体の事務所前に届けたり、人間の依頼を聞いては迷い猫に帰宅を促したりと、性格に反してまるで「慈善活動家」のような猫であると評判だった。
忠犬、ことはじめ
六畳のワンルームに真っ白な同居人を迎えたのは、十日前のことだ。
「師尊! もう、ちゃんと薬は飲まないと……」
師尊と呼ばれた真っ白な猫は、ふん、と言うように窓際でそっぽを向いた。鼻先はツンと上を向き、真っ白ですらりと伸びた尻尾がぱたんと窓枠を叩く。蜂蜜を閉じ込めたビー玉のような瞳はくるりと回り、外の風景を映し出している。首元につけられた淡いピンク色のエリザベスカラーが邪魔なのか、些か機嫌が悪そうだ。
見事に薬だけが残された餌用の器を覗き込んで、墨燃は深いため息をついた。「慈善活動家」として有名だった白い彼は、どうやら薬を飲むという行為を心底嫌っているらしい。鰹節に混ぜてみたりピルポケットになっているドライフードに仕込んでみたりしたが、残念なことに勝率は低かった。お世話になった獣医いわく、猫は薬嫌いで悩む飼い主が多いとのことだが、師尊も例に漏れずその通りのようだ。
「最終手段を使うしかないか……」
我関せずといった様子で窓の外を眺める白猫を、墨燃は険しい表情でキッと見つめる。薬を飲まない時は無理をさせなくてもいいと言われているものの、白猫はつい十日前に傷だらけの衰弱しきった状態で保護されたのだ。飼い主(仮)としては、きちんと薬を飲ませて、少しでも早い回復を願うのは当然のことだろう。
「ほーら、師尊。ちゅーるですよー」
小皿に小さな錠剤を置き、全ての猫を虜にすると噂のペースト状の餌を上からのせる。そして窓際で静かに佇む彼の前に、そっと小皿を置いた。聡明で投薬嫌いな白猫がいつまで騙されてくれるかはわからないが、今のところ一番勝率が高いのはこの方法だ。それは墨燃が試行錯誤を繰り返し収集した膨大なデータが証明している。
師尊は訝しげに顔を顰めた後、ふんふんと小皿の匂いを嗅いで、ちろりとピンク色の舌を伸ばした。しばらくして、ぴちょぴちょとそれを咀嚼する上品な音が響いてくる。白い彼が顔を上げるまで固唾を飲んで見守っていた墨燃は、綺麗になった小皿を見てほっと胸を撫でおろした。師尊は舌を器用に使って口元をグルーミングしているし、嫌がっている様子はない。どうやら狙い通り、上手に薬を飲み込めたらしい。
「……よかった。早く元気になってくださいね」
墨燃は、ちょんと薄紅の鼻先をつついた。湿ったそこはつるつるとしていて、ときおり爪の間にもぐりこむ生温かい息が小さな生命を感じさせる。師尊はくんくんと匂いを嗅いだ後、少しばかり顔を顰め、がぶりとその指先に噛みついた。痛! という声と共に指先が引っ込められると、師尊はふたたび、ふん、と言うようにそっぽを向く。師尊が飼い主(仮)に慣れてくれるまで、今しばらく時間がかかりそうだ。
十日前、墨燃は自宅前の公園で二匹の猫を保護した。
生後一ヶ月にも満たない子猫が一匹、そして傷だらけのぼろぼろになった白猫が一匹。二匹の傷の具合から見て、カラスに襲われていた子猫を白猫が身を挺して助けたようだった。墨燃に子猫を預け「あとは頼んだぞ」と言うように背を向けた白猫を放っておくことができず、暴れまわる白猫を子猫と一緒に懐に抱え込んで動物病院へ駆け込んだ時のことを、墨燃は今でも鮮明に思い出せる。後に地域の保護猫団体と会話をして、子猫は団体が、白猫は墨燃が保護することになり、今に至るというわけだ。
「そうだ。師尊師尊、今日はプレゼントがあるんですよ」
ふたつのえくぼを浮かべ、墨燃は機嫌よく師尊に声をかけた。つい今しがた指先をがぶりとされたことなどとっくに忘れたかのように、その笑顔はきらきらと眩しい。共に暮らしはじめて十日、すでに散々なほど腕を噛まれ手を引っ掻かれと大いに暴れられているためか、墨燃は指先を噛まれたくらいではへこたれない強い飼い主(仮)になっていた。なにより白猫との生活に大きな充足感を覚えているため、そんな些細なことは気にならないのだ。
