比翼桂が周囲をさりげなく牽制する話 長州藩京屋敷。
池田屋の一件以降、大きく動けなくなってはいたものの、掻い潜りながら行えることは山のようにある。人の出入りが絶えることはない。
血気盛んな若者も多くおり、穏健な思想を持つ者と喧嘩に発展することも珍しいことではない。そんな彼らを束ねる桂は日々忙殺されていた。にも関わらず、よほどのことが無い限り叱責することはなく、相変わらず穏やかな様相を呈している。そして普段からその態度を保っているが故に『今日は特別機嫌が良い』と気付く者は少ない。
昼餉の頃合いの少し前。
渡された書簡を眺め、伊藤からの報告を受けながら、桂は口元を緩めた。
「ご苦労様、この短期間でよくやってくれたね」
「いえ、なんてことありません!」
「…先日の遊郭での散財の件は、これで目を瞑るよ」
「うっ、い、いや罪滅ぼしの為に張り切ったわけじゃなくてですね…あっ」
と、声を上げ、桂の肩越しに、庭先に視線が移る。誤魔化すための仕草でないことは、背後からの気配ですぐにわかった。
「早かったっすね、すみません、まだこっち準備できてなくて」
その言葉に応えたのは『刀』だ。
「いや、構わない。付近で受けた依頼が早めに片付いたから来ただけだ」
「やぁ、相変わらず忙しそうだね」
振り向いてそう告げると、『刀』の眉が呆れ気に下がった。
「…お前こそ、ちゃんと休んでいるのか?」
「はは、大丈夫だよ、心配なく。ところで」
桂の顔が伊藤へと戻る。
「何か約束事かい?」
「あ、はい、午後から、俺も含めて奇兵隊の稽古に付き合ってもらおうと思ってまして」
「なるほど、それは頼もしいけど、ほどほどにね。…午後から、ということは、今少し時間あるかな?」
「あぁ」
「それなら」
文机の引き出しから一通の文を取り出す。表面に綴られた文字が偶然伊藤の目に入る。
―えっ
と声を出さずにいた自分を褒めたい、と思った。
「来て早々で申し訳ないけれど、ちょっと頼めるかい?この文を届けて欲しい人がいるんだ」
「構わな―」
受け取った瞬間に『刀』の言葉が一瞬詰まる。
『暮れ六つ 柊屋』
「―い」
「なにか不明な点でもあったかな?」
眼を細めて問われ、『刀』は手早く文を袂にしまった。
「…問題ない、確かに承った」
「よろしく頼むよ。小間使いのようなことをさせてすまないね」
「気にするな。…伊藤、また後ほど」
「ウ、ウス」
そう言って会釈するので精一杯だった伊藤を残し、『刀』は去って行った。
***
「どうした伊藤、珍妙な面をして」
「ち、珍妙って、いやあの……み、見間違いかもしれないんすけど…あ、あと俺が話したこと誰にも言わないで下さいよ」
昼時の飯屋で偶然出会した高杉に、伊藤は声を潜めて事の次第を伝える。高杉は大きく嘆息した。
「桂さん……、懲りずにまたやったのか」
「ま、また!?」
伊藤の言葉に反応する前に、茶を一口すする。
「同じ事を俺の前でもやったんだよ、あの御仁は。文の字がこっちに見えるように渡したのもわざとだ。恐らく、今日伊藤との約束であいつが来ることも把握していたんだろうな」
「えぇ…」
「あんまり露骨なもんで、敢えて俺も堂々と聞いちまった。『あんた、隠したいのか牽制したいのか煽りたいのかどれなんだ』てな」
「…えぇ」
伊藤は最早、どちらの言動に驚いて良いのかわからなくなっていた。
「そうしたらあっさりと、『全部かな』だとよ」
「わぁ……」
女中が空いた湯飲みに忙しなく茶を注ぐ傍らで、すっかり語彙を失った伊藤が頭を抱えた。
「そ、そんな話し聞いてしまったら…。俺このあとどういう面して会えばいいんですか…」
「知るか、自分で考えろ。…あぁ、鍛練で怪我させたら、いつもの菩薩面で怒髪天かもな」
「うぅ~」
―こっちの懸想に気付いていないフリをしてやるから、本当にタチが悪い
唸る舎弟を面白がるように笑いながら、高杉は腕を組み、再度ため息をついた。