供養その1 未来なんてものはない
肺が苦しい。
だが、足を止めるわけにはいかない。
石畳を蹴りつけて僕は走り続ける。
月のない宵闇の中で、さらに星明りさえ遮る古い家々が作り上げた迷路のように入り組んだ路地を、右へ左へ滅茶苦茶に進む。
足音の反響で僕の位置などすぐに分かってしまうだろうが、せめてもの足掻きだ。
両腕に抱えた弟の小さな体を落とさないようにだけ気を付けて、なりふり構わず僕は逃げた。
背後から「待て!」と迫る鋭い声。まだ少年の域を出ない高さ含んだそれに、誰が待つもんか、と心の中から返す。
中々諦めてくれない。当たり前か。逆にここで諦めるようなエクソシストなら聖職者失格だ。
小さなナイフが僕の脇を通り過ぎた。攻撃というより牽制のつもりだろうが、さすがに驚いてバランスを崩しかける。
ずるり、と腕から落ちそうな弟を抱えなおしたところで、僕の首筋に冷たいものが押し当てられた。
「そこまでだ」
とうとう追い付かれたか。軽い絶望が襲ってきた。
肩を上下させて荒い呼吸を繰り返し、限界近かった心臓にひたすら空気を送る。酸欠が近かったのか、目の端がチカチカした。
少し落ち着けた僕はゆっくりと振り返る。
「動くな!」
強く命じられたが、首にある小振りなナイフの切っ先が皮膚を薄く切り裂くのも構わずに振り返り切る。背後の少年、おそらく同じくらいの年齢の彼は、わずかにナイフの位置をずらしてくれた。僕に必要以上の傷がつかないよう配慮してくれた様子に、正義心溢れた善い奴なんだろうと分かる。
だとしたら、悪は僕か。
線の細い印象を受ける彼は、怜悧であるが闘志に燃えている熱い眼差しを眼鏡の奥から僕へと射してきた。
「それ以上動くな。悪いことは言わない。その悪魔をこちらに渡すんだ」
「ナガラは悪魔じゃない」
「…でもそのなりかけだ。完全に転身してしまう前に神の身元へ送ってやらなければ、魂は永遠に救われない。僕が送ってやる」
きっと彼の言うことは正しいのだろう。その行動が正しいように。それでも譲ってはならないものがある。世論が言う正しさに屈しそうになる心に活を入れて僕ははっきり言った。
「ナガラは悪魔になんかならない」
「反応が出ている。次に目を覚ました時、傍にいる者に食らいつきかねない」
「弟は僕が護る」
「…僕は僕の任務を遂行するだけだ」
痛ましそうなものを見る目で彼は僕を見つめながら、首に添える切先はそのままに、もう片方の手に何処からか手品のように取り出したナイフを構えた。それには暗がりでも分かる十字が。
僕は腕に圧し掛かる温かさを抱えなおした。頭を軽く撫ぜてやれば、癖の強い髪がふわふわ揺れる。変わらない感触に勇気付けられ、真っ直ぐ彼を見返した。
彼は、わずかにたじろいだ。
一週間目覚めない弟。心配になった両親が教会に見せたら悪魔に憑りつかれたと言う。完全に取り込まれて転身する前に浄化せよと抜かしてきた。浄化、耳障りだけは綺麗な「処分を下せ」との冷酷な診断に全身の血が沸騰した。
ふざけるな。
そんな不条理を受け入れてなるものか。
「三日間、教会から弟を抱えて逃げ続けた君のその気力は賞賛する」
僕の捨て身を厭わない決心が伝わったらしく、彼はナイフは下ろしはしないが、説得を続けるつもりらしい。
いっそ力で向かってきてくれたら、こっちも力で迎え撃つことが出来るのに。
僕を労うかのような淡々とした台詞に敵意を向け続けるのは難しい。
「悪魔はヒトの魂を喰らって力を得る。得た力で周囲へ破壊と破滅を呼び寄せる邪悪な存在だ」
「悪魔が邪悪だなんて誰が決めた」
「邪悪なものを悪魔と呼ぶんだ」
「僕にはよくわからないが、反応があったからといって必ずしも悪魔になるとは限らないんだろう?」
「確かに前例はある」
「なら」
