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    lily__0218

    ゆげ

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    lily__0218

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    楚晩寧お誕生日SS①
    とある八月九日の懐罪大師のお話。
    ※二哈241章までのネタバレを大いに含みます。
    ※燃晩要素はほとんどない懐罪のエンドレス独白です。

    献花 白の衣装は繊維の隙間に夏のにおいを含んでいた。一着を手に取って丁寧に畳み、もともと仕舞われていた場所に戻していく。いくばくかそれを繰り返し自分の左横にあった白い山がなくなると、懐罪は細く長い息をふうと吐き出した。
     顔を上げて周囲に視線を巡らせる。懐罪の手によってすっきりと整えられた水榭内は、薄墨を刷いたような闇にその輪郭を溶かしていた。窓の向こうに見える空は燃えるような赤と濡れたような紫を滲ませ、時おり群鳥の影が横切っていく。もうじき黄昏が夜を連れてくるだろう。
     朝から気も漫ろな一日であった、と緩慢に腰を上げながら懐罪は思う。
     今しがた終えた「楚晩寧の衣装に風を通す」という作業も彼の気を紛らわせる一助とならなかった。空いた時間を水榭内の掃除に没頭することで埋めようとしても、楚晩寧の生活の痕跡を見つけるたびちくりと心臓が痛んで手が止まる。高僧などと呼ばれる自分を馬鹿々々しいと思うほど、毎年この時期になると懐罪の神経は鋭敏になった。忘れたことなど一日もない、かつての罪が記憶の表層に浮かび上がってくるからだろう。

     閉関結界を施した紅蓮水榭で懐罪が寝起きをするようになってから、三度目の夏がやってきていた。蓮池の近くに置かれた玄氷棺を覗き込みかつての弟子の青白い顔を眺める日々を、懐罪はもう千日近く続けている。

     外に出ると、清涼な風が懐罪の生白い頬を撫でた。地面に長い影を落とす水榭の間を、影を持たない懐罪は蓮池に向かって歩いていく。その場所には日に何度も足を運んでいるが、暗くなる前にもう一度、楚晩寧の様子を見ておこうと思ったのだ。万一があってはいけない。墨燃という青年が必死にかき集めた霊魂を楚晩寧の身体に渡らせることは懐罪大師をもってしても容易ではないが、彼はなんとしてでも、この重生術を成し遂げなくてはならない理由があった。
     黄昏をから逃げるように進む懐罪の脳裏に白い影が過ぎる。続いて片耳に紅い耳飾りをつけた、知っているようで知らない顔を思い浮かべた。あの薄い唇から紡がれた切実な言葉の数々を落としてしまわないように、懐罪はそっと指先を握りしめる。そしてふと「そうだ、花のついた海棠の枝を持って行こう」と思った。どうしてもそうしなくてはならない気持ちに駆られ、懐罪は進行方向を凉亭へと変更する。
     紅蓮水榭の凉亭の側には一年を通じて見事な花を咲かせている海棠の木があった。ちょうど懐罪が住む無悲寺の院内にある海棠の木と同じように、背が高く、浮世のすべてを見渡すように佇んでいる。たしか楚晩寧と懐罪が決別したあの夜も、身体を貫くような鋭い月光のもと、海棠の花はたおやかに咲き誇っていた。
     細い枝を一本だけ手折り、懐罪は蓮池に到着した。夕闇は色を濃くし、池に浮かぶ紅蓮は淡く光って水面にその姿を反射させている。確認する時はいつもまとわりついてくる焦燥をそのままに、懐罪は玄氷棺を覗き込む。中に横たわるかつての弟子に異常は特になく、相変わらず霜雪をまとった長い睫毛を伏せて静かに眠っていた。
     懐罪はほっと安堵のため息をつき、記憶していたよりもずっと鋭くなった輪郭線を辿るように楚晩寧を眺める。鋭さや硬さが増したとはいえ、眠りに落ちている楚晩寧の顔は懐罪の記憶の中にある幼い日の彼とさほど変わらない。懐罪はふいにその頬に触れようとして、そして伸ばした手を引っ込めた。どうも今日は情動的になってしまっていけないと小さく頭を振る。
    「……お前とこのように過ごす時間を、ふたたび与えられるとは思わなかった」
     相手の心臓が脈打っていないことは、自分に与えられた罰であると懐罪は理解している。しかしかつて臨安で暮らしていた頃のように楚晩寧とふたりきりで過ごす時間を、この血で汚れた自分の手が掴む日が来るなんて懐罪は思ってもいなかった。

