あの隠し刀と呼ばれている浪人「あの隠し刀と呼ばれている浪人、頼めば何でもしてくれるらしいぞ」
「ほんとか?それなら夜伽とかもしてくれんのかな」
講武所の隅で書物を読み耽る福沢の視線が止まる。自身でも気付かぬほどの音を立ててそれを閉じた。陽が高い内から下世話が過ぎる。
男所帯のこの場所で、日々武と知で政に携わり続けていれば、心身に負荷もかかり、その手のことに逃げるのも致し方ないのかもしれない。
―たしか、西洋の精神医学書に記述があった、『すとれす』だったか
それを何かしらの手段で発散する事は重要であると付記されていたことも思い出す。だとしても、だ。
諫める者がいないその手の話しは、どうしても盛り上がりがちで、声も大きくなる。愛読していた書物を傍らに置き、福沢は恐ろしく静かに渦中の二人に近づいた。
「失礼、お耳を拝借」
大袈裟に二人の肩が跳ねる。同時に振り向いて、立っていたのが福沢だと知ると小馬鹿にするように息を吐いた。
「なんだ福沢、お前も興味があるのか?」
「まぁ、僕もただの人ですので。それに、その浪人にはお世話になってますから、少し気になってしまいまして」
「ふん、書物を読み解いて、薬とも毒ともつかんものを作ることしか愉しみをしらん奴だと思うたわ、まぁよい」
話題に即した下卑な笑みと共に口からこぼれる内容は、最早聞くに堪えなかった。
***
「―で、気付けば稽古を付けてもらう名目で、伸していた、と」
「えぇ」
数刻後の長屋。
福沢は以前頼んだ依頼の報酬を渡すついでに、講武所での出来事を、そのまま『隠し刀と呼ばれる浪人』に話していた。
「…聞くに堪えないなら、聞かなければ良かったのでは」
「……」
淡々と返され、今更『そういえば』という顔になる。
「そうですね…何故わざわざ深入りしてしまったんでしょうか、僕は」
「私に聞くな」
「そもそも、貴方は気にならないのですか?」
「別に、私のあずかり知らぬ所での『私』の虚像など、どうでもいい」
「…はは、相変わらず、泰然と言いますか、良い意味で無関心と言いますか。そうなると、僕が勝手に腹を立てただけ、……?」
はた、と動きが止まり、『刀』に「どうした」と訪ねられる。囲炉裏を見やってから『刀』へと視線を向けた。
「どうして僕は腹が立ったんでしょうね」
「……私に聞くな」
怪訝な顔をしながら、『さっき言っていた、すとれす、とやらでは』と言い、『刀』は行商人から礼にと受け取っていた葉巻を福沢に差し出した。