「だが、その証明をするには犠牲が付きまとう。僕たちはそれを見過ごすわけにはいかない。小事に構って対局を見逃すわけにはいかないんだ」
「小事…」
「君にとっては違うと理解している」
彼は言葉を探して吟味しているようだ。
「君は紅茶は飲むか」
「コーヒーなら」
「コーヒーにミルクを混ぜた後、コーヒーとミルクをまた分けることはできると思うか」
脳裏に浮かぶ、黒と白。
混じり合い、溶けあい、二度と同じには戻れない。なるほど言いたいことは理解した。けれども
「人の魂はコーヒーじゃない」
「全く強情な…」
「未来は分からないだろう?」
「未来なんてものはない」
彼はやけにはっきりと応えた。
「これはどの生物に関しても言える絶対真理だ」
「よくわからないな。君だって未来のために修練を積んできたんだろ」
「僕が見据えてるのは将来だ。そのために最大の努力はする。しかし未来なんてものはないんだ。あるのは過去と、今だけだ」
彼は僕の背後にある細長い夜空を見上げながら
「だから目の前にある今、僕は僕のやるべきことをするだけだ」
彼は危険だ。
話せば話すほど敵意が好感に入れ替わっていく。
それともこれもエクソシストの技なのだろうか。
譲らない意思を保ちつつ、なるべく無感情に見えるよう少し低い位地の瞳を見下ろせば、語気は緩めないが懇願するような響きを滲ませて彼は続けた。
「冷静に、明確に、合理的に考えてみてほしい。悪魔に魂を完全に喰われてしまえばそれは君の弟ではなくなるんだ。悪魔に将来も未来もない。そんな悲しい結末を家族にさせたいのか、君は」
だんだんと彼の口調に感情が込められてきた。冷静であろうとしているが、熱い。
こんな対立している場面だというのに、その眼差しに尊敬の念が湧き出してくる。彼はきっと今まで努力を重ねてきたのだろう。彼の言う将来のために。
「君のそのわがままで、君の大事な人に課せる願いはそこまで重いものか」
厳しくも優しいな、この人は。
冷静に、か。
彼は冷静さを美徳としてるのか。ならば教えてあげるよ。時には感情で無理矢理にでも突き進むべき場面が確かにあるんだ。
僕はあえて彼の否定した未来という言葉を選ぶ。
「…このまま僕が信じた全てが終わるのだとしても、僕は未来の僕に誇れることをするだけだ」
祈るだけでは“未来”はつかみ取れないのだから。
「…うっ…」
僕と彼と拮抗する緊張感を揺るがせたのは、弟の小さな声。
はっと彼は僕の腕の中に視線を向け、僕は恐る恐る大事な温もりを見下ろす。
見慣れたいつもの姿に座り込みたくなるくらいの安堵が胸に広がる。
「…もういい、わかった。なら僕も付き合おう」
「…え、どういう意味だ?」
「その弟が目覚めるまで、君たちを見張ると言っているんだ」
「悪魔化してたら君まで危ないじゃないか!」
「そのくらいの認識はさすがに持っていたか。盲目してなくて安心した」
「巻き込むわけには」
「もうとっくに巻き込まれているんだ。そう思うなら最初からその子を手放せばよかっただろ」
「そんなこと僕にはできない」
「悪魔を野放しにするわけにはいかないんだ」
「やられたら…」
「僕は君と心中することになるな」
「そんなこと」
「不満なら今その子を渡せばいい」
そんなことできない、と同じ台詞が出そうになって僕は口をつぐんだ。
堂々巡りだ。
この彼とは、立場も見た目も何もかも違うのに、強情っぷりなところだけはお互い様らしい。
弟が腕の中で身じろぎする。
まもなく“未来”が降りてくる。
彼と僕はお互いの目の奥を見透かし合うように見つめ合って、そしておそらく同時に腹をくくった。
どんな未来が訪れようとも、全力を尽くした僕はきっと後悔はしないだろう。
足掻いた先の結末が黒でも白でも混じり合いでも。
そしてそこに誰かがいてくれるのならば、こんなにも心強いものはない。
瞳が、開く―――