一方の師尊は、窓際で横になった態勢のまま鬱陶しそうに墨燃を一瞥した。首から上をクレープのように包む淡いピンク色のプラスチックは、まるで海棠の花弁のようで、遠くから見ると花弁のたてがみをつけた白いライオンのようにも見える。蕊の部分に顔があるため、不機嫌そうな表情もいまひとつ迫力に欠けていた。
「師尊があまりにも寝にくそうにしていたので、買ってみたんです」
ほら! と墨燃が取り出したのは、丸い月餅の形をしたクッション素材のエリザベスカラーだった。手術痕を舐めないようにと病院から支給されたものも、師尊の白い毛並みに淡いピンクがよく映えて似合っているが、いかんせん固い素材のため眠る時にひどく邪魔そうに見えたのだ。
「これなら顎をのせて眠れると思いませんか?」
笑みを浮かべた墨燃は月餅型のそれを両手で掲げながらずいずいと師尊に迫る。きらきらとした墨燃の笑顔に圧倒されたのか、師尊は気まずそうに視線を逸らした。いまだ自分との距離をはかりかねている白猫に苦笑しつつ、墨燃はそっと師尊の首元に手を伸ばす。
困惑を滲ませた数度の猫パンチをかいくぐり、両手の甲に三本の薄いひっかき傷を作った墨燃は、ようやくその細い首に月餅を装着し終えた。手の甲がひりひりと痛むが、墨燃の顔には満足そうな笑みが浮かんでいる。不器用な白猫が快適に過ごすため、自分にもできることがある、ということが嬉しいのだ。
月餅を装着し終えて、改めて師尊を正面から見つめる。すると「不機嫌です」とはっきり書かれた小さな顔が、大きな月餅の上にちょこんとのっていた。
「……ふふ、ふふふ……」
笑ってはいけない。そう思った墨燃は顔をしゃきっと引き締めた。しかしその数秒後、蝋が融けていくようにとろりとした笑みを浮かべる。月餅の中心に埋まっているような師尊の顔が、まるで漏れ出た餡のように見えて、可愛くて仕方がない。
墨燃はそっとスマートフォンのカメラアプリを起動させて師尊に向けた。師尊は微かに不快感を示しながらも、月餅によってもたらされた快適な寝心地に抗えないように見える。それもそのはず、生活環境が変わった上にエリザベスカラーが邪魔で熟睡できていなかったのだろう。師尊は投げ出した両手の上に月餅をのせ、さらにその上に自身の顎をのせて、うつらうつらとしはじめる。
「これはロック画面、こっちはホーム画面用……」
墨燃はぱしゃぱしゃと角度を変えながら、愛らしい寝顔を写真におさめていく。先ほどの海棠のライオン姿もなかなかに愛らしかったが、まるで月餅の妖怪のようになってしまっている師尊の可愛さといったら筆舌に尽くしがたい。
アルバムを月餅の妖怪で埋め尽くして満足したのか、墨燃はスマホをそっとしまって顔を上げた。真っ白な猫の閉じられた瞼ときゅっと引き結ばれた口元が、墨燃の視界いっぱいに映る。
(……かわいいなあ)
墨燃は窓際の棚の上に腕を組み、その上に顎をのせた。窓から零れおちる午後の陽光が白い毛並みを照らし、光の膜がはられたように、もしくは金の稲穂が風になびくように波打っている。光はミルク色の和毛に反射して、まぶしそうにそれを眺める墨燃の褐色の瞳をきらきらと輝かせた。
墨燃は白猫のことを「師尊」と呼ぶ。白猫が「楚晩寧」という名前であることは、保護した際に回収した首輪のネームプレートで知っていた。しかし今の墨燃の立場は、師尊の怪我が治って元の飼い主が見つかるまでの飼い主(仮)である。名前で呼ぶことは憚られ、玉衡長老と呼ぼうにも日常生活で呼ぶには長すぎて、結局、厳粛で師父のような風格のある白猫に敬意を表し「師尊」と呼ぶことにしていた。
(できれば、ずっとここにいてくれないかなあ)
次第に聞こえはじめた「くるる」という音に、墨燃はふにゃりとした笑みを浮かべる。寂しそうな白猫が、安心できて、幸せで、満ち足りた毎日を過ごせるならなんでもしよう。でもいつか、彼を名前で呼べる日が来たとしたら。それはなんて素敵な日になるだろうと、墨燃は考えずにはいられなかった。
了