どん、と何かにぶつかる気配がして、瞬間、白と黒のツートンカラーが目に入った。
「おっと、すまない。ブラッドリーか。こんなところで何してるんだ?」
「何してるも何も、今帰ってきたんだよ。厄介な傷のせいで飛ばされてたからな」
「ああ、そうか……大変だったな」
不機嫌さを隠そうともせず、ブラッドリーは忌々しげに舌打ちをした。カインの傷も傷で厄介なものだが、ブラッドリーのものも大変だなあと他人事のように思う。そもそも厄介でない傷などないが、触れると見える解決法があるカインと違い、ブラッドリーは防止策や解決策があまりない。遠くに飛ばされてしまえば箒に乗って帰ってくる他ないのだ。
ミスラは空間転移魔法を使えるが、簡単そうにやっているもののあれは相当高度な魔法技術である。ミスラ以外でできるとしたならばオズくらいなものだろう。
「クソ。しみったれた山奥にゃ人もいなけりゃ飯もねえし、散々だったぜ」
「災難だったな」
「肉でも食わなきゃやってらんねえよ」
「ネロに頼んでみるか?」
「あ? ……あー、東の料理屋か」
どこか内側に篭りがちな東の魔法使いだが、いつだったか──南の島から帰ってきて以来、ネロとブラッドリーがたまに話しているのを見かける。北の魔法使い相手は苦手な様子だったが、ネロは案外ブラッドリーには容赦がない。まあ、ミスラやオーエンと違い機嫌を損ねたからといってすぐさま殺そうとはしてこないからだろうとカインは踏んでいた。北の魔法使いの中ではブラッドリーは話の通じる方である。それに、見目は己と変わらないがネロも長くを生きる魔法使いだ。それなりに肝が据わっているのかもしれない。
魔法舎の専属料理人と言っても良い男の名を出すと、ブラッドリーはやや思案してにやりと笑う。悪戯を思いついたときの顔だ。がっしりと肩を組まれ、唆すように囁かれる。
「丁度いい、一芝居付き合えよ」
*
「あんたたち、やけに息ピッタリだけど、何か事前に打ち合わせしてたわけじゃねえんだよな?」
疑わしげなネロの視線をいなして、ちらりと目を合わせる。満足げに笑みを浮かべたブラッドリーは芝居じみて大袈裟に首を振った。
「いいや、全く? だって俺様はさっき帰ってきたばっかりなんだぜ」
「まあ、いいけどよ……」
腑に落ちなさそうだが、作ってくれることには作ってくれるらしい。キッチンへと足を向かわせるネロの背中を見送り、完全に扉が閉じてから声をかけた。
「やったな」
「おう。よくやった。案外、てめえも芝居がうめえもんだな。何処ぞの誰かとは大違いだ」
「けど、普通に頼むんじゃだめだったのか? こんなことをしなくてもネロなら作ってくれたと思うんだが」
「んな馬鹿正直に言ったら、野菜も出てくるに決まってんだろ」
嫌そうな顔をしたブラッドリーはぷらぷらと片手を振る。確かに、栄養バランスにも気を遣っているネロならばそうするだろう。と、いうより、料理に関しては誇りを持っている料理人だから野菜があるからとケチをつけられるのが気に食わないのかもしれない。
しかしながら、ブラッドリーはカインより遥かに長寿だが、やはりその辺りは子供とよく似ているように思えた。笑うとまた機嫌を損ねるので何も言わないでおく。
好物の力ですっかり上機嫌になったブラッドリーはソファにどっかりと腰をかけた。長い脚を組んで、揚げたてのフライドチキンが出てくるのを今か今かと待っている。鼻歌まで歌っていた。それがいかにも楽しそうであったので、即興でカインも調子を合わせた。
チキン、チキン、とハーモニーを奏でる。それが、肉が食べられるという以外の喜びも混じっている気がして、何となしに問いかけた。
「ブラッドリーは、本当にネロの料理が好きだな」
例えば先ほどのやりとりの通りにカインがチキンの素揚げを作ったとして、これほどまでに機嫌が上向いただろうか。そう考えると、違うように思える。残念ながらカインはネロのような料理は作れない。さくさくの衣だったり、下味のついた肉だったり、そういった料理の美味さを引き立てるスキルはない。どうせ食べるなら美味いものがいいというのは当然の感情である。
かく言うカインもおこぼれに預かれることを楽しみにしていた。まだ歳若い体だ。肉はいつだって美味しい。
「まあ、な」
特に意味のない雑談のつもりだったが、返された相槌が妙に落ち着きを孕んだものであることに疑問を覚える。それから、ピンクスピネルの瞳をすうっと細めて、どこか懐古に浸るように静かに語った。
「……ああ、"東の料理屋"の飯を食うのは、初めてだ」
「何を言ってるんだ。今までも食べてきただろ?」
「冗談だよ、冗談」
どろりと纏った靄色の空気が嘘のように霧散する。からりと言い放って微笑するブラッドリーは、初めて見る穏やかな表情を浮かべていた。
そこには、まだ百年も生きていないカインでは推し量れない遠い時間の心が煮詰められているようで。
野菜が苦手でも、好物に一喜一憂していても、やはり数百年を生きる魔法使いなのだなあと、少し的外れなことを思ったのだった。