     例えばこんな日に――晩寧がこの世界に生を受けた日に、彼の隣にいる自分の姿など、十数年ものあいだ想像もできなかった光景だった。

    「相変わらず蓮は好きか? 晩寧」
     蓮池に風が吹き抜ける。答えが返ってこないのをいいことに懐罪は小さな声で問いかけた。幼い頃の楚晩寧は蓮の葉を頭にかぶったり、蓮池で一日中遊んだりとなにかと蓮が好きな子供だった。ふたりで蓮池のほとりに腰をおろし、声を合わせて歌った音が透き通った空に溶けていく穏やかさを、懐罪は今でも憶えている。舌足らずな歌声が今もなお懐罪の耳元で響いていた。
     楚晩寧にとって懐罪と過ごした穏やかな時間は、すべてが苦痛に満ちた記憶に変わっているのだろうと思っていた。ゆえに閉関の日、紅蓮水榭に足を踏み入れた時に懐罪はほんのすこしだけ安堵した。花が咲き誇る海棠の木や、水面に紅蓮が浮かぶ風景。かつてふたりでその美しさを分けあった光景が、楚晩寧の中で『視界にも入れたくないもの』に変質していないことに僅かながら救われた気持ちになった。楚晩寧が持つその光景にまつわる思い出は、自分とのものだけではないことはわかっている。しかし利己的にも、懐罪はそう思ってしまったのだ。
     死生之巓を訪れてから懐罪は幾度となく楚晩寧が生きてきた軌跡を目にした。懐罪はそのたび、胸が締めつけられるような罪悪感と同時に、自分の胸中を説明のつかない安堵が満たしていくことに気がついていた。楚晩寧のためなら身の危険をも顧みない彼の弟子たちや、楚晩寧を救うのは自分の命の半分を救うも同じであると言い切る掌門、山道に列を成して深く礼をする死生之巓の弟子たち。棺に入れられていく、再会を願う言葉の数々。
     そして、かつて懐罪がないがしろにしようとした楚晩寧の霊魂を、愛おしそうに、この世で最も大切なものであるというように胸に抱いた墨燃という青年。
     それらすべてがこの世界で楚晩寧という人間が生きてきた痕跡だった。彼が入世し、積み重ねてきた日々の結晶だ。考えることすら憚られる、心の奥底に眠る父性のようなものがそっと胸を撫でおろしたのを、懐罪は瞼を伏せることで見ないふりをした。
     花枝を棺に入れようとした懐罪の手が止まる。
     この行為が自分に許されるものなのかを彼は考えた。そして、それは『今』ではないと結論づけた。愚かにも毎年のように花枝を鬼界に持っていくことしかできなくなっていたこの十数年と、現在の懐罪が置かれている状況は明らかに異なっている。今の懐罪には、彼にしか成し遂げられない、やらなくてはならないことがある。楚晩寧を復生させ、龍血山に彼と墨燃を連れて行かなくてはならないのだ。

     ――私は貴方に信じてもらうことしかできません。
     ――私が託せる人は、他にいません。

     まっすぐに懐罪の目を見ながらそう紡ぐ、よく知った黒褐色の瞳を思い出した。片耳に紅色の耳飾りをつけた、憔悴しきっているというのにどこか円熟した雰囲気をまとう『楚晩寧』の姿を懐罪は思い浮かべる。見た目だけなら懐罪よりもいくつか年上に見える彼は、数年前の冬の夜、なんの前触れもなく懐罪の目の前に現れた。
     あちらの世界の懐罪もきっと同じことを十四歳の楚晩寧にしたはずだ。しかしあの時、懐罪の目の前にいた『楚晩寧』は、懐罪を頼り、信じ、この世界のために動いてくれないかと懇願した。切実に自分を見つめる視線に貫かれ、誠実に紡がれる言葉が心臓に突き刺さると、懐罪は彼らが決別したあの月夜に戻ったような錯覚に陥った。十四歳の楚晩寧からの信頼に懐罪が応えることができなかったあの夜が、戻ってきたような気がしたのだ。

     まるで神仏が自分に、やり直す機会を与えてくれたかのように。

     懐罪は花枝を棺に入れることはしなかった。
     まだそれは許されないと思ったからだ。ましてや彼の誕生日に花を贈るなど、罪悪感を刃に彼を彫った自分にふさわしい行動ではない。途方もない勇気を振り絞って下山し死生之巓に向かった日から、楚晩寧が人間として生きた痕跡をそこかしこに見つけるたびに何度だって自覚させられた。彼のような清らかで剛毅な生命を創造したと勘違いし、所有しようとし、自分のものであると振る舞っていたあの頃の自分は確かに間違っていた、と。
    「……この花枝は水榭の中に飾っておこう」
     袂に枝を仕舞った懐罪はふたたび楚晩寧の青白い顔を眺めた。
     確かに自分は間違っていた。しかしそれでも、と懐罪は思う。ちょうど今のような夜に向かっていく時分、暗くなりゆく世界に灯された炎のような生命を憶えている。晩鐘が響く、安寧の夜を照らす灯火。懐罪はその奇跡のような瞬間を忘れたことなど一度もない。自分に奇跡を祝福する資格はないと心底理解していながら、思いを馳せなかった八月九日は一日だって存在していなかった。
     懐罪は玄氷棺がしっかりと封印されていることを確認して、その場から立ち去った。影を持たない懐罪は存在そのものが影であるかのように夕闇の中に溶けていく。

     神仏の前に献ぜられた花は、人が生かし、人が処分をする。神仏の胸に抱かれ美しく咲き誇るさまを、罪にまみれた人間がその目に映すことなど、永遠に叶わないのかもしれない。
     しかしいつの日か、こんなにも楚晩寧を『血の通った人間』であると理解しながらも、贖罪を懇願するように神仏楚晩寧に花を献じる人間懐罪が許される日が来たとしたら。

    (私を信じたお前に、今度こそ私が応えることができたなら)

     ――その時は、花を、贈らせてはくれないか。


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    lily__0218

    DONE楚晩寧お誕生日おめでとうSS②
    踏楚/本編後のふたり
    ※本編311章までのネタバレを含みます。
    ※多分『献花』を先に読んだほうが良いですがこれだけでも読めます。
    【踏楚】花に傾慕 細い糸のような雨がやさしく地面を叩く音で楚晩寧は目を覚ました。頭を預けていた墨燃の肩越しに、彼らが住まう茅舎の室内がぼんやりと浮かび上がる。陽が昇りきっていない時分、薄墨を刷いたような闇からゆっくりと身を起こすように、彼らの生活の痕跡が徐々に輪郭を結んでいく。
     南屏の山間からは濃い霧が立っていた。真っ白に染まっていく窓の外を見ながら、楚晩寧はまるで雲の上にいるようだと思う。山の天気は移ろいやすい。きっとこれから雨が止んで陽が昇り、光が雲霧を切り裂き、この茅舎の中に射しこむのだろう。
     楚晩寧はたくましい腕の拘束から抜け出した。すっと視線を下げると、すやすやと寝息を立てている墨燃の横顔が目に入る。ほんの数刻前に意識が切り替わり、切り替わるやいなや有無を言わせず楚晩寧を床榻に組み敷いた男とは思えないくらい、どこかあどけない寝顔だった。かつてはあんなにも皺が寄っていた眉間も今は穏やかにゆるんでいる。痛む身体に少しだけ腹が立った楚晩寧は、好機と捉えて指先で墨燃の鼻を摘まんだ。くぐもった呻き声が短く上がる。楚晩寧は満足そうに口の端を上げ、床榻から立ち上がった。
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    lily__0218

    DONE楚晩寧お誕生日SS①
    とある八月九日の懐罪大師のお話。
    ※二哈241章までのネタバレを大いに含みます。
    ※燃晩要素はほとんどない懐罪のエンドレス独白です。
    献花 白の衣装は繊維の隙間に夏のにおいを含んでいた。一着を手に取って丁寧に畳み、もともと仕舞われていた場所に戻していく。いくばくかそれを繰り返し自分の左横にあった白い山がなくなると、懐罪は細く長い息をふうと吐き出した。
     顔を上げて周囲に視線を巡らせる。懐罪の手によってすっきりと整えられた水榭内は、薄墨を刷いたような闇にその輪郭を溶かしていた。窓の向こうに見える空は燃えるような赤と濡れたような紫を滲ませ、時おり群鳥の影が横切っていく。もうじき黄昏が夜を連れてくるだろう。
     朝から気も漫ろな一日であった、と緩慢に腰を上げながら懐罪は思う。
     今しがた終えた「楚晩寧の衣装に風を通す」という作業も彼の気を紛らわせる一助とならなかった。空いた時間を水榭内の掃除に没頭することで埋めようとしても、楚晩寧の生活の痕跡を見つけるたびちくりと心臓が痛んで手が止まる。高僧などと呼ばれる自分を馬鹿々々しいと思うほど、毎年この時期になると懐罪の神経は鋭敏になった。忘れたことなど一日もない、かつての罪が記憶の表層に浮かび上がってくるからだろう。
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